毎週の説教メッセージ

off わたしを愛しているか

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書21:15-25

前半は、イエスがペトロに三度「わたしを愛しているか」(15,16,17)と確認し、その三度とも「[わたしの]羊を飼いなさい」という内容を告げています。信従する者に、共同体を養う、教会を育てるというようなことを告げることは、それ以前のヨハネ福音書1-20章では珍しいかと想います。後半には、「イエスの愛しておられた弟子」(20)が登場します。ヨハネ福音書が現代の形で成立する時には、ペトロも「イエスの愛した弟子」も既に亡くなっていたと想いますが、両者の事情を知る者が21章を付け加えたのだろうと想います。21章では、ペトロに、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21)と、尋ねさせています。この背景には、二人の弟子のどちらが偉大なのか、イエスの愛された弟子は[イエスの再臨の時まで]生き続けるだろうというような、噂・推測が広くあったことが想像されます。そうしたことに対して、イエスは、21章の著者は、「[そうしたやりとりよりも、あなたにはもっと大切ことがある。] わたし[イエス]に従いなさい」(22)と言われたと、告げているかのようです。福音書の最後に、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」と出てきます(24)。「書いた」という言葉は、恐らく、この文書の「背後に立っている」「保証している」という意味なのでしょう。大事なことは、他者との比較ではなく、自分にできる、イエスに対する真実で忠実な証しです。そのことの故に、イエスご自身も、私たちに近寄り、「わたしに従いなさい」と招いてくださっています。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書21:1-14

ペトロたちはティベリアス湖(ガリラヤ)へ戻って、「漁へ行く」といって出かけました。しかし、何も取れずにかえって来ると、復活のイエスが岸に立っていた。しかし、弟子たちはイエスだとはわからなかった。「何か食べ物があるか」と言われたが、「ありません」と答えた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」と言われ、魚が多く取れました。イエスの愛している弟子がペトロに「主だ」と言うと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込んだ(7)。漁の場面、復活のイエスのことが分からなかった場面など、私たちはルカ福音書のペトロを弟子にする場面やエマオ途上の場面を想起します。弟子たちは復活のイエスを見ました。しかし、1回見れば、いつもわかるわけではありません。信じることができなければ、イエスがその場におられても、わからないのです。「漁に行く」ということがペトロたちの宣教の象徴だとしたら、イエスの派遣命令に応えて、希望を持って出かけたが、結果はみじめなものでした。しかし、イエスの指示に従い、行ってみると大きな成果がありました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である…」(15:5)のみ言葉の実現であります。派遣命令に懸命に従う弟子たちと共にいて、教え、励ましてくださるイエスがここにおられます。イエスの宣教に召し出された人々が、多く、多様でも、網は破れないのです。このしるしを見た弟子たちはもはや「あなたはどなたですか」とは問わないのです。私たちもイエスの宣教の業に招かれています。

off あなたがたに平和があるように

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書20:19-31

週の初めの日の夕方、弟子たちが「避難」している家に、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」ました(19)。弟子たちは、イエスを「見て喜び」ます(20)。イエスからの平和の挨拶がなければ、傷を見せられる・見ることは、弟子たちにとっては自責の念にかられ顔を背け逃げ出したくなる事態であったことでしょう。しかし、挨拶と共に傷を見せる・見ることは、イエスと弟子たちが深い関係にあることを想起させ、そして新たな関係の結び直しが起こります。イエスは重ねて平和の挨拶をされた後、「父[神]がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました(22)。そして、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される…」と、弟子たちに臨みました(23)。イエスが示し歩まれたように、弟子たちが赦しを受け、赦しを宣べ伝えるべく「聖霊を受けなさい」とされています。しかしその場に、トマスは居合わせませんでした。彼は「…この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(25)。一週間後の週の初めの日、イエスが先週と同じように現われ挨拶され、皆と共にいたトマスに「…あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました(27)。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白します(28)。未だ形ならない共同体・礼拝を導かれた主イエスの感謝しましょう。

