毎週の説教メッセージ

off あなたの罪は許された

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:36-50

主イエスが、ファリサイ人シモンの家で食事の席に着いていた時のことです。その町で「罪の女」と呼ばれていた婦人が香油の入った壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながら涙でイエスの足を濡らし、髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗ったのです。それを見たシモンは、心の中で、なぜイエスは、「罪の女」の正体を見抜けず、するがままにさせておくのか、と咎(とが)めたのです。主イエスは、ある金貸しから金を借りていた二人の人の例をあげて、二人とも返せなくて、借金を帳消しにしてもらった場合、多く赦された者と、少ない者とどちらが多く、感謝の思い抱くか?と問われたのです。 主イエスは人間の罪を借金(負債)にたとえて、人は誰でも、神によって生かされ、愛されているのに、神に背を向けて歩んでいる。その神からの負債は、誰も自分の力で返済することは出来ない。そこで神は、その私たちの負債を帳消しにして、神に立ち帰らせるために、み子をお遣わしになったことを示されたのです。この「罪の女」は、主イエスと出会って罪を赦された愛と恵みを、全身の喜びをもって表している。「シモンあなたはどうか」と問うているのです。私たちも、主の十字架の愛と恵みをしっかりと受け止め、心からの喜びをもって主に仕えたいと願います。

off 来たるべき方

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7;18-26

「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。バプテスマのヨハネは、獄中から二人の弟子を主イエスのもとに遣わして尋ねたのです。主イエスの先駆者であり道備えであるヨハネが、このような問いを発したということは、大きな驚異です。獄中の苦しみと不安から、このような問いを発したのでしょうか。たしかに、大きな艱難や死の不安は、私たちの存在を根底から揺さぶり、これまでの確信さえ揺らぐことがあります。しかしヨハネの動揺は、単に個人的な不安や苦しみによるものではなく、当時の権力者の不正と横暴に対する怒りと、なぜ正しいものが虐げられなければならないのかという不条理に対する疑問から来ているように思います。イエスが「来たるべき方」(メシア)であるなら、なぜこのような不条理なことが許されるのか、と。
主イエスは、その問いに、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えよ」と命じ「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…貧しい人は福音を告げ知らされている」と語りました。それはイザヤの告げた「来たるべき方」の徴であり、人々の苦難と病を担う「苦難の僕」としての生き方でした。来たるべき神の国は近づいているのです。どんな時にも神の国と神の義を待ち望みたいものです。

off 若者よ、起きよ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:11-17

 主イエスは、ナインの町で、ある若者の葬列に出会いました。その町のやもめの一人息子が亡くなり、墓場に向かう途中だったのです。だれの死でも悲しいものですが、母親にとって一人息子の死ほど辛く悲しいものはありません。夫に先立たれた彼女にとって、その息子は唯一の希望でした。泣き悲しむ母親の姿を見て、イエスは憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われました。悲しい時に泣くことは必要なことです。イエスは泣くことを制止したのではなく、「もう泣く必要はない」と言われたのです。主イエスが共に泣き、彼女の辛い悲しみを一緒に担っておられるからです。「憐れに思った」という言葉は、単なる同情ではありません。原意は「はらわたを痛める」と意味で、相手の痛みを共に担うことを意味しています。イエスは近づいて棺に触れ「若者よ、起きなさい」と命じ、息子をその母親にお返しになったのです。 アウグスティヌスの母モニカは息子が肉の欲に溺れ、邪教に陥った時、主がこのナインのやもめを憐れんだように、私の息子を生き返らせ、私のもとにお返し下さいと、必死に祈ったそうです。その祈りが聴かれて、アウグスティヌスは迷いの眠りから覚め、生涯神と人に仕える立派な教父となったのです。若者は今、そのような涙の祈りを必要としているのです。「若者よ、起きよ!」。

