毎週の説教メッセージ

off すぐ、イエスのことを宣べ伝えた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:19b-31

私たちは、ステファノの殉教に続くキリスト教の迫害のこと、信者が散らされていったこと、そして、エチオピアから来た人が洗礼を受けたこと(8:26-41)、サウロが回心したこと(9:1-31)などを、見てきました。それらを振り返ると、回心は、霊によって引き起こされ、様々な形態をとり、多種多様な反応を引き起こす、個々人に特有な事態であることが、わかります。しかし回心は、個人的なことにとどまるのではなく、むしろ、共同体的な事柄でもあります。先週、私たちは、アナ二アがサウロの回心に関わったことに触れましたが、今日の聖書でも、サウロが教会のメンバーに受け入れられるように、バルナバが関わっています(27)。回心は、個人的な出来事でありながら、共同体に受け入れられ、洗礼を受け、パンと杯に預かり、祈るという、共同の営みでもあります。しかも、回心を共同の営みと考える時、回心は終わりではなく、回心は始まりであるということが、よくわかります。私たちは、人生の途上で、「この道」(キリスト教、9:2)のメンバーとして振る舞おうとしているのではないでしょうか。そして、その途上で、驚くべきことに遭遇し、重大な方向転換をなすことが度々あったのではないでしょうか。さらに、回心は、召命の物語でもあります。ある人が神の業のために招かれ、神の福音を前進させるため、自分が受けた恵みをどのように用いるかを考えさせる事態ではないでしょうか。サウロの回心をめぐり、彼も、教会も、主の関与を受け留めようとしています。

off 主よ、ここにいます

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録9:10-19a

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との問いに「主よ、あなたはどなたですか」とサウロが言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(6)。ダマスコにはアナニアという弟子がいました。主の呼びかけに「主よ、ここにいます」と応えた。「…サウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。…自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようしてくれるのを、幻で見たのだ」(11-12)。しかし、アナニアはサウロの噂を知っていました。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで…、御名を求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(13-14)と言って躊躇します。アナニアこそ、ダマスコでサウロが迫害しようとしていた一人であったからです。主は「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15)と言われました。アナニアがサウロの上に手を置くと、たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり目が見えるようになり、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気になりました。

サウロの回心は、サウロ自身はイエス・キリストの呼びかけを聞いていますが、それを承認し、さらに方向づけるアナニアという一人のキリスト者が備えられました。回心という出来事はただ独りでできることではないのです。主イエスに従っている私たちも「主よ、ここにいます」と用いられる歩みをしましょう。

off なぜ、わたしを迫害するのか

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:1-9

2025年の歩みが始まりました。主日礼拝の聖書も、使徒言行録に戻ります。

「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1-2)。「この道に従う者」が、サウロに最初に対峙したのはステファノでした。ステファノは迫害する者に「あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」(7:52)と語りますが、同時に「この罪を彼らに負わせないでください」(7:60)と語りました…。「サウロが…ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼のまわりを照らし…サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞」きました(3-4)。神の介入は不思議ですが、パウロも彼を地に倒し呼びかける方を「主よ」と呼びかけています。[ここには「神の敵を忠実に迫害する者が神の敵になるということが起こるのか」ということが関与しているのでしょうか。] 声が聞こえてきます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(5-6)。聖書は、サウロを迫害者とみなしており、そのサウロが(告発ではなく)招きを受けたと、伝えます。同行していた人には事態はわからず、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9)。サウロは無力になり、主の招きに入っていきます。

off 最初のキリスト教の礼拝

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書2:1-12

今日の聖書の結び(12)を読む度に、東からの人々が道を見失ったりすることがあったとしても「確かなものを求める」歩みを続けていったのだと、私は思わずにはおれません。今日の説教題を「最初のキリスト教の礼拝」と記しましたが、羊飼いたちの行動(ルカ2:1-20)が最初のキリスト教の礼拝ではないかと、お感じになる方々もおられるでしょう。私は、次のような点で、今日の聖書の出来事がキリスト教の最古の礼拝であると感じています。聖書は、神さまの子どもとして生まれた方(確かなもの)を、人々が探し求め、賛美し、献げ物をしていると、伝えます。礼拝をすることは誰もが招かれているものだと信じ受けとめますが、今日の聖書では、(ユダヤ人という枠を超えて)東から来た人々・外国人が礼拝をしていることが象徴的です。また今日の聖書では、確かなものを求める人々を神は「別の道」(12)へと導いていかれる(参考「この道に従う者」(使徒言行録9:2))と、描いています。これらのことを想像しながら、私たちも、自分たちが最初の礼拝へと歩み出したことを思い出したい。気がついた時には礼拝の中にいたとか、ずっと昔のことなので忘れてしまったという方もおられるでしょう。しかし、私たちが自覚するしないにかかわらず、主を求める人々の群れの中で、最初の礼拝に導かれた出来事から、今の私たちに繋がっています。そして、これからの日々、私たちは、全ての人が招かれている礼拝を自覚して、歩みたいものだと思います。

