毎週の説教メッセージ

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書19:1-10

ザアカイがみんなの嫌がる「徴税人」になったのは、彼の背が人一倍低かったことと関係があったと思います。小さい時から「チビ、チビ」とからかわれ、いじめられてきた彼は、人一倍金持ちになってみんなを見返してやりたいと思ったに違いありません。彼はローマの権力を背に、貧しい同胞たちから強引に税金を取り立て、徴税人の頭になり、金持ちにもなりました。しかし彼は、少しも幸せではありませんでした。みんなから「罪人」と呼ばれ、孤独の寂しさの中にあったのです。イエスが町に来られるという噂を聞いて、急いで通りに出ても、大勢の人垣に阻まれて前に出ることさえ出来ません。そこで彼はやむなく近くにあったいちじく桑の木によじ登ったのです。それは滑稽な姿である以上に、孤独の寂しさを示す姿です。

そんな彼に主イエスは「ザアカイ、降りて来なさい。今日あなたの家に泊まることにしている」と声を掛けたのです。今まで誰からも声を掛けられたことのなかったザアカイにとって、それは驚きであると共に、彼の生き方を180度転換するものでした。彼は自分の財産の半分を貧しい人々に施し、不正の取り立てを反省して4倍にして返す誓いを立てたのです。主イエスがザアカイを友として受け入れてくださったことにより、彼もまた、他者に心が開かれ、貧しい人々の友として生きるようになったのです。主イエスは今も私たち名を呼んで招いておられます。

off 活きたキリストの体としての教会

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①12:12-27

「教会」は、神によって「召された者の集まり」(エクレシア)です。主イエスは、弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。それはあなた方が実を結ぶためだ」と言われました。教会は一般のグループのように任意の自己目的の集まりではなく、神によって必要とされて、選ばれた者の集まりです。一人一人は弱さと破れをもった者ですが、イエス・キリストに結ばれて、「キリストの体」とされているのです。イエス・キリストの命と、力にあずかって、キリストの御心に従う群れなのです。 体は、多くの部分から成り立っていますが、体は一つであり、どの部分も大切な体の一部です。それぞれの部分が、しっかりと体につながって、それぞれの役割を果たす時、その体は活きた体として機能するのです。教会の場合も同様です。一人一人みな、個性が違い、賜物も違いますが、みな大切な「キリストの体の部分」です。だれも自分を卑下して、「私なんかいなくても」などと思う必要はありません。また、自分を誇って、他の人を見下し「あの人は要らない」などと言うことは許されません。「体の中で弱く見える部分がかえって大切なのです」。互いに補いあって共に生きるためです。弱い者を排除し、強さだけを求めるこの世の中で、教会は、交わりを通して「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」活きたキリストを証しする使命と責任を負っているのです。

off 神の知恵

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

コリントへの信徒への手紙①1:18-25

キリスト教の神髄は、イエス・キリストの十字架と復活にあります。しかし、この十字架と復活が、多くの人のつまずきとなっていることも事実です。「十字架と復活さえなければ、キリスト教はすばらしいのだが…」と言った人がいます。しかしキリスト教から十字架と復活を取ってしまったら、単なる人道的な教えになってしまいます。「十字架の言葉」は、メシアのしるしを求めるユダヤ人にとっては「つまずき」であり、人間的な知恵を求めるギリシャ人にとっては「愚か」(ナンセンス)なものでした。パウロ自身もかつて、「木に架けられたものは呪われた者」というおきてにとらわれて、十字架のイエスをメシアとあがめるキリスト教徒を憎み、激しく迫害しました。そのさ中、復活のキリストとの出会いを通して、目が開かれ、十字架の贖いの恵みこそ「神の力」であることに気付かされたのです。そのような体験に基づいて、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と断言しているのです。この「力」は、ダイナマイトの語源となった「デュナミス」というギリシャ語です。十字架の言葉(福音)は、パウロの頑強な自我の壁を打ち砕き、固い罪の岩をも粉砕して、彼を永遠の命と光の世界へと導いたのです。彼はここに神の知恵を見て「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と賛美したのです。

