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	<title>毎週の説教</title>
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		<title>イエスの洗礼</title>
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		<pubDate>Sun, 31 May 2026 02:49:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 マルコによる福音書　１章９節～１１節 ２０００年前、バプテスマのヨハネが荒れ野のヨルダ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>マルコによる福音書　１章９節～１１節</p>
<p>２０００年前、バプテスマのヨハネが荒れ野のヨルダン川でしていたことは、罪の悔い改めのための洗礼でした。ヨハネは激しく人々の罪を責めながら、悔い改めて神のもとに戻りなさいと呼びかけました。その言葉に応えて、大勢の人がヨハネのもとに集まってきました。その罪人たちの列の群れに混じるようにして、神の独り子イエスさまが立っておられました。イエスさまはヨハネから洗礼を受け、水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になりました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。「洗礼」はギリシャ語で「バプテゾー」と言います。「全身を水没させる」という意味です。旧い生き方に終止符が打たれ息の根が止められるということです。なぜこのお方をキリストと呼ぶのでしょう。キリストとは「油注がれた者メシア」という意味です。油注がれて特別な務めを神から与えられるのです。では主はいつ油を注がれたでしょうか。実は福音書にはっきりとは記されておりません。しかし主イエスにはこのとき聖霊が注がれています。ここにおいてキリストとしての務めは始まったのです。</p>
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		<title>教会に委ねられた言葉（ペンテコステ礼拝）</title>
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		<pubDate>Sun, 24 May 2026 09:04:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 使徒言行録　２章１節～１１節 ペンテコスはイースターから５０日目の教会のお祭りです。ギ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>使徒言行録　２章１節～１１節</p>
<p>ペンテコスはイースターから５０日目の教会のお祭りです。ギリシャ語で５０番目をペンテコステと言います。２０００年前のこの日、天から聖霊が降り教会が生まれたのです。聖霊とは何でしょうか。聖霊とは教会の言葉を生み出す神の力です。聖霊が新しい言葉を与え、そこから教会の歴史は始まりました。教会の指導者となったペトロが声を張り上げました。「ユダヤの方々、エルサレムに住人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください」。ペンテコステは教会の誕生日です。同時に、教会の言葉の誕生日でもあったのです。聖霊が教会に新しい言葉を与えたのです。未だ誰も聞いたことのない言葉です。世界の人々に告げる新しい言葉です。その言葉の中心はイエス・キリストの証しです。最後の晩餐の後、三度主イエスを裏切ったペトロです。そんなペトロがペンテコステの風を受けて、「私の言葉に耳を傾けてください」と叫び始め、主イエスを証したのです。ペトロの言葉は神の出来事とされたのです。教会は神の出来事です。教会が語る言葉は神の出来事です。私たちの信仰は神の出来事です。神が教会に委ねられた彩り豊かな言葉を世に伝えてまいりましょう。</p>
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		<title>大祭司主イエスの決別の祈り</title>
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		<pubDate>Sun, 17 May 2026 06:21:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ヨハネによる福音書　１７章１節～５節 ヨハネ福音書の特徴の一つが「十字架の受難こそが主 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ヨハネによる福音書　１７章１節～５節</p>
<p>ヨハネ福音書の特徴の一つが「十字架の受難こそが主の栄光」という神学理解です。ヨハネは信仰の目によって主の十字架の受難の意味を描こうとしたのです。ですから私たちがヨハネ福音書を読むときには信仰の目をもって読むことが要求されます。本日の主イエスの祈り（大祭司の祈り）の中に「永遠の命」という言葉がありました。「永遠の命」もヨハネ福音書によくでてくる言葉です。永遠の命とは死なないことではありません。誰もが地上の命の終わりを迎えます。ではどういうことか。永遠の命とは、「天の父なる神と御子イエス・キリストを知ることだ」、こう言うのです。永遠の命とは、私たちのために天の神さまに執り成しの祈りを捧げてくださったお方を私たちが信仰の目で知ることなのです。十字架に犠牲の小羊としてご自身を捧げ、神の栄光を現わされた御子イエス・キリストの栄光を信仰の目で見ることなのです。愛に生き愛に死んだ愛の人イエス・キリストを信仰の目で知るということなのです。天地創造の初めから世の終わりまで、全地に満ちる神さまの愛が私たちに注がれ続けていることを、私たちが心から深く味わい知るということなのであります。</p>
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		<title>ソドムとゴモラ</title>
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		<pubDate>Sun, 10 May 2026 00:25:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 創世記　１８章２３節～３３節 ソドムとゴモラはイスラエルの死海南端にあった古い町です。 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>創世記　１８章２３節～３３節</p>
