毎週の説教メッセージ

off キリストの真実にかけて

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説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙二11:7-15

パウロは主の指示を伝えています。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資[新訳:「糧」]を得るようにと、指示されました」(Ⅰコリント9:14、参考:福音書)。教会から報酬を受ける者がいました。新約聖書の手紙等から類推できるように、教えることで金銭を受け取る、時には高額な金銭を要求する遍歴(巡回)の教師がいました。この報酬により、本来、教師は宣教に専念することができました。それ故、この方式が一般的であると考えられたかもしれません。また、この方式に支えられている教師は「正当な」教師として見られました。しかし、パウロは、自活できるように「手職」を身につけていました。パウロは、新しい町に行った時には、自分の生活のために働いたことでしょう。まだ教会が成立していない時、誕生しても自立することが困難な時には、教師は働き続けたでしょう。そのような教師の状況を知り、かつて交わりのあった教会が教師のために献金・援助を献げることもありました。初期の時代も、このような教師は、教会から報酬を受ける教師よりも「劣る」と見なされることがあったようです。上記を踏まえ7-9節を読みます。パウロは「今していることを今後も続けるつもりです」(12)と語り、それはコリントには自らを誇る教師がおり「その機会を断ち切るため」(12)であると語ります。「キリストの真実にかけて」(10)、宣教に仕えたパウロの姿を覚えたいものです。

off 生きるのも死ぬのも主のため

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説教:髙桑 義雄 牧師

ローマの信徒への手紙14:7-12

私たちはどのように生きるのか、私たちは一生このことを考え続けて生きています。私たち信仰者には、自分のために生き死にするのではなくキリストのために生き死にする道が与えられました。私たちはキリストによって救われたことを知るとき、自分のために生きることが罪であることを知ります。これは死から生へ、望みのない生活から喜びの生活への方向転換です。私たちは主によって召されており、生きているときも死のときも、全てが主のみ手の中にあります。私たちの生涯は自分のもののようですが、自分で動かすことのできないことに支配されており、ここに神の意志があります。キリストによって生かされているということは、キリストによって裁かれているということでもあり、私たちは最後には神の裁きの前に立たされます。私たちは他者を裁くことなく真の裁きをキリストに委ねなければなりません。そして自分を高ぶらせることなく、主の前に「生き」「死ぬ」ことができる信仰者でなければなりません。これは簡単なことではありませんが、キリストが血を流して私たちのために身を捧げて下さったことによって与えられるのです。

神が生きて働いてくださっていることにより、私たちには喜んで主のために生きる道が与えられました。私たちは主の前に罪の悔い改めによる砕けた魂を最も重要な備えものとして捧げたいと思います。そして生きるのも死ぬのも主のために礼拝を守り賛美を共にして歩んでいきたいと思います。

off 聞いて、行う人

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説教:加藤 久幸 牧師

ヤコブの手紙1:19-27

怒りは現実を変革するエネルギーも秘めていますが、「諦め」や「甘受」や「制御不能」に陥る力も秘めています。それ故、今日の聖書は、「御言葉に生きなさい」と勧めます。そして、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21)と教え、「御言葉を行う人になりなさい」(22)と勧めます。21節では「心に植え付けられた御言葉」という言葉が使われていましたが、22-23節の文脈で言えば、「御言葉を行う人」(22)、「植え付けられた御言葉」(23)が実を結ぶようになることと、言えるでしょうか。 23-24節では、「聞くだけで行わない者」(23)が、「鏡に映った自分の姿を…すぐに忘れてしまう人」(24)に、喩えられています。この喩えは、必ずしも成功しているようには思えません。例えば、古代の鏡が磨かかれた金属であり、写りが悪かったと考えられますが、それにしても「すぐに忘れてしまう」ような事態があるのか、など。さらに、喩えは、鏡が「自由をもたらす完全な律法」(25)であることへと変化することも、わかりづらいものになっている気がします。しかし、この喩えは、視覚的により優れた環境にある、現代の私たちにも警鐘を鳴らしているかのようです。

