毎週の説教メッセージ

off お言葉ですから

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:1-11

 努力の結果がすべて報われるとは限りません。むしろ苦労が徒労に終わることが多いのです。ガリラヤ湖の漁師であったシモンは、一晩中網を打ち続けて、一匹の魚も獲れなかったという挫折を経験しました。明け方、虚しく網を洗っていると、イエスが陸に引き上げていたシモンの舟に乗り込み、岸から少し漕ぎ出すように頼まれました。疲れ果て落ち込んでいたシモンにとって全く迷惑なことでしたが、前に姑が熱病を癒して頂いたという借りもあり(4:39)、しぶしぶ舟を漕ぎ出したのです。イエスは舟の中から岸辺の群衆にみ言葉を語られ、シモンは聞く気もなしに、一番近くで主のみ言葉を聴かされる結果になったのです。そしてこのことが、彼の人生を大きく変えるきっかけになったのです。 「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」話し終えられたイエスは、シモンにそう命じられました。「先生、わたしは夜通し苦労しましたが、何も…」彼はそのように言いかけながら、「しかしお言葉ですから…」と、み言葉に従ったのです。主のみ言葉に癒され、み言葉の力に信頼したからです。そして主の言われた通りにしてみると、おびただしい魚の群れが網にかかり、彼は圧倒されて主の前にひれ伏すのです。シモンはこのようにして、主に従い「人間をとる漁師」(伝道者)となったのです。み言葉は力です。

off 神の子羊

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説教:森 淑子 牧師 (狭山教会)
ヨハネによる福音書1:29-34

洗礼者ヨハネは三回自分を否定して、自分を「声」と紹介することによって、イエスをことば(ロゴス)なる方として紹介している。声は「ことば」を持ち運ぶ道具に過ぎない。声の中に盛られている内容こそが「ことば」である。ヨハネが語ることはイエス・キリストであり、その方が表わされることを願っている。そのイエスは世の罪を取り除く神の小羊である。イザヤ書53章に描かれている羊とか、祭壇で屠られる羊を指しているのであろう。

わたしは信徒の身分のまま開拓伝道を始めたので、御言葉を語ることに畏れを感じ長い間悩んだ。ある時、私は洗礼者ヨハネがイエス・キリストを指し示すことに徹していることに感銘を覚え、ヨハネのように、イエス・キリストを証することに徹しようと決心した。ヨハネによる福音書1章には、「見る」という言葉が繰り返されている。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」、見るのは自分の罪や他人の罪ではなく、その罪を取り除く神の小羊である。信仰には、この「見る」ことが大切である。イエスは「来てみなさい」と言ってくださる。

「信仰の導き手であり、また、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか」(ヘブライ人への手紙12:1~2)

off 言葉の力

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説教:最上 光宏 牧師
ルカによる福音書4:31-37

主イエスの言葉には、権威と力がありました。郷里のナザレの村の人々は、その権威に驚きながらも、イエスを村から追い出し崖から突き落とそうとしました。

「ヨセフの子、大工の子ではないか」という既成の知識、固定した観念が、主イエスの言葉を謙虚に聴く姿勢を拒んだのです。主イエスはやむなく、カファルナウムの町に移って、同じように会堂で教えられました。この町の人たちは、その教えに非常に驚き、多くの人が福音の恵みにあずかることができました。主イエスの言葉の権威と力を素直に受け入れ、それに従ったからです。主イエスは、会堂で突然叫びだした男から「汚れた霊」を追い出し、高熱で苦しんでいたシモンの姑から熱を追い去らせ、癒されました。いずれもみ言葉の権威と力によるみ業でした。しかし、主イエスの権威は、「上から目線」の威圧するような「権威主義」とは違います。また調子のよい口先だけの言葉とも無縁です。「一人一人に手を置いて癒された」(40)とあるように、あくまでも相手の立場に立ち、その人の痛みや苦しみを自ら担うことによって相手に癒しと平安を与えたのです。

