毎週の説教メッセージ

off 愛に生きる自由

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説教:小手川 到 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~11節

主イエスというお方はユダヤ人ですから割礼を受け律法を守られました。しかし律法をただ形式的には守ろうとはなさいませんでした。ユダヤ教の律法では安息日に労働を禁じる規定があります。しかし主は病に苦しむ人がいれば安息日でも人々を癒されました。それが神の御心だと信じるからです。主は律法を守らなかったのではなく、律法を越えようとしたのです。律法を否定するのではありません。律法本来の目的を追い求めたのです。神が人の命を生かすためにお与えになった律法本来の目的を追い求めたのです。律法本来の目的を成就させようとしたのです。「キリスト者の自由」は、律法を無視し否定し、自由気ままに生きる自由ではありません。愛に生きる自由です。他者の命を生かす自由です。愛によってキリスト者は律法を成就するのです。この立ち場はパウロの書いたすべての手紙に貫かれています。律法は形式的に守ればよいというものではありません。そのような原理主義、形式主義の律法から人は解放されなければなりません。律法全体は「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」、この二つに集約されています。主イエスはそのことを私たちに教えておられます。

off わたしはあなたたちの神となる

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

出エジプト記6章2節~13節

6章までは、神の民族が存亡の危機にある時(1章)モーセが誕生し(2章)、神の召命を躊躇する彼に実存「わたしはある」を示すが(3章)、なお躊躇する彼に護りの“杖”を授ける神(4章)。人類の叡智の代表者ファラオは「わたしは主など知らない」と豪語し、神を凌ぐ存在と自負する(5章)態度は現代の私たちの現実と見事に重なる展開です。私たちの存在が危機的状況であるのを神は放置せず、かつて交わした契約(数を増す・土地を得る=祝福)を心に留め、イスラエルの民(私たち)を導き出そうとされます。それは、「あなたたちの神である」という神自身の言葉が空虚なものでなく、具体的であることを示しています。6節~8節にある動詞『導き出す、救い出す、贖う、与える』の主語は全て神であり、救いは神の一方的な恵みであることを強調します。本日の中核は「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)です。神が願うのは、「神と民との関係回復」ですが、9節を見ると厳しい現実の前に民はモーセの言葉を聞こうとしませんが、それでも神の側から「わたしはあなたたちの神となる」と宣言されるのです。信仰とは、私たちが神を捉えることよりも、神が私たちを決して離さないことに同意し、神に信頼して自分に備えられた道を歩むことです。

off 宣教への派遣

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説教:小手川 到 牧師

マルコによる福音書 6章6節b~13節

「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(マルコ6:6~7)。使徒言行録にも聖霊がアンティオキア教会のバルナバとサウロに、二人一組となって宣教の旅に出るように命じたことが記されています。12人の弟子たち、そしてバルナバとサウロは主の宣教命令に従ったのです。宣教の旅には「杖一本のほか何も持たなくてよい。パンもお金も必要ない。着替えも持つな」と主は命じられました。パンとお金は命と宿を保証するものです。しかしどんなに食糧やお金で完全武装しても、自らの心を開き相手の心を開かせる宣教の保証にはなりません。私たちもこの教会で様々な人々と出会うでしょう。思いがけない出会いがあり、様々な場所に遣わされるでしょう。もしかしたら、これから出会う一人一人が、主が遣わす宣教の旅人かもしれません。小さくされたキリストかもしれません。その出会いにおいては、キレネ人シモンのように、思いがけず主の十字架を背負うような痛みを味わうことになるかもしれません。それでも、聖霊が備えてくださる主を証しする恵みのときを逃さないようにしたいと思うのです。

