毎週の説教メッセージ

off 知られざる神に』対して

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録17:22-34

23-24節「あなたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その神です。この神は天地の主です…」。26-28節も再度読み上げます。「…これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば,神を見いだすことができるようにということなのです。

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちにある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです」。この後(29節から)も、パウロの言説の基本的な(アテネ人の好奇心に訴える)姿勢は変わりませんが、彼の信ずる神について語り始めます。その神は、創造の神でもあるが、「裁く」(31節)神でもあると、明示します。創造も裁きも、「一人の方」と「復活」の出来事からすべての人が確証できます(31)と。

29節でパウロは、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った…像と同じものと考えてはなりません」と語り、その後の30節で、「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と語ります。「大目に見てくださる」神に倣って、振る舞うパウロの姿を描いているように思います。「悔い改めよ(生き改めよ)」と告げたなら、その後は、聖霊に大胆に委ねよという感触すらいたします。

off 『証印』は押された

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの使徒への手紙1:3-14

エフェソの[諸]教会や世界の人々の中に、争いや格差や壁がなかったわけではありません。ユダヤ人と異邦人、上(天)にある者と下(地)にある者、聖なる者と汚れた者の間には、歴然とした違いがあり、その運命は変えられないという考えが支配的でした。その根拠は、当時の思想・制度・科学にあり、著者の論敵のキリスト者[指導者]も、それらを「福音」よりも優位に考え、しかも「普遍」「真理」として動いていたようです。これはどの時代にもあり、私たちの時代や世界でも、分断と対立が深まり、自己中心的な考え・生き方・政策が広がっています。私たちは、エフェソ書[の著者]のように、神を賛美しつつ、同時代の世界に対し、[神と世界に]応答する者でありたいと願います。私たちのゴールは「時が満ちる」(10)時です。私たちは、私たちが生きる被造世界のことは全て神御自身が解決してくださると、信じています。そして、「時が満ちる」「神の世界(国)が完成する」ゴールに、自力で到達するのではありません。向こう側から、「時」「世界」は近づいており、イエス・キリストは来てくださいます。それ故、私たちも、歴代の信仰者も、安心して・主の平和のうちに、その時に向かうことができます。さらに,神・キリストは、その時に至るまで、信仰者を導き・支え・共に歩む「力」「聖霊」を送り続けてくださっています。13「聖霊の証印」は、約束の明示とともに、それまでの保証です。

off 『風』が起こり、響いた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

私は、この一年の歩みを経て、使徒たちは不安と希望の入り混じった中で(聖霊降臨を)待っていたと、とりわけ強く感じるようになりました(1:3-5参照)。ルカは「エルサレムで」と指示しますが、地名はともかく、使徒たちはイエスから「生きなさい」と示された現場で、待ち続けたのです。先ほど紹介した1:3-5は私たちの姿をも示しているように想います。聖霊降臨は、待つことを通して、実現されました。そして聖霊降臨は、一瞬で終わった出来事ではなく、継続・歩み・物語の中で受け取られるべきものです。使徒たちは、イエスの歩み・活動を、自分事(じぶんごと)として受けとめ、語り始めました。聖霊が語らせる(4節)「福音」は、一言で言えば「和解の言葉」です。このことは、共有できる言葉で語り出した展開(6—11)、その後に続くペトロの説教「…わたしの霊をすべての人に注ぐ…若者は幻を見,老人は夢を見る…」(17)とも、関連しています。聖霊は「目」にはみえませんが、私たちの内と外において働きます。最初のペンテコステにおいても、人々の間には一致はありません(6-13)。現代においても、世界の至るところで、分断と対立が深まっています。秩序と調和、平和と一致の創造は、聖霊と深く関連づけられ、古くから「聖霊よ、来てください」と、祈り続けられています。聖霊は、人々を整え、世界を整え、終わりの時まで御心を推進し完成へと導く、不思議な「力」です。

