毎週の説教メッセージ

off 神がなさるのを

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録11:1-18

「異邦人も神の言葉を受け入れたこと」を(1)、エルサレムの人々も耳にします。ペトロがエルサレムに戻ってきた時、「割礼を受けている者たちは…『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と」(2-3)、批判しました。この記述は、起こった事態を和らげているように想います。批判の本当のところは、割礼を施さないで洗礼を授けたことを問題にしたかったのではないかと想います。そこで、ペトロは、「事の次第を順序正しく説明し始め」ました(4)。5-17節に展開されるペトロの報告は、10章の出来事を踏まえて語り、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになった わたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17)と、結んでいます。この報告を聞いて、「人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美し」ました(18)。しかし、カイサリアで起こったことの「衝撃」の波紋は、広がり続けているように想います…。この事態は、エルサレムから眺めるだけでなく、聖霊が臨む、神の介入と思われる出来事をどのように告白・表現していったかという、ペトロたちの経験に聞く必要があります。確かに、カイサリアは「微妙」な町であったと思いますが、ペトロも、後のパウロも、そしてキリスト教も成熟していくためには、通らなければならない「世界」だったのです。

off 神は人を分け隔てなさらない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録10:33-48

ペトロがカイサリアのコルネリウスの招きに応じて、訪問したところから始まります。ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34-35)と語り、「預言者もみな、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(43)と締めくくっています。    さらに、ペトロが語っていると、話を聞いている一同の上に聖霊が降ったとあります。その情景を見て、ペトロが「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47)と言い、再びペンテコステの出来事が起こったのです。この個所は、聖霊の働きと、水の洗礼の順序がこれまでとは逆になっていることが興味深いです。これまでの福音書の理解によれば、水の洗礼を受けた者にさらに聖霊が働いて立ち上がられるという順序が前提とされていました。しかし、「水の洗礼」から「聖霊の風」へと言う順序が逆転して、先ず聖霊の風が吹き、その上で洗礼へと至る方向の転換が示されています。私はここで、主の聖餐のクローズとオープンのあり方について考えさせられました。初代教会の豊かで柔軟な歩みの学ぶものがあると思います。「神は人を分け隔てなさらない」と言うことは現代風に言えば「神は人を差別しない」とも言えます。この信仰に立ってそれぞれの課題や困難に向き合って今週も歩みましょう。

off どんな人をも

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録10:1-33

物語の主導権は、神・幻にあります。コルネリウスもペトロも全く受け身です。

コルネリウスは、信仰あつく、祈り、施しをしています。それは、彼個人のみならず、その家族や仲間たちも、同様に動いていたかのようです。しかし、彼は、軍人であり、外国人です。政治的弱者であるユダヤ人から見た場合、彼はどのように映っていたでしょうか。キリスト教と呼ばれている動きに、彼自身が直接近づいていったのでもないようです。一方、ペトロは、タビタの癒しへと(9:36-43)導かれヤッファに滞在していたのかもしれません。彼は、神が創られたものを示されるかのような体験をするのですが(11-13、27)、清くない物・汚れた物は何一つ食べない(14)、外国人と交わることは律法で禁じられている(28)と、固辞します。しかし、その中で、ペトロは、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15)という声を聞き、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28)と、語ります。コルネリウスもペトロも、各々の現実の、ある枠内に留まっています…。

しかし、今日の聖書で、神は明確に「外国人である者」を招き導かれます。まず、神が動き、外国人も使徒も、共に変えられていきます。キリスト教は、「神の招きに応える者はだれでも神の家族である」という福音に、今までの伝承や枠から困惑を覚えつつも、その危険と思われる福音に、神の導きに、身を委ねようとします。

off 起きなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:32-43

今日の前半は、アイネアの癒しです(32-33)。「ペトロは方々を巡り、リダに住んでいる聖なる者たちのところへ…行った。…そこで、中風で八年前から床についていたアイネア…に会った。ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい…』と言うと、アイネアはすぐに起き上が[り]…リダ…に住む人は皆 アイネアを見て、主に立ち帰った」というのです。
後半は、タビタの癒しです(35-43)。「ヤッファにタビタ…と呼ばれる婦人の弟子がいた」(36)が、「病気になって死んだ」(37)。リダにいたペトロが招かれ、遺体が安置されていた屋上の部屋に入ります(38-39)。40節、ペトロは、「皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった」(40)。この後、「ペトロは彼女に手を貸して立たせ…聖なる者たちややもめたちに…生き返ったタビタを見せた。このことは ヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(41-42)というのです。

