毎週の説教メッセージ

off 言い尽くせない贈り物

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説教:小手川 到 牧師

コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節

私たちは何か自分のものを与えることに、ためらいや恐れを抱くことがあるでしょう。「これを与えてしまったら自分の手元にあるものが減ってしまう」。そうした不安が知らず知らずのうちに私たちの心を覆います。時間であれ、労力であれ、思いやりであれ、物質的なものであれ、持っているものを手放すことには勇気がいります。しかしパウロは宣言します。「9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。私たちが何かを惜しみなく与えるとき、それは単に自分の手元から何かが無くなるのではありません。神様の豊かな恵みのサイクルの中にそれを投じることなのです。「惜しまず豊かに蒔く」とは、打算や損得勘定を手放して、神様の愛と恵みを信じて大胆に自分を開くことです。その行為は神様が私たちに与えてくださった「9:15言葉では言い尽くせない賜物」であるイエス・キリストの十字架の愛への応答なのです。私たちは途方もない愛を先に受け取った者です。その愛に圧倒され、その恵みに生かされているからこそ、私たちも自分の持っているものを喜んで分かち合い、隣人に仕えることができるのです。

off 隅の親石

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説教:小手川 到 牧師

マルコによる福音書 12章1節~12節

人々は主イエスを十字架に架けました。石のようにぶどう園の外に捨てました。しかしその捨てられた石が家全体を支える大切な石、つまり「隅の親石」になったことを詩編118編は告げます。神の不思議な御業です。暴力行為を働く者、権力に執着する者、神の座につこうとする者、そのような罪人は厳しく裁かれ滅びるしかない。それなのに彼らが捨てた石(イエス・キリスト)ゆえに、彼らは赦され生かされた、教会が建てられた。その不思議な神の御業の預言が詩編に記されています。

神の御業は私たちの理解をはるかに超えています。祭司長や律法学者たちは、このときイエスが語るたとえ話を聞いて、自分たちの権威が軽んじられていると感じました。怒りを募らせ、イエスを十字架へと追いやりました。彼らは主の話の本当の意味が理解できなかったのです。なぜなら十字架の時はまだ来ていなかったからです。しかし私たちは理解できるはずです。今朝私たちは主の話を教会で聞いているからです。私たちは知っているのです。捨てられた石というのは隅の親石だということを、主イエスのことだということを。その石を捨てて十字架に追いやったのは、そして赦され生かされたのは、祭司長や律法学者たちであり、周りの群衆であり、私たちでもあったということをです。

off いろいろな働き

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説教:高桑 義雄 牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節~31節

パウロは私たちキリスト者を「あなたがたはキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です」と表現をしています。この言葉には驚きを感じざるをえません。パウロは私たちを「キリストを信じる者」とか「救われた者」とは言わず、キリストの体であると言っているのです。教会とはそこにある建物のことではなく、聖餐を中心とする礼拝が行われるところです。神は教会の中に使徒、預言者、教師の役割が特に必要としています。使徒は福音を語るために遣わされた者、預言者は旧約以来の呼び名で同じく福音を語る者、そして教師は今でいう牧師のことです。この3者が福音を語り、キリストがこの世を正しく支配していることを示しています。そして信徒である一人ひとりはキリストの体の肢体として礼拝に出席し、礼拝を守ることによってその使命を果たしています。私たちは神の思いのもと、キリストの体である教会を健康に保つために、キリストの正しい支配のもとで与えられている賜物を用いて奉仕をします。賜物の頂点は愛であり、それを支えるのは神の前で清さと誠実さとを仕える心です。神の前にひざまずき礼拝をささげることが、私たちキリスト者に与えられている最高の奉仕なのです。私たちは各自に与えられているいろいろな働きの賜物を用い、キリストの体なる教会を形成していきたいと思います。

