毎週の説教メッセージ

off 突然、激しい風が

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-13

聖書は、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2)と、伝えます。何が起こったのでしょうか。私なら、ガザの空爆の映像、あるいは、集中豪雨や津波襲来の予報の事態を、想像するでしょうか。「座って」なんかいられない、ともかく、外に出て安全と感ずる方向にひたすら避難する、そういう事態です…。しかし、人々には、何が起っているのかは冷静にはわからない…。私たちが「神の事柄」と呼ぶ事態は、後で振り返った時にあの時はこうだったと、おぼろげながら受け容れられるのかもしれません…。この時の「神の事柄」を振り返った時、それは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(3)と、人々は振り返ります。この表現から、そこには「熱」があり、その「熱」は(ずっと)とどまっていると伝えているように、私には想えます。私にとって聖霊を受けるという最近の経験を一つだけ語るとすれば、それは、2015年9月の関東豪雨の「浸水」とその後の経験かもしれません。[そのことを簡単に紹介しましたが]「水害を受けると共に、神の恵みを受けた人」は、神が望んでいることを求め、確かめ、そこから歩もうとしました。その経験から「話し出し」(4)、それは「神の偉大な業」(11)の証しに繋がっていたのでしょう…。聖霊を受けるということは、一時で終らず、その後の「生」にも息づいています。

off 主の復活の証人となるべき

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録1:15-26

1:14は、それまでのユダヤ教の枠組みを越える、新しい何かが始まっていくことを予感させます。イエスが12弟子を選ばれたのは、イスラエルの12の部族に弟子を遣わすという意味があったと、言われます。15節に「120人ほどの人々」とあるのは、恐らく象徴的な意味で用いられているのでしょうが、その背景には、共同体(教会)をきちんと運営していく備えがあり、この共同体は「使徒」を選ぶことから始めます。しかも、「裏切り」のユダについて、かつて「見捨てた」ペトロが語ることから始まるのは、印象深い。そして、共同体は、「使徒」の定義を「主イエスが…洗礼の時から…天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか」(22)と、定めます。その結果、ヨセフとマティアが候補に立てられました(22)。人々は…「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」(24)と、祈りました。「事を定めるのは主」であると、最初の共同体は、神の事柄を待ち、祈り、備えました。新しい共同体(教会)は、「新しいイスラエル」に仕えることが、使命でした。そして、新しく立てられる「使徒」は、「主の復活の証人となるべき」(22)と示されます。それは、人の思いではなく、様々なことがあったであろう最初の共同体(教会)――ユダやペテロなどの経験――に、主が臨まれたという事柄であったと思います。私たちも、神が臨んでくださるという信仰・謙虚さに生きるものでありたい。

説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録1:3:14

イエスと離れて不安の中にあった弟子たちのところへ「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3)とあり、失望して落胆していた弟子たちは希望と喜びに変わりました。そして「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授かる」(5)と言われ、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」(6)と問うと、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(7-8)と言われました。この返答は神の国はすぐ来ないかもしれないということ、また、一イスラエル民族・国家のためではない、神の意思を問いつつ「神の心を聴く生き方」を生きることを期待されている言葉でした。

弟子たちは主イエスの期待に応えるべく動き始めました。弟子たちやイエスの母マリアや婦人たちと一緒に熱心に祈っていたのです。この時から弟子(使徒)たちは復活の主イエスに対する確かな信仰に基づいて歩み始めました。この新しい歩みには、多くの困難や迫害が予想されますが、弟子(使徒)たちは命を惜しまない「証人」として立ち上がったのです。使徒言行録の全体のテーマは「地の果てに至るまで、私の証人となる」です。「教会」に連なる私たちも「証人」です。

off イエスが行い、教え始めてからのこと

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ルカ福音書1:1-4、使徒言行録1:1:2

ルカ文書(ルカによる福音書-使徒言行録)は、物語というスタイルを取って、語りかけます。新約聖書の手紙というスタイルは、ある特定の個人やグループに、直接向けられる伝達方法です。それに対して、物語は、間接的な伝達手段と言えるでしょう。今後、使徒言行録を続けて読むことにしますが、著者ルカは、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」を使徒として位置づけ、その「証言」をもとに、ルカ文書を「すべての事を初めから詳しく調べ」「順序正しく」(ルカ1:3)、著しました。「順序正しく」というのは、歴史的にという意味ではなく、神の出来事の通りにという意味でしょう。宛名の「テオフィロさま」(ルカ1:3,使徒1:1)は個人名か団体名か明確ではありませんが、キリスト教は知っていたが、何らかの危機が迫ると信仰や希望を失ってしまう可能性があったのではないかと、指摘されています。ルカ文書には、信仰に生きた人々の「わたしたちの間で実現した事柄」(ルカ1:1)が証言されています。その意味では、ルカ文書は、信徒を励ます宣教を扱っています。使徒言行録を読み進めていくにあたり、機会ある毎に、「聖霊」(使徒1:1-2)についても触れたいと思います。ルカの関心は、福音がどのようにして世界の隅々にまで広がったのかを示すことにあると、想います。もちろん、時代や地域によって、状況は異なります。しかし、今後の歩みを模索している現代の教会にとっても、使徒言行録は、大きな意味があり、慰めと励ましになることでしょう。

