毎週の説教メッセージ

off 祝福の源

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説教:加藤 久幸 牧師

創世記11:30-12:9

11:30-33を読むと、アブラムには深い闇・克服できない溝があったことが伝わってきます。「不妊」という表現(11:30)は、単に子どもが生まれないというだけでなく、希望のなさを表わしていると受けとめるべきかと思われます。神は、人間の中にある力に根拠おかず、神ご自身の語りかけの中に根拠をおき、出来事を始められます。このことは信じがたい出来事です。「主は…言われた」(1)。「あなたは 生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1)。この語りかけは、父がとどまっていたハランを離れることだけを、意味していません。むしろ、慣れ親しみ、希望がなくともついつい頼ってしまう、自分の期待や世の安全に留まることを断念し、神の語りかけに従い、神と共にある、危険を伴う旅に希望を見出すことを意味しています。この後の約束は(2)11:30-33の状況とは対照的で、この招きと約束は、それを成される方を信じること以外に、実現しない…。彼は、その転換点・狭間に立っています。4節、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。6節の主の言葉が表わすように、彼は約束の土地にいましたが、彼には与えられていません。与えられるのは彼の子孫です。与えられることは、受ける者がいて、初めて成り立ちます。彼は、このような信仰の旅を続けました。8節の「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」は、その途上において、神に向き直り、祈ることが必要であったことを物語っています。彼は、私たちの信仰の祖として立っています。

off どこにいるのか

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説教:加藤久幸 牧師

創世記3:8-24

創世記2-3章は誤解されることが多くあり、2:17の「善悪の知識の木」も他の聖書の物語では登場しません。他の要素も含めて、多くの人が、この物語を特別なものとして受けとめ、悪・罪・死などについて抽象的な検討を重ねることがあります。しかし、現実的な危機(悪・罪・死など)に遭遇した時、人間はどう生きるかを、この物語は語ります。今日の聖書は、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8)と、始まります。神は、人間が変化したのか触れず、「どこにいるのか」(9)と語りかけます。人間の反応から、園・神・人間の在り様はそれ以前とは変化がないにもかかわらず、人間の見方・関わり方が変化したことを受けとめます。神の意図に「誘惑」をもって歪みをもたらした蛇への対応が、14節に出てきます。蛇がどうなったかというより、神は見過ごしにされずに対応されたと受けとめたいものです。人間に対しては、自らの思いや判断に伴い生じた、歪みの責任を担うことが宣告されます。歪みは、裸に伴う弱さ(3:7,10)、恐怖(10)、敵意(15)、苦しみ(16)、支配(16)など、関係を疎外するものとして現れます…。驚くべきは、人間に対する使命は、この宣告においても変わっていないことです。そして、皮の衣(21)を与え、土・世界を「耕す」(23)ことへと、人間を改めて遣わされます。「どこにいるのか」と語りかけてくださる主と共に、歩みたいものです。

off イエスの宣教

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説教:岩河 敏宏 牧師

ルカによる福音書4:42-44

ルカ福音書は使徒言行録と共に、テオフィロさま(閣下)宛てに記していることから、ローマ帝国の高官を読者に想定していると考えられ、力(軍事力・経済力・生産力)の強弱が人間の価値の優劣に直結するという、現代にも共通する価値観が支配的な社会での生活があります。この背景からルカ福音書は、①誘惑を受ける。②ガリラヤで伝道を始める。③ナザレで受け入れられない。④汚れた霊に取りつかれた男をいやす。⑤多くの病人をいやす。⑥巡回して宣教する、という独自の展開でイエスの宣教を記します。①と②は“霊”が強調され、宣教がイエスの独善ではなく、神の御心に沿うものであること。③は当時の価値観に抗い、自己の可能性を無価値と諦めている者に解放・回復を告げることがイエスの使命であること。④と⑤は、③の実践として位置づけられています。ここで注意したいのは、4章18節の「~人に解放を、~人に視力の回復を告げ、~人を自由にし、」です。視力の回復の(名詞)語は、動詞で天を仰ぐ(9章16節)と訳され、“神に目を向ける”が本来の意味で、その結果として(物事の本質が)“見える”に繋がることを心に留めたい。イエスが告げようとされる福音(良い知らせ⇒人間の価値基準を超えて、総ての命が生の全領域にわたって存在価値があるという神の御心)は、特定(地域・階層)の人々にではなく、あらゆる人々に向けられています(43節~44節)。であれば、私たちが相互に命を大切にして歩むことで、イエスの宣教を現代に継承したい。

off 尽きない恵みはあるのか?

