毎週の説教メッセージ

off 神を礼拝し聖書を信じています

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録24:10-21

事の起こりは21章からで、エルサレムに行ったパウロはヤコブたちの勧めで清めの儀式をしていた時に、ユダヤ人の誤解を受けて、千人隊長に捕らえられました。ユダヤ人たちはパウロを殺そうとして、千人隊長は総督フェリクスの所へパウロを護送し判断をゆだねました。裁判が行われ、ユダヤ人の訴えに対してパウロは信仰に基づき釈明します。これはユダヤ教内部の信仰と神学理解をめぐる問題であるから、ローマ帝国の治安と安寧を乱すものではないとユダヤ人側の告訴は無効であるというのです。ここまで長く聖書の説明をしてきましたが、パウロの一貫して変わらない信仰と信念。また、ユダヤ人をはじめとする群衆の愚かさ、怖さを思います。人を殺すために神にまで誓う、ユダヤ人の信仰は自分の都合で神を持ち出しているのか?現代に生きる私たちも自分たちの都合で神を出したりしまったりしてはいないか。最後に権力を持っている役人たちの姿です。パウロを無罪にすると、大祭司やユダヤの指導者の反感を買うことになり、有罪にするとローマの市民権を持ったパウロを宗教的理由で有罪にしてしまうことになる。そこでとったことは結論の先延ばしでした。いつの世も同じです。パウロの一貫した姿勢は神を礼拝し、聖書を信じ従ったことにあると思います。コロナ禍にあって今、私たちのできることをそれぞれの場で祈り行いましょう。

off 憐れんでください

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:36-43

タビタの死を悼む女性たちは、「この先どうなるのか…」という思いであったと想います。やもめたち(39節)は、貧しく、社会の底辺におり、彼女らを誰も保護し代弁してくれません。そういう彼女たちに命を捧げたのが、タビタでした。一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せながら、彼女たちが泣いている様は、まさにタビタという女性の歩みが何であったのかという、証しです。現代で云う作業所のようなもののリーダーを、タビタがしていたのでしょうか。しかし、タビタの死により、その働きもタビタの死と共に終わる…。万事窮すと思えたが、全てはタビタの死で終わったわけではありませんでした。38節の「弟子たち」が誰を指すかは不明ですが、動きの中心にいるのは女性たちであると想います。彼女たちの様が、「弟子たち」を動かし、人を派遣し、ペトロを招き動かします。さらに言えば、タビタは「婦人の弟子」(36節)と言われています。このヤッファの町には、イエス・キリストの名前(存在)以外に望みと力をもつことができなかった人々がいたのです。言葉を失い、かける言葉もない…。しかし、これらの人々に「言葉」は臨みます。その傍らに立ち「言葉」を呼び求めるところに「言葉」は臨むのです。そして「言葉」は現状を変えるのです。この物語(前の物語を含む)は唐突に登場しますが、「(神の)言葉」の突入がなければ私たちは生き得ない者であると、私たちを立ち上がらせます。

off 隣りに違う者がいる

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの信徒への手紙2:11-22

「こころの友」7月号の巻頭言に、古賀博牧師の「あなたも『地の塩』に」という文章があります。今日の説教とも関連しますので、是非手にとっていただきたい。

今日の聖書の13節と18節は似た言葉使いであり、今や神に近い・神に近づく民のことが語られています。そして、その間に挟まれた14-17節に、その民のことが語られています。そこには、衝撃的なことが宣べられています。キリストは、「神の」民の根拠としての「律法」を廃棄された、というのです。それと共に、「神の」民と「異邦人」の「隔ての壁」も取り壊された、というのです。この15節には「ご自分の肉において」という言葉ありますが、これは「十字架」のみならず、「イエス・キリストの歩みによって」と、受けとめるべきだと思います。こうして、「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」た(15節)。「新しい人」については、「わたしたちの国籍は天に」(フィリピ3:20)ある「民」を、イメージしてもよいかもしれません。「平和の福音」に招かれた「新しい民」「神の民」はどう生きるのでしょうか。キリストによって「新しい人」とされる者は、今も「隔て」による不公正・抑圧・差別があるのであれば、そのことに立ち向かうのです。そして、「平和の福音」は、イエス・キリストに連なる者たちの、神と人に対する「誠実さ」によって確かめられ、伝えられ伝えていくのだと想います。

off 目指すゴールに辿りつくために

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ヘブライ人への手紙12:18-29

私たちのゴール(神の国)にいったら、私たちは何をしているのでしょうか。-間- 神の国では、私たちは礼拝をし豊かな交わりをするでしょう。このことは先輩牧師から聞き、私も信じそう伝えます。昨年度、水海道教会でヨハネ黙示録を読み、その21章・22章などによると、神の国では、ここまでが光(聖なる場所)というような隔てがなく、全ての者が礼拝し交わりを楽しみ、そして、そこの門は閉ざされていないということを、改めて想いました。教会は、聖書に基礎を置き、ゴールの前触れとして、ゴールを映す「鏡」として、この世界に置かれていると思います。