off 応答する者

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マタイによる福音書9:1-8

マタイ福音書8章は、様々な病の癒しが記されており、その癒しが「罪の赦し」と密接に関係していることが9章で取り扱われています。神がイエスの誕生に際し「自分の民を罪から救う者=イエス」、「神が我々と共におられる=インマヌエル」、という使命を負う者であることを明記します(1章21節、23節)。マタイ福音書で、イエス自身が「罪の赦し」に直接言及するのは本日の箇所が最初です。「中風の人をいやす」記事はマルコやルカにもあり、イエスの働きの中でも重要であったことが伺えます。マタイ版の特徴は、イエスが「その人たちの信仰を見て」(2節)と語った際の、連れて来た(献げる)人たちの行動が記されていないことです。並行句のマルコとルカの両福音書では、群衆に阻まれていたのでイエスがいる付近の屋根をはがすという具体的な描写があります(マルコ2:4/ルカ5:19)。マタイ福音書は、この描写を省くことで、信仰が人間の熱心な行いでなく、神の赦しに信頼する(献げる)という姿勢にあることに意識をむけます。この段落(9:1-8)を通して中風の人は、自身の人生(可能性)に対して消極的で、神への信頼という点でも弱い印象を強く受けます。現在の私たちにも、神の御心を体現する自身の行いの強弱が信仰の強弱に比例するのでは、という意識があります。しかし、イエスはそれとは全く関係なく「神はあなたの罪を赦している」(2節)を宣言されるのです。神が私の可能性を諦めないのなら、私自身も…と応答する者になることをイエスは期待しています。

off 願っている限りは

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

エフェソへの信徒柄への手紙12:11-22

「二つのものを一つにし…敵意という隔ての壁を取り壊し」(14)という「一つにする」は、一方が他のものを取り込むというような統合ではありません。十字架刑は悲惨な暴力であり、とりわけ、十字架につけられたイエスの姿を想う時、私たちには弱さが溢れてきます。弱さや悲惨は新しい契機を生みだします。イエスの十字架は、「双方を御自分において」(15)、「一人の新しい人」=「平和を実現」する存在へと、創っていきます。「両者を一つ」(16)の存在へ、互いに平和を祈り歩む者としていくことは、神の御心でもあります。[「両者を…神と和解させ」(16)という言葉にも注目。] 今日は沖縄の「慰霊の日」ですが、私は難民の歩みを祈念する時としても考えたいと願っています。「あなたがたは もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族で」す(19)。今日の聖書には、異なる二つの者が、敵意によって、遠ざかるのではなく、近づき、まるで一つのようになる可能性が、語られています。また、「十字架を通して」(16)、弱さや悲惨さを絆・契機にして、新しい歩み・家族のような関係が始まることを、告げています。弱さや悲惨さを絆にする歩みは、種が蒔かれ時を経て成長していくように、揺らぐことのないある種の「強さ」を秘めています。どんなに時間がかかり困難があろうとも、諦めない。諦めなければ、平和は実現し、新しい世界は来ます。そのように願い歩む人々を、聖書は「聖なる民に属する者、神の家族」(19)と呼んでいます。

off 揺れ動かされることは

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ヘブライ人への手紙12:18-29

「あなたがたが近づいたのは、シオンの山」です(22)。シオンの山は、地上の都を越えて、神が支配をされる「生ける神の都、天のエルサレム」(22)を指しています。その都の民は、「無数の天使たち」(23)、「天に登録されている長子たち」(23)です。恐らく、この都では、毎日の礼拝が行われていて、その礼拝が私たちの地上の礼拝にも繋がっていると、イメージされているのでしょう。そして、そこには、「すべての人の審判者である神」(23)がおられますが、既に裁きが行われ、キリストによって「完全なものとされた正しい人たちの霊」(23)、無罪とされた人々の様があります。復讐を呼び求める「[アベルの]血」の叫びではなく、キリストの成し遂げられた贖いの血によって「新しい契約の仲介者イエス」が語る、呼びかけがあります。後半は、「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と始まります(26)。主の臨在に際し、主は「守るべきものを守るために揺り動かす」(27・28を参考)と、語られています。それは、私たちに「あなたは誰と一緒に旅をするのか」という、招きでもあります。今日の最後は、「わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(29)で終わります…。神の火は、焼き、清め、あるものを 灰にします。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを守る・生かすために、神が「揺り動かされる」ことがあることを、覚悟したい。一人で「ひるむ」のではなく、新しい契約のイメージをしっかりと抱き、イエスと共に歩む道を歩みたいものだと願います。

