毎週の説教メッセージ

off 真理に属する人

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書18:28-40

今日は、この所沢みくに教会の牧師として最初の礼拝となります。原則として、最上光宏先生、所沢みくに教会が歩んでこられた伝統を踏襲し、引き継いでいきたいと思います。
ヨハネ福音書は(他の共感福音書と比べると)「受難」を降りかかって来た災難としてではなく、イエスの能動的な行為としてより積極的に伝えていると思います。今日の場面、総督ピラトに尋問を受ける場面においても、イエスは神によって「遣わされた」自らの使命や任務ついて証言・証しする機会として受けとめています。
私たち教会人は、「共に集まる」ことを良きこととして考えてきました。そして、「集まる」ことの工夫を続けてきました。しかし、私たちは、今、「集まる」ことを断念し、勇気をもって「各々の場にとどまらざるをえない」人の思い(信仰)・歩みを覚える必要があると思います。社会の中にある教会は、とりわけ「離れていても一つ」というイエスのメッセージを改めて受け止め直し、シャローム・平和を祈り、具体的に伝え、証しをしていくべく、チャレンジを受けているのではないでしょうか。「真理に属する人」は未来志向的な道を求め、所沢みくに教会もより深く、「イエスの声を聞く」という展開を辿りたいものです。そのような願いを抱いて、今年度の歩みを始めたいと思います。お祈りをいたししょう。

off 信仰の完成を目ざして

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(2)13:5-13

今日は、この教会での最後の礼拝となりました。13年間、共に礼拝を守り、主にあるよき交わりを頂き、心から感謝しています。53年にわたる伝道牧会生活の最後を、この所沢みくに教会で締め括ることが出来たことを、ほんとうに幸せに思っています。昨年の3月に、隠退・辞任のことを皆さんに認めて頂き、それ以来、毎回、説教の度にそのことを意識して、み言葉を取り次いで来ましたので、今日、最後の説教と言っても、特別なことをお話しすることはできません。いつものように、いつもの通りに、聖書のみ言葉を取り次がせて頂きます。

私たちの教会では、昨年の5月から、この礼拝において、ずっと「コリントの信徒への手紙」を、通して学んで参りました。第一の手紙を学び、この2月から第二の手紙を、飛び飛びにですが学んで参りました。今日はその第二の手紙の最後の結びの言葉からご一緒に学びたいと思います。
著者のパウロは、この手紙の結びの言葉を、「終わりに」という言葉で語りかけています。これは、文字通り「最後に」という意味です。
私たちが手紙を書く場合、一番最後に、どういうことを書きますか?
今の時代、あまり手紙を書かない人が多いかもしれません。せいぜいネットやスマホのメールで、用件だけ打って、「じゃーねー」とか「またねー」という言葉で済ませてしまうことが多いかも知れません。
けれども、パウロの時代、遠く離れている人との連絡は、手紙以外にはありませんし、その手紙もそう簡単に届くわけではありません。数週間も時には数か月もかかってやっと届くという状況ですし、その間にお互いの身に何が起こるか分からないという状況です。パウロの場合には、伝道の困難な厳しい状況の中で書いているわけですから、それこそこれが「最後の手紙」になるかもしれない、という緊張した思いの中で綴っているわけです。その手紙の末尾に何を書くかということは、私たちが創造する以上に思い意味があったと思います。

さて、その手紙の最後、「終わりに」という言葉でパウロが記していることは、こういうことです。11節
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」
ここでパウロが記していることは、決して特別にま新しいことではありません。これまでも色々な機会に語って来たことです。最後に語るべき言葉は、決して斬新な、真新しい言葉ではないのです。むしろいつも語って来た大事なこと、一番心がけてほしいこと。それが「最後のことば」として一番ふさわしいのです。
パウロがこの手紙の最後に、一番語りたかったこと、その筆頭に挙げられたのが、「喜びなさい」という言葉でした。
「喜びなさい」。この言葉を最も多く語っているのは、この後でパウロがフィリピの信徒に書き送った手紙です。その手紙は、私がこの教会に赴任して最初に取り上げた講解説教の箇所です。そこには「喜べ、喜べ」と何度も勧めすられています。
先ほど読んで頂いた2章17節にはこのように記されています。「あなた方が礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と。さらにその先の4章4節でも「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されています。

