毎週の説教メッセージ

off 散って行った

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録7:54-8:3

ステファノの説教は、[旧約]聖書を、神の約束が成就されるために…私たちはどのように受けとめるかという、振り返りを行いました。しかし、イエスをメシアと認めないユダヤ人の立場からすれば、それはユダヤ人に対する激しい攻撃であり、引かれていく途中の「人の子(イエス)が神の右に立っておられるのが見える」(56)という言葉はまさに冒涜的であったと思います。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59)はユダヤの就寝の祈りと言われていますが(詩編31:6)、呼びかけの相手がイエスに変えられていることと、最期の言葉(60)がイエスの臨終の言葉(ルカ23:34)と重なる意義を想います。ステファノに対する殺害は、それだけで終わる、単独の暴力行為ではありませんでした。「教会に大迫害が起こり」ます(1)。主イエスは、福音は「ユダヤとサマリヤの全土」(1:8)に伝えられると、語っていました。しかし、迫害によって散らされていくことになるとは、誰が思い描いていたでしょうか。種(避難者)が風に散らされ、この後、他の地域で根を張り、実を結ぶことになるのでしょうか…。聖書に登場する人たちだけでなく、今日の召天者記念礼拝で覚える方々は、散らされたり、残されたり、その後の歩みに予想しなかった経験をするなど、様々です。しかし、そういう現実にあって、自分たちを見守り導く方がいるという、信仰に生き信仰に死んだ方々です。今日の場面に居合わせたサウロ(パウロ)も、やがて主の導きを経験します。私たちも主の導きを祈りましょう。

off ステファの説教(生き方)

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録7:37-53

ステファノの説教は、主イエスを指し示し、語ります(37)。旧約の民は、「この人(モーセ)が…シナイ山で…命の言葉を(律法を)受け、わたしたちに伝えてくれた…けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け…アロンに…『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください』」(38-40)と願いました。42-43節はアモス書5:25-27の引用ですが、ステファノは、先祖たちの律法違反と偶像礼拝がバビロン捕囚を引き起こしたと、見ています。同時に、「証しの幕屋」(44)があったことを指摘します。しかし、説教は、ソロモンの神殿奉献演説の一部(列王記上8:20-27参照)を引用し、「いと高き方は人の手に造ったようなものにはお住みになりません」(48)と、語ります。そして、イザヤ書66章1-2節を引用します(49-50)。私は、「わたし〔神〕の憩う場所はどこにあるのか」(49)ということと、引用されたイザヤ書の続きを、想います。「主は言われる わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(66:2)。説教の結び(51-53)も、他者への批判というだけでなく、自分事として語り聞いているように想います。ステファノ(使徒たち)の説教は、神の約束・恵みに共に預かるには、どうすれば…という地平に立とうとしているように想います。変わることがあったとしても――割礼による(8)が、心と耳に割礼を(51)に変化――、ルカ文書(使徒言行録)、キリスト教は、信仰者の生き方を〔共に}求め、立とうとしているのではないでしょうか。

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書15:31-32

キリスト教が、一番大事に願っていることは、何だと思いますか。牧師さんは、「楽しみ喜ぶ」(32)だと、思います。今日読んでもらった聖書は、15章11節から続く、長いイエスさまのお話(11-32)の最後です。その内容は、お父さんの愛と、呼べるでしょうか。お父さんは、神さまのことを表しているとも言われています。このお父さんには、二人の息子がいて、その弟と兄に対して、お父さんが取った行動のことが、お話されています。弟については、前半の11~24節に出てきます。弟は、お父さんの財産の三分の一を先にもらって、自分の楽しいことを求めて、家を出ていきました。ところが、その財産を使い果たし、豚の世話をしたり、食べるものがなくて豚の餌まで食べるようになりました。ユダヤでは豚とは付き合いませんので、この弟は、もう、家族でも、ユダヤ人でも、ありません。困りはてた弟は、もう息子ではない、みんなとは関係がないけれども、お父さんの家を帰ろうと、考えました。兄への対応は、その後に出てきます(25-32)。兄は、弟が帰ってきた、お祝いの席には参加しませんでした。お父さんは、弟にも兄にも、ほぼ同じ言葉を伝えています(23-24と31-32)。今日は、収穫感謝礼拝です。作物が育つ、食べ物が与えられるのは当たり前のことではありません。でも、そのことを当たり前のように導いてくださる、神さまがいる「恵み」を感謝したいと思います。感謝・「ありがとう」でつながり、みんなが共に食べ、「楽しみ喜ぶ」のが一番です。