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書19:11-27

今日の話は「…イエスは更に一つのたとえを話された」(11)と始まります。その理由は二つあるようです。一つは「エルサレムに近づいたから」であり、もう一つは「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」と言われています。「一つのたとえ」と言われていますが、二つの話が一緒になっているようです。一つ目は、ある人が「王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12)というものです。人々は、この話を譬えとして聞いたでしょうか。同時代の歴史として、似た事件がありました。もう一つは、ある人が「遠い国へ旅立つことになった」(12)、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13)と、始まります。この人が帰ってきた時、ある者は「一ムナで十ムナを」(16)と言い、ある者は「一ムナで五ムナを稼ぎました」(18)と言いました。しかし、ほかの者は「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。…恐ろしかったのです」(20-21)と言いました。イエスの話は、現実の世の動き、人々の動きを語っています。しかし、イエスが語ったことが「神の国の到来」―それはイエスの宣教のうちに既に始まっている―であるなら、私たちは、人々を導く神の恵みは無限であることに信頼を寄せ、歩みたいものです。私たちに委託されたこと「福音を宣べ伝えなさい」が明確である以上、委託された期間、喜んで仕えるものでありたいと、願います。

off 共に恵みにあずかる者

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピの信徒への手紙1:1-11

パウロは、挨拶(1-2)の後、フィリピのキリスト者の過去(3-6)・現在(7-8)・未来(9-11)を思い、祈っています。挨拶で、パウロは、神の恵みがあるようにと祈っていますが(2)、3-6節では感謝を言い表わしています。恵みと感謝という行為は、神から人間に向けられたものであるとき「恵み」と言われ、人間から神に向けられたとき「感謝」となります。パウロは、この両方を強く意識しているように想います。パウロは、「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも…」(7)と、現在のことを語り始めます。実際パウロは監禁されていますが(1:13)、彼の言葉遣いからすると、被告席に立つのは神の福音そのものという、理解があるようです。そのような脈絡から、7節「共に恵みにあずかる者」という言葉を聞きましょう。パウロは、福音宣教や神の働きへの参与とは言わずに、監禁や法廷と関連づけ、「共に恵みにあずかる」という言い方をします。ですから、1:29で「あなたがたには、信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられ」と表現しています。パウロは、フィリピの信徒たちを「共に恵みにあずかる者」と見なし、「喜びをもって」(4)祈り、「心に留めている」(7)と語ります。そして、今後(未来)も「キリストの日に備えて」(10)、「知る力と見抜く力とを身につけて…愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。…」(9-11)と祈っています。親しいが故に、パウロはフィリピ教会に福音を伝える必要を感じたのではないでしょうか。

off 愛する協力者

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説教:加藤 久幸 牧師

フィレモンへの手紙1-25

パウロは、挨拶(1-3)の後、4-7節で、手紙の受け手であるフィレモンに、彼の愛と信仰について、前置きのように書いています。当時、悪事(参考18)を働いたと見なされた逃亡奴隷への対応を見ておくことは、意味があると思います。しかし、パウロは、厳しい奴隷(制)の現実については、直接語っていません。パウロは、キリスト教的同情(12節)と、フィレモン自身のキリスト教的負債(19節)について、語ります。そして10節「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、お願いがあります」と、切り出します。オネシモの入信の経緯も詳しくはわかりませんが、パウロの願いは、「愛に訴えてお願いします」(9)と語っています。全体として、パウロは、奴隷も「キリストに仕えている」、その主人・所有者も公正な扱いをする「神という主人を天にもつ」、そして、奴隷もその主人も「キリストの奴隷」であるということを、想起させています。そこから、パウロは、「オネシモは…愛する兄弟であるはずです」(16)と、「主の兄弟」という観点から、この願いを書いています。もしこの手紙に題をつけるとすれば、「キリスト者としてのフィレモンの関わり・自由」ということになるでしょうか。今日の説教題「愛する協力者」は、挨拶の「愛する協力者フィレモン」(1)や、結びの「わたしの協力者」(24)から、来ています。私たちの主人はキリスト・イエスであり、私たちも、その主から愛される協力者であるとの自覚のもと、私たちの歩みを成したいものです。

今日の説教題に、「愛する協力者」と付けました。それは、挨拶の「愛する協力者フィレモン」(1)や、結びの「わたしの協力者」(24)から、来ています。私たちの主人はキリスト・イエスであり、私たちはその主人から愛される協力者であるとの自覚のもと、私たちの歩みを成したいものです。

off 人を分け隔てしてはならない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヤコブの手紙2:1-9

ヤコブの手紙の目的はキリストの福音を伝えることではなく、キリストの福音を信じる者たちが、どのような生き方をするべきかを伝えることにあります。

金の指輪をはめた立派な身なりの人と汚い服装の貧しい人を外見で判断し、貧しい人にぞんざいな態度を示すことは、差別意識を際立たせることになります。また、このような分け隔てをしているのは、その集まりの指導者的立場にある人です。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継がせる者となさったではありませんか」(5)といい、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)にもありあす。むしろ、富んでいる者たちこそ、あなたたちをひどい目に遭わせ、神を冒瀆しているのではないかと言います。「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているにしても、人を分け隔てしては、律法の違反になります。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物がなく、その日の食べる物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれに同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけで死んだものです」(15-17)。わたしたちは神が貧しい人をあえて選んだことを覚え、必要な手だてをして、人を分け隔てしない歩みをしましょう。

