毎週の説教メッセージ

off 福音にふさわしい生活を送る

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピの信徒への手紙1:27-2:16

今日の聖書は、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27)と始まります。「ふさわしく」という言葉は行動を表わす言葉です。恐らく、フィリピの市民は、自己を誇り、愛国的でもあったと、想います。フィリピの信徒たちは、特別のことをしていたのではなく、彼らの生活、そして、神を信じ礼拝する、投獄されたパウロともつきあいがあるなど…そのような生活のたたずまいが彼らの歩みを形作っていました。29節に、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(29)と、あります。それは、パウロが、フィリピの信徒の人たちの歩みをそのように受けとめていたからであります。それ故、パウロは「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いを あなたがたは戦っています」(30)と、述べます。そこで、パウロは「キリスト賛歌」(2:6-11)を紹介し、「わたしが…いない今はなおさら」(2:12)と語ります。そして、パウロはモーセの訣別の辞にならった言葉を述べます(2:14-16)。パウロは、警告として積極面を表現します。それは、パウロが、神の民は「世にあって星のように輝き」(2:15)行動すべきと、考えていたからでしょう。そして、そのことは、教会を教会たらしめるのは「キリストにある」と信じ、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(2:13)と、受けとめていたからであります。

off キリストがあがめられますように

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピの信徒への手紙1:12-26

パウロが逮捕され監禁された…。このことは、フィリピの教会の人々にも衝撃をもって伝えられ、何らかの説明が必要になる事態でありました…。パウロは、「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと 知ってほしい」(12)と始めます。「前進」という言葉はもともと軍隊の用語ですが、福音の進軍というのは兵隊の中で改宗した人が現われるということを意味してはいません。実に様々な動きが出て来るということを、パウロは語っています(15-17)。パウロが監禁されているのは、彼が不法を働いたわけではなく、キリストの福音のために捕らわれていると、パウロは語っています(13-14参考)――イエスの逮捕の時、沈黙し逃げ去った弟子たちと、教会に公然とこのように証しをする使徒パウロの姿に、違いを感じます――。この証しの背景や影響を想いますが、一つだけ言うと、主がおられるところには苦しみはないという態度から、苦しみのあるところに主がおられるという態度への、変化を感じます…。また、人間の意図や関心に関わりなく(15-18)、パウロは、「キリストが告げ知らされて」おり(18)、「わたしの救いになると知って」おり(19)、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと 切に願い、希望しています」(20)と、述べています。他の力が自らの運命を決定すると想われますが、パウロは、自ら主導権をとり、自らの態度を決め歩み出す、その悪戦苦闘の様を表現しているように想います…。それは、時が良くとも悪くとも、しなやかに生きるキリスト者の姿を証ししているかのようです…。

説教:加藤 輝勢子 牧師

フィリピの信徒への手紙1:3-11

パウロはフィリピの信徒たちのことを思い起こす度に、神に感謝し、信徒たちのことを、喜びをもって祈っています。フィリピの信徒たちがイエス・キリストの福音の業を成し遂げることができると、パウロは確信しているのです。パウロが投獄されても、福音の弁明をするときも、あなたがた一同をどれほど思っているかを、神自身が証ししてくださるというのです。だから、パウロはフィリピの信徒たちが知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かに、本当に重要なことが見分けられるようにと祈るのです。知る力と見抜く力を身に着けて、本当に重要なことが見分けられるようになるには、あなたがたの愛がますます豊かになることが必要です。それは「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、完全なものであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)ということです。パウロは律法を熱心に学び、忠実に守りました。自分はそれを誇りとしましたし、律法を守らない人、守れない人を軽蔑しました。しかし、復活の主に出会って、律法を守るための神だと思っていた神が、実は律法を守れない人たちを顧みる神であったことを知らされます。強い者の神であると思っていた神が、実は、弱い者と取るに足らない者の神であることを知らされます。一人前とはとても思われない人間、むしろ自分自身が一人前であることを諦めてしまっている人間を顧みてくださる神を知り、パウロはキリスト者として新たな人生を始めます。これは私たちの意思や努力ではなく、神が私たち以上に私たちを気にかけてくださるのです。

off 『フィリピの信徒への手紙』について

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説教加藤:加藤 久幸 牧師

フィリピの信徒への手紙1:1-2

パウロの手紙(紀元50年代に執筆)は、パウロたちの宣教方法つまり長く同じ土地に留まることはなかった(使徒言行録を参照)ということと密接に関係します。しかし、パウロは、手紙を通して「臨在」ということを大事にしました。フィリピの信徒への手紙(以下「フィリピ書」と表記)は、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」(1)と、発信人の記述から始まります。それは、キリストが僕の身分になられたと同じように、互いが相手に対して僕となるように勧めることを意味しており、テモテの名前が見られるのはパウロたちの宣教がいつもチームであったことを示しているのでしょう。次に、「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」(1)と、宛て名が出てきます。それは、神が「神の民」として宣言されたフィリピの信徒たちがどのように生活するかが[本文において]展開されていくことが示唆されているように思います。使徒言行録はこの町の宣教の始まりを伝えています(16:11-40)が、パウロがローマ帝国の権力に対峙したのはこの町が最初でした…。さらに、宛て名は「監督たちと奉仕者たちへ」(1)と続きます。この監督・奉仕者という職務が教会に出現するのは2.3世代後であると言われていますが、当時も、奉仕者・監督は召使や世話人に対して普通に使われていたようであります(私は「公僕」という言葉を意識します)。最後に、パウロは「神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(2)と語ります。フィリピ書は、礼拝をするために集っている者のために、そこで読まれるために書かれました。書き手も読み手も、不相応な者でありつつ、神の「臨在」を求めました。