「喜び」というのは、他人から言われて喜べるものではありません。ことにコロナウイルスがはやっているようなこんな不安な状況の中で、とても喜べるものではありません。しかし、パウロは「常に喜びなさい」、「いつも喜んでいなさい」というのです。どうしてこんなことが言えるのでしょう。信仰による喜びは、条件に依存しないのです。神さまの私たちに対する愛は、いつも変わらないからです。ひとり子イエス・キリストを私たちにお与えになり、私たちの身代わりとして十字架の上で苦しまれた主の愛は、永遠に変わることのない神の愛の証しです。私たちはたとえ辛い悲しみや苦しみの淵にあっても、この神の愛によって、なお喜ぶことが出来るのです。
このフィリピの信徒への手紙は、パウロが晩年、ローマの獄中から書き送った手紙とされています。先ほどの言葉に見られるように、パウロは信仰の故にそこで、殉教の血を注ぐかもしれないという危機の中にありました。たとえそうであっても、「わたしは喜びます」というのです。イエス・キリストの十字架と復活の恵みと神の愛は、はるかに自分の苦しみを越えているからです。そのような喜びに満たされつつ、パウロは「あなたがたも喜びなさい」と勧めるのです。そういうところから、このフィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」の一つでありつつ、「喜びの手紙」と呼ばれているのです。

コリントの手紙の中で、パウロは直接「喜び」について語ることは多くありませんでした。それというのも、コリントの教会の内部には、様々な分争や具体的な問題があり、パウロに対する厳しい批判があったためです。パウロはそれらの問題の解決と使徒としての弁明に終始しなければなれませんでした。しかし、それでもその手紙の最後に、やはり、どうしても言わなければならないこととして語ったのが、「兄弟たち、喜びなさい」ということであったのです。「福音」は、「喜びのおとずれ」です。絶えずみ言葉によって、変わることのない神の愛と恵みにあずかりつつ、喜ぶということが、福音に生きる私たちの基本的なあり方だからです。

次にパウロが語ったのは、「完全なものになりなさい」という言葉です。「完全」とは、普通「欠点や欠けのないこと」を意味します。欠点や破れだらけの私たちにとって、果たしてそのようなことが可能でしょうか?
完全なのは神さまだけです。ところがイエスさまも、「山上の説教」の中で「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と命じられました。それは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたすぐ後のことです。「完全な者になる」とは、敵をも愛する神の愛に倣い、主に従って敵をも愛するように努めるということです。現状に甘んじて、自分の弱さや周囲の状況に流されて生きるのではなくて、「恐れおののきつつ救いの達成に努める」(フィリピ2:13)ということです。パウロは、フィリピの信徒への手紙の3;12で、「わたしは、それを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもあれません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と述べています。キリスト者の完全は、自分の不完全さを自覚しつつ、絶えず主なる神の愛と恵みにあずかり、信仰の完成を目ざすところにあるのです。パウロは、同じフィリピ書の1章6節でこうものべています。「あなた方の中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」と。神さまが、私たちの不完全な信仰を育て導いて、それを完成させてくださるのです。
「完全なものになりなさい」とは、そのことを信じつつ、日々主に従って、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって、神から与えられる目標をざしてひたすら走ることです」。
パウロがコリントの教会に最後の言葉として語ったことは、そのように、喜びをもって、主に従い、「信仰の完成につとめよ」ということです。そしてそのために、「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と勧めているのです。

信仰の完成は、自分一人の力で達成されるものではありません。主に召されている私たちが、思いを一つにして、共に励まし合い、平和を保つことによって、培われるものなのです。聖霊による一致と平和を求めつつ共に励まし合うこと。ここに教会のあるべき姿が示されているのです。
そのような最後の勧めに続いてパウロが記しているのが、祝福の祈り「祝祷」です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。」
この言葉は、お気づきのように、いつも礼拝の最後の「祝祷」において祈られている言葉です。ここで祈られていることは、キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりという、三位一体の神の祝福です。パウロはこの祝福の祈りの中に、これまで語って来たすべての思いを込めているのです。信仰による喜びも、信仰の完成も、一致と平和も、御子イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と聖霊の導きによって、私たちに与えられる賜物だからです。