偽りの口先だけの言葉が飛び交い、心無い言葉で傷つけあう時代の中で、私たちは愛と真実に満ちた「力ある言葉」をもって、互いに仕え合いたいものです。

off 神の言葉の実現

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書4:14-30

 主イエスは、郷里のナザレの会堂で、示されるままにイザヤ書の巻物の一部を読み、「この聖書の言葉は、今日、実現した」と語られました。その聖書の言葉は「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた…捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を…」というイザヤ書61:1-2のみ言葉でした。主イエスはこの言葉で、自分は、すべての人に神の国の福音を伝えるために遣わされて来たことを宣言されたのです。主は、貧しい人、虐げられ圧迫されている人、病気や障害で苦しんでいる人々をその苦難から解放するためにこの世に来られたメシア(油注がれた者)なのです。ナザレの村の人々はイエスの言葉に驚嘆しつつも、「ヨセフの子ではないか」とつぶやき、郷里のためにその力を発揮すべきことを要求したのです。しかし、主イエスがエリヤやエリシャが、貧しい外国のやもめや、外国の重い皮膚病の将軍に遣わされた例をあげると、たちまち態度を硬化させてイエスを追い出し崖から突き落とそうと図ったというのです。彼らは郷土愛から、自分たちの村の利益だけを考え、異邦人の救いなどは赦せないと憤ったのです。偏狭な愛国心は、人を味方と敵に分け、敵に憎しみを向ける結果になります。しかし神の国は、敵も味方もなく、キリストによって一つにされた交わりなのです。

off 悪魔の誘惑

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書4:1-13

 人はだれでも、一つの目標に向って前に進もうとする時、それに逆らって、足を引っ張るマイナスの力を体験します。イエスさまが洗礼を受け「神の子」としての自覚をもって、新たな一歩を踏み出そうとした時にも、荒野で同じような体験をされたのです。「神の子なら、石をパンにしたらどうか」。これは「神の子」としての立場と力を自分の空腹を満たすために用いる安易な生き方への誘惑でした。「人はパンだけで生きるものではない」。イエスは聖書の言葉でその誘惑を退けました。第二の誘惑は、「世界の国々の権力と繁栄を与えよう」というものでした。それは悪魔に屈服する道でした。「ただ主に仕えよ」。イエスはやはりみ言葉によってそれを拒否しました。第三の誘惑は、「エルサレムの神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」というものでした。「神の子なら天使が支える」と云うのです。これは人々をあっと驚かせて、苦も無く人々の心を捉える方法でした。「主を試してはならない」。主イエスはこの試みをも神の言葉によって退け、勝利されたのです。主イエスは、私たちが日々遭遇する試みを私たちに代わって受けられ、それに勝利することによって、十字架への道を選ばれたのです。私たちも試みの中で、ただ主に仕えたいものです。

off 主に信頼して歩む

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 説教:小倉 和三郎 教師

フィリピの信徒への手紙4:1-7

 使徒パウロは、自分が設立に関わったフィリピの教会へ送った手紙の中で、エポディアとシンティケと言う名の二人の女性会員の間で起こった問題に触れ、その二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています(4:2)。現在の教会の中でも、熱心に奉仕する自分が信仰に基づいて純真な思いで尽くしていると自負しているのに、自分をよく理解しない人に気づくと、自分の信仰と奉仕を否定されたように感じて、その人と対立しやすいものです。 パウロはその事情をよく知っていて、当事者の二人に、キリストの前で自分を見つめ直し祈るよう導いています。これは非常に大切なことで、何よりも重要なことです。パウロはさらに“真実の協力者”に、問題の解決のため二人を支ええるようお願いしています。(4:3)。真実の協力者とは、現在の教会では長老(執事、役員とも呼ばれる)に当たります。ここでは長老の最も大切な務めは、教会の信者たちの教会内外の信仰生活のために祈り、配慮して、皆が共にキリストに信頼して従うことによって一致して前進するよう執り成して支えることです。教会員もこの長老の働きのため祈り支える務めがあります。

off 聖霊によるバトンタッチ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書3:15-22

 救い主(メシア)の到来は、旧約の時代から預言者たちによって預言され、イスラエルの民が心から待望していたことでした。洗礼者ヨハネは、旧約時代最後の預言者として、救い主に対する道備えの役割を担っていましたが、民衆から「彼がメシアではないか」と期待されたのです。彼はそれを強く否定して「わたしは水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火によって授ける」と語ったのです。自分の洗礼は、罪を水で洗い流すものでしかないが、救い主は、人間の罪を贖い、聖霊によって人を新しく造り変えるものであると証言したのです。そのヨハネのもとに主イエスが来られて、進んで洗礼を受けられたのです。罪のない神の子である主イエスが、なぜヨハネの洗礼を受ける必要があったのでしょうか。考えられる理由の一つは、まったき人となられた救い主イエスが、罪ある人間に連帯され、私たちと同じ立場に立たれたということです。もう一つの理由は、旧約以来の預言者たちが担ってきた神の約束を、イエス・キリストが受け継ぎ、それを実現されたということです。長い間受け継がれてきたリレーのバトンが、ヨハネから最終ランナー・イエスに受け継がれたのです。その時、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り「あなたはわたしの子」との声が響いたのです。いよいよ新しい時代が始まったのです。信仰はのちのちまで継承されるべきものです。

