毎週の説教メッセージ

off あなたがたの手で

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:10-17

主イエスが、5つのパンと2匹の魚で5千人もの群衆の空腹を満たしたという出来事は、四福音書すべてに記されている唯一の奇跡物語です。この出来事は、聖餐式の原型とも、神の国の祝宴の象徴とも解されて来ました。しかしそれと同時に、この出来事は、教会の社会に対する関わり方を示す出来事として理解することも出来ます。弟子たちは、休息の地にまでついてくる群衆をうとましく思い、解散させようとしました。食事の世話までとても出来ないと思ったからです。しかし主イエスは、群衆を「飼う者のない羊」のように憐れみ、疲れをいとわず、み言葉を伝え、病を癒されたのです。その主は、弟子たちの求めに「あなたがたの手で食べ物を与えよ」と命じられました。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません」とつぶやく弟子たちに、主イエスはそれを手に取り、感謝の祈りをささげて弟子たちに配らせたのです。すると、すべての人が満腹したのです。問題なのは、自分たちが少数者で無力あることではなく、どれだけ周囲の人々の痛みに連帯し責任的に関わろうとしているか、ということです。自分のことばかりでなく、自分の周りの人、社会の問題に責任をもって関わろうとする時、自分の小さな賜物が主に用いられて、多くの人を満たし社会を潤す力となるのです。

off 平和があるように

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説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書10:1-15

主イエスは12弟子を選び、汚れた霊を追い出す権能を与えて、世へと派遣されました。その動機は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9;36)からです。教会はキリストの愛に押し出されて、世に仕えるために呼び集められ者の集りです。病人を癒したり、悪霊を追い出すようなことは私たちには出来ませんが、重荷を負って苦しんでいる人々に寄り添い、祈ることができます。私たちの祈りと働きを通して、主がみ心を行われるのです。主イエスは弟子たちに、お金も袋も何も持たずに行けと命じられました。神のみを頼りとし、ひたすら神と隣人に仕えよという意味です。またどの家に入っても「平和があるように」と挨拶することを命じられました。挨拶は心と心をつなぐ大切な絆です。俵万智の短歌に「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいる温かさ」というのがあります。「平和があるように」(シャローム)という挨拶は神の平和を祈る言葉です。その挨拶には平和生み出す力があるのです。もしその挨拶を受け入れず、平和を拒否する相手がいた場合、「あなたの願う平和は、あなたに返ってくる」と主は言われます。平和の祈りは決して無駄にはならないのです。敵意と憎しみ満ちたこの世にあって、平和への祈りは教会の大切な務めです。

off わたしに触れた者はだれか

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書8;26-39

大勢の群衆が押し迫る中で、一人の女性が主イエスの後ろから近づき、衣の裾に触れました。彼女は血の流失が止まらない「長血」を患う女性で、12年間も医者から苦しめられ見捨てられ、町の人たちから「汚れた女」とさげすまれてきたのです。人目を忍んで、主イエスの衣にでも触れれば、と必死の思いであったのです。そのような思いが伝わったのか、主イエスは自分から力が出て行ったことを知り「わたしに触れたのは誰か」とあたりを捜されたのです。弟子たちは「こんなに群衆が押し合っているのに…」と咎めるのですが、それでも群衆を掻き分けるようにして探し求めたのです。一方長血の女は、血の流失が止まり癒されたことに気付き、また主が自分を捜しておられることを知って、恐れおののきながら、主の前に名乗り出たのです。 なぜ主イエスは、道を急いでいるのに、わざわざ群衆に紛れた彼女を捜し求められたのでしょうか? 病気が治っただけでは、ほんとうの救いにはならないからです。主イエスの人格に触れ、キリストによって新しく生まれることこそ大切なのです。主イエスは彼女を「娘よ」と呼び、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。主イエスの復活の命にあずかり、翻って生きよ! と新しい命への道を示されたのです。

