毎週の説教メッセージ

off 何の役にも立たないでしょう

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書6:1-15

五千人の供食の物語は、私たちがよく知っている物語です。私たちも、フィリポやアンデレのように、「[大麦のパン五つと魚は]こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9)と、考えます。役に立つ・立たないかが、生きて行く上での基準でしょうか…。ヨハネ福音書では、供食にこだわり、イエス自らが行っています。12節のイエスの言葉は、神の与えることは、「少しも無駄にしてはならないように…集めなさい」と、勧めているようです。そして、人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(13)と認めました。しかし、人々の異なる動き、[力強い行いにより、この世の国を立て直すために]「王にするために連れて行こうとしている」(14)も、伝えられています。今日の出来事に関連する事項、「後日談」は、6章の最後まで続きます。供食の際、ヨハネ福音書は[共観福音書とは違って]「感謝の祈りを唱え」(11)を用い、「裂く」という表現もありません。ヨハネ福音書では、イエスが「裂かれる」ことを意識していますが、そのことも「後日談」(22-71)で語られています。今日は、その中の、「父がまことのパンをお与えになる」(33)と、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66)に、注目をします。今日は、信教の自由を守る日です。イエスは、人間の窮乏に向きあい、少年の献げものを用い、神を信じ歩まれました。私たちも、現実の社会の中で、「何の役にも立たない」とされていることに、留まり、集め、守る日(々)としたい。

off 三十八年も病気で苦しんでいる

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書5:1-18

38年間も苦しみの中にいる…。現代においても、災害、事故、戦争により、長い苦しみの中に置かれている人々がいます…。もちろん、今日の聖書にあるように、長期間の闘病者もいます…。私たちは、そのような現実が見えているにもかかわらず、長い間そのままにされているという現実の厳しさも感じるのではないでしょうか…。イエスは、「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』」(6)と、尋ねました。イエスが、彼の意志を確かめた後、「起き上がりなさい。床をかついで歩きなさい」(8)と、命じました。すると、「その人はすぐに良くなって、床をかついで歩き出した」(9)のです。その後、「この人は…自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(15-16)。しかし、イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17)と語ったので、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが 安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、ご自身を神と等しい者とされたからである」(18)と、福音書は伝えます。その点は聖書も慎重であると想いますが、今日の聖書は、人間、命に、まなざしを向けさせます。38年も病気で苦しんでいた人、その人へのイエスの関わりや語り方、その人に起こった波紋など。「神の救いなくば」「神が共にいます」と生きた、命の余韻が迫ってきます。

off わたしはある

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書8:21-36

今日は8:21-30で説教をします。ヨハネ福音書の全体に言えることですが、二つの時間[の座]で語られていることに、注目します。一つはイエスが在世中であり、もう一つはヨハネ福音書が編まれた時代です。福音書の冒頭は、厳しい対立を、暗示させます。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4-5)。今日の聖書の少し前、イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12)と語りました。そして、「わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって語って話している」(26)と続けます。しかし、ユダヤ人たちは、「イエスが御父について話しておられたことを悟らなかった」(27)。そこで、イエスは、「あなたたちは人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」(28)と、お話になりました。ここでは、イエスを処罰することで、自らに罪を招くことが語られているように、思われます。そして、神に遣わされた者としてのイエスの自覚が、29-30節に現われています。「わたしをお遣わしになった方は、わたしは共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心を行うからである」。「わたしはある」という方がイエスを遣わし共に生きるようにしてくださったことを感謝し歩みましょう。

off このぶどう酒はどこから来たのか

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書2:1-11

物語の中に、イエスと他の人の会話が組み込まれ、その会話が物語の語られている理由を示し、それがやがてわかる、という展開があります。今日の物語で、祝宴でぶどう酒がなくなるということが起こります。しかし、その事実を知るのは一部の者たちです。その事実をイエスの母がイエスに伝えます。すると、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と応えます。この発言を、今の時点では、「出来事の決定は、人間にではなく、神にある」というぐらいに、留めておきたいと思います。私たちの躊躇を越えて、イエスの母は、召し使いたちに、「この方が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5)と伝えます。しかしこの後、イエスの言葉によって変化が生じます。「水がめに水を一杯に入れ」(7)「それを…宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8)。ぶどう酒に変わった水の味見をした世話役は、その経緯を知らなかったので、花婿に「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10)と称賛しました。福音書は今日の物語を「最初のしるし」と表現しますが、「しるし」は不思議なことを言い表し、[神の]「業」とも言い換えることができます。最大の神の業はイエスを信じること(6:29-30)ですが、その不思議なことも信じる者が口で告白することによって初めて明らかになります。今日の物語では、イエスを信じた人々は一部です。しかし、イエスが語り動き、その恵みに参与し喜びに溢れた人々が沢山いたことを、この物語は伝えています。

