説教:加藤 久幸 牧師
フィリピの信徒への手紙 3:1b-16
今日の箇所から調子が変わります。パウロは、脅威であった人物を「犬ども」「よこしまな働き手たち」「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」(2)と辛辣に表現し、注意を喚起します。恐らく、この敵対者は、キリスト教徒をユダヤ教の会堂に獲得しようとするユダヤ教徒であっただろうと、推測されています。しかも、この妨害者はユダヤ教も歪曲し宣べていると、パウロは感じていたようです。ですから、パウロはこう述べます。「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉によらないからです」(3)。ここで、パウロは肉という言葉で広く人間の努力や業績をも意味しているように語りますが(4)、自らの肉も覚めて語っています(5-6)。パウロは、律法に対する向き合い方に死にました。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(9)。意外に聞こえるかもしれませんが、キリスト教を優れた宗教であるとして捉え、律法に対する誤解と同様に自己の義を求める宗教の誤謬を、3章は示唆しているのかも知れません。後半の箇所(12-16)は、パウロ(信仰者)は再び走る者について語ります(2:16参考)。パウロは、個人の向上ではなく、共同体の「完全」という観点で語っているようです。しかも、この「完全」が「欠けのある」人々という成熟という意味なら、彼はユーモアをこめて「完全な者」(15)と語っているのでしょう。そして、「いずれにしても、わたしたちは 到達したところに基づいて 進むべきです」(16)と語ります。