off 新しい役員 ステファノ

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録6:8-7:8

初代教会は、七人の指導者(役員)を任命しました(6:1-7)。今日は、その中のステファノのこと(6章後半)と彼の説教の前半に触れます(7:1-8)。彼は「知恵と霊によって」語ったと言われており(10)、与えられた「日々の分配」(1)の奉仕を越え、力強い証しをしたことが、うかがえます。「悪意」により捕らえられたステファノが、最高法院で説教を始めます(7:1)。私たちは、使徒言行録の説教に触れるとき、キリスト者とユダヤ人の対立として、捉えがちです。しかし、ステファノや使徒の説教は、イスラエルへの神の約束が恵みのうちに成就されるためにという、共通の基盤を語り、私たち自身に(ユダヤ人も含み)「想起せよ」と語っています。彼は、アブラハムとその子孫を導き、礼拝する場所へ連れていくという、神の約束を語っています(2-7)。次にヨセフ(参考、9-16)、モーセのことを語ります(参考、17-36)。このモーセを神は「指導者また解放者としてお遣わしになった」(35)が、「先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け」た(39)と、ステファノは語ります。ステファノの説教も、ペトロの説教と同じく、[旧約]聖書の解き明かしです。自分を顧みるものとして、聖書が掲げられています。その最初から、ヨセフの時には「ねたみ」があり(9)モーセの時にも「争い」がありましたが、そのようなイスラエルの人々に関わり導きを与えてきた神を、ステファノは想起します。そして、この神はアブラハムと結んだ契約(8)に忠実であったと語っています。この神の契約の相続について、11/3に改めて触れましょう。

off その仕事を任せよう

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録6:1-7

「…計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない…」(5:38-39)というガマニエルの言葉により使徒たちは釈放されました。そして神殿の境内や家々で福音を宣べ伝えて、弟子たちの数は増えました。ギリシャ語を話すヘレニストとべブライ語を話すヘブライストで構成される初代教会の間で苦情が出ました。使徒たちは「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」(2)と言って、直ちに、兄弟たちの中から霊と知恵に満ちた評判の良い者を7人選ばせました。12人の弟子たちは祈りとみ言葉の奉仕に専念するためにその7人の頭の上に手を置いて、食べ物の分配ややもめたちが軽んじられないように、そのような仕事を任せました。そしてますます、神の言葉は広まり、弟子の数は増えていきました。現代においても、神の教会の管理運営に当たる弟子代表(役員)は、世俗社会における働きに依拠すべきではなく、主日礼拝を重んじ、神の御言葉に聴き従うキリスト者から選出しなければならないのです。教会に自分の用務のために出席するのではなく、聖餐を重んじ、教会を支える献金と献身をなし、イエス・キリストの誡めを自らの振る舞いの規範とすることに真摯であるキリスト者が選出されねばならないのです。54周年を迎えた所沢みくに教会も草創期よりその歩みをしてきました。私たちもまた、今週も神に聞き従い、任された仕事をいたしましょう。

off 取り扱いは慎重に

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録5:33-42

最高法院、当時の宗教的指導者の尋問で、ペトロたちの演説(29-32)を聞いていた者たちは、「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」(33)。ところが、「ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立ち、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、…議員たちにこう言った」(34-35)のです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい」(35)。彼は、テウダやユダの例を引き、彼らは民衆を率いたが、いずれも「従っていた者は皆散らされ」(36)「ちりぢりにさせられた」(37)と述べ、続けて、こう述べました。「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい」(38)。ガマリエルの主張は、キリスト教の宣教活動が、つまり「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するであろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」(39-40)。一同は、彼の意見に従い「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放し」(40)た。

表面的・形式的なことではなく、要点は、神の国を待ち望んでいるかなのでしょう。ルカ文書は、こういう人々の存在に焦点を当てています[例えば、ヨセフという議員(ルカ23:50-53)、改宗した「祭司」(使徒6:7)など]。しかし、私たちは、「神がいるなら」ということが前提になっているからガマリエルの主張も説得力があったということを、覚えなければなりません。各々が宗教・信仰をもつことが大事な意味を持ち、そのような社会形成が重要との、宣教活動にも励みたいものです。

off 新しい役割に生きる

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マタイによる福音書4:18-22

イエスは、「神の国の福音」を宣べ伝える最初の働きとして、弟子たちを選ばれました。彼らは、決して世間から評価される地位にある者ではなく、ユダヤ当局から「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)と呼ばれた人たちでした。イエスが最初に弟子にした4人は、ガリラヤ湖で漁をする漁師でした。イエスが彼らに声をかけた時、二人は網を打ちもう二人は網の手入れをしていました。漁師たちの行動は何か特別なことではなく、彼らにとってそれは日常です。ですから、今も私たちが復活されたイエスに出会うのに、何か特別に準備をしたりする必要はないのです。普通の日常生活の場で、イエスの招きに信頼することによって聖霊を受け、復活者キリストに会うことができるのです。「生活の場でイエスに出会う」ということは、私たちの現実の生活全体(全人生)が捉えられ、新たにされてしまう質の出来事を意味します。日常的に「魚」を獲る彼らに、イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と声をかけます。この言葉は、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11章28節)にも使われており、イエスの招きが困難で苦労の多い歩みというのではなく、常に私たちと同伴し、その歩みに寄り添われることが示唆されています。誰の目にも止まらず、淡々と繰り返される日常の中で、自身の存在価値や使命を見失いそうになる時に、イエスは新しい役割に生きる道に招きます。招かれた私たちが、他者との関わりの中で招く者となりたい。