<p>ソドムとゴモラはイスラエルの死海南端にあった古い町です。そこは土地が肥え町は栄えていました。しかし人々の心は罪にまみれていたのです。大昔巨大地震で町全体が死海の底に水没したと伝えられています。神は「この町を滅ぼす」と言われました。しかしアブラハムは人々のために神と駆け引きをします。「あなたは、あの町に正しい者が５０人いるとしても、それでも滅ぼし、その５０人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」。「もし、ソドムの町に正しい者が５０人いるならば、町全部を赦そう」。アブラハムは、４５人、４０人、３０人と駆け引きを続け、ついに１０人まで交渉を成立させました。「もし、１０人の良い人がいれば、滅ぼさない」。しかし町は滅んでしまったのです。町にはたった１０人の正しい者もいなかったのです。きっと１人の正しい人もいなかったのでしょう。これが人間の姿です。私たち人間はただ滅んでいかざるを得ない存在なのでしょうか。神はソドムとゴモラの裁きの中でもロトの家族を救おうとされました。すべてを滅ぼし尽くそうとはされませんでした。救いの道を残してくださったのです。どんなに悲惨な滅びの中にも私たちには希望が与えられています。</p>
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		<title>わたしはまことのぶどうの木</title>
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		<pubDate>Sun, 03 May 2026 04:44:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ヨハネによる福音書　１５章１節～６節 以前甲府盆地にあるぶどう園を訪れました。そこには [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ヨハネによる福音書　１５章１節～６節</p>
<p>以前甲府盆地にあるぶどう園を訪れました。そこには樹齢１００年を越えるぶどうの木がありました。木の幹から伸びた枝が四方に広がり、根から吸い上げられる養分は枝の端々まで行き届きます。季節が巡るたびにすべての枝に豊かな実を結びます。そして美味しいぶどう酒になります。世界は今、ウクライナで、ガザで、イランで、様々な地域で勃発する戦争に苦しんでいます。大切な命が失われ、多くの人が傷ついています。行き過ぎた自分ファースト主義、自国ファースト主義は、私たちの世界をすっかり変えてしまいました。他者への寛容な心を失ってしまいました。互いに壁をつくり、分断を煽り、人種差別、民族差別の発言が繰り返されています。それは、私たちが主から離れ、主とつながろうとしない罪の姿です。「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。・・・火に投げ入れられて焼かれてしまう」。人間同士、差別し合い、争い合い、傷つけ合う世で、私たちは隣人のために愛し合い、祈り合い、平和のために行動することが求められています。</p>
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		<title>隣人を愛しなさい</title>
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		<pubDate>Sun, 26 Apr 2026 01:15:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 レビ記　１９章９節～１８節 キリスト教という宗教を「ひとことで説明せよ」と言われたら、 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>レビ記　１９章９節～１８節</p>
<p>キリスト教という宗教を「ひとことで説明せよ」と言われたら、皆さんなら何と答えるでしょうか。きっと多くの方は、「愛の宗教」とお答えになるのではないかと思います。聖書に「神は愛なり」とはっきりと書かれています。聖書には愛の教えが散りばめられています。今朝は旧約聖書のレビ記に記された愛の教えです。神はユダヤの民をご自分の民として選び、深く愛されました。エジプトから救い出し、荒れ野でマナを与え、養い育て、カナンの地に導かれました。その歴史的な愛の関係を前提に、神は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と言われたのです。同じように、神は異邦人である私たちのことも愛してくださっています。そのしるしに神の独り子イエスさまを世にお与えくださいました。イエスさまは十字架にご自分の身を捧げられました。それほどまでに私たちを愛してくださいました。その愛の御業によって私たちを神の子としてくださいました。こうして私たちは父なる神さまとの新しい親子関係の歴史を生き始めるようになったのです。もはや私たちは誰も孤児ではありません。誰もが神の子なのです。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>まことの羊飼い</title>
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		<pubDate>Sun, 19 Apr 2026 13:19:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ヨハネによる福音書　１０章７節～１６節 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。自分の命 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ヨハネによる福音書　１０章７節～１６節</p>
<p>「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。自分の命を投げ打ってでも羊の命を守ろうとするのが良い羊飼です。主イエスはそのようなお方です。主は私たちを生かしてくださるために御自分の命を十字架に捧げられました。本日のヨハネ福音書は教会とはどのようなところなのかを教えています。また牧師はどのような覚悟でいなければならないのかを教えています。私たちは『教会』という安全な囲いの中に閉じこもっているのではなく、囲いの外に出て他者と関わりながら生きていくよう主に導かれています。そこには罪の誘惑や苦難が伴うでしょう。そこで主は言われるのです。「私は命を捨ててもあなたの命を守ろう」。この言葉は教会を牧会する牧師にとって大変厳しく感じられます。私のような甘っちょろい牧師には身が引き締まる重い言葉です。２０００年前、中東の片隅でイエスというどこまでも美しい生き方をした真の人がおられました。力強く命の言葉が語られました。キリストは私たちの命の糧です。分断された世界を一つの群れに戻す輝きに満ちた言葉です。ヨハネ福音書という書物は始めから終わりまでそのような愛の言葉に貫かれているのです。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>疑い深いトマス</title>