ヨハネ黙示録と同様ヘブライ書も不思議な書物ですが、これは、言わば「説教集」のような内容です。その特徴は、手紙の冒頭に現れています(1:1-2)。神は「多くのかたち」「しかた」で語られたが、(この終わりの時代には)「御子によって語りかけ」たと、イエス・キリストに向かわせるのです。そして、私たちのゴール(揺り動かされない御国、28節)は確かなのです。では、どのようなルートを辿る、どのような足取りで、と考えてしまうかもしれませんが、問題はそこではないようです。13:12に「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」とあります。イエス・キリストにおいて示された道を、彼と共に歩む時、私たちは「誰でも」ゴールに辿りつくことが赦されるのです。

off あなたがたは知っています

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネへの手紙①2:18-29

今日の聖書は、「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています」(18節)と始まります。「反キリスト」とはヨハネの教会から離れていった信者であったようです。信者が「イエスがメシアであることを否定する」(22節)ということはにわかに信じがたいのですが、4章1-3節などを参照すると「反キリスト」はイエスが真の人間として来られたことを公言しないようであります。著者ヨハネは、この論敵の議論の「土俵」には乗らないで、愚直にもこう勧めます。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父のうちにいつもいるでしょう」(24節)。

さらに「あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから」(27節)、あなたがたは(高尚そうに響き惑わす)教えを「だれからも受ける必要がありません」(27節)。教会に連なる私たちは、(神の言の受肉である)イエス・キリストに留まり、彼から聞くのです。このことを、ヨハネの教会(共同体)も、私たちも知っています。

「イエス・キリストは神の器ではあるが、大事なのは中身で器は誰でもいい」という表現を聞くと、私たちはどう応えるでしょう。仮現や仮想の動きを承知しつつ、イエス・キリスト、神の現実(リアリティ)に留まるかは、昔も今も私たちの課題です。

off 力と愛と思慮分別の霊

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

テモテへの手紙➁1:3-7

パウロはテモテの純真な信仰を思い起こし、また、母エウニケと祖母ロイスによって養われた信仰。パウロによって按手を授けられたことで与えられている神の賜物を再び燃え上がらせるように言っています。神は臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えてくださったといっています。臆病な霊とは、例えば自分が一タラントンを受けたことに対して責任を取ろうとしなかった怠惰な悪い僕。一タラントンを誤って使うかもしれないという不安から埋めてしまった僕のことです。私たちは力と愛と思慮分別の霊で励みましょう。 説教前の「小さなかごに」という讃美歌。♪小さなかごに花を入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も張れるでしょう。※愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。「おはよう」とのあいさつも、心を込めて交わすなら、その一日おたがいに喜ばしく過ごすでしょう。※くりかえし。この讃美歌は信仰を具体的にするものだと思っています。私は年度の初めの月の職員会議の讃美歌として歌っています。キリスト教に初めて触れる職員たちに、ミッションや聖書の話をしますが、この讃美歌のように子どもたちと向き合うようにとの願いをもって歌っています。持てるタラントンは少なくても、それを埋めてしまうのではなく、力と愛と思慮分別の霊をもって、今この時できることをして共に歩みたいです。

off 命を得るために召される

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

テモテ6:11~16

新約聖書の中の手紙の中で、紀元100年代以降には、テモテ、テトス、ヘブライ等の各手紙が書かれるようになりました。6月の聖書箇所の牧会書簡と呼ばれる手紙は、教会の外と内との厳しい闘いのさなかに書かれました。それらは、教会が健全であるための教え、そのための教会指導者の責務を重要視しているからです。