off 心を一つにして

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙1:10-17

今、人と人、国と国、民族と民族の間の分断と緊張が高まっています。皆、自分のこと、自国のこと、自民族のことしか考えないからです。そのような中で、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」というパウロの言葉は、重い意味をもっています。この言葉は、コリントの教会に向けて語られた言葉です。コリントの教会の中にも、指導者をめぐって「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファ(ペトロ)に」と主張する分派が生じたのです。パウロは「キリストは幾つにも分けられてしまったのか」と嘆き、私たちは皆神に召され、キリストに結ばれて一つにされた「キリストのからだ」であることを強調し、「一つになる」ことによって、活けるキリストを証しすべきことを訴えているのです(12章参照)。キリスは十字架の死によって、敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにして平和の福音をもたらしました(エフェソ2:14-17)。このキリストにおいてこそ、私たちは一つになることができるのです。しかし、コリントの教会において、「わたしはキリストに」と主張する人々も一つの分派になってしまったのです。その主張は正しくても、自分を絶対化し他を裁き、全体のことを配慮しないためです。互いに謙虚にキリストの愛を基として一つになることが求められているのです。

off キリストに結ばれて

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙1:1-8

地上にある教会は、すべて途上にある教会です。罪ある人間の集まりだからです。
パウロの伝道によって誕生したコリントの教会も、さまざまな破れや問題を抱えた教会でした。しかしパウロは、この教会を「コリントにある神の教会」と呼び、丁寧な挨拶をもって、この手紙を書き出しているのです。それは、コリントの教会の信徒たちも「召されて聖なる者とされた人々」だからです。パウロは自分自身についても「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と紹介しています。使徒としての権威を振りかざすのではなく、共に、神に召された者同志という立場から、「恵みと平安があるように」と祈りつつ、本題の勧告へと筆を進めるのです。 教会の交わりは、心情的な一致や、人間的な好み、感情的な一体感などに基づくものではありません。お互いが神の召しによって集められ、「キリストに結ばれて」一つにされているのです。お互いに、キリストによって罪赦された者同志として、赦しあい受け容れあうところに、教会の交わりの特色があるのです。今は不完全で、破れの多い交わりも、主の愛にはぐくまれて、「主イエス・キリストの日に、非のうちどころのないものに」変えられるのです。そのことを信じつつ、主にある交わりを通して、活ける主を証しする教会でありたいと願います。

off キリストの証人となれ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書24:36-53

十字架に架けられた主イエスが、死者の中から復活されたということは、弟子たちにとっても信じ難いことでした。エマオへの途上で復活の主イエスに出会われた二人の弟子が、他の弟子たちとその噂をしている所に、再度主はご自身をあらわされました。弟子たちの真ん中に立ち「シャローム」(平和があるように)と挨拶された主イエスに、彼らは亡霊を見ていると恐れたです。そこで主イエスは、ご自分の手足を差し出して見せ、さらに、食べ物を要求し、差し出された焼き魚をみんなの前で食べて見せたというのです。ここには、何とか自分のことを信じてほしいという、主イエスの涙ぐましい努力の様が描かれています。作家の椎名麟三は、旅先で郵便局に自分宛てに振り込まれたお金を受け取ろうとして、どうしても自分が自分であることを信じてもらえなくて困惑した時、この復活された主イエスの戸惑いがよく理解できたと、書いています。主イエスはなぜそこまでして、ご自身を証明する必要があったのでしょうか。十字架の死だけでは、旧約聖書に約束されている神の救いの御業が完成されないからです。また失意の中にある弟子たちが立ち直るためにも、死に勝利された主がいつも共におられることを知ってもらう必要があったからです。そしてさらに、彼らが復活の証人となって、主イエス・キリストの福音を、あらゆる国の人々に宣べ伝えるようになるためなのです。復活の主は、今も私たちと共に働いておられます。

off イエスは生きておられる

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書24:13-35

週の初めの日の夕方、エマオへの道を下る二人の旅人がいました。彼らは、主イエスに従った無名の弟子たちでしたが、主イエスが十字架に架けられ殺されたことにショックを受け、深い悲しみと失意を抱えて、郷里への道をたどったのです。その朝早く、女の弟子たちがイエスの墓を訪れ、墓が空であったことを耳にしながら、彼らは何の関心も示さず、重い足取りで逃避の道を下って行ったのです。なにもかも信じられない思いだったのです。そこに一人の旅人が近づき、声をかけ、共に歩まれたのです。それが復活された主イエスでした。憂いで心が塞がれていた彼らに、それがイエスであることが分からなかったのです。しかし、主イエスが聖書を通してみ言葉を解き明かした時、彼らの心は燃えたのです。また、エマオで食事の時、パンを裂き感謝の祈りを捧げ、それを彼らに渡されたとき、彼らの心は開かれ、主イエスであること気付いたのです。 イエスの復活という出来事は、私たちにも分り難いことです。ことに様々な憂いや悲しみ、様々な思い煩いの中にあるとき、心が閉ざされて、神さまのことが分からなくなることがあります。しかし、イエスさまはそんな私たちをお見捨てにならず、近づいて来て声をかけ、み言葉とパン裂き(聖餐)を通して、「わたしは生きて、あなたと共にいる」ことを示して下さるのです。

