毎週の説教メッセージ

off 目を覚ましていなさい

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書12:35-48

聖書の構造は、創世記の天地創造に始まり、ヨハネ黙示録の終末におけるキリストの再臨で終わっています。歴史には初めと終わりがあり、そのすべてを神が支配しておられるのです。キリストの再臨は、天地を造られた神のみ業の完成のためであり、神のみ心が完全に実現するためです。それは善と悪、真実と虚偽が神の前に明らかにされ、公正な裁き(決済)が行われる時です。 主イエスは、しばしば弟子たちにその時がいつ来てもよいように、「目を覚ましていなさい」と警告されました。婚宴から帰って来る主人を待つ僕のように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と。そのような僕は、主人が帰って来た時、主人のもてなす宴にあずかり、主人の帰りが遅いからと言って、飲み食いしたり、下男や下女に暴力を振るったりする僕は厳しく罰せられる、と言うのです。 今の時代は、あたかも終末がないかのように、人々は快楽を貪り、緊張を欠いた状態ではないでしょうか。人々が眠っているうちに、政治はどんどん腐敗し、経済の格差は増大し、戦争の危機と核による人類の破滅が近づいているような気がします。「目を覚ましていなさい」。弟子たちに語られた主の言葉は、今日の私たちへの警告に他ならないのです。「主よ、来たりませ」と目を覚まして祈りたいものです。

off 主はわが羊飼い  (召天者記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師

詩編23:1-6

「主はわたしの羊飼い」。この詩人は神を羊飼いに、自分を羊に喩えています。羊はすべての動物の中で最も弱く頼りない生き物です。他と争うような強い角も牙もなく、逃げるための速い足もありません。しかも方向感覚の鈍く迷いやすい動物です。つまり羊飼い無しには生きられない存在です。詩人は自分の迷い多き人生を振り返り、しみじみと自分の弱さを思いつつ、主はわたしの羊飼いとして、「青草の原」「憩の水のほとりに」導いてくださったと感謝し、「わたしには何も欠けることがなかった」と主を讃美しているのです。人生の晩年に、このように主に感謝し、讃美出来たらどんなに幸いなことでしょう。 このような過去の恵みを感謝しつつ、詩人はこれから迎えることになる死を見つめつつ、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」と歌います。「あなた(主)がわたしと共にいてくださる」からです。神に伴われる人生は、死に際しても恐れることがないのです。この詩は、後半、荒野で旅人をもてなす天幕の住民の喩えに変化しますが、これは神の国の祝宴を象徴するものです。神と共に歩む者は、地上の生涯を終えたのちにも「主の家に帰り」そこで永遠の安らぎを与えられるのです。「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われた主イエス・キリストの死と復活によって、私たちも生きるにも死ぬにも主のものとして、その慰めに与りたいものです。

off 神の呼びかけに応えて

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説教:原田 史郎 牧師

創世記12:1-4
マルコによる福音書1:16-20

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」。古代社会で故郷や父の家は、安全・安定を保証するものです。すでに75歳の彼にとって、見ず知らずの地に向かうということは、大きなリスクです。しかし、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」のでした。それは異教の神を礼拝する町から、唯一神に従う信仰生活への旅立ちでした。神の呼びかけに応え、アブラハムは一時の安定よりも神に従う道を選択しました。

2千年後、ガリラヤ湖畔に主イエスの声が響きます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。この呼びかけに応えて、シモン、アンデレは「すぐに網を捨てて従った」のでした。「人間をとる」とは、主イエスの福音(1:15)を伝え、罪の闇と死の中にある人々を「神の国(神の支配)」のもとに連れ来る者となることです。

昨年度、重大いじめが過去最高の41万件と公表されました。子どもの世界は、大人の世界を反映しています。闇が濃くなり、人々の心を蝕んでいます。神の呼びかけに応え、神の愛といのちに生きる歩みに踏み出したいものです。