今日の箇所では、最後の審判、「万物に命をお与えになる神の御前」(13節)にいるようにして、求めがなされています。そして、「命を得るために、あなたは神から召され、…信仰を表明したのです」(12節)。これは、牧師になる時の「按手」を指していると想われます。当時の(も)、牧者になることの厳しさを想います。
教会の外と内、牧者の外と内に、複雑に絡みあう闘いが満ちていたことでしょう。その闘いにおいて、今日の聖書は、「正義」を行え、「義」を追い求めなさい(11節)、そして義、信仰、愛によって闘うべき時が来たら、躊躇するな、と勧めます。
この闘いに召してくださったのは神であり、あらゆる者の創造者であり命を支える方が、イエス・キリストにおいて私たちと出会ってくださったのです。イエス・キリストは…ポンテイオ・ピラトの前でも真実に証言をし、自らの死を引き受けることにより「命を得ること」を示されたのです。この御業に参与することの「召命」と「使命」の恵みを想います。その感謝と讃美が、今日の聖書に満ちています。

off あっけにとられる出来事

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

聖霊降臨を経験した人々が伝えたお話(使徒言行録2章)はとても興味深いと思います。経験した人々も何が起こったのかよくわからず、聖書にあるようにしか表現できなかったのでしょう。私は、このお話を、自分のわかる形で受けとめようとは思いません。懸命に伝えようとした人々のお話に耳傾け(なるだけそのままに)伝えたいと思います。
復活のイエスに従う人たちは集まって祈り、「約束の聖霊」を待ち望んでいました。その日、突然、〔天から〕音が聞こえ、彼らがいた家中に響いた(2節)。それは、激しい「風」による〔ものと思われた〕。そして、次に、「風」は、そこにいた一人一人に触れた(それは「舌」に触られるように「感じた」「見えた」〔3節〕)。すると、そこにいた「一同」は、聖霊(風)に満たされ、霊(風)が語らせるままに他の国々の言葉で話しだした(4節)。〔音に、「舌」に触られる「感じ」に驚き、「一同」は外に出たのか、〕通りでは、祭(七週祭)のために世界各地から帰ってきていたユダヤ人たちがいたが、各々の国の言葉を聞くことになり、人々はあっけにとられてしまった(5-6節)。人々の中には、「驚き怪しむ」者(7節)、「神の偉大な業を語っている」と云う者(11節)、「『酒に酔っているのだ』とあざける者」(13節)がおり、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いあった(12節)。

off 人の内から生きた力が流れ出る

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書7:32-39

今日の後半の物語(37~39節)を、群衆のある人々はどのように受けとめたのだろうかという思いで、味わいたいと思います。「祭りの最も盛大に祝われる日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」(37節)。この祭りは「仮庵の祭」(7:2)と呼ばれます。仮庵の祭も、農耕歴の由来にイスラエルの信仰が重ねられています。
イエスの「渇いている人はだれでも」という招きに耳傾けたい。詩編22:16に「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」とあります。どのくらい渇くのか。かの地(荒野)の経験者はこう語ります。「(日常生活備品の素焼きに)水をかけると、たちまち吸い込んでしまう。また少しかける。すーっと吸い込んで、土器の表面は再びもとの白茶けた色。まるで渇いた空気の中で、土器も喉の渇きを訴えているようだ」。イスラエルの人々は、カナンの地に定着し農耕を学びましたが、荒野の「渇き」を忘れさることはなかった。若い時に私の渇いた魂は、渇いた舌や喉が水を求めるように、まだ見ぬ神を求め、イエスとの対話と交わりに安らぎと求めようしました。
イエスは、エルサレムやイスラエルが中心になるより、渇いている人を招きました。そして、霊や水といった象徴的な表現を示し、力を与えました。今この時も、求める者に力が与えられ、この世界を恵みで潤してください。お祈りいたしましょう。

off 勇気を出しなさい

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書16:25-33

私は道であり、真理であり、命である。…」14:6 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。…」15:5など、13章からの決別説教の中で語られてきました。
その最後の部分あたる25節で「たとえによらずに父について知らせる。父ご自身があなた方を愛している。それは私が父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。」という言葉をうけて、弟子たちはイエスが父のもとから来られたことを今信じましたとちぐはぐな応えをします。しかし、イエスには時間がないのです。「あなた方は散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする、心配はない、父がともにいてくださるからだ」(32)といって、「弟子たちにはこれらのことを話したのは私によって平和を得るためである。あなた方には世に苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(33)と言います。イエスに「勇気を出しなさい」と言われても、弟子たちの現実、そして私たちの現実は変わりません。弟子たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。私たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。イエスは「私は既に世に勝っている。」から大丈夫だというのです。新型コロナウイルスの影響で様々な困難がありますが、イエス・キリストの勝利を信じて、今週も「元気を出して、勇気を出して、安心して」遣わされた現場で主の僕として歩みましょう。