ある人の言葉に、「人間が他者に対してなし得る最後の最高の業は、他者を祝福することです」という言葉があります。私は、今でも礼拝の中で一番緊張するのは、礼拝の最後の「祝祷」です。父・子・聖霊なる神の名において、神に代わって、祝福をいのり、皆さんをこの世に派遣するのです。それは、ほんとうに畏れ多いことです。
このことでいつも思い出すのは、わたしが初めて主任牧師として金沢の教会に遣わされたときのことです。長年その教会の長老をしていた年配の方が、いつも必ず、最前列の真ん中の席に座られるのです。その方は、ある時、私にこう言われました、「私は、いつも牧師からの祝祷を一番近くで受けたいという思いで、ここに座らせてもらっているのです。神さまからの祝福を受けなければ、私は、この厳しい社会の中で信仰をもって闘うことが出来ないからです」と。当時私はまだ30代の駆け出しの牧師でしたが、神の祝福を取り次ぐ牧師の務めの重さを改めて深く思わされました。私はそのようにして、それぞれの教会の信徒によって支えられ、励まされ、育てられて、この務めを果たしてくることが出来ました。この教会においても、皆さんの祈りと支えと励ましによって、最後の務めを全う出来た、と心から感謝しています。どうか主イエス・キリストの恵みと神の愛によって、常に喜び、いつも感謝と祈りをもって主に仕え、聖霊の導きの下に一つとなって、救いの完成のために励んで頂きたいと願います。

アーメン

off 弱いときにこそ強い

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙②12:1-10

人間が人間らしく生きていくためには、「誇り」が必要です。しかし、誇りが強すぎると、高慢になり、ひとを侮るようになります。ギリシャ人は知恵を誇ったため、十字架のキリストを「愚か」とみなし躓きました。パウロは「自分自身の弱さを誇ろう」と言います。弱さは、誇りとはならず、誰にも知られたくない恥の部分です。彼にとっての弱さは、癲癇のような発作を伴う病でした。かれはそれを「身に突き刺さったとげ」と呼び、「サタンの使い」とも呼んで、離れ去らせてくださいと何度も主に祈り続けたのです。自分の苦痛だけではなく、伝道上の大きな妨げにもなっていると思われたからです。神はその祈りに応えて「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われたのです。病は治らず、祈りは聴かれなかったかのように思われました。しかしパウロは、その弱さの中にこそ、神の恵みの力が働いていたことを悟ったのです。その弱さの中でこそ、謙遜に主に祈り、主イエスの十字架の恵みを深く知ることが出来たからです。河野進という牧師の詩に「病まなければ」というのがあります。「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ聴き得ないみ言葉がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。…」という詩です。万事を益とされる神は、弱さの中に働き、強さに変えてくださるのです。弱さをバネにして生きよう!

off ほんとうの豊かさとは

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁8;1-15

戦後、日本の国は飛躍的な経済成長をとげ、豊かになったと言われますが、近年、景気は低迷し、新たな貧困が深刻化しつつあります。大資本優先の経済政策が貧富の格差を広げているのです。パウロは、エルサレム教会の経済的困窮に心を痛め、忙しい伝道活動のかたわら、コリント、フィリピ、ローマ等の教会に募金を呼びかけ、自らそれをエルサレム教会に届ける働きに努めました。昔、イスラエルの民が荒野で飢えた時、神は天からのマナを降らせ、多く集めた者にも、わずかしか集めなかった者にも均等に養われました。神の愛はすべての人に平等に注がれ、皆、等しく生きる権利を与えられています。パウロは、コリントの教会の人々にこの「恵みのの業」を進んで最後までやり遂げるように勧め、「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と訴えたのです。神の御子であられた主イエスは、貧しい僕となってこの世に来られて、十字架の死によって、尊い命まで私たちに献げてくださいました。その豊かな恵みにあずかっている私たちは、喜びをもって少しでもその恵みに応えて、分かち合い、共に生きる道を励みたいものです。ほんとうの豊かさとは、自分だけ満ち足りることではなく、貧しくされている人々、助けを求めている人々と「共に生きる」ことなのです。

