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	<title>毎週の説教</title>
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		<title>至聖三者の問いかけ</title>
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		<pubDate>Sun, 01 Nov 2026 01:26:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 創世記１８章１節～１５節 １５世紀にロシアで描かれた「至聖三者」というイコンがあります [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>創世記１８章１節～１５節</p>
<p>１５世紀にロシアで描かれた「至聖三者」というイコンがあります。マムレの樫の木の下に現われた三天使を描いた聖画像です。三位一体の神の神秘の象徴です。東方教会でイコン画は人々を信仰に導く助けとして有用であるとされ、教会堂に飾られます。今日のイサク受胎告知の物語で、サラは天幕の中に隠れたまま最後まで顔を出しません。対話は主である旅人とアブラハムの間だけで進んでいきます。でもこのとき主はアブラハムだけでなくサラの心にも語りかけています。主の受胎告知の言葉を聞いて高齢のサラは笑ってしまいました。主の約束を笑い、主の力を笑い、主の祝福をも笑ってしまいました。でも恐れを感じたのです。慌てて「わたしは笑いませでした」と打ち消しました。このようなサラの不信仰にも関わらず、神の約束は実現していきます。私たち人間の信仰というのは、神の約束の実現のための条件ではないのです。そして物語は、１５節の「いや、あなたは確かに笑った」という主の言葉で終わっています。しかしどこか不自然です。物語が途中で終わってしまった印象を受けるのです。しかし実はこの物語は１５節で閉じられていません。物語は開かれている。その理由は、神が私たちの信仰的な応答を今もずっと待っておられるからでしょう。</p>
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		<title>神の前に豊かに生きる（収穫感謝特別合同礼拝）</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Oct 2026 09:02:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ルカによる福音書　１２章１３節～２１節 群衆の一人が相続遺産の調停をしてくれるようにと [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ルカによる福音書　１２章１３節～２１節</p>
<p>群衆の一人が相続遺産の調停をしてくれるようにと、イエスさまに願い出ました。イエスさまは言われました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。こうたしなめて調停役を断ります。相続争いの中に、「より多く持ちたい」という彼らの貪欲を見抜いたからです。イエスさまは群衆に言いました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」。貪欲とは飽きることなく欲しがる欲望です。エゴイズムです。そこでイエスさまは人々に「愚かな金持ちの譬え話」を話されました。イエスさまは神の前に豊かに生きる道を、譬え話を通して教えられたのです。イエスさまは身をもって、差別される人や病に苦しむ人に寄り添い、小さくされた人たちの友となられました。食事を共にし、天の国の豊かさを示されました。そして私たちの救いのために十字架の道を歩んでくださいました。財産があろうとなかろうと、たとえ今夜命が取り去られようと、私たちを天の国に招いてくださる神さまの前に豊かに生きる。隣人と喜びも悲しみも分かち合って生きる。そのとき私たちには真の平安が与えられるのだと信じます。</p>
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		<title>幸いなるかな</title>
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		<pubDate>Sun, 18 Oct 2026 04:14:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 マタイによる福音書　５章１節～１０節 「幸いなるかな、心の貧しき者よ」。これは群衆に対 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>マタイによる福音書　５章１節～１０節</p>
<p>「幸いなるかな、心の貧しき者よ」。これは群衆に対する主イエスの思いや深い憐れみがあふれ出て生まれてきた祝福の言葉です。心が貧しいというのは心が卑しいという意味ではありません。食べ物にもこと欠く人たちに対して、それが幸いと言っているのではありません。ここで祝福されている貧しさとは、心の貧しさのことです。生きていくための資源が自分の中には全くない、必要な助けを神の中に見出すしかない、その心の貧しさのことです。山上の群衆が共通して抱いていた願い、それはただ「幸せになりたい」ということでした。人間としての当然の願いです。しかし主イエスが、「心の貧しい人々は幸いだ」、「悲しむ人々は幸いだ」、そう言われたのは、「こうしたら幸せになれますよ」というような幸せの秘訣や処世訓ではありません。群衆は主の言葉に何かを感じ取ったのだと思います。「このお方は何かを持っている。このお方こそが真の幸いをもたらしてくれる」。山の上で群衆に深い憐れみを注がれたお方が今も生きておられます。神の支配がここにあります。私たちに喜びをもって「幸いの祝福」を語りかけてくださるのは、私たちの救い主イエス・キリスト、このお方なのです。</p>
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		<title>神の建物（創立記念礼拝②）</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Oct 2026 08:49:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ　３章１節～１１節 ４０年前の古い「信徒の友」に、プレハブ造り [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>コリントの信徒への手紙Ⅰ　３章１節～１１節</p>