off 主の御心

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説教:小手川 到 牧師

サムエル記上 16章1節~13節

「16:7人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。私たちは見た目で人をすぐに判断しがちです。イケメンや美人に惑わされます。でも神はそうではない。神は外見ではなく私たちの心を見ておられる。大切なのは外見ではなく内面。こう理解されるでしょう。でももう少し他の解釈も考えてみましょう。背が高くイケメンの兄たちに比べて、ダビデは見た目が劣るけれど心が誰よりも美しかった。だから神はダビデ少年の美しい心を見て次の王に選んだ。そういうことなのでしょうか。しかしダビデもまた超イケメンだったのです。ではダビデは心も体も完璧だから王に選ばれたのでしょうか。しかし聖書の先の方を読むと、ダビデは王になった後、美しいバト・シェバに心奪われ、彼女の夫を戦争で殺してしまうのです。するとダビデは内面も外見も完璧だからという解釈は違ってきます。「主は心によって見る・・・」。他の聖書はここを、「神はご自分の心によってものを見る」と訳しています。つまりこの場合の心とは、選ばれる側つまり私たちの心のことではありません。選ぶ側すなわち神の御心のことなのです。私たちは神の自由な御心によって選ばれ、罪人でありながら誰もが救いへと招かれているのです。

off メメント・モリ

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説教:小手川 到 牧師

コヘレトの言葉 9章3節~10節

「コヘレトの言葉」は、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まります。以前の口語訳聖書では、「空の空、空の空、いっさいは空である」となっていました。どこか東洋的な響きがあります。中世の修道士たちの朝は、「メメント・モリ」という挨拶から始まります。ラテン語で「汝の死を覚えよ」という意味です。自分はいつ死ぬか分からない。だからいつもそのような覚悟をもって生きようではないかと、互いに挨拶を交わしたのです。コヘレトは快楽主義や虚無主義の思想家ではありません。神から与えられた人生を丸ごと肯定するのです。新共同訳聖書では「空しい」と訳していますが、元のヘブライ語は「へベル」という言葉が使われています。「へベル」は「束の間」という意味です。「空しい人生ではなく、束の間の人生(空の人生)」と言っているのです。残された時間が短ければ短いほど、愛する人と生きる幸福をより深く味わうことになります。「死」と向き合うとき、「生」はより強く光を放ちます。愛する家族と共に生きる束の間の時、その一瞬一瞬が永遠と化すのです。コヘレトは死を見つめて、私たちに「生きよ」と語りかけているのです。

off イエスの洗礼

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説教:小手川 到 牧師

マルコによる福音書 1章9節~11節

2000年前、バプテスマのヨハネが荒れ野のヨルダン川でしていたことは、罪の悔い改めのための洗礼でした。ヨハネは激しく人々の罪を責めながら、悔い改めて神のもとに戻りなさいと呼びかけました。その言葉に応えて、大勢の人がヨハネのもとに集まってきました。その罪人たちの列の群れに混じるようにして、神の独り子イエスさまが立っておられました。イエスさまはヨハネから洗礼を受け、水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になりました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。「洗礼」はギリシャ語で「バプテゾー」と言います。「全身を水没させる」という意味です。旧い生き方に終止符が打たれ息の根が止められるということです。なぜこのお方をキリストと呼ぶのでしょう。キリストとは「油注がれた者メシア」という意味です。油注がれて特別な務めを神から与えられるのです。では主はいつ油を注がれたでしょうか。実は福音書にはっきりとは記されておりません。しかし主イエスにはこのとき聖霊が注がれています。ここにおいてキリストとしての務めは始まったのです。

説教:小手川 到 牧師

使徒言行録 2章1節~11節

ペンテコスはイースターから50日目の教会のお祭りです。ギリシャ語で50番目をペンテコステと言います。2000年前のこの日、天から聖霊が降り教会が生まれたのです。聖霊とは何でしょうか。聖霊とは教会の言葉を生み出す神の力です。聖霊が新しい言葉を与え、そこから教会の歴史は始まりました。教会の指導者となったペトロが声を張り上げました。「ユダヤの方々、エルサレムに住人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください」。ペンテコステは教会の誕生日です。同時に、教会の言葉の誕生日でもあったのです。聖霊が教会に新しい言葉を与えたのです。未だ誰も聞いたことのない言葉です。世界の人々に告げる新しい言葉です。その言葉の中心はイエス・キリストの証しです。最後の晩餐の後、三度主イエスを裏切ったペトロです。そんなペトロがペンテコステの風を受けて、「私の言葉に耳を傾けてください」と叫び始め、主イエスを証したのです。ペトロの言葉は神の出来事とされたのです。教会は神の出来事です。教会が語る言葉は神の出来事です。私たちの信仰は神の出来事です。神が教会に委ねられた彩り豊かな言葉を世に伝えてまいりましょう。

