毎週の説教メッセージ

off 主イエスの涙

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書11:28-44

 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。ラザロの死に、マルタもマリアも同じ言葉で、胸の内の悲しみをイエスに投げつけました。イエスは彼女たちの泣き悲しむのを見て、「心に憤りを覚えた」とあります。ある注解者は、この憤りを姉妹たちの不信仰に対する怒りと解釈します。はたしてそうでしょうか?信仰があれば、愛する者の死は悲しみでなくなるのでしょうか?もしそうだとすれば、「イエスは涙を流された」(35)は、どう理解したらよいのでしょうか。イエスは血も涙もない神の子ではありません。「大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じになられた」(ヘブライ4:14)のです。私たちと同じ人となられた神の子として、人が罪のゆえに死すべき者となり、その死の力が猛威を振るっていることに憤り、連帯の涙を流されたと理解すべきではないかと思います。そしてその憤りの涙が、イエスをラザロの墓に向かわせ、祈りをもって「ラザロ、出て来なさい」と命じ、ラザロの復活という驚くべき出来事を引き起こしたのです。これは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(23)との主のみ言葉を証しする出来事です。

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