毎週の説教メッセージ

off 祈っていると、天が開け

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書3:15-22

洗礼者ヨハネはメシアについて3点述べています。①その方は「優れた方」・力ある方である(16)。②その方は「聖霊と火で洗礼を授ける」(16)。③その方は裁き、救いを行われる(17)。ルカの語りは、神の時・出来事(カイロス)の流れから語り、イエスはどういう方かということに焦点を当てます。イエスは洗礼を受けて「祈っておられると、天が開け」声が聞こえ、み言が与えられました。聖霊が降るというのは、み言が与えられる出来事です。教会の誕生においても、同様の出来事が起こりました(言行録2:4-13)。その出来事を受けとめ、ペトロが証しをします(言行録2:14-36)。そこにはヨエル書(3:3-5)が引用されています。私たちは、言葉に注目しその前半に関心を寄せますが、その後半部(2:19-21)に耳を傾けることは少ないかもしれません。イエスも、終わりの時(ルカ21:5-36)を語っています。ルカは、明らかに、今は終わりの前の試練の時・証しの時・教会の時と、捉えているようです。恐らく、私たちも、そのように受けとめています…。ルカ福音書では、イエスの「終わりの時」の話(21:5-36)は、イエスの公けの活動の終わりの場面になっています。その後に続くイエスの日常の歩みの短い言及(21:37-38)は、今の時を生きる私たちに導きを与えます。イエスは、教える(活動する)ために、朝早くから民衆と出会い交わります(37)。今日の「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22)という声に始まり、天からの世界のみ言になっていく、この方の歩みは永遠に続きます。

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書2:21-40

21節、誕生から「八日たって…幼子はイエスと名付けられ」(1:31参照)、割礼が施されます。22-24節、律法に従って、マリアとヨセフは2つの儀礼を行います。一つは、出産後の母親の清めの儀式(レビ記12:1-8)です。もう一つは、初子を神に献げることです(出エジ13:2,12-16)。神に献げられた初子は銀5シュケルで贖われます(民数記18:15-16)が、イエスについてはこの点について語られていません。イエスが神(殿)に献げられた時、2人の証しがあります。シメオンの頌歌は第2イザヤ(40-55章)から多く引用され、世界の救済は既に示されています(42:6,49:6)。彼は、ここで、世界の救済は大きな代償なしにはありえないと告げます。34-35節、イエスは全ての人を命のあり方の決断という「危機」へと導くことになるだろうと示します。英語で「影響を与える」はmake a differenceと言いますが、文字通りには「違いをつくる」です。今日の説教題を「人の心に ある思いがあらわにされるため」(35)としましたが、イエスに出会う全ての人々が、思いや行動の違いを顕わにされる。そういう方であると表現され、イエスの犠牲・死が暗示されます。アンナも「夫と死に別れ」てから「神殿を離れず…夜も昼も神に仕えていた」(37)が、この時イエスと出会い、「救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話し」(38)ました。招きの詩編84編も、神の御前に出る、巡礼の時の、約束と成就の経験を賛美しています。イエスの献身の賛美から、新しい救いの物語が展開していきます。

off あなたがたへのしるし

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書2:1-20

聖書にはイエスの「養育」者となるマリア・ヨセフという若い夫婦が登場します。彼らは、時の為政者の人口登録のために(1-2)、各々の町へ帰るという「命令」に従わざるをえませんでした。その旅の途上で(3)イエスが誕生します。その時、この若い夫婦と新たに誕生する命を迎える、「泊まる場所」はなかったのです(7)。現代風に言えば、ここには経済格差の問題を感じます。さらに言うなら心の貧困の問題を感じます。厳しい現実の中、臨月を迎えていたマリアたちに「場所」をあけようとはしなかったのです。生まれた乳飲み子は「飼い葉桶」に寝かせられます(7)。[『信徒の友』12月号(主日日課解説 97頁)の「飼い葉桶」についての注釈を参照] そして羊飼いが登場します。羊飼いは、いつも羊と共に野宿をしながら生活をします(8)。ユダヤでは、王さまは羊飼いのように民を守ると、譬えられてきました。しかし現実は、人口調査の命令が出ても(1)、羊飼いは住民の一人として数えられていません。社会の周辺どころか、社会の外に置かれたような存在です。最初のクリスマスの原風景は、居場所のない、いと小さき者たちに、神さまが臨まれるという出来事だと、想います。ベツレヘムも、飼い葉桶も、羊飼いも、それらがつながって起こるイエスの誕生も、いと小さき者に関わってくださる、神の「あなたがたへのしるし」(12)です。しかし、大事なこと・真実なことが、ひそかに確実に行なわれていくと、聖書は伝えます。私たちも新たな出発をしましょう。

