毎週の説教メッセージ

off 取り扱いは慎重に

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録5:33-42

最高法院、当時の宗教的指導者の尋問で、ペトロたちの演説(29-32)を聞いていた者たちは、「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」(33)。ところが、「ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立ち、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、…議員たちにこう言った」(34-35)のです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい」(35)。彼は、テウダやユダの例を引き、彼らは民衆を率いたが、いずれも「従っていた者は皆散らされ」(36)「ちりぢりにさせられた」(37)と述べ、続けて、こう述べました。「あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい」(38)。ガマリエルの主張は、キリスト教の宣教活動が、つまり「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するであろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」(39-40)。一同は、彼の意見に従い「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放し」(40)た。

表面的・形式的なことではなく、要点は、神の国を待ち望んでいるかなのでしょう。ルカ文書は、こういう人々の存在に焦点を当てています[例えば、ヨセフという議員(ルカ23:50-53)、改宗した「祭司」(使徒6:7)など]。しかし、私たちは、「神がいるなら」ということが前提になっているからガマリエルの主張も説得力があったということを、覚えなければなりません。各々が宗教・信仰をもつことが大事な意味を持ち、そのような社会形成が重要との、宣教活動にも励みたいものです。

off 新しい役割に生きる

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マタイによる福音書4:18-22

イエスは、「神の国の福音」を宣べ伝える最初の働きとして、弟子たちを選ばれました。彼らは、決して世間から評価される地位にある者ではなく、ユダヤ当局から「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)と呼ばれた人たちでした。イエスが最初に弟子にした4人は、ガリラヤ湖で漁をする漁師でした。イエスが彼らに声をかけた時、二人は網を打ちもう二人は網の手入れをしていました。漁師たちの行動は何か特別なことではなく、彼らにとってそれは日常です。ですから、今も私たちが復活されたイエスに出会うのに、何か特別に準備をしたりする必要はないのです。普通の日常生活の場で、イエスの招きに信頼することによって聖霊を受け、復活者キリストに会うことができるのです。「生活の場でイエスに出会う」ということは、私たちの現実の生活全体(全人生)が捉えられ、新たにされてしまう質の出来事を意味します。日常的に「魚」を獲る彼らに、イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と声をかけます。この言葉は、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11章28節)にも使われており、イエスの招きが困難で苦労の多い歩みというのではなく、常に私たちと同伴し、その歩みに寄り添われることが示唆されています。誰の目にも止まらず、淡々と繰り返される日常の中で、自身の存在価値や使命を見失いそうになる時に、イエスは新しい役割に生きる道に招きます。招かれた私たちが、他者との関わりの中で招く者となりたい。

off 人間の従うより、神に従うべき

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録5:12-32

今日の聖書にも、異なる二つの動き、「民衆の称賛」と「ほかの者は…仲間に加わろうとしなかった」ことが報告されます(11-12)。使徒言行録は、初代の教会は主イエスの癒しの業を引き継いでいたことを伝え、民衆の称賛を伝えます(14-16)。一方、当時の宗教的指導者たちの実際の動きを、考えさせられます。彼らは、神から与えられた自らの務めを、ローマの駐留軍といざこざを起こさないようにする、仲介者(協力者)の役割に移しているように想います。ローマ[帝国]は、支配する地域で「騒ぎ」を起こしたと見なす時は、きびしく対応しました。イエスが処刑された理由も、「騒ぎ」を起こしたと見なされたからです…。今日の聖書のペトロたちが捕えられ尋問を受ける際においても、宗教的指導者たちは、「騒ぎ」を問題にしますが、その中身(信仰)を問題にしません。使徒たちが、イエスに従い、宗教の中身を問題にしていることが、彼らの弁明に顕されています。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。…神は イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちは この事実の承認であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(30、31-32)。主イエスがかつて言われた、ルカ福音書12:11-12を思い出します。必要なことは、その機会も含め、主が、聖霊が与えてくださる。教会は、自らの日々の歩みを、主に忠実に歩みたいものです。