off 人間の従うより、神に従うべき

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録5:12-32

今日の聖書にも、異なる二つの動き、「民衆の称賛」と「ほかの者は…仲間に加わろうとしなかった」ことが報告されます(11-12)。使徒言行録は、初代の教会は主イエスの癒しの業を引き継いでいたことを伝え、民衆の称賛を伝えます(14-16)。一方、当時の宗教的指導者たちの実際の動きを、考えさせられます。彼らは、神から与えられた自らの務めを、ローマの駐留軍といざこざを起こさないようにする、仲介者(協力者)の役割に移しているように想います。ローマ[帝国]は、支配する地域で「騒ぎ」を起こしたと見なす時は、きびしく対応しました。イエスが処刑された理由も、「騒ぎ」を起こしたと見なされたからです…。今日の聖書のペトロたちが捕えられ尋問を受ける際においても、宗教的指導者たちは、「騒ぎ」を問題にしますが、その中身(信仰)を問題にしません。使徒たちが、イエスに従い、宗教の中身を問題にしていることが、彼らの弁明に顕されています。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。…神は イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちは この事実の承認であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(30、31-32)。主イエスがかつて言われた、ルカ福音書12:11-12を思い出します。必要なことは、その機会も含め、主が、聖霊が与えてくださる。教会は、自らの日々の歩みを、主に忠実に歩みたいものです。

off 主イエスの復活を証しする

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録4:32-5:11

今日の聖書は、最初の信仰者の様子を、「使徒たちは、大いなる力をもって 主イエスの復活を証しし」(33)と伝えます。[私は、ここで「主イエスの復活を告白する」と言われていないことに、注目をしたいと思います。] そして、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、各々分配されたからである」(34-35)と報告され、使徒バルナバの例も紹介されます(35-36)。しかし、続くアナニアとサフィアの物語(5:1-11)は、別の視点から、最初の信仰者たちの様子を考えさせます。アナニアとサフィラは、信仰者の仲間が行っているので、[同調圧力を感じたのかはわかりませんが]自分たちも「名誉」を得るために、自分たちの考えで献げたのかもしれません…。そして、嘘が生まれた…。私たちは、自らの名誉や保証を得るために、弁解するという術を身に着けています。最初の信仰者たちは、イースターの時に死の囚われを打ち破り、ペンテコステの時に言葉の壁を打ち破り、そして今、財産すなわち自己保証・自己担保の執着からの解放を、経験してきました。しかし、アナニアとサフィラは、死に囚われ、言葉だけは復活を信ずると同調したかもしれませんが、自己保証・自己担保の道を捨てられなかったのではないかと、想われます。形にこだわる必要はないと思いますが、信仰は「悔い改めなさい」(2:38)、「悔い改めて立ち帰りなさい」(3:19)という、生き方の転換へと招いていく出来事でもあったのです。このような経験をしていく信仰者の群れを、ここで、使徒言行録で初めて「教会」(5:11)と呼ぶのは意義あることだと思います。

off 大胆な証言

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説教:加藤 輝勢子

使徒言行録4:1-31

ペトロとヨハネが神殿でイエス・キリストの復活を大胆な証言しているのを見て、祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々は苛立ち、逮捕して牢に入れました。最高法院で二人が聖霊に満たされて大胆に証言しているのを聞いて、議員たちは、二人がもともとガリラヤの貧しい漁師で、無学な普通の人であることを知って驚きました。イエスが十字架にかけられた時はすぐに逃げ出した弟子たち、生前のイエスが語る福音を十分に理解していたわけではない弟子たちですが、今や大胆に証言しているのです。しかしイエスはこの事態を明確に予告していました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12-15)。議員たちは二人に、「イエスの名によって話したり、教えたりしないように命令」するが、二人は「神に従わないで人間に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19-20)と答え、散々脅されて釈放されました。初代教会の人々は聖霊の働き、聖霊の導きに一切を委ねて、大胆にイエス・キリストの福音を宣べ伝えていきました。これが教会の基本的な信仰の姿勢です。