off エッサイの根はすべての民の旗印

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

イザヤ書11:1-10

南ユダの預言者イザヤは、活動期間の40年間に3つの大きな危機に遭遇しています。1つはシリア・エフライム戦争(BC734⁻733)です。当時アッシリアは最盛期で、シリア・パレスチナに進出したことに伴い、この地の小国家群は反アッシリア同盟を組織し、ユダにも加わるように誘いましたが、アハズ王は応じないで、アッシリアの援軍を求めました。イザヤは「神が守り給うから、ただ神に信頼せよ」と叫びましたが、アハズ王は聞きません。結果、ユダ王国はアッシリアの属国になりました。また、北王国の滅亡もありました。ヒゼキヤ王の時は反アッシリアとして戦い、国に侵入され、町は攻略され、20万人が捕虜にされ、王はエルサレムに幽閉されました。そして城を明け渡せと要求されて、王はついにイザヤの言葉に聞き従いました。すると翌日アッシリア軍は去り、救われました。しかし神に立ち帰るまでにはなりませんでした。このような時代の中で、イザヤは真の平和を切望していました。ダビデがそうであったように、エッサイの根から若枝(メシア)が育ち、主の霊が注がれると預言するのです。「知恵や識別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れ敬う霊」を兼ね備えた王が、弱い者、貧しい者のために正しい裁きを行うために来ると預言します。クリスマスを迎える時、私たちも平和の王の預言を受け止め、それぞれ祈り行動するものでありたいです。

off 苦しめられていた者たちを集める

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ゼファニヤ書3:14-20

今日の聖書は、残りの者への希望(3:9-13)とエルサレムの回復(3:14-20)が宣べられます。先週の説教で、私は、過ちが自分の側にあることを認めるのは屈辱的なことであり、自らの誇りがそれを許さないと述べました。ゼファニヤ書は、この人間の誇りを扱います。私たちは、「終わりの時(神の救いの時)」の預言などは現代においても「未だ」実現していないと、読むのではないでしょうか。ゼファニヤの預言は、神の未来について驚くべき「きらめき」を放っています。その時、「イスラエルの残りの者」には「不正」「偽り」「欺く」がなく「養われて憩い…脅かす者はない」(3:13)と示します。現実のエルサレムは[アッシリアの都であった]ニネベ(2:13)のようであったが、「その日には」(3:11)へりくだりの中で神と共にある「充足」を味わいます。この新しいエルサレムは、ヨハネ黙示録の都・世界を、暗示させます。「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために 着飾った花嫁のように 用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくる」(21:2)に響き合います。新しいエルサレムが全きものとなるとき、世界・全地も全きものとなり、神の恵み深い目的がついに完成します。今日の預言を、イエス・キリストの出現と彼によって始まる「終わりの時(神の救いの時)」を重ねて味わうと、み言が指しこんできます。「主はあなたのただ中におられ 救いをもたらす勇者である」(17,新訳)。主との交わりを求め、苦しめられている者を、主は集めると言われます(18)。アーメン。

off 主を尋ね求めよ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書55:1-13

エルサレム陥落は、神の力を、神の救う意志を、問わざるをえませんでした。第2イザヤは、イスラエルの歩みは、命(3)の源である神から遠ざかり、人間の恣意的な願望の虜(とりこ)になっていたからだと、語ります。それ故、「かつてわたし(神)は…諸国民の指導者、統治者とした」(4)者に代って、「今、[神を求め飢え渇く]あなたを[立て]…あなたに輝きを与え」る(5)。このことを成すのは、「あなたの神である主」「イスラエルの聖なる神」(5)であり、その神が第2イザヤを通して語りかけます。「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに」(6)。「主に立ち返るならば、主は憐れんで…豊かに赦してくださる」(7)と宣べます。こういう状況を踏まえ、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道は あなたたちの道と異なると 主は言われ」ます(8-9)。55章は、第2イザヤの預言(40-55章)の結びの箇所です。預言は、40章で「草は枯れ、花はしぼむ。わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8)と始まりましたが、55章では、雨や雪のように譬えられた神の言葉は、「大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種まく人に種を与え 食べる人には糧を与え」(10)、このように、神の言葉は「わたしが与えた使命を必ず果たす」(11)と宣言します。「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く」時(12)、それは「主に対する記念となり、しるしとなる。それは とこしえに消し去られることがない」と(13)、第2イザヤは結んでいます。お祈りしましょう。