off 特別でないことを尊ばれる神

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

創世記2:1-9

創世記には人の創造が二種類(①1:26-28と②2:7)記され、①では、神の似姿(他の被造物にはない特別な存在)として、人は神の言葉(神の御心)を聞いてそれを行うことが出来る(「支配」は「治める」の意)存在で、被造物の世を調和と和解に導く使命が示され、①での人は集合体の意味合いが強い。②では人に定冠詞が付され、個人の意味合いが強い。神が個として人を創造する際、「神が自身の手で“土の塵を捏ね”“形づくり”“鼻に息を吹き入れる”」の記述からは、唯一無二性・親密性を読み取ることが出来ます。そして“土の塵”とは、どこにでもあり、特別でないものを象徴しており、それを材料に手間を惜しまずに“人(私)”を創造されるということは、神が特別でないことを尊ばれること、世の価値観からすれば掃いて捨てられてしまうような“私”を、かけがえのない一人として創造して、大切にされるのが創造主なる神なのだと、聖書は最初に語っているのです。私たちの価値観は特別なもの(希少性・優位性)を尊び、それとは逆に特別でないものには価値が無いように感じてしまいます。でも、本日の聖書箇所は、私たちのその考え方を根底から崩します。②では、形(容姿・完成度)への具体的な言及は無く、神との繋がり(命の息を吹き入れられて生きる者となる)が厳しい現実を生き抜く鍵だと伝えています。私たちは現実の社会の中で、他者との比較や社会的な評価にさらされる時、「自分は普通だ」「何の取り柄もない」と感じ落ち込む時こそ、優れているから大切なのではなく、神が自身の息を吹き入れた存在だから既に大切にされていることを心に留め、今を大切に歩む者となりたい。

off パウロは教え続けた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録28:11-16

パウロは、ユダヤ人たちを招き(17)、話をしました。その内容は、①自分(パウロ)は先祖の慣習(律法)に背くようなことはしていない(17)、②自分が批判したのは慣習を第一とする考え方(律法主義)でユダヤ人を告発するためではない(19)、③自分が宣べ伝えているキリスト教の使信(メッセージ)はイスラエルが希望していること(神が定めたこと)を成就するためである、です。ユダヤ人たちは応答し(22)、日を決めて大勢で再訪しました。パウロは、「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、説得しようとし」ました(23)。ところが、「ある者はパウロの言うことを受け入れ…他の者は信じようとはしなかった」(24)のです。福音を聞き、受け入れる者と拒絶する者がいるというのは、たびたび起こります。この時、パウロは、預言者イザヤの書を引用し説明しました(25)。ある注解は、この箇所で、イエスの「『大宴会』のたとえ」(ルカ14:15-24)を紹介し、神の国は、貧しく飢え悲しんで侮られている人々のみが、差し出された招きを聞きこれを受け入れることができるだろうと、語っています。こういう事情に鑑み、使徒言行録のパウロは「神の救いは異邦人に向けられました」(28)という表現をしているのではないかと想わされます。誰にでも、福音の門戸は開かれています。使徒言行録の最後は、「パウロは…借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(30-31)と結ばれます。パウロは「捕らわれて」はいましたが、福音の信仰の喜びに生きたのです。

off 神に感謝し、勇気づけられた

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録28:11-16

マルタ島で3か月が過ぎ、パウロたちは春になってアレクサンドリアの船に乗って出港しました。シラクサに寄港して3日間滞在し、海岸沿いにレギオンに行き、南風が吹いて来たのでプテオリに入港しました。きわめて順調な船旅でした。プテオリから陸路を通ってローマに向かいました。ローマまでは200㎞以上ありました。ローマのキリスト者たちは途中アビイフォルムとトレス・・タベルネまでパウロを迎えに来てくれました。「パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」(15)とあります。力や奇跡的救出、神の介入などの記述で満ち溢れているこの使徒言行録の物語において、このことは、多分弟子たちが発揮できるキリスト教信仰の最大の力を意味しています。教会におけるキリスト者の力です。パウロは迎えに来てくれた彼らを見て、勇気をもらったと思います。

