毎週の説教メッセージ

off イエスが行い、教え始めてからのこと

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカ福音書1:1-4、使徒言行録1:1:2

ルカ文書(ルカによる福音書-使徒言行録)は、物語というスタイルを取って、語りかけます。新約聖書の手紙というスタイルは、ある特定の個人やグループに、直接向けられる伝達方法です。それに対して、物語は、間接的な伝達手段と言えるでしょう。今後、使徒言行録を続けて読むことにしますが、著者ルカは、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」を使徒として位置づけ、その「証言」をもとに、ルカ文書を「すべての事を初めから詳しく調べ」「順序正しく」(ルカ1:3)、著しました。「順序正しく」というのは、歴史的にという意味ではなく、神の出来事の通りにという意味でしょう。宛名の「テオフィロさま」(ルカ1:3,使徒1:1)は個人名か団体名か明確ではありませんが、キリスト教は知っていたが、何らかの危機が迫ると信仰や希望を失ってしまう可能性があったのではないかと、指摘されています。ルカ文書には、信仰に生きた人々の「わたしたちの間で実現した事柄」(ルカ1:1)が証言されています。その意味では、ルカ文書は、信徒を励ます宣教を扱っています。使徒言行録を読み進めていくにあたり、機会ある毎に、「聖霊」(使徒1:1-2)についても触れたいと思います。ルカの関心は、福音がどのようにして世界の隅々にまで広がったのかを示すことにあると、想います。もちろん、時代や地域によって、状況は異なります。しかし、今後の歩みを模索している現代の教会にとっても、使徒言行録は、大きな意味があり、慰めと励ましになることでしょう。

off 応答する者

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マタイによる福音書9:1-8

マタイ福音書8章は、様々な病の癒しが記されており、その癒しが「罪の赦し」と密接に関係していることが9章で取り扱われています。神がイエスの誕生に際し「自分の民を罪から救う者=イエス」、「神が我々と共におられる=インマヌエル」、という使命を負う者であることを明記します(1章21節、23節)。マタイ福音書で、イエス自身が「罪の赦し」に直接言及するのは本日の箇所が最初です。「中風の人をいやす」記事はマルコやルカにもあり、イエスの働きの中でも重要であったことが伺えます。マタイ版の特徴は、イエスが「その人たちの信仰を見て」(2節)と語った際の、連れて来た(献げる)人たちの行動が記されていないことです。並行句のマルコとルカの両福音書では、群衆に阻まれていたのでイエスがいる付近の屋根をはがすという具体的な描写があります(マルコ2:4/ルカ5:19)。マタイ福音書は、この描写を省くことで、信仰が人間の熱心な行いでなく、神の赦しに信頼する(献げる)という姿勢にあることに意識をむけます。この段落(9:1-8)を通して中風の人は、自身の人生(可能性)に対して消極的で、神への信頼という点でも弱い印象を強く受けます。現在の私たちにも、神の御心を体現する自身の行いの強弱が信仰の強弱に比例するのでは、という意識があります。しかし、イエスはそれとは全く関係なく「神はあなたの罪を赦している」(2節)を宣言されるのです。神が私の可能性を諦めないのなら、私自身も…と応答する者になることをイエスは期待しています。

off 願っている限りは

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソへの信徒柄への手紙12:11-22

「二つのものを一つにし…敵意という隔ての壁を取り壊し」(14)という「一つにする」は、一方が他のものを取り込むというような統合ではありません。十字架刑は悲惨な暴力であり、とりわけ、十字架につけられたイエスの姿を想う時、私たちには弱さが溢れてきます。弱さや悲惨は新しい契機を生みだします。イエスの十字架は、「双方を御自分において」(15)、「一人の新しい人」=「平和を実現」する存在へと、創っていきます。「両者を一つ」(16)の存在へ、互いに平和を祈り歩む者としていくことは、神の御心でもあります。[「両者を…神と和解させ」(16)という言葉にも注目。] 今日は沖縄の「慰霊の日」ですが、私は難民の歩みを祈念する時としても考えたいと願っています。「あなたがたは もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族で」す(19)。今日の聖書には、異なる二つの者が、敵意によって、遠ざかるのではなく、近づき、まるで一つのようになる可能性が、語られています。また、「十字架を通して」(16)、弱さや悲惨さを絆・契機にして、新しい歩み・家族のような関係が始まることを、告げています。弱さや悲惨さを絆にする歩みは、種が蒔かれ時を経て成長していくように、揺らぐことのないある種の「強さ」を秘めています。どんなに時間がかかり困難があろうとも、諦めない。諦めなければ、平和は実現し、新しい世界は来ます。そのように願い歩む人々を、聖書は「聖なる民に属する者、神の家族」(19)と呼んでいます。