off 一人の人間の重み

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書8;26-39

主イエスは、ガリラヤ湖の東岸ゲラサ人の地で、裸で墓場を住み家とする「悪霊に取りつかれた男」と出会いました。鎖で繋がれ、足枷をはめられて監視されていた彼は、村人たちから完全に疎外され排除されていたのです。イエスは彼に近寄り、名を尋ねました。一人の人格として受け入れた証拠です。男が名のった「レギオン」とは、ローマの武装した6千人の軍団の意味です。もしかしたら、彼はローマ軍の残虐行為や圧迫を受けて、心を病むようになったのかも知れません。人を狂わせる悪霊は、軍隊の中にも宿って、平気で虐殺や略奪を行わせるのです。「レギオン」を名のる悪霊は、主イエスの権威におののき、「滅ぼさないで、豚の中に移動することを認めてほしい」と懇願し、認められたのです。奇妙な話ですが、山の上で飼われていた沢山の豚(マルコによると2千匹)に悪霊が入ると、豚は崖から湖になだれ込み、おぼれ死んでしまったのです。豚はゲラサ人たちの貴重な資産でした。この出来事は、軍が資本と結びつくと破滅的な事態を招くことを意味します。村人たちは、悪霊から解放され正気となった男の回復を喜ぶより、失った豚を惜しんで、イエスを町から追放したのです。一人の人間の命よりも資本を重んじた結果です。主は一人、一人の命のために十字架に架かられたのです。

off あなたの罪は許された

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:36-50

主イエスが、ファリサイ人シモンの家で食事の席に着いていた時のことです。その町で「罪の女」と呼ばれていた婦人が香油の入った壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながら涙でイエスの足を濡らし、髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗ったのです。それを見たシモンは、心の中で、なぜイエスは、「罪の女」の正体を見抜けず、するがままにさせておくのか、と咎(とが)めたのです。主イエスは、ある金貸しから金を借りていた二人の人の例をあげて、二人とも返せなくて、借金を帳消しにしてもらった場合、多く赦された者と、少ない者とどちらが多く、感謝の思い抱くか?と問われたのです。 主イエスは人間の罪を借金(負債)にたとえて、人は誰でも、神によって生かされ、愛されているのに、神に背を向けて歩んでいる。その神からの負債は、誰も自分の力で返済することは出来ない。そこで神は、その私たちの負債を帳消しにして、神に立ち帰らせるために、み子をお遣わしになったことを示されたのです。この「罪の女」は、主イエスと出会って罪を赦された愛と恵みを、全身の喜びをもって表している。「シモンあなたはどうか」と問うているのです。私たちも、主の十字架の愛と恵みをしっかりと受け止め、心からの喜びをもって主に仕えたいと願います。

off 来たるべき方

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7;18-26

「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。バプテスマのヨハネは、獄中から二人の弟子を主イエスのもとに遣わして尋ねたのです。主イエスの先駆者であり道備えであるヨハネが、このような問いを発したということは、大きな驚異です。獄中の苦しみと不安から、このような問いを発したのでしょうか。たしかに、大きな艱難や死の不安は、私たちの存在を根底から揺さぶり、これまでの確信さえ揺らぐことがあります。しかしヨハネの動揺は、単に個人的な不安や苦しみによるものではなく、当時の権力者の不正と横暴に対する怒りと、なぜ正しいものが虐げられなければならないのかという不条理に対する疑問から来ているように思います。イエスが「来たるべき方」(メシア)であるなら、なぜこのような不条理なことが許されるのか、と。
主イエスは、その問いに、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えよ」と命じ「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…貧しい人は福音を告げ知らされている」と語りました。それはイザヤの告げた「来たるべき方」の徴であり、人々の苦難と病を担う「苦難の僕」としての生き方でした。来たるべき神の国は近づいているのです。どんな時にも神の国と神の義を待ち望みたいものです。

off 若者よ、起きよ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:11-17

 主イエスは、ナインの町で、ある若者の葬列に出会いました。その町のやもめの一人息子が亡くなり、墓場に向かう途中だったのです。だれの死でも悲しいものですが、母親にとって一人息子の死ほど辛く悲しいものはありません。夫に先立たれた彼女にとって、その息子は唯一の希望でした。泣き悲しむ母親の姿を見て、イエスは憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われました。悲しい時に泣くことは必要なことです。イエスは泣くことを制止したのではなく、「もう泣く必要はない」と言われたのです。主イエスが共に泣き、彼女の辛い悲しみを一緒に担っておられるからです。「憐れに思った」という言葉は、単なる同情ではありません。原意は「はらわたを痛める」と意味で、相手の痛みを共に担うことを意味しています。イエスは近づいて棺に触れ「若者よ、起きなさい」と命じ、息子をその母親にお返しになったのです。 アウグスティヌスの母モニカは息子が肉の欲に溺れ、邪教に陥った時、主がこのナインのやもめを憐れんだように、私の息子を生き返らせ、私のもとにお返し下さいと、必死に祈ったそうです。その祈りが聴かれて、アウグスティヌスは迷いの眠りから覚め、生涯神と人に仕える立派な教父となったのです。若者は今、そのような涙の祈りを必要としているのです。「若者よ、起きよ!」。