off 今や、恵みの時

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙②6:1-13

「今」という時を、私たちはどのような思いで、どのように過ごしているでしょうか? 年度末のあわただしい時ですが、コロナウイルスによる不安な時でもあります。パウロも様々な不安と恐れの中にありました。自らの病と様々な苦難、欠乏、行き詰まり等々、さらに諸教会に対する心配事がありました。そのような中で、彼は「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と高らかにうたうのです。直面している現実の背後に、目に見えないもう一つの現実を見つめているからです。その現実とは、どんな時にも、神が恵みをもってこの世を支配しておられるという現実です。天地を造られた神がこの世を支配し、万事を益とされるのです。神の恵みの確かさは、独り子(イエス・キリスト)を賜うほどにこの世を愛され、御子の死と復活によって私たちを贖ってくださったことに示されています。その恵みの中で私たちは「今」という時を生かされているのです。この「神から頂いている恵みを無駄にしてはいけません」。私たちは、「今」という時を生かして用いなければなりません。「今や恵みの時、今こそ救いの日」なのです。さまざまな恐れや不安、苦難と思い煩いの中で、すべてを全能者である主の御手に委ねつつ、一日一日を、否「今」という時を感謝をもって大切に精一杯に生きたいものです。

off キリストの香り

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁2:14-17

コロナウイルスの蔓延によって、世界中に不安が満ちていますが、パウロの心にも大きな不安がありました。コリントの教会に激しい語調で書き送った「涙の手紙」が、どのような結果をもたらしたのか、パウロはテトスの帰りをトロアスで待ったが、不安のあまりじっとして居れず、マケドニアまで行って返事を待ったのです。下手をすればコリントの教会との関係が断たれてしまう心配があったのです。「神に感謝します。…」(14)。テトスは帰って来て思いがけない吉報をもたらしたのです。コリントの教会の人々は、パウロの手紙に心を打たれて悔い改め、和解を求めたのです。パウロの不安は霧のように晴れて、歓喜に満たされ、キリストに連なる者の歩みを凱旋将軍のパレードに例えたのです。世には様々な恐れや不安、苦難があるが、イエス・キリストはこの世の一切の苦しみを担い、十字架に架かられたが、それら一切の悪しき力に勝利され、私たちに先だって歩んでおられる、と。パウロは、その勝利の行進に振りまかれる「香」こそ、勝利者キリストの香りである説き、キリストに従う者たちもその香りを浴びることによって、多くの人々の心をなごませる香りになるというのです。私たちはどのような香りを放っているでしょう。「キリストの香り」は愛の芳香です。キリストに連なって、少しでも人々の不安や傷ついた心を癒すよき香りを放ちたいものです。

off 神の真実

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁1:12-22

信仰とは、神の真実に対して、真実をもって応答することです。それは神に対して真実であることともに、人と人との関係においても誠実に生きることを意味します。パウロは、だれよりもそのことを心掛けてきたつもりでしたが、コリントの教会の一部の人たちから、「パウロは『然り』と言いつつ『否』と言う、信頼できない人だという批判を受けたのです。これはパウロにとって心外なことでした。ことは、コリントを訪ねる予定が変更になり、予告通りにいかなかったことによります。パウロは、このことを弁明する必要にせまられました。しかしそれはパウロ自身の立場や名誉を守るたではなく、彼がこれまで語って来たみ言葉の真実と神の真理を守るためでした。「あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」。
天地を創造された神は、お造りになったすべてのものを「良し」とされました。その存在を肯定し、「然り」と受け入れられたのです。そのためにこそ、イエス・キリストを通して、人間の罪を贖うためでした。ここに神の「真実」があります。真実なる神の目に、今の日本の政権の嘘と偽り、ごまかしと虚偽は、どのように映っているでしょうか。それを反面教師としつつ、真実に生きたいものです。