私自身も新しい土地に移り住むときに、その地の教会から力をもらいましたし、教会員からも勇気づけられましたし、不安を感じることはありませんでした。

これから待ち受けている厳粛な運命をパウロも理解していたと思いますが、一人ではなく、神が共にいてくださり、同じ信仰者の存在は勇気づけられたと思います。苦難にあるパウロを支え、神がパウロのそばにはっきりといることと、キリスト者たちもまたパウロのそばにいるのです。この旅は、もはやパウロの一人ぼっちのローマへの旅ではないのです。キリスト者にとって、教会が神と人との交わりを大切にする居場所であり、弱さを誇れるような一人一人を大切にするところであれればと願います。

off わたしたちが助かったとき

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録28:1-10

パウロたちが上陸したところは、シチリア島の南方にある、マルタ島と呼ばれる島でした(1,聖書巻末地図9参照)。この島の住民は、ほとんどフェニキヤ人の血統で、言葉もフェニキヤ語の方言を使っていたため、ギリシャ人たちからもローマ人たちからも「未開な人」と見なされていたようです。島の住民は、パウロたちをもてなしてくれましたが、最初はパウロのことを犯罪人と考えたり(4)後には「神様」だと考えたりしました(6)。この後の後半には、島の長官(首長)でブブリウスという人が、「わたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた」(7)という、報告があります。さらに、「ブブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった」(8-9)と、あります。これらの出来事の背後に、「わたしたち」の中に医者ルカの存在を想定する人もいますが、いずれにしても、「わたしたち」が、島の人々を決して「見下す」ことなく、お世話になりながら、島の人々の信頼を受け、病気で苦しんでいる人々に関わる姿に、「宣教」の本来の姿を教えられるような気がいたします。私たちの信仰の歩みは、論争や科学技術の進歩の中にだけではなく、マルタ島の人々とパウロたちの交わりの中にこそあるのではないかと、思わされます。説教題に「わたしたちが助かったとき」としましたが、現実的には肉体的な命が助かったときを表していますが、その背後には信仰の感謝もあったのだろうと想います。そして、その感謝がその後の歩みを導いたのでしょう。

off 東方の学者たち

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書2:1-12

東方の学者たちはエルサレムまで星に導かれてきました。しかし学者たちはユダヤの王はどこで生まれるかを、ヘロデ王に聞きに行きました。王様なら、なんでも知っていると思ったのでしょうか。それともメシアが生まれるのは王宮だと思ったのでしょうか。それを聞いたヘロデ王は民の祭司長や律法学者に尋ねると、「ユダの地、ベツレヘムです」と教えられました。学者たちに自分も拝みに行くから、見つかったら教えてくれといって送り出しました。学者たちは星が先立って進み、その場所を見つけました。そして、ひれ伏して拝み、贈り物をしました。「ヘロデ王の所へ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行きました。ユダヤ人の王が生まれると聞いて、不安に思ったのはヘロデ王だけではありません。エルサレムの人々も同様であったとあります。変化を恐れたのでしょうか。今、何とか暮らしていれば、多少不自由でもこのままでいいと思うのでしょうか。学者たちは星に導かれて、たどり着いたのは家畜小屋でした。飼い葉おけに寝かされている幼子と母を見ました。学者たちは真のメシアの意味がわかったのだと思います。この幼子がどんな人たちのメシアになっていくのかを。そして自分たちの生き方を考えたのでしょう。黄金、没薬、乳香は大変貴重なものですが、イエスとの出会いはそれ以上の価値があったのです。学者たちは別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。イエスに出会った学者たちは今までとは「別の道」を帰って行ったのです。イエス・キリストに従う道を歩みましょう。

off 人は力によって勝つのではない

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説教:加藤 久幸 牧師

サムエル記上2:1-10

今日登場するハンナは、子どもがいないことで悩み苦しんでいました(1章参考)。彼女が歌うのは、祈りがその通り実現したからでしょうか。もちろん、その喜びは確かにあったと想像します。しかし、それとともに、人にはなかなか理解してもらえない自分の悩み、嘆き、苦しみを、神は聞いて受けとめてくださった。一人ではあるけれども、孤独ではないことを、ハンナは身をもって知ったのではないでしょうか。歌・祈りには、歌・讃美について(1)、行いについて(3)、戦いについて(4)、食べ物・子どもについて(5)、命について(6)などが、社会的な広がりをもって歌われています。この歌は、ハンナの「高くされる角」(1、強さ)と主(メシア)の「高く上げられる角」(10、力)の両方を、名誉が回復されるように、見える形で表しているのでしょう。つまり、この歌・祈りは、王の詩編としても、個人的な家族の祝いの歌としても、受けとめられます。そう考えると、この歌・祈りは、ハンナが独創的に歌い展開しているというより、イスラエルがすでに長い間歌い続けてきた歌に、その声を重ねていると言えるでしょう。この歌は、全体として、未来と世界が「開かれる」と歌います。丁寧な説明はなされていませんが、明らかに変化・逆転を強調し、「主は 命を絶ち…命を与え、陰府に下し…引き上げてくださる」(6)と、この方にのみある力を、現実の「復活」を象徴的に讃美しています。私たちも、主が来られる(アドヴェント)・クリスマス(神の介入)の意味を思いめぐらしたいものです。