off しるしが与えられる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書7:10-14

今日は降誕前第1主日です。預言者イザヤは、政治状況ではなく、イスラエルを導き治める正体(実体)に関心があるかのようです。イザヤは、アハズが立つかどうかに、関心を寄せています。あなた(アハズ)が主に信頼を寄せるならば、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(11)と、告げます。しかし、アハズは、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(12、参考 申命記6:16)と、敬虔を装い、その責任を回避します。そこで、「ダビデの家よ聞け」(13)と、責任をとらない王を抱くダビデ王権に、「審判」が告げられます。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」(14)。この「男の子」「インマヌエル」とは誰なのでしょうか。イザヤ書は直接語ってはいませんが、ある注解は、アハズの息子のヒゼキヤであろうという方向を示唆しています。今日の聖書を、信じないアハズに代わって新しい(神を信ずる)指導者・王への交替が告げられていると、解釈するのです。アハズの息子ヒゼキヤの評価は列王記下18:1-8にありますが、そこには、「彼(ヒゼキヤ)はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(5)と記されています。私たちは、その歴史や聖書の預言を踏まえつつ、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。私たちも、「インマヌエル」とはどういうことなのか、確かめ、歩み出したいものです。か、どういう様なのか、イエスが来られたことを、受けとめます。そして、私たちも、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。か、どういう招きなのかを受けイエス・キリストを指し示すという方向に傾いているかと、想われます。

off 先駆者

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説教:加藤 久幸 牧師

士師記13:2-14

状況は厳しく、闇は深い…。サムソンの母親になる女性は、ダンの氏族に属するマノアという人物の妻で「不妊」であったと、紹介されます(2)。彼女の名前は知らされておりません。「あなたは身ごもって男の子を産む…彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となる」(3-5)と。こういう誕生物語では子どもの名前が告げられることが多いのですが、ここにはありません。彼女が夫にした報告においても、「その子は胎内にいる時から死ぬ日までナジル人として神にささげられている」(7)ということのみが強調されます。このナジル人の誓約も、(人間の側から言い出したことではなく)神の使いが伝えたことです…。やがて誕生するサムソンはこの誓約にことごとく違反していきます…。人々は、サムソンの力強さに目を奪われるのか、彼を士師の一人として捉えようとしてきました…。しかし、聖書を素直に読むと、彼は神から祝福を受けたが、それを適切に用いることに失敗したと、見なされるのではないでしょうか…。人々はサムソンに期待をしましたが、「イスラエルを解き放つ救い」(5)という主の(使いの)言葉に期待し、その登場を待ち望んだ無名の人々こそ[例えばサムソンの母]、「先駆者」のような性格を帯びていったのでは…。さらに言うなら、動かない・動けない人々の状況を見て関わった主こそ、「先駆者」の名にふさわしいのではないかと想わされます…。

off 主の恵みの御業

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説教:加藤 輝勢子 牧師

イザヤ書58:12-20

「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、…わたしたちは自分の咎を知っている」(12)とあります。それは「主の手が短いから届かないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」(1)とあるように、自分たちが悪をもってしているのに、そのことを神の責任に転嫁していることです。また、「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護をする者もいない。むなしいことを頼みとし、偽って語り 労苦をはらみ、災いを産む」(4)ことが、「主の正義は行われていないことを見られた。それは主の目には悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(15-16)と思われたのです。それでも「主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた」(17)とあります。ここでは、神自身が武装して、神に逆らうさまざまな勢力に対して戦われると言われています。この考え方は新約聖書にも継承されていて、神の支配の下に生きて、正義と平和を追求しようとする人々に、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いは脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)と言われています。

最後に主は、「西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み 主の霊がその上に吹く」(19)と、世界を、異邦人をまねかれています。神から遠く離れてしまう弱さが当時の人々にも、また、私たちにもあります。イエス・キリストの誕生を待つ時、神の隔てのない招きに応えて歩みましょう。