off 偉くなりたい

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説教:竹田 英司 神学生

マタイによる福音書 18章1節~5節

農村伝道神学校では、多くの方々の祈りと献金に支えられ、神学を学ぶ恵みが与えられています。その感謝を込めて、学びの一端をお伝えします。神学校では聖書だけでなく、教会史や礼拝、讃美歌についても学びます。「宗教音楽」の授業では『讃美歌21』を取り上げ、各自が曲の背景や神学的意味を調べて発表しました。説教後に歌う82番「今こそここに」も、聖餐を通して神の臨在と教会の希望を歌う豊かな内容を持っています。讃美歌は歌うだけでなく、その歌詞を深く味わうことで、ひとつの説教となるほど豊かな信仰の世界を開いてくれることを学びました。私自身も讃美歌を題材に学内説教を書き、オルガン演奏にも取り組みました。礼拝堂でオルガンを弾く時間は、神学校生活の中で神様の慰めを最も深く感じる大切な時間でした。一方、他者との関わりの中で「認められたい」という思いに苦しむこともありました。しかし、かつてマネージャーとしてお世話したバレーボール選手の姿と、マタイによる福音書18章4節の「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉い」という御言葉を通して、本当の偉さとは神を全面的に信頼し、へりくだって生きることだと教えられました。これからも、謙遜と神への信頼を大切にしながら、与えられた語学の賜物を生かしてスポーツの現場でも奉仕し、どのような場所でも神と人に仕える歩みを続けていきたいと願っています。皆様のお祈りとお支えに心より感謝いたします。

off 幾千万の命と生きる

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説教:小手川 到 牧師

ミカ書 6章1節~8節

ノーベル平和賞を受賞したカーター大統領やオバマ大統領は、演説にミカ書を引用しました。ミカ書は真の平和を築くために何が必要であるかを私たちに問いかけます。私たちはしばしば自らの力で神の心を動かそうと考えます。「6:6・・・焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。幾千の雄羊、幾万の油をささげるべきか」。ここには物や犠牲によって平和を買い取ろうとする人間側の誤解が映し出されています。富や力、極端な自己犠牲によってもたらされるものは真の平和ではありません。「6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」。神が求める平和の基盤は、過度な儀礼や高価な贈り物ではありません。日々の生き方そのものです。不公正を正し、弱い立場にある人々の権利を守り、愛と慈しみをもって接することです。自分の力を過信せず、謙虚に神の導きに信頼して歩むことです。真の平和は大国が決める身勝手なルールや武力ではありません。私たちの足元の生活から始まるのです。幾千万の命が神の恵みの内に生きています。平和を愛し、隣人を愛し、今を生きていきましょう。

off 逆転しない正義

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説教:小手川 到

ヨハネによる福音書 6章48節~51節

アンパンマンが誕生した背景には、作家「やなせたかし」の軍隊経験があります。彼は戦いの中で「正義」がいかに信用しがたいかを痛感しました。またこれまでのヒーローは派手な格好をし、武器や必殺技を持ち、悪者や怪獣をやっつけるばかりで、空腹に苦しむ者を救いませんでした。そこからアンパンマンの着想につながったといいます。何よりアンパンマンのモデルはイエス・キリストとされているんです。イエス様は困っている人、苦しんでいる人を助けてくれるお方です。これはアンパンマンも同じ。アンパンマンのメッセージは、「本当に強いヒーローは自分以外の人のために自分自身を捧げられる人」ということなんです。ヨハネ福音書「6:48 わたしは命のパンである。・・・これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。戦時中、人々は軍国主義や植民地主義が「正義」と考えてきました。しかし敗戦によって、「正義」は簡単にひっくり返りました。そのようなまやかしの「正義」に対して、イエス・キリストもアンパンマンも、「逆転しない正義」を私たちに伝えようとしています。

off 平和のオアシス(平和聖日)

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説教:小手川 到 牧師

申命記 10章12節~21節

ヘブライ語で「シャローム(平和)」は、平和の意味にとどまらず、人の尊厳が守られ、生命が脅かされず、精神的にも物質的にも満ち足りている状態を意味します。申命記はそのような社会を実現するための指針を示します。今私たちは紛争や分断、不寛容に直面しています。自国の利益や自民族を優先するあまり、境界線の外側にいる人々を排除しようとする動きが後を絶ちません。人は豊かになり安全な立場を手に入れると、過去に自分がどれほど無力で、他者の助けを必要としていたかを忘れてしまいます。かつての自分と同じ境遇にある人々に対して、今度は冷淡で容赦のない態度を取るようになります。聖書はそのような病に対して、「あなたがたの原点を忘れるな」と迫ります。「あの苦しみや痛みを他の誰にも味わわせてはならない」。この思いこそが負の連鎖を断ち切り、平和を生み出す原動力となります。私たちには負の歴史があります。戦争の惨禍を単なる過去の記憶ではなく、今、目の前で苦しんでいる人々への共感センサーとして働かせるとき、私たちは国境や民族の壁を越えて、平和の手を差し伸べられるようになります。分断と紛争の荒れ野の世に、「平和のオアシス」が形成されていくことを信じます。