off 最初の弟子たち

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書1:35-51

ヨハネ福音書の最初の弟子たちがイエスに従った記事は、共観福音書のとは異なっています。ヨハネの弟子の二人が「神の小羊だ」と聞いて、イエスに従い、その一人のアンデレは兄弟シモン・ペトロをイエスのもとに連れてきました。その翌日、イエスはフィリポに「わたしに従いなさい」と言い、フィリポは同じベトサイダ出身のナタナエルを誘って連れて行きました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)。ヨハネ福音書は、実に淡々とイエスが彼らに目を注ぎ、声をかけ、そして招かれたことを強調しています。それは私たちも同様です。神が私たち一人ひとりをそれぞれの歩みの中から導き出して、イエス・キリストに出会わせたという事実こそが大切なのです。

またもう一つの使信として、アンデレがその兄弟シモン・ペトロを、そしてフィリポが友人ナタナエルを誘ってイエスのもとに連れて行っている事実です。最初の弟子たちの服従においても、「一人が一人を」という伝道の原則が働いています。私たちはイエスの招きを受けても、自分がイエスの教えを守ることに精一杯で伝える喜びに欠けているのではないでしょうか。イエスの弟子になるということは「わたしに従いなさい」の招きに応えて、自分の言葉でイエスを証しして伝道することです。「一人が一人を」という伝道の使命に共に歩みたいです。

off わたしは証しした

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書1:29-34

今日の聖書は、冒頭(29)、今日の箇所を要約するように、こう語っています。ヨハネはイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)。そして、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」(31)と振り返っています。

ヨハネは、荒れ野の叫ぶ声として、「主の道をまっすぐにせよ」に仕え、ヨルダン川で洗礼を授けていました(23)。ヨハネの洗礼は、それまでの生き方に死に、新しい生を開始することを意図していました。それは、自らの願いを満たすための計画・行為ではなく、古い生き様に死に新しく生まれ変わることでした。そのような活動の最中に、イエスが現れ、洗礼を受けました…。その出来事において、ヨハネが経験したことを記したのが、今日の聖書だろうと想います。ヨハネは、イエスとの接触を通して、イエスを「神の小羊」(29)「神の子」(34)であると受けとめ、証ししました。今日の聖書は、イエスの活動・洗礼を強調していることに、意義を感じます。ヨハネが、イエスによる洗礼・活動によって、人々が新たに起き上がらされ導かれていくことを、仰ぎ見ていたことは確かでしょう。ヨハネは、自分のしていることに留まるのではなく、イエスの成されること・未来を証しします。イエスの活動、聖霊による新生は、ヨハネを越え、聖霊に身を委ねるような、生きる力を与えました。ヨハネは、イエスの中に、その力を見出し、証ししました。

off 外国からの訪問者

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書2:1-12

今日の物語をめぐる興味深いたくさんの推論があることを了解した上で、今日の聖書に向かいましょう。東方の学者たちは「拝みに来た」(2)と伝えられますが、彼らが聖書に示される神を信じていたかは不明です。「東方」はかつてイスラエルの民が移住させられた土地であり宗教的にもタブー視されていましたが、ローマ帝国が台頭する世界情勢の中で「東方」の人々も流動していたことが想像させられます。今日の説教題に「外国からの訪問者」としましたが、私は、物語から、本当に大事なことを求めて異なる存在が出会うことが起こり得るという現実を、想像しています…。今までにないことは、波紋を広げ、心配をもたらします…。メシア誕生もそのような出来事でした…。誕生物語ではイエスとその家族が自ら何かを演ずることはなく、彼らは社会に翻弄されると共に、その存在が波紋を広げていきます。今日の物語の登場人物は皆不安を感じています。この姿は現代も…。民の求めは、非常に平たく言うと、マタイ福音書では「生きていくこと」と「未来に希望を持てること」だと伝えているように感じます。マタイ福音書は聖書の伝承を重んじますが、人が当然と考えがちな「慣行」からは自由であるように想います。イエスとその家族も、その後「エジプトに逃げ」(13)、「ガリラヤ地方に引きこも」(22)ったと、語られます。彼らも「流動する民」であり「生きること」に熱心でした。