off 主イエスの復活を証しする

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録4:32-5:11

今日の聖書は、最初の信仰者の様子を、「使徒たちは、大いなる力をもって 主イエスの復活を証しし」(33)と伝えます。[私は、ここで「主イエスの復活を告白する」と言われていないことに、注目をしたいと思います。] そして、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、各々分配されたからである」(34-35)と報告され、使徒バルナバの例も紹介されます(35-36)。しかし、続くアナニアとサフィアの物語(5:1-11)は、別の視点から、最初の信仰者たちの様子を考えさせます。アナニアとサフィラは、信仰者の仲間が行っているので、[同調圧力を感じたのかはわかりませんが]自分たちも「名誉」を得るために、自分たちの考えで献げたのかもしれません…。そして、嘘が生まれた…。私たちは、自らの名誉や保証を得るために、弁解するという術を身に着けています。最初の信仰者たちは、イースターの時に死の囚われを打ち破り、ペンテコステの時に言葉の壁を打ち破り、そして今、財産すなわち自己保証・自己担保の執着からの解放を、経験してきました。しかし、アナニアとサフィラは、死に囚われ、言葉だけは復活を信ずると同調したかもしれませんが、自己保証・自己担保の道を捨てられなかったのではないかと、想われます。形にこだわる必要はないと思いますが、信仰は「悔い改めなさい」(2:38)、「悔い改めて立ち帰りなさい」(3:19)という、生き方の転換へと招いていく出来事でもあったのです。このような経験をしていく信仰者の群れを、ここで、使徒言行録で初めて「教会」(5:11)と呼ぶのは意義あることだと思います。

off 大胆な証言

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説教:加藤 輝勢子

使徒言行録4:1-31

ペトロとヨハネが神殿でイエス・キリストの復活を大胆な証言しているのを見て、祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々は苛立ち、逮捕して牢に入れました。最高法院で二人が聖霊に満たされて大胆に証言しているのを聞いて、議員たちは、二人がもともとガリラヤの貧しい漁師で、無学な普通の人であることを知って驚きました。イエスが十字架にかけられた時はすぐに逃げ出した弟子たち、生前のイエスが語る福音を十分に理解していたわけではない弟子たちですが、今や大胆に証言しているのです。しかしイエスはこの事態を明確に予告していました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12-15)。議員たちは二人に、「イエスの名によって話したり、教えたりしないように命令」するが、二人は「神に従わないで人間に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19-20)と答え、散々脅されて釈放されました。初代教会の人々は聖霊の働き、聖霊の導きに一切を委ねて、大胆にイエス・キリストの福音を宣べ伝えていきました。これが教会の基本的な信仰の姿勢です。

off イエスによる信仰が

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録3:11-26

ペトロは、3:1-10の出来事を受けて、神殿での最初の説教(演説)をすることになります(12)。最初にイエス・キリストについて語り(12-15)、次に生まれながら足の不自由な男が立ち上がったことについて説明をします(16-19)。使徒言行録は、イエスの死を、人間の悪・無知によるものだと説明します。パウロの手紙のように、罪を贖う、十字架の神学のようなものは見られません。人間の悲惨な行為-暴力と十字架-イエスへの「否」を、神は力強い行為-復活-イエスへの「然り」で応えました。初代の教会の人々は、このことの、神の「証人」(15)なのです。そして、男のことも「イエスによる信仰が…この人を完全にいやした」(16)と、証言します。それ故、イスラエルの人たちに、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19)と、呼びかけます。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださる…このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる その時まで、必ず天にとどまることになっています」(20-21)。この後、モーセやアブラハムの語った[旧約]聖書を引用し、説教のまとめをします。

説教全体は、命か死か、祝福か滅びか、厳粛な問いかけがなされます。別の言い方をすれば、神の約束を相続する者は誰か、そういう問いかけがなされています。「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」(25)は、真のイスラエルを問題にしています。福音に与かるために悔い改め、神に立ち帰った者のみが、真のイスラエル・神の民であると、示しているのではないでしょうか。

off イエス・キリストの名によって

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録3:1-10

いつものように、「ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に登って行った」(1)。2-3節に登場する男は、生まれながら足が不自由で、誰かに運んでもらい、施しを乞うことでしか、日々の生活ができない有様でした。社会も、そして、この男自身も、「駄目な人間」と「あきらめていた」のかもしれません…。「ペトロは…『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かをもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい』」(4-6)。この男は、生きるためには「施し」、金銭が全てと、考えていたのではないでしょうか。そのような状況を察し、ペトロ[たち]は「金や銀はない」と応えたのでしょう。ペトロたち自身の、イエスの十字架の時の「駄目な人間」から、今立って生きるに至った転換が、きっと背景にあることでしょう…。ペトロたちは、今回、この男に関わりました。男は「施し」を願ったのですが、「救い」がもたらされました…。ペトロたちは、イエス・キリストの名が呼ばれるところ、そこに復活の主が臨まれると信じて、歩みました。この男も、それまで無縁と考えていたかも知れませんが、神に呼ばれ、イエスに招かれていると、受け入れたのでしょう…。天に生きて働いている主と、地の人々の歩みが、「イエス・キリストの名によって」(6)結びつけられ、力が解き放たれました。それは、大きな「しるし」となりました(9-10)。