off 小さな群れよ、恐れるな

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書12:22-34

 主イエスは弟子たちに何度も「思い悩むな」と命じられました。私たちの人生に「思い悩み」は常につきまとうものです。食べる物、着る物、住む家、「衣食住」のすべてについて、私たちは思い悩みます。主イエスは、「からす」や「野の花」を例に、何の役にも立たないような小さな存在をも、神は愛し、必要なものを備えてその命を支えていてくださる。ましてあなたがたにはかおさらのことではないか、と言われたのです。空の鳥も野の花も、ただそのことを喜び感謝して、今日の命を精一杯に生きているのです。人間の「思い悩み」は、神の前に生かされていることを感謝せず、他人と自分を比較することから来ているのです。弟子たちは、絶えず心の中で「だれが一番偉いか」ということで葛藤し、争っていました。また、祭司長・長老・律法学者たちの権威に圧倒され、とりまく多くの群衆の前に無力感を感じていました。弟子たちの「思い悩み」は、衣食住の問題からさらに、自分たちの群れの小ささ、無力さに及んでいたようです。主イエスは彼らに「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と言われました。この世にあって私たちキリスト者も、小さな無力な者の群れです。しかし私たちはそのことに恐れたり、思い悩む必要はないのです。神が常に共に居られて、この小さな群れを用いて、御国をくださるからです。

off 富の誘惑

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 説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書12:13-21

 日常生活において「富」は必要なものですが、また人の心を奪い、他者を見失わせてしまう危険を持っています。主イエスは、遺産の分配に不満を抱き訴えに来た若者に、「貪欲に注意せよ」と促し、「人の命は財産によってどうすることも出来ない」と諭されました。富や財産よりも、大切なものがあるという指摘です。その例として語られたのが「愚かな金持ちの譬え」です。ある金持ちが豊作になって、「どうしよう」と収納場所に悩み、倉を壊して、より大きい倉を建て、穀物と財をみなしまい、これから何年も休んで贅沢して楽しもうとした。しかし神は「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と言われたというのです。主イエスはこの譬えをとおして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通り」虚しいということを示されたのです。収穫は、神から与えられた賜物です。まず神に感謝し、それを飢えている人々と分かち合うべきでした。しかし彼は自分のことで思い煩い、自分を満足させることしか考えなかったのです。富や財産よりも大事なものは、人間の命であり、命を支配される神を敬うことです。かつて日本の国は、人間の命より、資本や経済を優先させた結果、アジア諸国を侵略し、戦争の過ちを犯しました。何よりも神から与えられた命を大切にし、神の前に共に生きる、豊かな歩みをなしたいものです。

off 恐れるべき者

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書12:1-12

 主イエスは、数えきれないほどの群衆に取り囲まれながら、来たるべき試練の時を見据えながら、弟子たちにそれに対処する心構えについて語られました。そこには、人々の評判や時流に流されることなく、十字架への道を貫こうとする主イエスの毅然とした姿が見られます。主イエスはまず弟子たちに、ファリサイ派の人々の偽善に注意を促し、人を恐れず、常に神の前に真実に生きることを促しています。人を恐れることから、嘘や虚偽が生じ、人々の前で主を否むような裏切りが生じるのです。

 主イエスは弟子たちに「友人であるあなた方に言っておく」と呼び掛け、「体を殺しても、それ以上出来ない者どもを恐れてはならない」と諭しています。「友よ」という呼びかけの中に、主の苦しみを共に担うことになる弟子たちに対する連帯の思いが込められています。自分たちの命を脅かすような権力者も、それ以上のことは出来ない。真に恐れるべきお方は、死後の世界まで支配しておられる全能の神のみだ、と言われるのです。この神を恐れる者は、この世の如何なるものをも恐れないのです。その神は、価の無い一羽の雀さえお忘れになることなく、私たちの髪の毛までも一本残らず数えておられるというのです。私たちは、少数者であることに気後れしたり、自分の無力さに引け目を感じる必要ないのです。主にあって雄々しく生きましょう。

off 求めよ、友のために

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書11:1-13

 主イエスが祈っておられるのを見て、弟子の一人が「主よ、わたしたちにも祈りを教えて下さい」と願い出ました。バプテスマのヨハネやファリサイ派の教師たちは、厳しい戒律に基づいて、祈りを教育しましたが、主イエスは、自らの祈りを通して、弟子たちに祈りの大切さを示されたのです。それが「主の祈り」です。この祈りの中で、主は「日毎の糧(パン)を今日も与えたまえ」と祈ることを示されました。これは、毎日の生活の中で必要などんなことでも、遠慮なく祈るよう勧めたものです。主イエスはこの「主の祈り」に続いて、真夜中にパンを借りに来た友人の譬えを語られました。彼は、旅をして真夜中に尋ねてきた別の友のために、何か食べ物を与えたいと思ったのですが、あいにく何もなく、やむなく「パンを貸してください」と願い出たのです。真夜中に叩き起こされた彼は「面倒をかけないでください」と一旦は断っても、執拗に頼めば、起きて必要なものを与えるだろう、というのです。この譬えは、どんな祈りでも執拗に熱心に願うなら叶えられるということを示していますが、同時に、友(他者)のための「執り成しの祈り」の大切さを示したものです。自分のパンのためだけではなく、隣人の飢え乾きのために、執拗に熱心に祈り求めることの大切さを主は示されたのです。「求めよ」友のために。

