毎週の説教メッセージ

off 一人一人の上にとどまった

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録2:1-11

五旬祭の日に一同が一つになって集まっていました。復活の主イエスの言われたように、エルサレムにとどまっていました。そこに突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた(2)とあります。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(3)のです。前にわたしから聞いた、父の約束された者を待ちなさい。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく、聖霊によって洗礼を授けられるのである」(1:4‐5)。そして一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で語り始めたのです。激しい風が吹いてくるような音がしたので、エルサレムにいた人々は集まってきました。集まってきた人々は、自分の故郷の言葉で神の偉大な業を語られているのを聞いたのです。「話しているこの人たちは皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉をきくのだろうか」(7-8)。あっけにとられてしまうほどでした。広大な値域から来た人たちは「いったいこれはどういうことなのか」と互いに言いました。しかし、「ある人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだと言って、あざける者もいました。ペンテコステの出来事は使徒の言葉、人間の言葉が神を証しする言葉として聞かれたことです。わたしたちも一人一人、霊に満たされて、主イエス・キリストの証人として歩みましょう。

off あなたがたは行って、教えなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書28:16-20

イエスのことについて触れておきたいと思います。「山上の説教」の内容を思い浮かべていただければと思いますが、イエスは、[旧約]聖書に替わる新しい教えの伝達者・解釈者として来られたのでしょうか。そうではなく、神の御心の伝達者・実行者として来られたと、私たちは受けとめるべきではないでしょうか。イエスご自身が、そのように生き、その姿を示されました。そのイエスがこう語っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(7:21)。今日の聖書でも繰り返し「あなたがた」と表現され、17節では「イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた」とあります。信じる者も疑う者も混在している。それは、今日の場面に限らず、イエスがその生涯にわたって経験したことではないでしょうか。そして、そのことは、後の教会も、私たちも、一人の個人においても、経験していることではないでしょうか。今日の聖書は、洗礼を受けること・信じることも大事であるが、何よりも、弟子になること、イエスのように生きることを強調しています。

20節の「教えなさい」は、「教えを伝える」だけではなく、「弟子になる」こと、人々の変容や社会の変化が起こらなければ「教えた」ということにならないのではないかとも、響いてきます。私たちも、イエスに従い、主の御心を求め歩みましょう。

off ひと言おっしゃってください

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書7:1-10

ヨハネ福音書14:13で、イエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と、おっしゃっています。しかし、私たちは、私たちの祈りや願いがそのまま聞かれるのではないということを、知っています。イエスご自身も、オリーブ山で、「わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」(ルカ22:42)と、祈っています。神の御心に適ってこそ、神の御業が起こされます。

今日の百人隊長は、ユダヤ教の信仰を尊敬しており、異邦人として職務にも忠実でありました。聖書の報告がその通りであるなら、百人隊長は「ユダヤの長老たちを使い」(3)に出した後で、熟慮・判断して、「友達[多分、異邦人]を使い」(6)に出して、「ひと言おっしゃってください」(7)とのみ、願い出ました。百人隊長は、言葉に忠実で注意を払っています。百人隊長は神やイエスへの信仰を告白していませんが、彼の言葉遣いから、彼がいかにイエスの権威と言葉に深く信頼しているかが伝わってきます。百人隊長の使いの言葉を聞き、イエスは感心して、従っていた群衆の方を向いて、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9)と言われました、そして、使いの者が家に帰ってみると「その部下は元気になってい」ました(10)。今日の物語は、イエスに直接会うことの出来なかった私たちに大きな意味を持っています。御心ならば、実現するのです。

off 互いに愛し合いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書15:12-17

イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12)と勧めます。愛することは、命令されるものではありませんし、必要によって得られるものではありません。今日の聖書では友愛が語られていますが、それは、お互いの自発性によって支えられます。「信徒の友」4月号特集は、「イースターの赦し イスカリオテのユダ」でした。全ての弟子がイエスを引き渡したのですが、ユダだけが悔い改め「銀貨30枚を祭司長たち…に返そうとし」ますが、「彼らは、我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い…「ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」との報告があります(マタイ27:3-5)。今日の12-13節の言葉を味わうために参考にしたいのが、奥田知志「ユダよ、帰れ」(新教出版社)という説教集です。奥田牧師は、自殺後のユダの報告はないとし、その先については、信仰的な想像、福音的な創作をもって語るしかないと断わった上で、「オクダによる福音書」を創りました。その福音書の部分のみ紹介します(本欄では割愛)。奥田牧師は使徒信条の「陰府にくだり…」に触れ、「イエスはなぜ陰府に下られるのか。それはユダを迎えにいくためだ。そう考えてはだめでしょうか」とも問いかけています。その応答である「オクダの福音書」に、私は共感を覚えます。私たちは、「わたしがあなたがたを愛したように…」というイエスの言葉を,どう思い巡らすでしょうか。