off この子の名はヨハネ

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書1:57-66

天使ガブリエルがお告げをしてから、年老いた祭司ザカリアは口が利けなくなりました。「月が満ちて、エリサベトが男の子を生みました」(57)。エリサベトにとっても大変な時を過ごしたでしょうけれど、神の導きのうちに無事男の子を生みました。近所の人々や親類は主が大いに慈しまれたと聞いて喜び合いました。習慣に従い、8日目に割礼を施すために来た人たちは、この赤ん坊に父の名であるザカリアと名付けようとしたのですが、エリサベトは「いいえ、この子の名はヨハネとしなければなりません」(60)と言いました。周りの者は手振りでザカリアにこの子の名を尋ねるとザカリアは字を書く板を持ってこさせ「この子の名はヨハネ」とエリサベトと同じことを言いました。人々は皆驚きましたが、もっと驚いたことにザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美したのです。ザカリアに取ってこの10カ月の時はどのような時だったのでしょう。天使ガブリエルはザカリアに考える期間、祈る期間を与えられたのだと思います。ザカリアは天使ガブリエルからお告げを受けて、半信半疑のままの受け答えをしてから、信じない者から信じる者になるのに10カ月かかりました。神様からいただいた大きな仕事を果たすために、必要な沈黙であり、日々でした。言葉通りに御用を果たした途端、賛美の歌があふれ出たのです。私たちもクリスマスを迎えます。イエスを迎えるクリスマスの歌を賛美しましょう。

off 義の太陽が昇る

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説教:加藤 久幸 牧師

マラキ書3:19-24

マラキ書は、紀元前5世紀、エズラ・ネヘミヤに先立つ時代の預言であると言われてきました。私たちの現実においても、戦争や災害の時も大変ですが、その後の復興においても(こそ)、時間がかかり、混乱や困難が生ずることが多いのではないでしょうか。マラキは、現実の復興(神殿再建など)よりも、より根本的なというか、神への不信・嫌疑と向かい合いました。それは2つに要約できる、つまり、長く続く困難の中で、イスラエルは、➀神は私たちを愛してくださらなかった、➁神は正義を行わなかった(契約の義務をはたさなかった)と、疑いました。今日の聖書の前の3:13-16に、その様子がうかがわれます。この場面には、意見の相違があり、論争があります。現実世界は、混乱に満ちています。そして、神への告発があります。17-18節は、預言者が、神の言葉を預かるように語られています。神は、「未来」において既に決断されており、その決断から、神は現在へと語られ働かれます。「その日…わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちは…区別(裁き・正義)を見るであろう」(17-18)。19-21節の実現は、私にはよくわかりません。私たちは、その経過を明確にわからなくとも、この世界が正義に満ちた世界に変えられることを願っています。マラキは、23-24節で「主の日が来る前に」 預言者を遣わし、父(神)の心を子(民)に 子(民)の心を父(神)に向けさせると、預言しました。

off 主は生きておられる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

列王記上22:1-17

北イスラエルの第7代目の王アハブ王の話になります。20章のアラムのべン・ハダド王が攻めてきて、アハブ王は2度勝利しますが、主の命令に背いて、ベン・ハダドの命を助けます。その後、3年間両国には争いはありませんでした。ユダの王ヨシャファトがイスラエルに下って来た時、アハブ王は共にラモト・ギレアドに行って共に戦うように要請をしましたが、ヨシャファトは「主の言葉を求めてください」と。アハブ王は約400人の預言者に聞き、全員が「戦いをすることを求めました」。ヨシャファトは他には預言者がいないのかと尋ねると、一人いるが、幸運を告げるのではなく、災いを告げるので、わたしは憎んでいるとアハブ王は言います。宦官は、ミカヤに王に幸運を告げる様に進言しますが、ミカヤは「主は生きておられる。主がわたしに言われることを告げる」と言います。ミカヤは「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主が『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に帰らせよ』と言われました」(17)。ラモト・ギレアドの戦いでアハブ王は亡くなりました。権力におもねり王の意向に沿った言葉や、預言者の言葉をもって我が意を得たりするものではないのです。Ⅱペトロの手紙で言われるように「聖書の言葉は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」「預言は、決して人間の意思に基づいて語足られるものではない」。主の言葉に聞き、自らを整えつつ待ち望みましょう。