off キリストの召天

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書24:44-53

二人の弟子がエマオへ向かっている途中に旅人(イエス)に出会い、聖書の話を聞いて、宿屋に泊まろうとして、食事の席についた時、旅人がパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いた時に、初めてイエスだと気が付きました。そこですぐにエルサレムに戻って、弟子たちに報告しているときに、イエスは弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているような感じだったので、イエスは手と足を見せ、また焼いた魚を一切れ食べました。弟子たちはイエス自身から復活のことを聞いていたし、今まさにそのことをみんなで話していたにもかかわらず、この事実に直面する用意、心構えが一切なかったのです。復活の証言の全体に貫かれているのは、弟子たちの側の驚き、恐れ、勘違い、疑い、不信、無理解であり、それをそのまま伝えている弟子たちの報告です。復活のイエスは「聖書に書いてあることはすべて実現する。…あなたたちがその証人となる」(46-48節)イエスの復活の事実に直面してなすすべがなかった弟子たちは、自分たちもまた、今やただ中の人であり、当事者そのものにさせられたのです。イエスの召天は別れではなく、思い出も希望も、確かな信仰への活力になったのです。私たちもイエスの言葉や働きを自分のこととして心に刻む歩みを今週もいたしましょう。

off 求めることから『しるし』となる

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書6:1-15

今日の聖書で(続く16-18節も含め)話題になっている、施し・祈り・断食は、個人の宗教的実践としての意義があります。しかし、社会的な意義や今日的な意義についても考えさせられる、拡がりがあります。この3つの教えは冒頭・結びの形が似ていますが、祈りは形が崩れています。イエスの教えた祈りは、呼びかけも含め、はっとさせられます。「御名が崇められますように」(9)「御国が来ますように」(10)「御心が行われますように」(10)は、その受動態が暗示するように、これらの祈りの主体・実現者は誰なのかです。これらの祈りを成しうる・もたらしうるのは、神さまのみであって、私たちは、そのために祈りを合わせ、待つことができるのです。後半の「わたしたち」の祈りも、「わたしたち」をどう捉えるか―自分を中心とした同心円状の拡がりで祈るならば―その祈りの内実は大きく変容します。主の示す祈りは世界を包み、この「わたしたち」は「世界の全ての民」を意味していると、聞いたことがあります。これらの祈りは、神の最後の[審判の]時を想定して受け取る人がいますが、私は、この祈りは、天と地(10)、未来と今日(11)を結ぶところに位置していると、想います。イエスの祈りは、神に向けられ、「神のみが神である」との信頼によって行われています。私たちは、この祈りの「しるし」となるよう、招かれています。「主の祈り」を「わたしたちの祈り」として祈り、参与していきましょう。

off 道、真理、命

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書14:1-14

冒頭、イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。…わたしを信じなさい」(1)と語りかけます。「心騒がせるな」というような言葉は、大抵、心騒がせている人々にとっては無力です。弟子たちの「心騒ぐ」は、「心騒ぐ」原因と向き合っていない、漠然とした、曖昧な「不安」であったと想われます。イエスの「心騒がせるな」は「心騒がせてはならない」ではなく、「心騒がせる必要はない」という意味だろうと考えられます。そして、この14章を通して、イエスがその意味を解き明かしてくださいます。…「父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)。一般的には、この言葉(イエス)を信じなくてはならないという、展開が予想されます。しかしイエスは「それを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)と展開します。この言葉は、世界の中で展開されている良心的な「業」そのものも、やがて許容する「道」を開示していくように想われます。6節は、(信じて歩む)[道は≒]途上であり、[その途上も]真理であり、命である[ことに溢れている]現実を確証させられます。12-14節は、(去っていかれた)イエスは父(神)の家で、何もしていないのではありません。この世界のために、備えてくださっています。離れていても、主も、私たちも、主の業を共に行うのです。この「道」に、私たちも出かけていきましょう。

off 共に喜んで~すべての歩みの中~

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説教:加藤 久幸 牧師

コリントⅠ12:21-25

今日の聖書の前の14—20節で「パウロ」が丁寧に言説しているのは、教えだけでなく、教会の実際の課題があったからでしょう。詳細は不明ですし、そして公けか否かも含め、現実は複雑であったと想います。「お前たちは要らない」(21)、「恰好が悪い」「見苦しい部分」(22)、「見劣りのする部分」(23)等が、話題になっていたのでしょう。自分は「ギリシア人」「自由な身分の者」「男」「強い者」というような、社会の古いアイデンティティの「しるし」によって、他者・異なる者を不当に区別・抑圧する動きがあったのでしょう。多様性を、分離・抑圧する根拠にしてはならない! パウロの言説は明確です。22節、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が…必要なのです」。24節後半、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)。パウロにあっては、神は、(このように)イエス・キリストをつくり、教会をつくり、被造世界をつくり、臨まれていると確信していたのだろうと想います。この神の現実に照らして、私たちは26節を「アーメン」(然り)と歩むことができます。…今年度の教会の主題として「共に喜んで~すべての歩みの中~」を、主題聖句には今日の聖書の26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ…共に喜ぶのです」を提案します…祈りましょう。