off 命のパン

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書6:34-40

5千人以上の人にパンを分け与えた奇跡、イエスが湖上を歩いた奇跡、22節以下は群衆がイエスを探し求め、その群衆にイエスは「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言います。「朽ちない食べ物のために働きなさい…」(27)と言うと、群衆は「神の業を行うためには、何をしたらいいでしょうか」と問い、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29)と言います。すると「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか…」(30)、わたしたちの先祖は荒野で天からのマンナを与えられたと書いてある通りです(31)。イエスは「モーセが天からのパンをあなたがたに与えなのではない、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降って来て、世に命を与えるのである」(32-33)と応じます。すると群衆は「主よ。そのパンをいつもわたしたちにください」(34)と言います。イエスは「わたしが命のパンである。…」(35)と言います。「しかし、前にも言っているように、あなたたちは私を見ているのに、信じない」(36)と言います。群衆は「命のパン」を求めないで、イエスが与えてくださるパンに心を奪われています。わたしたちは聖書の証人に続く、証人になることだと思います。礼拝で共にみ言葉を聴き祈り「命のパン」を求め、証ししましょう。

off 時を移さず、夜に出発して

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書24:13-35

二人の弟子たちに、イエスが後ろから来て、「一緒に歩き始め」ました(15)。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16)。イエスは二人が話していた「その話は何のことですか」(17,19も)と尋ねると、二人は「ナザレのイエスのことです…」と語り始めました。この二人の話(19-24)は、イエスの福音の要約と言えるでしょう。しかしその話には、復活のイエスのことは含まれていません。私たちがある出来事について知る機会は、3度あると言われます。それは、⓵事前の時(事柄が起こる前)、⓶その事柄が起こっている時、そして⓷その事柄の経験を思い出す時、です。イエスの受難・復活を「分かる」(31,16)ということも、まさに、この過程を辿るのでしょう。主イエスは、ある意味、客人であり(私たちは「主イエスよ、来てください」と祈り)、と同時に、主イエスは、人々と食事・現実を共にしてくださる、主人でもあります。私たちは、このことを祈り、今この時の現実を生きています。聖書の二人は、エルサレムから逃れるように夕暮れの道を歩んでいました。迫る夜は、当時の人々には神から遠い時と考え、恐れられていました。しかし二人は、「時を移さず[夜に]出発して、エルサレムに戻って」(33)行きます。それは、今もなお絶望と不安の中にいる兄弟姉妹たちがいるからです。二人は、「主イエスは生きている」という復活のイエスの喜びを伝えるため、夜に行動を起こし、逃げ出してきたエルサレムに戻っていきます。教会は、今も、この「経験」を、主を求める人たちに、伝えています。

off 後ろを振り向いて

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書20:1-18

マリアは、「泣きながら…墓の中を見」つめました(11)。すると「二人の天使が見えた」(12)。二人が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いかけたので、マリアは、「わたしの主が取り去られました」と応じます。そして「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14)。しかしマリアには、その方も[天使も]分からず、園丁[たち]だと考えているようです(14-15)。そしてマリアが「あなたがあの方を運び去ったのでしたら…わたしが、あの方を引き取ります」と言うと(15)、イエスが「『マリア』と言われ…彼女は振り向いて、ラボニ[先生]と言った」(16)のです。古代イスラエル(ヘブライ人)の時間感覚では、過去は「日々の前で」、未来は「日々の後ろがわで」と、表現されます。つまり、過去は人の前方、未来は人の後方にあると、意識していました。この時間感覚を参考に、今日の聖書をよく見ると、マリアの墓穴の中を推測したり(1-2)、目の前にいるイエスを分からなかったり(14)という姿は、決して他人事ではありません。私たちは、目の前の現在のこと・過去の出来事を、よく理解しているのでしょうか。案外、曖昧なのです…。マリアは、背後から、今後の将来をも導く 主イエスの言葉を聞くことを通して、新しい生へと歩み出します。「後ろを振り向いて」とは、未来に向き合うことは過去にも向き合うことと、響いてきます。マリアは、過去・自分の思いに「すがりつく」ことから、復活の主の言葉に従う者へと変えられていきます。