off 約束を果たす日が来る

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

エレミヤ書33:14-18

33:14-16は23:5-6と内容的にはほとんど同じです。違いを指摘すれば、安らかに住むところが「イスラエル」(23:6)→「エルサレム」(33:16)となったことでしょうか。この違い(16)と、その後の18-19節と併せ読む時、付加の背景や事情が推察されます。この営みを通し、私たちが聖書をどう読むか、旧約の預言をどう聞くかが、導かれるような気がいたします。今日の聖書は、「エルサレムは安らかに人の住まう都となる」(15)と告げ、「王座につく者」(17)も「祭司」(18)も「耐えることがな」く回復されると告げます。しかし、エレミヤは、すでに「神殿の破壊の可能性」(7:1:15)を警告しており、王権を維持することにも明確な非難をしていました(22:1-23:2)。つまり、エレミヤ書全体からすると、エレミヤは、イスラエルにとっての二つの制度、ダビデ王権も神殿礼拝も[必要]不可欠であるという考えを持っていなかったと言えるでしょう。従って、今日の16-18節は、本来のエレミヤの流れとは違う、後の明確な主張をもっていた人々の改変・付加と考えられます。私たちは、「見よ…恵みの約束を果たす日が来る」(14)という、エレミヤの預言にまなざしを向けたいと思います。破滅が避けられないとなった時、エレミヤはイスラエルの新しい出発に関する預言を語ります。過去、神が与えた「約束を果たす日が来る」(14)。預言を成就するべき者が興されます。そこに希望があります。

off 王を迎える喜び

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

サムエル記下5:1-5

イスラエルの民は何故王を求めたのでしょうか。それは預言者サムエルの息子たちが神の神意を伝えなくなり、不正な利益を求めて、賄賂を取って裁きを曲げたり、ほかのすべての国々のように、目に見える形の強い王を求めたからです。しかし、サウル王は神の言葉を聞かず、富に目を奪われ、それを神に捧げるためだと言い訳をしました。サウルの追手から逃げていたダビデはサウルを殺す機会を得たが、上着の裾だけを切り、その行為すら後悔しました。サウルは神から油注がれたものであるからです。ダビデは油注がれた者の背後にはっきりと神を見ていました。しかし、ダビデは決して完全な王ではありませんでした。ウリヤの妻バト・シェバを姦淫し、夫ウリヤを激しい戦場に送り、殺しています。「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった」(5:4)その間息子アムノンが異母妹タマルを犯し、タマルの兄アブサロムがアムノンを暗殺等、正しく裁くことができませんでした。しかし、ダビデの最も素晴らしい点は罪のどん底で真実に悔い改めたことであり、赦されるはずのない罪を赦された喜びを讃美に歌い上げたことでありました。ダビデは心からの悔い改め、王としての自分ではなく、神の前に立つ一人の罪人に戻れ、神の憐れみの恵みに生かされました。彼の歩みに学び、主イエスを迎える準備をしましょう。

off 『わたしはある』という方が

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

出エジプト記3:1-15

モーセは、神との出会いの前に何の備えもありません。そして、彼は、備えを求められているわけでもありません。モーセの今までの歩み(1-2章)が、受け容れられ、否定もされていないと、言えるのではないでしょうか。神は、モーセが神と自由に対話できるよう、自らを低くして現れ、名前を告げられます(6)。しかし驚くべきことに、この後、モーセの召命が、神から告げられます(7-10)。神の現れの時に従順であったモーセ(4-5)は、使命が示されると、彼の異議や抗議が始まります。しかし、この後長く展開される、神とモーセの対話は、抑圧的でなく、ある種の親密さと心配り、自由さに満ちています。モーセは、最初は「わたしは何者か」と問うたのですが(11)、やがて神に「あなたは誰か」と問います。神は、6節の名に加え、「…『わたしはある』という方がわたしを…遣わされたのだと」語り(14)、15節を命じます。「これこそ、とこしえに わたしの名」(15)は、神が民の歴史に参与すること、民が神の業に参与することを、示唆しています。神が「民の苦しみを…知」り(7)現れ名乗ることは、神が「苦しみを共にする」表明でもあります。この神の救い(解放)は、何かからの解放だけでなく、何かへの解放であり、人々を贖いから創造へと至らせます。モーセへの約束が、私たちにも示されています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12)。私たちも主と共に、この世界・歴史へと出て行きましょう。

off 人はひそかに神を笑う

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

創世記18:1-15

「三人の人」(2)がアブラハムを訪れ、彼らは去っていきます(16)。しかし、アブラハムとサラと対話をするのは、「主」(1,13,14-15)です。物語は、人間には理解できないことがあると言わんばかりに、展開します。1-8節では、アブラハムが主導的で、忙しく、うやうやしく「客」をもてなします。9-15節では、主導権は「客」(≒主)にあり、ゆったり(遅く)展開するように感じます。「わたしは、来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10)。この場面のサラの態度が記されます。「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年をとっているのに、と思ったのである」(12)。アブラハムとサラは、断念・諦めさえすれば、制約のある(閉じられた)世界で自らの努力や主導的な行動が取れる(例えば、養子をもらう、妻以外の女性に子どもをもうける)と考えたでしょう。それに対し、閉じた扉をノックし続けるように繰り返される「主の約束」は、希望の無さとして響いたのではないでしょうか。主は決定的な問いかけをします。「主に不可能なことがあろうか」(14)。言葉は既に発せられました(10,14)。しかし、アブラハムとサラは「なお」「さらに」疑いの中におり、サラと主の緊張あるやりとり(14,15)で、今日の物語は終わります。しかし、来るべき未来は、開かれたままなのです!