off 揺れ動かされることは

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説教:加藤 久幸 牧師

ヘブライ人への手紙12:18-29

「あなたがたが近づいたのは、シオンの山」です(22)。シオンの山は、地上の都を越えて、神が支配をされる「生ける神の都、天のエルサレム」(22)を指しています。その都の民は、「無数の天使たち」(23)、「天に登録されている長子たち」(23)です。恐らく、この都では、毎日の礼拝が行われていて、その礼拝が私たちの地上の礼拝にも繋がっていると、イメージされているのでしょう。そして、そこには、「すべての人の審判者である神」(23)がおられますが、既に裁きが行われ、キリストによって「完全なものとされた正しい人たちの霊」(23)、無罪とされた人々の様があります。復讐を呼び求める「[アベルの]血」の叫びではなく、キリストの成し遂げられた贖いの血によって「新しい契約の仲介者イエス」が語る、呼びかけがあります。後半は、「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と始まります(26)。主の臨在に際し、主は「守るべきものを守るために揺り動かす」(27・28を参考)と、語られています。それは、私たちに「あなたは誰と一緒に旅をするのか」という、招きでもあります。今日の最後は、「わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(29)で終わります…。神の火は、焼き、清め、あるものを 灰にします。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを守る・生かすために、神が「揺り動かされる」ことがあることを、覚悟したい。一人で「ひるむ」のではなく、新しい契約のイメージをしっかりと抱き、イエスと共に歩む道を歩みたいものだと願います。

説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書6:25-34

「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」とあります。イエス様は「命は食べる物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25)と言われています。生活や将来への不安や欲にとらわれてはいけないと言うのです。でも、私たちは食べる物はお母さんが用意してくれたものを食べるかもしれませんが、今日何着ていこうなんて悩みます。イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言います。空の鳥や野の花は何も考えていないのでしょうか。「ダウィンが来た」という番組で、ウグイスを取り上げていました。山の鳥だったウグイスが最近一年中、住宅街にいると言うのです。人がいる住宅街の方が、ヒナを天敵から守ることができると思ったのでしょう。ウグイスも生きるために考えていると思いました。また、道路のアスファルトの隙間から咲いている草花を見ると精一杯生きていて力強さも感じます。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」(33-34)。同じことをパウロも言っています。「…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。…」(フィリピ4:4-7)。イエス様が求めなさいと言っている神の国や神の義は、神を信頼し、ゆだね、喜んで力強く生きることではないでしょうか。実際の生活は思い悩むことも多い私たちですが、空の鳥、野の花のように私たちもまた神の御手の内にあります。

off 信仰は聞くことにより始まる

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙10:5-17

5節でパウロは、律法が神の恵み・神への信頼への呼び覚ますものであったが、ユダヤ人は律法を人間の行い・人間への信頼を呼び覚ますものとしたと、ほのめかしているようです…。そして、旧約以来、変わらぬ神は、神の恵み・神への信頼を呼び覚ます方として、キリストをお遣わしになった…。それは、信仰者が自分たちの努力によって知るというより、私たちの近くに来てくださる神の恵み・備えを表しています…。6-8節は、神の近さ・キリストの臨在を表現し、それを信じる「信仰の義について」表しています(申命記30:11-14参照)。パウロは、これらを旧約聖書から聞くことを通して明らかにし、「これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」(8)と、語っています。9-10節でパウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(申命記30:14参照)と語り、ここでも旧約聖書の預言とキリストの出来事を結びつけています。そして15節、「聖書にも、『神を信じる者は、だれも失望することがない』(イザヤ書28:16参照)と書いてあります」と語り、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)と、宣べ伝えます。パウロは[旧約]聖書を通して「信仰は聞くことにより始まる」(17)と、真剣に宣べ伝えています。