牧会において、主イエスよって歩みなさい(生きなさい)と語りかけられることの大切を、想います。死から生へと変わる、もう一つの世界の物語を、アイネアもタビタも聞きました。「起きなさい」。聖書は、その展開を、語られ、聞かれ、世界に突入し、広がるとしか、語りません…。リダ…に住む人も(35)、ヤッファに住む人も(41)、これらの出来事を見、「主に立ち帰った」(35)「主を信じた」(42)のです。

off すぐ、イエスのことを宣べ伝えた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:19b-31

私たちは、ステファノの殉教に続くキリスト教の迫害のこと、信者が散らされていったこと、そして、エチオピアから来た人が洗礼を受けたこと(8:26-41)、サウロが回心したこと(9:1-31)などを、見てきました。それらを振り返ると、回心は、霊によって引き起こされ、様々な形態をとり、多種多様な反応を引き起こす、個々人に特有な事態であることが、わかります。しかし回心は、個人的なことにとどまるのではなく、むしろ、共同体的な事柄でもあります。先週、私たちは、アナ二アがサウロの回心に関わったことに触れましたが、今日の聖書でも、サウロが教会のメンバーに受け入れられるように、バルナバが関わっています(27)。回心は、個人的な出来事でありながら、共同体に受け入れられ、洗礼を受け、パンと杯に預かり、祈るという、共同の営みでもあります。しかも、回心を共同の営みと考える時、回心は終わりではなく、回心は始まりであるということが、よくわかります。私たちは、人生の途上で、「この道」(キリスト教、9:2)のメンバーとして振る舞おうとしているのではないでしょうか。そして、その途上で、驚くべきことに遭遇し、重大な方向転換をなすことが度々あったのではないでしょうか。さらに、回心は、召命の物語でもあります。ある人が神の業のために招かれ、神の福音を前進させるため、自分が受けた恵みをどのように用いるかを考えさせる事態ではないでしょうか。サウロの回心をめぐり、彼も、教会も、主の関与を受け留めようとしています。

off 主よ、ここにいます

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録9:10-19a

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との問いに「主よ、あなたはどなたですか」とサウロが言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(6)。ダマスコにはアナニアという弟子がいました。主の呼びかけに「主よ、ここにいます」と応えた。「…サウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。…自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようしてくれるのを、幻で見たのだ」(11-12)。しかし、アナニアはサウロの噂を知っていました。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで…、御名を求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(13-14)と言って躊躇します。アナニアこそ、ダマスコでサウロが迫害しようとしていた一人であったからです。主は「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15)と言われました。アナニアがサウロの上に手を置くと、たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり目が見えるようになり、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気になりました。

サウロの回心は、サウロ自身はイエス・キリストの呼びかけを聞いていますが、それを承認し、さらに方向づけるアナニアという一人のキリスト者が備えられました。回心という出来事はただ独りでできることではないのです。主イエスに従っている私たちも「主よ、ここにいます」と用いられる歩みをしましょう。

off なぜ、わたしを迫害するのか

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:1-9

2025年の歩みが始まりました。主日礼拝の聖書も、使徒言行録に戻ります。

「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1-2)。「この道に従う者」が、サウロに最初に対峙したのはステファノでした。ステファノは迫害する者に「あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」(7:52)と語りますが、同時に「この罪を彼らに負わせないでください」(7:60)と語りました…。「サウロが…ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼のまわりを照らし…サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞」きました(3-4)。神の介入は不思議ですが、パウロも彼を地に倒し呼びかける方を「主よ」と呼びかけています。[ここには「神の敵を忠実に迫害する者が神の敵になるということが起こるのか」ということが関与しているのでしょうか。] 声が聞こえてきます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(5-6)。聖書は、サウロを迫害者とみなしており、そのサウロが(告発ではなく)招きを受けたと、伝えます。同行していた人には事態はわからず、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9)。サウロは無力になり、主の招きに入っていきます。