off 大祭司主イエスの決別の祈り

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説教:小手川 到 牧師

ヨハネによる福音書 17章1節~5節

ヨハネ福音書の特徴の一つが「十字架の受難こそが主の栄光」という神学理解です。ヨハネは信仰の目によって主の十字架の受難の意味を描こうとしたのです。ですから私たちがヨハネ福音書を読むときには信仰の目をもって読むことが要求されます。本日の主イエスの祈り(大祭司の祈り)の中に「永遠の命」という言葉がありました。「永遠の命」もヨハネ福音書によくでてくる言葉です。永遠の命とは死なないことではありません。誰もが地上の命の終わりを迎えます。ではどういうことか。永遠の命とは、「天の父なる神と御子イエス・キリストを知ることだ」、こう言うのです。永遠の命とは、私たちのために天の神さまに執り成しの祈りを捧げてくださったお方を私たちが信仰の目で知ることなのです。十字架に犠牲の小羊としてご自身を捧げ、神の栄光を現わされた御子イエス・キリストの栄光を信仰の目で見ることなのです。愛に生き愛に死んだ愛の人イエス・キリストを信仰の目で知るということなのです。天地創造の初めから世の終わりまで、全地に満ちる神さまの愛が私たちに注がれ続けていることを、私たちが心から深く味わい知るということなのであります。

off ソドムとゴモラ

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説教:小手川 到 牧師

創世記 18章23節~33節

ソドムとゴモラはイスラエルの死海南端にあった古い町です。そこは土地が肥え町は栄えていました。しかし人々の心は罪にまみれていたのです。大昔巨大地震で町全体が死海の底に水没したと伝えられています。神は「この町を滅ぼす」と言われました。しかしアブラハムは人々のために神と駆け引きをします。「あなたは、あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」。「もし、ソドムの町に正しい者が50人いるならば、町全部を赦そう」。アブラハムは、45人、40人、30人と駆け引きを続け、ついに10人まで交渉を成立させました。「もし、10人の良い人がいれば、滅ぼさない」。しかし町は滅んでしまったのです。町にはたった10人の正しい者もいなかったのです。きっと1人の正しい人もいなかったのでしょう。これが人間の姿です。私たち人間はただ滅んでいかざるを得ない存在なのでしょうか。神はソドムとゴモラの裁きの中でもロトの家族を救おうとされました。すべてを滅ぼし尽くそうとはされませんでした。救いの道を残してくださったのです。どんなに悲惨な滅びの中にも私たちには希望が与えられています。

off わたしはまことのぶどうの木

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説教:小手川 到 牧師

ヨハネによる福音書 15章1節~6節

以前甲府盆地にあるぶどう園を訪れました。そこには樹齢100年を越えるぶどうの木がありました。木の幹から伸びた枝が四方に広がり、根から吸い上げられる養分は枝の端々まで行き届きます。季節が巡るたびにすべての枝に豊かな実を結びます。そして美味しいぶどう酒になります。世界は今、ウクライナで、ガザで、イランで、様々な地域で勃発する戦争に苦しんでいます。大切な命が失われ、多くの人が傷ついています。行き過ぎた自分ファースト主義、自国ファースト主義は、私たちの世界をすっかり変えてしまいました。他者への寛容な心を失ってしまいました。互いに壁をつくり、分断を煽り、人種差別、民族差別の発言が繰り返されています。それは、私たちが主から離れ、主とつながろうとしない罪の姿です。「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。・・・火に投げ入れられて焼かれてしまう」。人間同士、差別し合い、争い合い、傷つけ合う世で、私たちは隣人のために愛し合い、祈り合い、平和のために行動することが求められています。