off わたしを思いだしてください

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書23:32-49

32-38節、イエスの十字架刑に立ち会った人々の反応、「他人を救ったのだ。もし神からのメシア…なら、自分を救うがよい」とあざ笑う議員たち(35)、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱した兵士たち(36-37)などなど。これらの人々が、十字架につけられた人々に注意を向ける機会が、二度あります。⓵は、イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです」(34節)と語る時です。⓶は、39-43節の、十字架上の三人の会話です。犯罪者の一人は、[議員たちと兵士たちの]二つの嘲りに加え、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、ののしりました(39)。もう一人の犯罪者は、イエスが[王]座につく、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、イエスへの信仰を表明します(42)。イエスは、「あなたは今日わたしと楽園[=「義なる者がいる場」(Ⅱコリ12:4参考)]にいる」と応えました。十字架上においても、イエスは、神の力を自らのために用いず、自ら他者(罪人)を助け、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られます(46)。イエスの十字架刑・死に立ち会った人々、百人隊長はイエスを「正しい人・無実」であったと証言し(47)、群衆は深く悲しみ「胸を打」ち(罪を悔いて)帰り(48)、遠くで婦人たちも目撃していました(49)。イエスの・出来事・死は、全ての者に開かれています。その証人になった人の歩みは、その後も、続きます…。

off 『ぶどう園と農夫』のたとえ

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書20:1-19

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して 長い旅に出た」(9)。(ぶどう園はイスラエル?) 「収穫の時になったので」(10)、僕を送りました。事業の結果を確認し、対応を伝達・指示するために、僕を送ったということになるでしょうか。農夫たちは、「僕を…追い返し」(10)、「ほかの僕をも…追い返し」(11)、「三人目[の僕を送ったが、これ]にも傷を負わせてほうり出し」ました(12)。ぶどう園の主人は考えます。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれる…」(13)と。しかし、「農夫たちは息子を見て…『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14-15a)。イエスは、「…ぶどう園の主人は 農夫たちをどうするだろうか」(15b)と問いかけ、「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(16)と、語りました。これに対し、「そんなことがあってはなりません」(16)、「律法学者たち…は、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」(17)と、2つの反応があります。実際、イエスは、全ての者に当て、伝わるよう話をされ、生きました。世界の現実と神の御心が、顕わにされるために。彼こそ、「隅の親石」(17)、「人生(世界)の鍵となる石」(18)、そういう方であります。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書9:28-36

先週の箇所を受けて、イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈るために山に登られました。イエスが祈っておられると顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いて、二人の人と話していました。モーセとエリヤです。ペトロはそのすばらしさに仮小屋をそれぞれに建てるとい言うと、雲が現れて「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との声が聞こえました。そこにいたのはイエスだけでした。この出来事を弟子たちは当時誰にも言わなかったのです。
イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」は「エクソダス」となっています。脱出、出発、出口、それはさらに地上の人生からの旅立ちとしての死をも意味するのかもしれません。イエスがエルサレムで遂げようとしておられるエクソダスはイエスの死のことであり、同時に復活のこと、さらに昇天、来臨を含めた栄光の御業のことかもしれません。この後、51節でエルサレムに向かう決意を固められます。この変容はイエスの宣教の目的地がエルサレムであり、そこで「最期」(エクソダス)を遂げることが宣教の目的であることが鮮明になっているのです。マタイ、マルコの並行記事では「変容」の出来事に対して沈黙命令がありますが、ルカでは弟子たちが自ら沈黙しました。しかし後にペトロの手紙Ⅱ(1:11-18)はこの出来事を大胆に信徒に語っています。日常、私たちの取るに足りない歩みですが、受難節を覚え、証しできる歩みをしましょう。