 

 

off 主の光の中を歩もう

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書2:1-5

私たちは、闇を抜けた先に、光があると、感じがちです。今日、アドヴェントの蝋燭の一本に火が灯されましたが、闇の中でわずかな光を灯す時、その光が私たちの世界をわずかに照らします。そして、私たちの姿も明るみに照らし出します。光を灯しながら、主の光・主の願いに思いを馳せます。私たちの歩み・光は消え入りそうで小さいかもしれませんが、主の光・心が人々を包むということがあります。それは、御子イエスの誕生の時に、羊飼いに臨んだ光のように、です(ルカ2章)。

「終わりの日に」(2節)、神は、「シオンの山」で、他と比べることのできない(高い)、「道を示される」(3節)。「国々はこぞって…そこに向かい」(2節)、「多くの民が来て言う。『…主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(3)。その日は、主が来られる時であり、その教えは4節に示されます。「主は 国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(4)。イスラエルが、指導する者であり、中心であるというように、私には感じられません。どの時代にあっても、イザヤの告げる招きに応えることは、難しいものです。まして、戦いに疲れ、終わりの見えない苦しみある者にとっては、なおさらだと想います。しかし、「その道を歩もう」と歩み出している人々がいることを、聖書は想像させてくれます。

この時、「主の光の中を歩もう」という招きに応え、私たちも歩みたいものです。

off 寂しい道で

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録8:26-40

今日の聖書の前の25節に「ペトロとヨハネが…エルサレムに帰って行った」とあります。ところが、フィリポはエルサレムには帰れず(参考8:1)、主の天使から「ここをたって 南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」(26)と示されます。「そこは寂しい道で…すぐ出かけて行った」(26-27)…。するとその道で、フィリポは「エチオピアの…高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」(27)と出会います。この宦官は、エルサレムでの礼拝から帰る途中で、聖書を読んでいました(27-28)。自らの境遇からか、「卑しめられ…だれが、その子孫について語れるだろう」(33)等の箇所に目が留まったからでしょうか、彼は「だれについてこう言っているのでしょうか、自分についてですか」(34)と、尋ねました。一緒に馬車に乗るようになった(30-32)フィリポは、「聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについての福音を告げ知らせ」ました(35)。この後、宦官は洗礼を受けキリスト者としての歩みを始めます(38)。私は、寂しい道で、二人が出会うべくして出会ったと想います。フィリポは、イエス・キリストの福音に出会い、キリスト者となり、エルサレムから散らされ、キリストを宣べ伝える者となりました…。エチオピアの高官は、宦官となり、自分の道を歩んでいました…。聖書の「彼は…黙している小羊のように、口を開かない」(32)という言葉を覚えつつ、二人はその後の各々の人生を「喜びにあふれて[人生の]旅を続けた」(39)のではないでしょうか。

off 福音を告げ知らされる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録8:4-25

ステファノの殉教により、フィリポたちはエルサレムを追放されました。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話を聞き入った」(4)のです。サマリアという所は、当時のユダヤからみれば、ほとんど外国で、呪われた地域と見なされていました。互いに憎み合っていました。サマリアは北王国イスラエル滅亡後、異邦人との混血が進み、独自の歴史と歩みをとげ、異邦的な雰囲気が濃厚であった場所です。イエス・キリストご自身も何度かサマリアへ足を踏み入れていますが、ほとんど福音を宣べ伝えることができませんでした。ギリシャ語を話すフィリポの言葉は受け入れられました。大勢の人が洗礼を受けました。サマリアには魔術を使うシモンという者がいて、シモンも洗礼を受けました。ペトロとヨハネがサマリアに来て、洗礼を受けた大勢の人に手を置くことで聖霊を授けました。その奇跡を見て、シモンは自分にも聖霊を授ける権威を金で買いたいと申し出ます。シモンの問題点を、ペトロは厳しく指摘しました。それでも今まではサマリアの人やシモンのようなものは伝道の対象には入っていなかったかもしれませんが、外国生まれのギリシャ語を話すフィリポだからこそ、そしてイエス・キリストの福音だからこそ受け入れられたことを、使徒言行録は記しています。福音の宣教は、人間の計画によってではなく、人々の失敗や挫折を神が用いてくださることを通してなされます。その福音の末端に私たちも加えられています。