off キリストの体

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説教:小手川 到 牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節~26節

パウロは教会における多様性と一体性の重要性について、「体」の喩えを用いて語りました。私たちの体は全体で一つです。体は様々な異なった部分から成り、一体性を保って生命活動をしています。私たちの手や足、目や耳は目立つ部分です。一方、脳や内臓、血管、免疫細胞は見えないところで大切な働きをしています。イエス・キリストが十字架で死なれ復活をされたというのは、神さまの御心によります。もし神さまが優れた者、強い者のみを愛し、そういう者ばかりを集めて強靭なキリストの体を作り上げようと思われたのなら、十字架なんていらないんです。律法があれば十分だったのです。律法をきちんと守ることのできる強い者、優秀な学者だけを相手にしていればよかったのです。もしそうだとしたら、私たちの誰が救いにあずかることができるでしょうか。私たちが神さまの救いへ招かれ、教会へ集められているのは、神さまが欠けだらけの私たちを深く慈しんでくださっているからです。キリストの十字架という弱さによって私たちを救おうとしてくださるからです。教会というキリストの体は、この恵みによって形作られていくのです。

off キリストの愛、我らに迫れり

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説教:小手川 到 牧師

コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節

パウロは神の恵みが無駄になるかならないか、その瀬戸際に立つ切迫感の中に生きた人でした。もし私たちがパウロのように今という時の特別な輝きを感じることができれば、実はそれだけで私たちの信仰の本質は新たにされるだろうと思うのです。実はそれまでのパウロはキリスト教会を迫害する急先鋒でした。自分の掲げる聖書解釈の正義のために生きてきました。それが神の為に一番正しいことだと思ってきました。しかし今や誰よりもキリストを迫害してきた自分がキリストによって赦され、キリストの愛に生かされていることを知ったのです。思いもよらない神の愛を知ったのです。こうしてパウロはあらゆる束縛から解き放たれました。キリストは私たちの罪のために十字架で死んで甦ってくださった。その尊い恵みをパウロは受け入れたのです。パウロはキリストの愛に駆り立てられて生きる者とされました。それが今という恵みの時である。そのようにパウロは私たちに告げるのです。私たちも今パウロと同じ恵みの場所に立っています。今この時、神の愛は私たちを取り囲んでいます。私たちを捕らえて離さないキリストの愛を豊かに感じ取りましょう。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

off 手と手を取り合って

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説教:小手川 到 牧師

マルコによる福音書 8章22節~26節
日本基督教団では7月の第2主日を「部落解放祈りの日」に定めています。主イエスは差別を受ける人々と共に生きようとされました。生まれつき目の見えなかった人を前に、「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業が現れるためである」、そう言って盲人の目を癒されました。本日のマルコ福音書にも一人の盲人が主の前に現れます。ここでは盲人の周りに人々の善意の輪ができていたことが分かります。盲人は仲間に手を引かれ連れて来られたのです。そして仲間は、「盲人に触れていただきたい」と主に願ったのです。主はご自分の両手に唾をつけ、両手を盲人の目に置きました。すると盲人の目は癒され、はっきり見えるようになりました。闇の中にいた盲人は仲間に手を引かれ、主の手に引き渡され、主に触れていただくことによって見えるようになりました。心と目に光が差し込んできました。人は人とつながり、人から触れられ、人と交わることによって、身体だけでなく心も癒されます。手と手を取り合ってつなぐ愛の輪は、主イエスにつながっています。私たちも弱く小さくされている人たちと、差別を受けている人たちと、共につながっていたいと願います。