<p>４０年前の古い「信徒の友」に、プレハブ造りの所沢みくに伝道所の写真が写っています。そこにこんな記事が添えられていました。「この十字架を掲げる礼拝堂は、１０畳ほどのプレハブ造り、折り畳みいすを３０も並べれば、もう身動きもできないほどの広さである。しかも台所、トイレなど、一切の附属設備もない。だが建物とはアンバランスなほど大きい十字架と看板には、この伝道所の願いがよく表されている」。本日の聖書が語りかけるのは、人間の時を超えた壮大な建物、「神の建物」です。パウロは、「3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」と語ります。この揺るぎない土台はキリストです。私たちはキリストという土台の上に積み上げられる石材です。異なる賜物や背景を持つ人々が互いに支え合うことで、教会は完成していきます。信仰の先達が据えてくれた土台の上に、私たちは今それぞれの石を積み上げています。私たちが世を去った後も、次の世代が、その上にさらに建物を建て上げていくのです。神は永遠に輝く神の国を建て続けておられます。この壮大な物語に連なる喜びを胸に、共に歩んでまいりましょう。</p>
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		<title>キリストを土台として（創立記念礼拝①）</title>
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		<pubDate>Sun, 04 Oct 2026 13:08:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：最上 光宏　牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ　３章１０節～１７節 パウロは自らの伝道の働きを建築家に譬えて [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：最上 光宏　牧師</p>
<p>コリントの信徒への手紙Ⅰ　３章１０節～１７節</p>
<p>パウロは自らの伝道の働きを建築家に譬えて「土台を据えました」と述べています。この土台とはイエス・キリストのことです。パウロはコリントにおいて、十字架の主イエス・キリストを宣べ伝えることに専念し、教会の土台を据えました。パウロがコリントを去った後、アポロやケファによって、その働きが継承されましたが、教会の中に「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」という分争が生じました。そのことに心を痛めたパウロは、この手紙で、教会の土台はただ一つであり、だれもイエス・キリスト以外の土台を据えることはできないことを強調し、キリストにあって一つとなり、共に「キリストの体」である教会を形成すべきことを勧めたのです。教会は多様な人々の集まりですが、主にあって一つなのです。激しく揺れ動く今日の時代の中で、私たちはどこに立っているのか、問われていように思います。一人一人、イエス・キリストの土台の上にしっかりと立ち、共に活ける主の住みたもう「神の神殿」を築いていきたいと願います。</p>
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		<title>四つ相撲の信仰</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Sep 2026 07:44:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 創世記　３２編２３節～３３節 これまでのヤコブがしていることは独り相撲でした。試練の中 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>創世記　３２編２３節～３３節</p>
<p>これまでのヤコブがしていることは独り相撲でした。試練の中で、恐れと不安と迷いに支配されていました。そのとき何者かが現れました。実はその人は神のみ使いでありました。「何をくよくよと迷い、悩んでいるのか。私との信頼関係はどうしたのか」。神はヤコブに問いかけました。「行くべきか、行かざるべきか」、「兄エサウと共に生きるのか、生きないのか」。ここが人生の分岐点です。これまでのヤコブの人生は逃げっ放しの人生でした。恐れと不安と迷いの人生でした。しかしついにヤコブは決心します。「故郷に帰ってヤコブ兄さんに心から謝ろう。そして本当に神様から祝福された人間になろう」。ヤコブのこの決意を象徴する出来事、それが「ペヌエルでの格闘」です。神のみ使いと相撲をとった不思議な物語です。激しい格闘のあと、ヤコブは祝福を受けて神からイスラエルという名を与えられました。単なる名前の変更ではありません。ヤコブが試練の中で成長し、これまでの生き方ではなく、神から祝福される新しい生き方へと、他者と共に生きる新しい生き方へと、根本的に変えられたということなのです。ヤコブは確かな信仰を勝ち取りました。そして兄エサウと共に生きる道を選び取ったのです。</p>
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		<title>新しい歌を主に向かって歌え</title>
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		<pubDate>Sun, 20 Sep 2026 01:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 詩編　９６編１節～９節 「詩編」には英語訳で“Make a joyful noise” [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>詩編　９６編１節～９節</p>
<p>「詩編」には英語訳で“Make a joyful noise”という表現がよく登場します。神に向かって「喜びの叫びをあげる」という意味のフレーズです。直訳すれば、「喜びの雑音、騒音をあげる」となりますが、聖書の文脈では、感情を爆発させて歓声をあげる喜びに満ちた様子を表します。神様にとって私たちの賛美というのは決して完璧なものとは言えないでしょう。罪に生きる私たちの賛美の声は雑音や騒音のようなものかもしれません。それでも神様は完璧に整えられた賛美でなくても、雑音に過ぎない声であっても、そのような歌声を喜んでくださるというのです。赤ちゃんの泣き叫ぶ声だって、その声を喜んでくださるのです。ですから礼拝中に赤ちゃんの大きな泣き声がしてたら、「ああ、この子は精一杯、神様を賛美しているんだなぁ」と、私は嬉しく思っているんです。平和と愛に満ちた世を願って、私たちは教会へと招かれています。誰もが皆ひとつの大切な命として、創造主を賛美するよう招かれています。主を賛美する新しい歌を歌うよう招かれています。教会の扉を叩くとは、主を賛美するとは、そういうことです。教会はイエス・キリストの愛を通して、すべての命が友とされ、兄弟とされている恵みを深く知る場所なのです。</p>