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		<pubDate>Sun, 12 Apr 2026 05:05:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ヨハネによる福音書　２０章１９節～２９節 イースターの一週間後の日曜日、今度は他の弟子 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ヨハネによる福音書　２０章１９節～２９節</p>
<p>イースターの一週間後の日曜日、今度は他の弟子たちと一緒に家の中にトマスもいました。そこへ復活の主が現れて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして疑い深いトマスに向かってこう言われたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはこのとき主の傷跡に触れたでしょうか。聖書には何も書かれていません。きっとトマスは傷跡に触れることができずに、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶのが精いっぱいだったのではないでしょうか。トマスは最初、「主のためなら自分は死ねる」と思っていました。それが自分にとって最高の死に場所だと思っていました。ところが彼が知ったのは、「自分は主のために死ぬことはできなかった」ということだったのです。しかも、「そんな自分のために主は死んでくださった」ということだったのです。キリストは私たちを苦しめるものから解放してくださるために、今もなお十字架の苦しみを味わっておられます。私たちは十字架の主から、「苦しむ人に無関心でなく、彼らの痛み（傷跡）に触れる（寄り添う）生き方をしなさい」と命じられているのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>空の墓　（イースター礼拝）</title>
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		<pubDate>Sat, 04 Apr 2026 16:03:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：小手川 到　牧師 ヨハネによる福音書　２０章１節～１０節 最後の晩餐の後、弟子たちは主を裏切り逃げてしま [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：小手川 到　牧師</p>
<p>ヨハネによる福音書　２０章１節～１０節</p>
<p>最後の晩餐の後、弟子たちは主を裏切り逃げてしまいました。主は十字架に架かり、墓に葬られました。弟子たちは後悔したでしょう。「ダメな弟子で情けない」、「顔向けができない」。そのような思いだったでしょう。本日のヨハネ福音書は、主を納めた墓が空であった目撃証言を通してキリストの復活を伝えます。しかし弟子たちは復活の主にまだ出会っていません。主は復活されたのに、そのことに気づいていないのです。</p>
<p>キリストの命は暗い墓の中にはありません。神さまは不完全で欠けだらけの私たちが光り輝くように、復活のキリストの命を土の器である私たちの内に納めてくださいました。だから私たちは完璧でなくていい、自分の能力に頼らなくていい、欠けだらけでいい。あなたはそのままで神さまに用いられます。そのために生まれてきたんです。ひび割れているからこそできることがあります。欠けだらけのあなたを神さまは愛してくださっています。</p>
<p>本日の聖書箇所の続きには、様々な人々が復活のキリストと出会う物語が記されています。欠けだらけの人々がイースターのこの日からキリストと出会うようになります。出会い方はそれぞれです。あなたはどのような出会い方をするでしょうか。キリストと出会う日が訪れますように。ひび割れているあるがままの自分を受け入れ、キリストの命に生きてまいりましょう。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>イエス・キリストの恵みがあなたがたと共にあるように</title>
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		<pubDate>Sat, 28 Mar 2026 16:09:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tokorozawa-mikuni</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[説教：加藤 久幸　牧師 フィリピの信徒への手紙 4:10-23 現行のフィリピの信徒への手紙の最後には、教会の [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>説教：加藤 久幸　牧師</p>
<p>フィリピの信徒への手紙 4:10-23</p>
<p>現行のフィリピの信徒への手紙の最後には、教会の宣教の活動の財源とパウロの挨拶が記されています。パウロは、福音を宣べ伝えることによって生活する権利をもっていましたが(Ⅰコリント9:3-18)、諸教会から金銭を受け取ることを拒んでいたようです。それは、パウロにとっては、福音を宣べ伝える自由がかけがえのないものであったからでしょう。ですから、フィリピの教会から援助を受けるとき、パウロは、宣教の自由を宣言し、贈り物を教会の働きの実に関係づけ、神への芳しい香りに関係づけ、パウロ個人に対するものでないことを、明らかにする必要があったのだと想います。蛇足ながら、私の所沢みくに教会時代において、コロナ禍ということもありましたが、教会員の誰とも親密な[特定な]関係を築くことができなかったことは、たとえ無礼と思われようとも、互いのバランスを保つという意味ではよかったのかなとも振り返ります。今日の聖書で、パウロがフィリピの人々によそよそしく語っている、その様を意義深く想像します…。</p>
<p>パウロは、宣教の自由を語りますが、信徒からの贈物が、教会の活動や奉仕のわざを支えました。私たちは、その様子を、パウロの手紙を通して、すべてのことは、神を礼拝するという観点から理解されるべきであろうということに、気づかされ教えられます。｢わたしはあなたと共にいる｣(イザヤ書43:5)という、教会の活動、信仰の歩みを共にできたことを感謝します。ありがとうございました。</p>
]]></content:encoded>
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