off 共に生きる生活

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説教 (教会年主題説教):最上 光宏 牧師

ルカによる福音書10:25-36

 神は人を創造されたとき、「人が独りでいるのは良くない」と、共に生きる相手をお造りになりました。その他者が「あばら骨」で造られたということは、共に生きる「心」を共有しているということです。「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、そのような前提に基づいているのです。しかし、私たちの現実は、共に生きるべき者同士が、互いに敵対し争い合っている状況です。どうしたら他者を愛し受け入れることが出来るのでしょう。主イエスは、「わたしの隣人とはだれか」とうそぶく律法学者に「良きサマリア人」の譬えを語られました。追い剥ぎにあって半殺しにされて倒れている旅人に対して、祭司とレビ人は向こう側を通り過ぎて行きます。それに対してユダヤ人から嫌われ差別されていたサマリア人は、憐れに思い、近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱し、宿屋の主人にお金を払って、また帰りに寄ると約束します。主イエスはこの譬えの後で、「だれが傷ついた旅人の隣人になったと思うか」と問い、「行って同じようにしなさい」と命じました。自分から近寄って隣人になることが大切なのです。助けを必要としている人は私たちの前にいるからです。この良きサマリア人は、イエスさまのことでもあります。主の愛に応えて、私たちも良き隣人となり、共に生きたいと願います。

off ことばの力

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:1-10

 ある百人隊長の僕が重い病にかかった時のことです。長老たちは、百人隊長が主イエスに助けを求めているのを知って、イエスに助けに行ってほしいと依頼したのです。この百人隊長は、ユダヤを支配していたローマ軍の小隊長ですが、ユダヤ人を愛し、会堂まで建ててくれた恩人だというのです。この百人隊長が、直接イエスに依頼しなかったのは、自分の権威を個人的な目的のために利用することをためらったからです。イエスもまた、彼の善行の故に百人隊長の家に向かったのではありません。権威を笠に着ることなく、謙虚に、自分の僕(奴隷)を助けてほしいと切望する隊長の熱意に動かされたのです。 彼の家の近くまで行くと、百人隊長の友人が出てきて「主よ、ご足労には及びません。わたしは自分の家にあなたをお迎えする資格はありません。ただ、お言葉をください」と隊長の言葉を伝えたのです。主イエスはこれを聞いて感心し「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。主イエスは、彼の謙虚な態度と共に、「言葉の力」への信頼に心打たれたのです。百人隊長は、自らの体験から、権威ある者の言葉には力があることを悟り、「ただ、お言葉をくだされば、治ります」と告白したのです。主の言葉には人を癒し、立ち上がらせる力があります。今日ほど真実な力ある言葉が求められ時代はありません。

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:15-17

 オスカー・ワイルドの童話の中に「わがままな巨人」というのがあります。巨人の留守中、その美しい庭園は、子どもたちの素敵な遊び場でした。しばらくぶりに帰って来た巨人は、「ここはわしだけの庭だ」と怒って子どもたちを追い出し、庭に高い塀をめぐらし、「立ち入る者は罰を与える」という立札を立てます。やがて春が来ますが、巨人の庭だけ、雪と氷に閉ざされた冬のままです。巨人は何年も緑も花もない冬の庭を眺めて凍えていました。ある朝、美しい小鳥のさえずりに目が覚め、庭一面に花が咲き、木々が美しい緑に輝いているのに気が付きます。子どもたちが、壁の小さな穴から庭に入り込み、木に登って遊んでいたのです。巨人は自分のわがままを悔い改め、庭の壁を壊し、子どもたちを受け入れ、美しい庭で子どもたち共に遊ぶようになります。やがて巨人は年老い、身動きが不自由になりますが、しばらく見えなかった大好きな小さな子が、両手両足に釘の傷跡をつけて現れてこう言うのです。「あなたはこれまで、この庭で私を遊ばせてくれた。今度はわたしがあなたを私の楽園で休ませてあげよう」と。この童話は、「子どもたちをわたしのもとに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」との主イエスの教えを基にしたものです。子どもたち共に歩みましょう。

off 岩の上の家

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:46-49

 信仰は、聞くことから始まります。このことは、信仰の主体が私たちの側にあるのではなく、神の側にあることを意味します。つまり主なる神が私たちに語り掛け、私たちがそのみ言葉に聞くことから始まるのです。私たちが「主よ、主よ」と呼ぶことは、まず主のみ言葉に耳を傾け、そのみ言葉に聞き従うことを意味します。主イエスは、「平地の説教」(ルカ6:20-46)の締め括りの言葉として、み言葉を聞いて行う人と、聞いても行わない人との違いを譬えもって語りました。聞いて行う人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている」というのです。それに対して、聞いても行わない人は、「土台なしに(直接)地面に家を建てた人に似ている」というのです。外見上は見分けがつきませんが、雨が降り、洪水になって、川の水が押し寄せると、両者の違いは歴然とするのです。主イエスはこの譬えで、み言葉を「聞く」ことには、「従う」という行為が伴わなければ意味がないと述べているのです。み言葉を聞いて行うことは、深く自らを掘り下げ、しっかりとした「岩」の上に人生の土台を据えることなのです。激しい時代の流れの中で、この世の流れに押し流され、自らを見失ってしまうことがないように、日々み言葉に聞き従い、イエス・キリストという揺るがぬ岩の上に、堅固な土台を据え、悔いなき人生をまっとうしたいものです。

off 神に従うか人に従うか

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説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録4:5-20