off 主の道を備えよ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書3:1-14

 主イエスの地上での働きの直前、洗礼者ヨハネが荒れ野で、悔い改めの説教をし、罪の赦しを得させるためのバプテスマを施していました。罪の赦しは、主イエス・キリストの贖いの恵みによってもたらされるものです。ヨハネの働きは、主イエスの働きに対する「道備え」の意味をもっていました。ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とのイザヤの預言(40:1)の成就であったのです。「悔い改め」とは、単なる反省や口先だけの謝罪ではありません。向かうべき方向を転換することであり、生き方を変えることです。ですから安易な救いを求めて来た人や、赦されることを当然のように思っていた人たちに、彼は激しい語調で神の怒りを語ったのです。「では、わたしたちはどうすればよいのか」との質問に、ヨハネは「下着を2枚持っている者は、1枚を持っていない者に分け与えてやれ、食べ物も同じようにせよ」と命じたのです。徴税人には「規定以上のものを取り立てるな」と言い、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」と命じ、権力を傘に私腹を肥やしたり、職権を乱用して他人を傷つけることを戒めたのです。このような悔い改めこそが、「主の道を備える」ことなのです。私たちも日々悔い改めつつ、心の深みに主を迎え入れ、「荒野で呼ばわる声」としての務めを果たしていきたいものです。

off 少年イエス

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:39-52

 聖書は、主イエスの少年期や青年期のことについて、ほとんど触れていません。このルカによる福音書の記事は、12歳の時の主イエスについて記した唯一の箇所です。ガリラヤのナザレの村で成長された少年イエスが、両親と共に過越祭にエルサレムに上った時のことです。祭りの期間が終わって帰路につき、一日路を下った所で、両親は道連れの中にイエスがいないことに気が付いたのです。必死で探しながらエルサレムに戻り3日後に神殿の境内で、律法の学者たちの真ん中に座り、熱心に学び論じ合っているイエスの姿を見つけたのです。母マリアが驚いて、「なぜこんなことをしてくれたのです。どんなに心配して捜したことか…」と小言を言ったのは当然のことです。ところがイエスの答えは意外なものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。なんという生意気な口の利き方でしょう。しかしそれは単なる反抗期のせいではありません。神の子としての自覚に目覚め、自分は常に神と共に居るではないか、と諭したのです。子は親の所有物ではありません。自立して親元を離れる時があるのです。神の子イエスを自分たちのもののように思い込み捜し回っていた両親の方が「迷子」になっていたのです。神の子イエスを見失うことなく、主と共に神の家に宿る一年でありたいと願います。

off 幼子を胸に

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 説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:21-38

 クリスマスの喜びは、子供たちや若者たちの喜びであるだけではなく、老人にとっても大きな喜びの出来事です。母マリアとヨセフが、乳飲み子イエスを主に献げるためにエルサレムを訪れたとき、多くの人で賑わう神殿の境内で、老シメオンと84歳の女預言者アンナは、マリアの胸に抱かれた乳飲み子を救い主と認め大喜びをしたのです。彼らは、長い間救い主を待ち望み、神殿から離れずに祈り続けていたのです。それだけに彼らの喜びは大きかったのです。シメオンは幼子を自分の腕に抱き、「主よ、今こそ…この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と高らかに主を賛美しました。喜びのあまり、今死んでも悔いはないという心境です。死は誰にとっても不安なものであり、この世への未練は断ち切り難いものです。彼は救い主と出会ったことにより、死は終わりではなく新しい命の始まりであると、聖霊の示しを受けたのです。また救い主の到来は、単に自分個人の救いであるだけではなく、「万民のため」のものであり、すべての民に与えられる光であると歌い上げているのです。アンナもまた、主を賛美しつつ、エルサレムの皆に幼子のことを伝えたのです。幼子を胸に、私たちも喜びと希望をもって新しい年の歩みを始めたいものです。