off 亜麻布と覆いが置いてあった

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書20:1-18

登場人物たちが、慌ただしく動いています。「亜麻布と覆いが置いてあった」という事実を踏まえ[伝え聞いて]、あなたがたはどのように受けとめるのかという、物語が始まります。物語を繋ぐ9-10節は、聖書を読む全ての者に向けられていると思います。マリアが「亜麻布と覆いが置いてあった」事実を見たとは、聖書には出てきません。ただ、「墓から石が取りのけてあるのを見た」(1)ので、彼女は、「主[イエスの遺体]が取り去られた」(2,13)と、予測したにすぎません。後半の物語でも、マリアは、自分の予測・判断に従って天使たちと話を続けます…。しかし、主イエスから語りかけられる、「だれを捜しているのか」と後ろから声かけられ(15)、「マリア」と呼ばれることを通して(16)、主イエスは生きていると認めます。信仰の事柄は、自分が現実を見ることより、語りかけを受け、聞くことによるのでしょう。イエスは、十字架につけられ、動きを止めました。イエスの死を前にして[も]、人々は自らの思いでそれぞれに動かざるをえませんでした。心落ち着かず、ざわつき、その様はバラバラと形容できるでしょうか。しかし、神の力により、イエスはよみがえらされました…。地震や津波で遺品だけが残り、行方不明になっていた者が「わたしは生きている」と現われたかのように…。イエスの「生きている」という現われは、それまでの重く圧倒的な制止する力から解き放たれたという、喜びの出来事です。私たちは、イエスの復活の喜びを共にし、その導きを信じ歩むことができるでしょうか。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書18:1-40

イエスが弟子たちとキドロンの谷にいるとき、ユダは一隊の兵士と祭司長の下役を連れて来ました。イエスは「誰を捜しているのか」(4)と問い、「ナザレのイエスだ」と言われ、イエスは「わたしである」と答えると、兵士たちは後ずさりして倒れました。ペトロは剣で下役に切りかかりました。イエスはそれをいさめ、「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(11)と言われました。そして、大祭司のところに連れていかれました。一方ペトロはもう一人の弟子と一緒にイエスに従って大祭司の屋敷の中庭で火にあたっていたが、「あなたも、あの人の弟子ではないか」と問われ、「違う」と否定し、イエスのためなら命を捨てますと言っていたのに、「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたことがおこり、自分の弱さが露呈し、その場から逃げてしまうのです。大祭司のところから、総督官邸に連れていかれたイエスに、ピラトは尋問をし、ピラトはイエスの罪を見いだせなかったが、大祭司やファリサイ派の人々の言い分を受け入れ、慣例により過越祭には罪人一人を釈放することを提案しました。

イエスは「わたしである」と逃げも隠れもしないと自己開示している中、ペトロも含めて、大祭司やファリサイ派の人々も自分たちのことだけを考えていることが浮き彫りにされています。受難週の時、ペトロの弱さ、私たちの弱さを知っておられたイエスの真理の言葉を聞いて、共に歩みましょう。

off 一粒の麦は地に落ちなければ

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書12:20-43

[過越]祭には外国人が来ていたことが想像できます(20)。21節の「イエスにお目にかかりたい」は「イエスを信じたい」という意味を帯びています。ギリシア人の名前をもつ2人の弟子たちが、その旨を取り次ぎます(21-22)。このことをきっかけに、イエスは次のように語り始めました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(23-24)。ヨハネ福音書の伝え方は、イエスが苦悶しつつも覚悟を決めていくようでもあり、栄光と受難・悲惨を同時に語ります。そのような経緯(いきさつ)が、今日の27-28節にもあります。「今、わたしは心騒ぐ…『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。イエスの苦悩に、天からの声が聞こえます。その声へのイエスの応答が30-33節にありますが、「わたしは地上から上げられる時」(32)は、十字架の死を表わし、「御自分がどのような死を遂げるかを示そう」(33)としているのでしょう。イエスは、その時から逃げることはなく、イエスの従順・十字架は、人の子の栄光(23)・神の栄光(28)を現します。世の何ものにも、命にも執着しない、神への従順にこそ神の栄光が表されます。そのようなイエスの在り方が示されています。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」(38)

off 葬りの日のために

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書12:1-11

ヨハネは、香油を塗った女性をベタニア村のアリアと名指しします。そのことから、このマリアの行為はラザロのよみがえり(11章)に対する思いであったと想像できます。マリアは、イエスの足に香油を塗り、自分の髪でぬぐいます(3)。なぜ、頭ではなく、イエスの足なのでしょうか。象徴的に言えば、イエスの足というのは、イエスがこの世の塵と埃にまみれながら歩まれた足、十字架に向かって一歩一歩歩まれた足、です。言うならば、イエスが私たち人間にご自身を捧げ給うた献身、その完き献身を足が象徴しているとも感じます。そのイエスの足に対して、マリアは自分の持っていた最高のもの(ナルドの香油)を注ぎ、もてる自らの毛で、ぬぐいます。それは、まさに、イエスに対するマリアの自己献身を示す行為です。イエスとマリアの間には、与える者と受ける者の一致・調和があふれています。ユダが、マリアを非難し始めます。マリアの行為は、益を生まず…。しかしイエスは応えます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7)。イエスだけは、感謝と讃美を表したマリアの行為を、受け取っています。そして、ご自身の葬りの準備として受けとめ、その献身を用いてくださいます(マルコ14:9参照)。高価なものを売って益を得るよりも、「取っておいた」つまり「用いた」とイエスによってマリアの献身が受けとめられたように、私たちにとっても、信仰の歩み・献身が生きる上で必要なことなのです。