ペンテコステの出来事は、弟子たちに大きな変化を与えました。彼らは信仰の確信に満たされ、大胆に力強く神の言葉を語り出し、病人を癒すなどの力ある業をも行うようになったのです。使徒言行録3章には、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を「イエスの名」によって立ち上がらせたことが記されています。このことがさらに多くの人々を驚嘆させ、祭司長たち宗教的指導者たちの妬みを買うことになったのです。二人は捕らえられて、最高法院で大祭司から「何の権威、誰の名によってああいうことをしたのか」と問われたのです。その2週間ほど前、主イエスもその同じ場所に立たされて、同じような審問を受けたのです。ペトロは、あの夜の出来事を思い起こしたのではないでしょうか。あの時、自分はどこで、何をしていたのかと。主イエスがこの場所で尋問されていた時、ペトロはその中庭で火にあたりながら、女中の問いに答えて、3度「その人を知らない」主を否定したのです。主の予告通り鶏が鳴き、激しく泣いたあの夜のことを思い起こし、ペトロは泣きたい思いをこらえながら答えたことでしょう。「あなた方が十字架につけて殺し、神が復活させられたイエス・キリストの名によるのです。この名のほかに救いはない」と。また「今後、イエスの名を語るな」との議員たちの脅しに、「わたしたちは語らずにはおれないのだ」と拒否し、信仰を貫いたのです。

off 聖霊の働き

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説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録2:37-47

ペンテコステは、神の霊(神の息)が弟子たちに吹き込まれた出来事です。イエスを天に送り、失意と寂しさの中にあった弟子たちが、新しい命に満たされて、一斉に力強く神の言葉を語り出したのです。彼らが熱い思いで語り出したのは、イエス・キリストに対する信仰の確信が与えられたからです。「十字架に架けられたイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」(2:36)という確信です。神の霊による確信に満ちた言葉であるからこそ、それは言語の壁を越えて、諸外国から来ていた人々の心をも打ったのです。信仰は自分の知恵や力で得られるものではありません。神の霊の働き(啓示)によるものです。聖霊によらなければ、誰も信じることも、神の言葉を語ることも聞くこともできません。「邪悪なこの時代から救われよ」とのペトロの言葉に3千人もの人たちが仲間に加わったとあります。この日を「教会の誕生日」というのは、この数の増加によるのではありません。それらの人々が「使徒たちの教えを守り、パンを裂き、共に祈る」交わりもったのです。この礼拝を中心とした主にある交わりこそが「教会」なのです。その交わりはさらに深められ、彼らは持ち物を共有にし、必要に応じて分け合ったのです。この生きた交わりが、多くの人々に好意をもたれ、日々救われるものが加えられ、成長したのです。私たちも聖霊の導きを祈りましょう。

off 目の中の丸太

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:37-42

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と主は言われます。「裁く」とは、人の価値を判断することであり、有罪判決を下すという意味です。

神さまは、天地を創造されたとき、造られた全てのものをご覧になって「極めて良い」とされました。神が良しとされた者を、人が勝手に判断し、「ダメだ」と決めつけることは、自分を神の立場に高めることになります。私たちは、人を裁くことが出来るのは神のみであることを自覚し、常に主の前に謙虚になり、互いに赦し合い、愛し合うことが求められているのです。主イエスは、互いに非難し合い裁き合う弟子たちに、譬えで次のように語られました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」と。人の小さな短所や過ちを気にしても、自分の大きな欠点や罪には気が付かないという、私たちの盲点を突いた指摘です。ダビデ王は、忠実な部下を戦死させその妻を奪うという罪を犯しながら、預言者ナタンに「それはあなただ」と諭されるまで、相手の痛みに気付きませんでした。権力の座に着くと、良心が麻痺し、相手の痛みに鈍感になるようです。私たちの目の中の丸太は何によって取り除かれるのでしょうか。主イエスの担った十字架は、荒削りの丸太でした。主が私たちの罪を担って死んでくださったのです。