off 命を得るために

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテへの手紙一6:1-13

1-2節に奴隷のことが出てきます。パウロは奴隷についてよく語っていますが、パウロは政治的・社会的に直接的な変革をもたらそうとしなかったのでしょうか。このことは、キリスト教の宣教のあり方に関わる、基本的な問題です。教会の宣教は、社会の格差や人権軽視の現実を自覚しつつも、人々にキリストの福音を宣べ伝えることを、活動の第一としました。福音宣教は、社会の格差や差別の直接・即事の解消というより、人々の間に平和を作り出すという、息の長い取り組みであったと想います。平和の完全な実現の時まで、宣教の取組は続きます。イエスの生き様、イエス言葉「もはや、わたしは、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)は、どのように響いたでしょうか。世の現実(3-5)に触れた後、聖書は「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得です」(6)と語り始め、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。…欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」(8-9)と語ります。富そのものではなく、富を欲する欲が悪だと語っています。富の用い方・富みの分配がわからない、倫理が欠如し成熟していない社会においてこそ、私たちがどう生きるのか、今日の聖書は呼びかけています。社会の各々の所で(主人と奴隷の間においても)「平和を作りなさい」という主の福音(参考 ルカ16:1-13)に招かれ、教会は引き継いだのでしょう(11-13)。

off 新しい人間として

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説教:加藤 久幸 牧師

コロサイの信徒への手紙3:12-17

今日の聖書は、それ以前(3:5-11)とは、語り方が違います。否定的な表現から肯定的な表現へ、転換が見られます。私たちは、これらの肯定的なこと・良きことを、自力で「身につける」と受けとめるなら、大きな誤解が生じてしまうだろうと想います。私たちが手本とする・学ぶべき生き方は、すでに示されています。そればかりか、私たちは、「神に…聖とされ、愛されている」(12)、「主があなたがたを赦してくださった」(13)、キリストの「平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされた」(15)のです。私たちは、招かれて、主の愛・赦し・平和の内にあります。それゆえ、聖書は、「いつも感謝していなさい」(15)と、語ります。そして、良きことを自力で身につける「古い人」(9)ではなく、主の恵みと慈しみに預かる新しい人間として、「新しい人を身に着け」る(9)道が、今日の聖書に示されているように想います。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして 互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して 心から神をほめたたえなさい」(16)。コロサイの信徒たちは、礼拝と賛美によって、互いに連帯し、信仰が養われ強められる信仰生活を送っていたのではないでしょうか。そして、それは、日々の生活も、視野に入っていたのだろうと、想像します。今日の結びは、こう記されています。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17)。礼拝により、全ての者を新しい人間としてくださる恵みを、感謝したいものです。

off イエスの焼き印を身にうけて

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ガラテヤの信徒への手紙6:14-18

ガラテヤ書の最後の結びの言葉で、パウロは自分の手で大きな字で書いていると記しています。本当は今すぐにでも会いに行って、顔と顔を合わせて話をしたいのですが、それができない状態だからです。その原因は、こんなにも早く、イエスの福音から離れて、他の福音に乗り換えようとしていることです。それは、ユダヤ人キリスト者が、異邦人キリスト者に対して、イエスを信じることに加えて割礼を受け、律法を守りなさいというのです。パウロは、ガラテヤの信徒たちに、そう言っている人は自分たちが律法を守っているわけではなく、むしろあなたがたの肉について誇りたいためだと言っています。ユダヤ教の軋轢を回避するためとか、他の人によく評価されたいためにと、言っています。パウロはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはならないと言うのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、(主イエス・キリストにあって)新しく創造されることです(15)と言います。パウロが伝道のために受けてきた傷跡、つまりイエスの焼き印を身に受けているのです。焼き印は主人の所有を明示するもの、キリストはわたしと共におり、わたしの主人となられたのだから、割礼を受けさせようとしている者たちが、パウロに戦いを挑んでも無意味だと言います。私たちも「主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがない」というような歩みを今週もしましょう。

ガラテヤ書の最後の結びの言葉で、パウロは自分の手で大きな字で書いていると記しています。本当は今すぐにでも会いに行って、顔と顔を合わせて話をしたいのですが、それができない状態だからです。その原因はこんなにも早く、イエスの福音から離れて、他の福音に乗り換えようとしていることです。

それは、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して、イエスを信じることに加えて割礼を受け、律法を守りなさいというのです。パウロはガラテヤの信徒たちに、そう言っている人は自分たちが律法を守っているわけではなく、むしろあなたがたの肉について誇りたいためだと言っています。ユダヤ教の軋轢を回避するためとか、他の人によく評価されたいために言っています。パウロはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはならないと言うのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、(主イエス・キリストにあって)新しく創造されることです(15)と言います。パウロが伝道のために受けてきた傷跡、つまりイエスの焼き印を身に受けているのです。焼き印は主人の所有を明示するもの、キリストはわたしと共におり、わたしの主人となられたのだから、割礼を受けさせようとしている者たちが、パウロに戦いを挑んでも無意味だと言います。私たちも「主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがない」というような歩みを今週もしましょう。