毎週の説教メッセージ

off 主のものとしての生と死

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 説教:最上 光宏 牧師 (召天者記念礼拝)

ローマの信徒への手紙14:7-9

 召天者記念礼拝は、天に召された方々のことを覚えるとともに、遺された私たち自身の死を覚える時でもあります。中世の修道僧たちは、お互いの挨拶の中で、「メメント・モリ」(死を覚えよ)と声を掛け合ったそうです。自らの死を自覚することによって、<今日という日を感謝しつつ、精一杯、大切に生きよう!>という励ましの意味があったのです。しかし、自らの死を見つめることは、すべての人にとってこのような意味をもつわけではありません。死は誰にとっても恐ろしく、不安なものです。それから逃れて考えないようにするか、<どうせ死ぬなら、面白おかしく…>と享楽的になるか、どちらかです。死を正しく見つめることが出来るためには、私たちの生も死も、神のみ手のなかにあることを信じ、すべてを主に委ねる信仰が必要なのです。死を覚えるためには、神を覚えること「メメント・ドミニ」が大切なのです。神は、イエス・キリストの死を通して私たちの罪を贖い、復活を通して永遠の命を約束してくださいました。私たちは「キリストのもの」として、死のかなたにキリストにある新しい命にあずかるのです。それ故にパウロは「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と言うことが出来たのです。私たちは生きるにしても死ぬにしても主のものだからです。

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