off 『しるし』って

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイ12:38-42

本日は復活節第3主日の礼拝です。イースター礼拝を守り、先週は「墓が空であった」ことと「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」というみ言葉をいただきました。それでなぜここで律法学者やファリサイ派の人々は「しるし」を求めるのだろうか?「しるし」という語はいっぱいあります。ギリシャ語では(セーメイオン)と言い単数形です。この箇所ではイエスが神の子であることの確実な保証、不動の証拠としての明瞭な唯一のしるしを見せてほしいということになります。イエスは「よこしまで神の背いた時代の者たちはしるしを求める」といい、預言者ヨナの話と南の国の女王の話をして、それに勝るものがここにあると言います。律法学者やファリサイ派の人々は、イエスが既に片手のなえた人、目が見えず、口の聞けない人を癒された現場に居合わせて、奇跡行為を目撃しています。しかし、それは彼らにとってはイエスが神の子であるというしるしにはならないのです。パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架のキリストを宣べ伝えます。」と言っています。イエスはわかりやすいしるしを求めることそのものが間違っているというのです。救いそのものを受け止め、神にすべてを委ねることが大切なのです。復活を経て、新しくされた者として、赦されて生かされている者として歩みましょう。

off 墓は空だった

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書28:11-15

「墓は空だった」という事実について、(信仰者とは)別の証言があります。それが、今日の聖書の箇所です。15節に「この話は、今日に至る(マタイが福音書を書く頃)までユダヤ人の間に広まっている」とあり、この噂は絶えることがなかったのでしょう。しかし、噂は噂であります。マタイ27:62—66も参考にしつつ、今日の物語を読むと実に怪しい。そして何が真実なのかわからなくなる…。

聖書は、自らの理解の範囲を超えた出来事に遭遇する時、信仰者もそうでない者も、そこに起こっている事柄に向き合うことの大切さを、指し示しているのではないでしょうか。見える世界や理解できる事柄のみの注視ではなく、[そこで]何が起こっているのかを(出来事から)聞く必要がある! 信仰者の表現でいうなら、神が何をなされたのかに向き合い、聞く必要がある! 私たちの共感福音書では、「墓は空だった」ということと、もう一つ共通することがあります。それは(各福音書により微妙に表現は違いますが)、天使から「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」と聞かされることです。マタイは何を受けとめたのか。28:16-20を参照・熟読すると、復活のイエスをどう受けとめるかは大事なことですが、弟子たち(私たち)は、地上の歩みを成され、準備された道へと歩まれたイエスに導かれ、メシア(と神と聖霊)を信じるようになる「出来事」「物語」を聞くのです。

off おはよう

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書 28:1-10

8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった」。この場面は、私たちにとってはグレイ・ゾーン(はっきりしない事態)であるかもしれません。知らせを聞いた女性たちは、半信半疑、「恐れつつも…喜び」墓を後にしたのでしょう。ここまでは(表現の差異はあるにしても)福音書に共通する内容です。しかしこの後、マタイは、復活のイエスが 女性たちに出会う「復活証言」を、伝えています。その他の福音書でも(マルコは追記として、ヨハネは詳細な物語として)、マグダラのマリアの「復活証言」を伝えています。また他の弟子たちの「復活証言」も伝えられています。これらの証言は、皆 十字架と復活において、神自らが働いておられることを受けとめ、暗示しています。聖書を先に進む前に、現代の一人の証言を聞きたいと思います。奥田知志(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師)「闇の中ではじまる―コロナ禍を生きるために(マルコ16:1-8)」(日本基督教団『教師の友』4-6月号)から紹介します。…私たちは、最初の「復活証言」そして現代の「復活証言」を信じて、多くの証人と共に立ちます。そして10節の言葉を聞きます(そして9節の「おはよう」と声を聞きます)。…私(たち)にとっては、イエスの十字架と復活は「想定外」です。しかし私(たち)が気づかなくても信じなくても、神さまは成し遂げてくださいます…。