off 父よ、彼らをお赦しください

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書 23:32-43

ゴルゴタの丘に、三本の十字架が立てられました。主イエスを真ん中に二人の犯罪人が架けられたのです。こうして、罪のない神の子イエスは「罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53:12)のです。その十字架上の主イエスを、議員(祭司長・律法学者たち)も民衆も兵士たちも、みなあざ笑って「他人を救ったのだ。救い主なら、自分を救ってみろ」と罵ったのです。犯罪人の一人までもが、同じように罵ったのです。そのような侮辱と罵りの中で、主イエスは祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。救い主であるイエスにとって、この苦難と死から逃れる道はいくらでもあったし、自分を救うことは簡単でした。しかし、主は人々の罪を担い、「罪人の一人」として苦しみを受けることによって、すべての人の罪が赦され、救われることを祈り求めたのです。この主イエスの祈りを聞いて、もう一方の犯罪人は、イエスを侮辱した仲間をたしなめ、「我々は当然の報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない」と言い、「イエスよ、あなたのみ国で、わたしを思い出してください」と祈ったのです。主イエスはこれを彼の信仰と認め「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。主イエスの苦難と死を<自分の罪のため>として受け入れる者こそ、罪赦されて神の国に入ることができるのです。

off バラバかイエスか

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書23:32-43

聖書の中で、ピラトの裁判ほど不可解で不合理なものはありません。イエスの無実を認め、「釈放しょう」と宣言しつつ、十字架刑に処してしまうのです。祭司長たちに扇動された群衆が、「十字架につけろ」と強く要望したからです。民衆の声を聞くことは、民主主義の基本ですが、民衆が間違った情報によって操作される時、暴徒化する危険もあります。国民一人一人が、正しい情報に基づいて、冷静に判断することが必要です。ピラトは、祭司長たちの妬みであることを知りつつ、祭りの際の恩赦の慣例によってイエスを釈放しようとして「バラバかイエスか」と問い、それがあだとなって暴動と殺人のかどで捕らえられた死刑囚バラバを釈放し、イエスを死刑にする結果になったのです。自己の身の保全しか考えないピラトの政治責任は厳しく問われなければなりません。しかし神はそのような、不合理な出来事を通して、この世に大きな救いの御業をなさったのです。このキリストの十字架の死を通して、すべての人間の罪が赦され、神との和解の道が開かれたからです。ラーゲルクヴィストは、『バラバ』という小説の中で、イエスの身代わりの死よって、自由の身となったバラバのその後の人生を興味深く描いています。私たち一人一人も、罪の故に滅びるべき身でありながら、キリストの身代わりによって生かされているのです。主の恵みに応えて生きたいものです。

off み心のままに

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書22:39-46

主イエスは逮捕される夜、弟子たちと最後の晩餐を共にし、「いつものように」、「いつもの場所で」祈られました。大きな苦難と死に立ち向かう力は、「いつも」の祈りによって与えられるのです。主イエスの祈りは「父よ、御心なら、この杯を取り除けてください」というものでした。祈りは、神さまに心を開いて、自分の願いや思いを率直に訴えることです。主イエスは、苦しみもだえ、汗を血のように滴らせながら、切に祈られました。祈りは神との対話です。自分の願いと、神の御心との間に齟齬が生じるとき、祈りは神との格闘になります。しかし祈りにおける挌闘は、自分の願いや要求を貫き通すことではなく、神の御心に自分が従うことです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。これが主イエスの祈りの帰結でした。 主イエスは、そのような祈りの中で、天からの力を得て、「立ち上がり」、十字架の苦難と死の「杯」を受け入れたのです。それは、私たちのための大いなる決断でした。主イエスは、この祈りの前後に、弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」と声をかけられました。迫り来る苦難の中で、弟子たちもまた、祈りによって誘惑に打ち勝ち、神の御心に従うことを切に求められたのです。祈りこそ試練に打ち勝つ力です。目を覚まして、絶えず祈りましょう。