off 最初のキリスト教の礼拝

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書2:1-12

今日の聖書の結び(12)を読む度に、東からの人々が道を見失ったりすることがあったとしても「確かなものを求める」歩みを続けていったのだと、私は思わずにはおれません。今日の説教題を「最初のキリスト教の礼拝」と記しましたが、羊飼いたちの行動(ルカ2:1-20)が最初のキリスト教の礼拝ではないかと、お感じになる方々もおられるでしょう。私は、次のような点で、今日の聖書の出来事がキリスト教の最古の礼拝であると感じています。聖書は、神さまの子どもとして生まれた方(確かなもの)を、人々が探し求め、賛美し、献げ物をしていると、伝えます。礼拝をすることは誰もが招かれているものだと信じ受けとめますが、今日の聖書では、(ユダヤ人という枠を超えて)東から来た人々・外国人が礼拝をしていることが象徴的です。また今日の聖書では、確かなものを求める人々を神は「別の道」(12)へと導いていかれる(参考「この道に従う者」(使徒言行録9:2))と、描いています。これらのことを想像しながら、私たちも、自分たちが最初の礼拝へと歩み出したことを思い出したい。気がついた時には礼拝の中にいたとか、ずっと昔のことなので忘れてしまったという方もおられるでしょう。しかし、私たちが自覚するしないにかかわらず、主を求める人々の群れの中で、最初の礼拝に導かれた出来事から、今の私たちに繋がっています。そして、これからの日々、私たちは、全ての人が招かれている礼拝を自覚して、歩みたいものだと思います。

off しるしが与えられる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書7:10-14

今日は降誕前第1主日です。預言者イザヤは、政治状況ではなく、イスラエルを導き治める正体(実体)に関心があるかのようです。イザヤは、アハズが立つかどうかに、関心を寄せています。あなた(アハズ)が主に信頼を寄せるならば、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(11)と、告げます。しかし、アハズは、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(12、参考 申命記6:16)と、敬虔を装い、その責任を回避します。そこで、「ダビデの家よ聞け」(13)と、責任をとらない王を抱くダビデ王権に、「審判」が告げられます。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」(14)。この「男の子」「インマヌエル」とは誰なのでしょうか。イザヤ書は直接語ってはいませんが、ある注解は、アハズの息子のヒゼキヤであろうという方向を示唆しています。今日の聖書を、信じないアハズに代わって新しい(神を信ずる)指導者・王への交替が告げられていると、解釈するのです。アハズの息子ヒゼキヤの評価は列王記下18:1-8にありますが、そこには、「彼(ヒゼキヤ)はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(5)と記されています。私たちは、その歴史や聖書の預言を踏まえつつ、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。私たちも、「インマヌエル」とはどういうことなのか、確かめ、歩み出したいものです。か、どういう様なのか、イエスが来られたことを、受けとめます。そして、私たちも、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。か、どういう招きなのかを受けイエス・キリストを指し示すという方向に傾いているかと、想われます。

off 先駆者

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説教:加藤 久幸 牧師

士師記13:2-14

状況は厳しく、闇は深い…。サムソンの母親になる女性は、ダンの氏族に属するマノアという人物の妻で「不妊」であったと、紹介されます(2)。彼女の名前は知らされておりません。「あなたは身ごもって男の子を産む…彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となる」(3-5)と。こういう誕生物語では子どもの名前が告げられることが多いのですが、ここにはありません。彼女が夫にした報告においても、「その子は胎内にいる時から死ぬ日までナジル人として神にささげられている」(7)ということのみが強調されます。このナジル人の誓約も、(人間の側から言い出したことではなく)神の使いが伝えたことです…。やがて誕生するサムソンはこの誓約にことごとく違反していきます…。人々は、サムソンの力強さに目を奪われるのか、彼を士師の一人として捉えようとしてきました…。しかし、聖書を素直に読むと、彼は神から祝福を受けたが、それを適切に用いることに失敗したと、見なされるのではないでしょうか…。人々はサムソンに期待をしましたが、「イスラエルを解き放つ救い」(5)という主の(使いの)言葉に期待し、その登場を待ち望んだ無名の人々こそ[例えばサムソンの母]、「先駆者」のような性格を帯びていったのでは…。さらに言うなら、動かない・動けない人々の状況を見て関わった主こそ、「先駆者」の名にふさわしいのではないかと想わされます…。