off あなたがたも離れたいのか

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書6:60-70

事の発端は、「五千人の供食」の物語にあります。その後の展開で、イエスは「わたしが命のパンである…」(35)と言われました。「このパン(すなわちイエス)を食べる者は永遠に生きる」(58)と語ったと、イエスの言葉をうわべの「文字通りに」捉えるなら、「実にひどい話だ」(60)となります。噛み合わない状況の中で、イエスはこう話し始めます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもとにいた所に上るのを見るならば…。命を与えるのは‟霊”である…わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(61b-63)。そして、64節にあるように、イエスは、彼の言葉を信仰をもって聞くことができない人たちがいることを知っています。その後、イエスは、「わたしはあなたがたに、『父から御許しがなければ、だれもわたしのもとには来ることはできない』と言ったのだ」(65)と、言明します。ヨハネ福音書を読む時、イエスの時と福音書成立の時を想います。ヨハネ福音書は「イエスと共に歩まなくなる」状況があることを、指摘します。私たちの想定することが「何の役にも立たない」(63b)と思う時、イエスは「あなたがたも離れて行きたいのか」(64)、「あなたはどうなのか」と、問いかけます。福音書では、ぺトロの告白がなされ、ユダの裏切りが暗示されています。しかし、イエスはユダを名指ししているわけではありません。誰もが、「信じるか否か」の現実に立たされます。「父(神)のお許しがなければ…」(65)とのイエスの言葉が響きます。

off 神の業がこの人に現れるため

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書9:1-12,35-41

イエスは、生まれつき目が見えない人に対し、「神の業がこの人に現れるためである」と明言し(3)、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って 洗いなさい」と言われ」ました(6-7)。彼は「行って洗い、目が見えるようになっ」た(7)ので、人々の間で騒ぎになります。共観福音書では、癒しの奇跡は、人々の驚きをもって終わります。ヨハネ福音書においては、今日の物語も「後日談」がついています。今日は、その最後の部分(35-41)を併せて読みます。「イエスは 彼が外に追い出されたことをお聞きにな」ると、「彼に出会」われた(35)。イエスが「人の子を信じるか」と尋ねると(35)、彼は「その方を信じたいのです」と応じます。するとイエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と応えます(37)。実際、彼の目がイエスを見ているのですが、ここでの「見る」は、別の意味をも考えさせられます…。彼は、天来の力によって癒され、癒された者が天来の力を証しする者として歩むようになりました。彼の言動は、この世にあって「外に追い出されて」(35)も、天来の力によって、「遣わされた者」として生きる者になりました…。イエスの「神の業がこの人に現れるため」(3)という言葉は、すべての人に向けられているのではないかと感じます。一人一人が、神の力を受けて、神の力を信じ、神の業を賛美するよう、招かれています…。「わたしたちは…行わねばならない。わたしは…世の光である」(4-5)という言葉が、響きます。

off 神の子なら

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書4:1-11

イエスは洗礼を受けられた後、伝道に先立ち、荒野で「40日間」の断食をして過ごされました。悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉で生きる」(申8:3)にあるように、主の口から出るすべての言葉で生きるとは、天来のマナによって生きることです。次に神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と言い、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(6)と神の祝福を賛美した詩篇を逆用し、イエスに迫ります。ひれ伏して、わたしを拝むなら、すべての国々と繁栄を与えるとも言うが、イエスはすべてを退けました。悪魔は最初からの誘惑は自分の足元にイエスを服させることでした。今の時代もこの誘惑の虜になっている者がいます。国々の権力と栄華をひとかけらもらって喜んでいる独裁者や家庭内や狭い社会で権力をふるう小さな独裁者まで。その時、心から神に礼拝しているか、生活の中心に礼拝があり、喜んで祝っているか、主の栄光に帰して主に仕えているかを問うべきです。イエスは40日間の断食し、その弱さの中で、なおこのように生きるようにと示されました。レントの時、神の助けを疑問視する誘惑にさらされます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリ12:9)。この約束を心に留め、レントを過ごしましょう。