off ひたすら心を一つにして

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:42-47

「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(43-45)。これは、現代的に考えれば「共産制」と言えるのかもしれませんが、注目したいのは、「不思議な業としるし」を生み出す交わりがあり、そこには喜びと真心があった、ということです。私たちは、[旧約]聖書からも、主の平和や貧しさのない福音・約束を、聞いています。8月4日の説教で、私は「神の約束の到来は、イエスの到来と共に始まり、『迫りつつ』あります…」と、述べました。「すべてのものを共有」するという形・結果に、こだわる必要はないと思います。敢えていうなら、「共有」を達成しようとする計画により格差や差別が生まれるのであれば、強いてやる必要はない…。それよりも、「不思議な業としるし」を生み出す交わりに心砕いているか、「主の御声・戒め」に絶えず立ち直ろうとしているかが、問題になります。今日の聖書は、キリスト者にとって、教会の活動は、私たちが考えるような他の活動に替わるものではなく、「必要なことは ただ一つだけである」(ルカ10:42)と、示しているように想います。今日の聖書は、それを、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42)と指し示しています。私たちは、神とイエスに忠実であるよう、熱心であるよう、招かれています。このことを覚えたいものです。

off 主が招いてくださる者ならだれにでも

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録2:37-42

ペトロの説教を聞いた大勢の人々が使徒たちに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞き、ペトロは「悔い改め」なさいといいました。イエスが宣教の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)といったように、ペトロもまた「悔い改め」ることを求めます。「悔い改める」はギリシャ語でmetanoia、「神」の方向に向くこと「回心」と訳しますが、大阪釜ヶ崎でホームレス支援をしているカトリックの本田哲郎神父は「低みに立って見直す」と訳し直されました。ペトロはエルサレムの人々の人々に「キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めます。その赦しの約束はすべての人々に開かれているというのです。イエス・キリストの福音が、一切の条件なしに、すべての人々に約束されているというのです。ペトロの言葉を受け入れた多くの人々が大勢仲間に加わって「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42)とあります。「相互の交わり」はギリシャ語でkoinonia「交わり」「交流」と訳し、さらに使徒言行録では「共有する」「分け前に与る」という意もあるようです。本田神父は「相互の交わり」を「けがれをも分け合う交わり」としています。分け合うと言ったとき、良いものだけとか、少し余裕があるからとかではなく、都合の悪い部分、自分の弱さや欠けを分け合い、支え合うことが求められていると言うのです。イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪赦されたものの教会として、主が招いてくださっています。

off あなたがたが十字架につけたイエスを

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:14-36

聖霊降臨の不思議な出来事の後、次の展開が始まります。「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」(14)。使徒たち(教会)は人々に向かい合いますが、その中には、理解する人もいたし、そうでない人もいました。使徒たちは、演説・説教を通して、福音を解釈し伝えます。使徒言行録には、28ほどの演説があり、全体の三分の一を占めていると言われます。そして、私たちは、使徒言行録の説教(演説)は、外部の人たちに語られたより、むしろ、教会のキリスト者に向けていると、心に留めておきたいと思います。私は使徒たちが語る時、その内容は自らが一番に聞くべき事柄であったあったのではないかと、想像します。今日の要約でもある36節も、「わたしたちが十字架につけたイエスを神は主とされた」という使徒たちの畏れと信仰を抜きにしては理解しがたいものです。それ故にと言うべきか、[旧約]聖書の引用・解釈に集中することも、当然の帰結かもしれません。

今日は、平和聖日です。今日は、教団の「戦争責任告白」を告白しますが、私たちは、毎週の礼拝で「平和の挨拶」を交わしています。キリストの平和を願うと共に、キリストの業に参与する者たちへのキリストの平和を願っています。神の約束は、イエスが導き成就してくださると信頼していますが、その成就に私たちも参与しているという自覚・信仰を大事にしたいものだと願います。