off 必要なただ一つのこと

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書10:28-32

  主イエスと弟子たちの一行がマルタとマリアの家に立ち寄られた時のことです。姉のマルタは、積極的に一行を迎え入れて、接待に忙しく立ち働きました。妹のマリアは、主イエスの足元に座って、その話に聞き入っていました。ここに二人の個性の違いがあらわれています。二人ともそれぞれの仕方で主に仕えているのです。主イエスは、それぞれの奉仕を喜び、受け入れておられたのです。ところが、突然、姉のマルタがイエスのもとに来て叫んだのです。「主よ、妹は私だけにもてなしをさせています。何ともお思いになりませんか。手伝うように仰ってください」と。マルタはなぜ、直接マリアに声を掛けず、イエスに訴えたのでしょう。妹への妬みや、いつも妹の犠牲になっているとの積年の思いが爆発したのかも知れません。これではせっかくの奉仕も台無しです。主は、マルタに語りました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである。マリアはその良い方を選んだ」と。忙しさに心を取り乱し、本来の自分を見失っているマルタに、主は深い憐れみをもって語られたのです。どんなに忙しくても、み言葉に聴くことをおろそかにせず、本来の自分を見失わず、他人と比較せずに、絶えず喜びをもって仕えなさい、と。

off 苦労は無駄にならない

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)15:50-58

 東日本大震災の救援プロジェクトとして作られた「花は咲く」という歌の中に、「花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」という一節があります。地震や津波で家族や家、財産などを失った被災者の方々の思いを歌ったものですが、「わたしは何を残しただろう」という問いは、私たちすべての人間の問いでもあります。高齢になり、あと何年生きられるのだろうと思うにつけ、この問いが心をかすめます。そして時には、これまでの労苦が無駄ではなかったかと考えさせられる時もあるのです。人生に「死」がある限り、苦労して生きてきたことの空しさがつきまとうのです。

 使徒パウロも、厳しい伝道の闘いの中で、そのような空しさを感じることがあったと思われます。伝道は、目に見える成果が得がたいものです。コリントの教会の現実は、ことのほか「わたしは何を残したのだろう」という失意を感じさせるような混乱ぶりでした。そのような中でパウロは語るのです。「主に結ばれているならば、自分たちの苦労は決して無駄にならない」と。パウロはこの言葉を、「復活」について論述した結びの言葉として記しているのです。十字架に死なれた主イエスが復活され、「死に勝利された」ことにより、私たちも、朽ちることのない新しい命にあずかるのです。

 主に結ばれて「主の業に常に励み」ましょう。労苦は無駄にならないのです。

off 啓示の光

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:28-36

 主イエスは、ご自分の受難について予告された後、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて、祈るために山に登られました。主イエスは、ゲッセマネの祈りにおいても、この3人だけを伴って祈られました。十字架の死を受け入れるために、主は特別な思いを込めて、必死に祈る必要があったのです。その祈りの中で主イエスの顔が輝き、その服も真っ白に輝いたのです。「山上の変貌」と呼ばれるこの出来事は、祈りによる神の栄光の輝きの反映であるとともに、祈りに対する神の応答の輝きでもあります。神は、主イエスの真摯な祈りに応えて、十字架の死の後の復活の栄光の輝きを主イエスと3人の弟子たちに啓示されたのです。「啓示」とは、神の隠されたご計画が開き示されることです。主イエスはこのような啓示の光を受けて、苦難と十字架への道を、神のみ心として受け入れ歩みだされたのです。

 私たちを取り巻く世界は、闇に包まれ、どこに神のみ心があるのかわからないような混沌とした状況です。しかし、私たちの祈りに応えて、神はみ心を示してくださいます。この世も神の支配の下にあるのです。ヨハネ福音書で、主イエスは弟子たちに言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主の勝利を信じて、私たちも主に従いましょう。