説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書6:25-34

「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」とあります。イエス様は「命は食べる物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25)と言われています。生活や将来への不安や欲にとらわれてはいけないと言うのです。でも、私たちは食べる物はお母さんが用意してくれたものを食べるかもしれませんが、今日何着ていこうなんて悩みます。イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言います。空の鳥や野の花は何も考えていないのでしょうか。「ダウィンが来た」という番組で、ウグイスを取り上げていました。山の鳥だったウグイスが最近一年中、住宅街にいると言うのです。人がいる住宅街の方が、ヒナを天敵から守ることができると思ったのでしょう。ウグイスも生きるために考えていると思いました。また、道路のアスファルトの隙間から咲いている草花を見ると精一杯生きていて力強さも感じます。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」(33-34)。同じことをパウロも言っています。「…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。…」(フィリピ4:4-7)。イエス様が求めなさいと言っている神の国や神の義は、神を信頼し、ゆだね、喜んで力強く生きることではないでしょうか。実際の生活は思い悩むことも多い私たちですが、空の鳥、野の花のように私たちもまた神の御手の内にあります。

off 信仰は聞くことにより始まる

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙10:5-17

5節でパウロは、律法が神の恵み・神への信頼への呼び覚ますものであったが、ユダヤ人は律法を人間の行い・人間への信頼を呼び覚ますものとしたと、ほのめかしているようです…。そして、旧約以来、変わらぬ神は、神の恵み・神への信頼を呼び覚ます方として、キリストをお遣わしになった…。それは、信仰者が自分たちの努力によって知るというより、私たちの近くに来てくださる神の恵み・備えを表しています…。6-8節は、神の近さ・キリストの臨在を表現し、それを信じる「信仰の義について」表しています(申命記30:11-14参照)。パウロは、これらを旧約聖書から聞くことを通して明らかにし、「これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」(8)と、語っています。9-10節でパウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(申命記30:14参照)と語り、ここでも旧約聖書の預言とキリストの出来事を結びつけています。そして15節、「聖書にも、『神を信じる者は、だれも失望することがない』(イザヤ書28:16参照)と書いてあります」と語り、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)と、宣べ伝えます。パウロは[旧約]聖書を通して「信仰は聞くことにより始まる」(17)と、真剣に宣べ伝えています。

それ故、旧約聖書に示される神は、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)のです。パウロは、自らが信頼できる神であることを[旧約]聖書が語っていると、宣べるのです。

off キリストを現してくださいます

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

テモテ書一6:11-16

今日の聖書は、生きる意味や人生について、先ず語っているように想います。人間にとって大事なのは、「命を得る」(12)ことであり、それは、交換も、購入も、蓄積もできない、かけがえのないものです。私たちは、「お金は天国には持っていけない」と語りますが、生きている間「お金を蓄積する」ことに熱心です。聖書は、「永遠の命を手に入れ」る(11)ため、「万物に命をお与えになる神の御前で」(13)、「この掟を守りなさい」(14)と、勧めます。それは、「神の人よ、あなたはこれらのことを避け…正義、信心…を追い求めなさい」(11)ということです。聖書は、命は天国においても存在するものですから、命に関わる正義や信心に、また、恵みとして与えられる命に感謝しなさいと、教えています。それと共に、「避けなさい」というのは、適切な距離をとる・付き合い方をしなさいと、勧めているのでしょう。「信徒の友」2022年9月号は、「お金と信仰」という特集を組んでいます。その中で、浜矩子さん(同支社大教授・経済学者)が語られている「お金に支配されない生き方」という文章は参考になります。最後に、「キリストを現してくださいます」(15)は、聖書の文脈からすると「イエス・キリストの再臨」(14)を示唆しているのでしょう。しかし、私たちは、この世において信仰を明らかにしつつ、「証しをなさった」(13)キリスト・イエスの姿を思い起こしつつ、歩みたいと思います。神は聖霊を通して「キリストを現してくださいます」と、私は信じています。