off 慰めの共同体

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(2)1:1-11

コリントの信徒への手紙(2)は、短い挨拶に続いて、いきなり「ほめたたえられよ」と、「慰めを豊かにくださる神」への賛美で始まっています。著者のパウロは、アジア州(エフェソ地方)での伝道で、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失う苦難の中で、神のみが「唯一の慰め」であることを深く悟ったのです。それは、自分を頼りにすることを断念し「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ことによって与えられた慰めでした。神学校の同級生で、重い病との戦いながら、四国で9年間伝道して30台で亡くなったU牧師は、説教の中で「自分の弱さ無力さをさらけ出し、神に白旗を揚げよう。」と述べています。慰めは、神さまの御手にすべてを委ねることによって与えられるものです。人はだれでも、悩みや苦しみ、孤独や不安の中で、自分を頼りとし、他人や物、快楽などに慰めを見出そうとします。しかしそれらの物や人、快楽は「一時のなぐさめ」にはなっても、私たちの傷を癒し、悩みの淵から私たちを立ち上がらせる「ほんとうの慰め」にはなりません。パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神から頂く慰めによって、あらゆる苦難の中にいる人々を慰めることができます」と記しています。教会は「慰めの共同体」です。殺伐としたこの世で傷ついている人々の「オアシス」でありたいと願います。

off 労苦は無駄にならない

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①15:50-58

まばたきの詩人 水野源三さんの詩に「かくれている」というのがあります。「緑や花のない冬の庭には 神の恵みはないだろうか。… かくれている かくれている 雪の下に 土の中に 豊かな神の恵みが」。 雪深い津軽で伝道していた頃、よくこの詩を思い起こして、励まされました。人生の厳しい冬の中にも、春が芽生えるように、私たちの直面する現実がどんなに辛く厳しくても、その中にも、神の豊かな恵みが隠されているのです。聖書は 死は終わりではなく、新しい命の始まりであると説いています。イエス・キリストが私たちのために死んで復活されたからです。このキリストと結ばれた私たちも、「朽ちるべきもの」(肉の体)から「朽ちないもの」(霊の体)に変えられる、というのです。それは「死は勝利に飲み込まれた」ことを意味します。 パウロは、このような神の恵みのゆえに、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と勧めるのです。「主に結ばれているならば、苦労は決して無駄にならない」からです。「復活」を信じる信仰は、どんなに厳しい現実においても、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。「苦労は決して無駄にならない」のです。主イエスは今も私たちに語っておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。

off 復活の希望

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説教:最上 光宏牧師

コリントの信徒への手紙①15:12-19

人はだれでも、未来に希望が無ければ、生きられません。そこで、私たちは未来に様々な夢を描き、希望を見出そうとします。しかし、どのような夢や希望も、「死」によって頓挫し、一切が虚しいものに思われます。死がすべての終わりであり、滅びである限り、未来に希望をもつことは難しいのです。しかし、聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、「死は勝利に飲み込まれた」、死は命の終わりではなく、新しい命の始まりであることを告げています。「死者の復活」とは、そのことを指しています。キリストの恵みによって、「永遠の明日」が約束されているのです。
かつて教団の議長であった鈴木正久牧師は、末期がんの宣告を受けた時、一瞬、目の前が真っ暗になり、明日がなくなったと思ったそうです。そして明日のない自分に、今日生きる意味がなくなったと感じたのです。しかし間もなく、聖書の中の「キリストの日に備えて」という言葉から、キリストの支配する輝かしいほんとうの明日を見出し、今まで以上に今日という日の貴重さを自覚し、病を押して、教団の「戦争責任告白」に基づき、韓国の教会との和解や沖縄キリスト教団との合同のために働かれ、安らかに主のみもとに召されたのです。キリストにある希望は、失望に終わることはありません。キリストのものとされた私たちは、キリストのいのちにあずかって、「死んでも生きる」のです。