off 共に生きる生活

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説教 (教会年主題説教):最上 光宏 牧師

ルカによる福音書10:25-36

 神は人を創造されたとき、「人が独りでいるのは良くない」と、共に生きる相手をお造りになりました。その他者が「あばら骨」で造られたということは、共に生きる「心」を共有しているということです。「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、そのような前提に基づいているのです。しかし、私たちの現実は、共に生きるべき者同士が、互いに敵対し争い合っている状況です。どうしたら他者を愛し受け入れることが出来るのでしょう。主イエスは、「わたしの隣人とはだれか」とうそぶく律法学者に「良きサマリア人」の譬えを語られました。追い剥ぎにあって半殺しにされて倒れている旅人に対して、祭司とレビ人は向こう側を通り過ぎて行きます。それに対してユダヤ人から嫌われ差別されていたサマリア人は、憐れに思い、近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱し、宿屋の主人にお金を払って、また帰りに寄ると約束します。主イエスはこの譬えの後で、「だれが傷ついた旅人の隣人になったと思うか」と問い、「行って同じようにしなさい」と命じました。自分から近寄って隣人になることが大切なのです。助けを必要としている人は私たちの前にいるからです。この良きサマリア人は、イエスさまのことでもあります。主の愛に応えて、私たちも良き隣人となり、共に生きたいと願います。

off ことばの力

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:1-10

 ある百人隊長の僕が重い病にかかった時のことです。長老たちは、百人隊長が主イエスに助けを求めているのを知って、イエスに助けに行ってほしいと依頼したのです。この百人隊長は、ユダヤを支配していたローマ軍の小隊長ですが、ユダヤ人を愛し、会堂まで建ててくれた恩人だというのです。この百人隊長が、直接イエスに依頼しなかったのは、自分の権威を個人的な目的のために利用することをためらったからです。イエスもまた、彼の善行の故に百人隊長の家に向かったのではありません。権威を笠に着ることなく、謙虚に、自分の僕(奴隷)を助けてほしいと切望する隊長の熱意に動かされたのです。 彼の家の近くまで行くと、百人隊長の友人が出てきて「主よ、ご足労には及びません。わたしは自分の家にあなたをお迎えする資格はありません。ただ、お言葉をください」と隊長の言葉を伝えたのです。主イエスはこれを聞いて感心し「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。主イエスは、彼の謙虚な態度と共に、「言葉の力」への信頼に心打たれたのです。百人隊長は、自らの体験から、権威ある者の言葉には力があることを悟り、「ただ、お言葉をくだされば、治ります」と告白したのです。主の言葉には人を癒し、立ち上がらせる力があります。今日ほど真実な力ある言葉が求められ時代はありません。

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:15-17

 オスカー・ワイルドの童話の中に「わがままな巨人」というのがあります。巨人の留守中、その美しい庭園は、子どもたちの素敵な遊び場でした。しばらくぶりに帰って来た巨人は、「ここはわしだけの庭だ」と怒って子どもたちを追い出し、庭に高い塀をめぐらし、「立ち入る者は罰を与える」という立札を立てます。やがて春が来ますが、巨人の庭だけ、雪と氷に閉ざされた冬のままです。巨人は何年も緑も花もない冬の庭を眺めて凍えていました。ある朝、美しい小鳥のさえずりに目が覚め、庭一面に花が咲き、木々が美しい緑に輝いているのに気が付きます。子どもたちが、壁の小さな穴から庭に入り込み、木に登って遊んでいたのです。巨人は自分のわがままを悔い改め、庭の壁を壊し、子どもたちを受け入れ、美しい庭で子どもたち共に遊ぶようになります。やがて巨人は年老い、身動きが不自由になりますが、しばらく見えなかった大好きな小さな子が、両手両足に釘の傷跡をつけて現れてこう言うのです。「あなたはこれまで、この庭で私を遊ばせてくれた。今度はわたしがあなたを私の楽園で休ませてあげよう」と。この童話は、「子どもたちをわたしのもとに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」との主イエスの教えを基にしたものです。子どもたち共に歩みましょう。