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		<item>
		<title>言い尽くせない贈り物</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Sep 2026 02:31:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 コリントの信徒への手紙Ⅱ　９章６節～１５節 私たちは何か自分のものを与えることに、ため [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>コリントの信徒への手紙Ⅱ　９章６節～１５節</p>
<p>私たちは何か自分のものを与えることに、ためらいや恐れを抱くことがあるでしょう。「これを与えてしまったら自分の手元にあるものが減ってしまう」。そうした不安が知らず知らずのうちに私たちの心を覆います。時間であれ、労力であれ、思いやりであれ、物質的なものであれ、持っているものを手放すことには勇気がいります。しかしパウロは宣言します。「9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。私たちが何かを惜しみなく与えるとき、それは単に自分の手元から何かが無くなるのではありません。神様の豊かな恵みのサイクルの中にそれを投じることなのです。「惜しまず豊かに蒔く」とは、打算や損得勘定を手放して、神様の愛と恵みを信じて大胆に自分を開くことです。その行為は神様が私たちに与えてくださった「9：15言葉では言い尽くせない賜物」であるイエス・キリストの十字架の愛への応答なのです。私たちは途方もない愛を先に受け取った者です。その愛に圧倒され、その恵みに生かされているからこそ、私たちも自分の持っているものを喜んで分かち合い、隣人に仕えることができるのです。</p>
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		<title>隅の親石</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Sep 2026 07:08:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 マルコによる福音書　１２章１節～１２節 人々は主イエスを十字架に架けました。石のように [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>マルコによる福音書　１２章１節～１２節</p>
<p>人々は主イエスを十字架に架けました。石のようにぶどう園の外に捨てました。しかしその捨てられた石が家全体を支える大切な石、つまり「隅の親石」になったことを詩編１１８編は告げます。神の不思議な御業です。暴力行為を働く者、権力に執着する者、神の座につこうとする者、そのような罪人は厳しく裁かれ滅びるしかない。それなのに彼らが捨てた石（イエス・キリスト）ゆえに、彼らは赦され生かされた、教会が建てられた。その不思議な神の御業の預言が詩編に記されています。</p>
<p>神の御業は私たちの理解をはるかに超えています。祭司長や律法学者たちは、このときイエスが語るたとえ話を聞いて、自分たちの権威が軽んじられていると感じました。怒りを募らせ、イエスを十字架へと追いやりました。彼らは主の話の本当の意味が理解できなかったのです。なぜなら十字架の時はまだ来ていなかったからです。しかし私たちは理解できるはずです。今朝私たちは主の話を教会で聞いているからです。私たちは知っているのです。捨てられた石というのは隅の親石だということを、主イエスのことだということを。その石を捨てて十字架に追いやったのは、そして赦され生かされたのは、祭司長や律法学者たちであり、周りの群衆であり、私たちでもあったということをです。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>いろいろな働き</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Aug 2026 00:54:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：高桑 義雄　牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ １２章２７節～３１節 パウロは私たちキリスト者を「あなたがた [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：高桑 義雄　牧師</p>
<p>コリントの信徒への手紙Ⅰ １２章２７節～３１節</p>
<p>パウロは私たちキリスト者を「あなたがたはキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です」と表現をしています。この言葉には驚きを感じざるをえません。パウロは私たちを「キリストを信じる者」とか「救われた者」とは言わず、キリストの体であると言っているのです。教会とはそこにある建物のことではなく、聖餐を中心とする礼拝が行われるところです。神は教会の中に使徒、預言者、教師の役割が特に必要としています。使徒は福音を語るために遣わされた者、預言者は旧約以来の呼び名で同じく福音を語る者、そして教師は今でいう牧師のことです。この３者が福音を語り、キリストがこの世を正しく支配していることを示しています。そして信徒である一人ひとりはキリストの体の肢体として礼拝に出席し、礼拝を守ることによってその使命を果たしています。私たちは神の思いのもと、キリストの体である教会を健康に保つために、キリストの正しい支配のもとで与えられている賜物を用いて奉仕をします。賜物の頂点は愛であり、それを支えるのは神の前で清さと誠実さとを仕える心です。神の前にひざまずき礼拝をささげることが、私たちキリスト者に与えられている最高の奉仕なのです。私たちは各自に与えられているいろいろな働きの賜物を用い、キリストの体なる教会を形成していきたいと思います。</p>
]]></content:encoded>
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