それ故、旧約聖書に示される神は、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)のです。パウロは、自らが信頼できる神であることを[旧約]聖書が語っていると、宣べるのです。

off キリストを現してくださいます

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテ書一6:11-16

今日の聖書は、生きる意味や人生について、先ず語っているように想います。人間にとって大事なのは、「命を得る」(12)ことであり、それは、交換も、購入も、蓄積もできない、かけがえのないものです。私たちは、「お金は天国には持っていけない」と語りますが、生きている間「お金を蓄積する」ことに熱心です。聖書は、「永遠の命を手に入れ」る(11)ため、「万物に命をお与えになる神の御前で」(13)、「この掟を守りなさい」(14)と、勧めます。それは、「神の人よ、あなたはこれらのことを避け…正義、信心…を追い求めなさい」(11)ということです。聖書は、命は天国においても存在するものですから、命に関わる正義や信心に、また、恵みとして与えられる命に感謝しなさいと、教えています。それと共に、「避けなさい」というのは、適切な距離をとる・付き合い方をしなさいと、勧めているのでしょう。「信徒の友」2022年9月号は、「お金と信仰」という特集を組んでいます。その中で、浜矩子さん(同支社大教授・経済学者)が語られている「お金に支配されない生き方」という文章は参考になります。最後に、「キリストを現してくださいます」(15)は、聖書の文脈からすると「イエス・キリストの再臨」(14)を示唆しているのでしょう。しかし、私たちは、この世において信仰を明らかにしつつ、「証しをなさった」(13)キリスト・イエスの姿を思い起こしつつ、歩みたいと思います。神は聖霊を通して「キリストを現してくださいます」と、私は信じています。

off “霊”が語らせるままに

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

私たちは、繰り返し、今日の物語に聞き、そして、新たに出発します。私は、この物語に触れる度に、この出来事に最初に巻き込まれた人々は、何を語ったのだろうと、想像します。しかし、物語では、「何を」ということは明確には語られていませんが、「何が起ったのか」ということは語られています。この物語は、「神の偉大な業」(11)は、言語も、民族も、宗教も、越えていくと、示しています…。その出発点は、家の中にいた「一同」であります。イエスの去った後(1:9)、イエスの弟子たちは、この時を、閉ざされた場所で、慣習に従って過ごしていたのかもしれません…。しかし、彼らは、新しい世界へ飛び出すことになります(1:8)。“霊”は、人々を動かし、世界を打開していきます。その風は、熱を帯びており、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに…話しだした」(3-4)のです。弟子たちも、イエスの弟子という「同質性」にとどまっていたかもしれません。しかし、霊を受けて、彼らの一人一人の歩みが始まります。それでいて、その歩みは、各々の考えや歩みではなく、「“霊”の語らせるままに」(4)、すなわち「聖霊の導くままに」一つとされる歩みでもありました。現代の私たちも、既得権益のように受けとめてしまう慣習や恵みから新たにされて、この世界の中での「神の偉大な業」、“霊”が語っていることに、身を委ねるものでありたいと、願っています。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネ福音書7:32-39

「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」(31)という群衆の声を聞いて、祭司長やファリサイ派の人々はイエスを捕らえようと下役を遣わした。時は仮庵祭が盛大に祝われる終わりの日にイエスは大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38)と言います。イエスとサマリアの女とのやり取りで「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)を想起させます。私たちは自分の魂の渇きを自分自身の努力によって解決することはできません。しかし、イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と私たちの渇きを潤してくれることを約束されます。イエスとの出会いによって、私たちは生きた水を飲むことができるのです。その生きた水とは「聖霊」です。その聖霊は私たちを「導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)のです。「渇いている人」がイエスから呼び出されています。イエスはいっときの水を提供するだけでなく、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38)と言います。イエスは天に昇り、この地を去ります。イエスの命の水に与った私たちは、その渇きを癒さるだけではなく、その人の内から「生きた水が川となって流れ出る」という使命を指し示されています。そのような歩みをしましょう。

off その日には

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書16:23-33

「その日には…あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23-24)。「喜びで満たされる」ことがはっきり示されています。さらに、イエスの言葉が響きます。「その日には…願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」(26-27)。弟子たちは、「今、わかりました」(30)と語り、自らの理解やイエスとの関わり方において、その変化に気づき始めたのかもしれません…。そのような弟子たちに、イエスの踏み込んだ言葉が続きます(31-32)。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ」。32節は、イエスの近い未来であり弟子たちの未来でもあることを示唆し、31節は、信じることは、御言葉を聞くだけではなく、御言葉を生きることでもあると、示唆しているかのようであります。イエスの最後の言葉が響きます(33)。「勝利」に関して言えば、信じる者たちが神の正義・真実・平和が実現することを祈り「一致」する様相を聖書全体は伝えていると想います。私たちは、まさにイエス・キリストの名によって神に直接祈っています。「その日」の実現を信じ、イエスのように生きたい、生きようと願っています。