今日の聖書は、体全体で、「聞いて…行う人」(25)が、御言葉を生きることであり、自由をもたらし、神の恵みに生きることと、示されています。私たちも、神の恵みを「一心に見つめ、これを守」り、「行う」者でありたい(25)と、願うものです。

 

 

off 主に倣う者

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説教:加藤 輝勢子 牧師

テサロニケの信徒への手紙一1:1-10

テサロニケはマケドニア州の中心地であり、マケドニア州にはオリンポスの山々があり、そこには、ギリシャ神話に出てくる神々が住むと信じられていました。テサロニケの人々もギリシャ神話の神々を信じておりました。そのうちの一つが町の守護神とあがめられていたようです。町の有力者たちが熱心にその神を信仰していて、テサロニケの町に住んでいて、その祭りを拒否する者は、集団で暴行を受けることもあったようだと言われています。そのような町に、パウロを始めとする、三人の伝道者がイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。使徒言行録17章によれば、パウロたちはテサロニケの町に3週間ほど滞在して福音を伝え、その働きによって主イエスを信じる者たちが起こされました。そのことでユダヤ人たちが騒動を起こしたために、そこにいられなくなって、南のべレアという町に逃れました。パウロはそこからアテネを経由してコリントへ行き、そこで腰を据えて伝道することになりました。テサロニケの信徒たちが「ひどい苦しみの中から」(6)偶像の神から離れ、イエスキリストの神に従う歩みは困難でした。しかし、私たちもそれぞれの現場の中で「主に倣う」歩みは困難の中にあると思いますが、主に倣う者として「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という勧めのなかにこそ、神に立ち帰る歩みがあると信じて今週も歩みましょう。

off 互いに敬いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙12:9-21

今日の招きのことばは、ローマ書12:1を選びました。1節は、平たく言うと、「神の恵みをうけた者の生き方」ということになるでしょうか(参考 ローマ書6:13後半、第2コリント5:17)。12:2と12:21は分量も表現も違いますが、同じ内容を指すと言われています。12:21は、言葉を補うとこうなります。「悪(この世)に負けることなく、善(恵みの力)をもって悪(この世)に勝ちなさい」。この21節と2節で囲まれる前半(13:3-13)においては、キリスト者共同体のことが語られ、恵みに対する応答の実例が示され、「一致」形作ると示されています。後半(14-21)は、現実社会の対応が語られ、恵みは「平和」を形作ると展開します。18節、「あなたがたは すべての人と平和に暮らしなさい」。パウロは、平和の一例として、「復讐」(19-)を取り上げます。パウロは、キリスト者の責務は和解と平和への道であり、神の「恵み」を具現化することであると、示しています (ここで、イエスの言動と彼が払った「献身」を思い起こすことは、意義あることです。マタイ16:24-25)。神の恵みにある生は、新たに召し出されたので、自分の生きている現実社会と折り合いが悪くなることがあります。しかし、私たちは、神の恵みを忘れることなく、限界ある者として、招かれています。神の創造された世界に、神の恵みによる生、神の平和が満ちていくことを願って、歩んでいきましょう。

off 誓いを果たされる神

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説教:岩河 敏宏 牧師

創世記28:13-22

私たちは、人生における針路や目標・目的地について、多くの場合は自己判断で選択します。しかし、私たちの判断は利己的であるため、本人の意図とは別に不和や分断を招くこともあります。聖書は、私たちが人生の岐路に立つとき、語りかけ寄り添う存在として、神がおられることを記しています。本日の個所も、その一つです。双子でありながら、兄エサウと弟ヤコブの間には、父イサクからの“祝福”をめぐって確執が生じます。イサクが子へと継がせる“祝福”とは、神が「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)とアブラハムに告げ、彼がそれに応え、明確な針路も目的地も明示されないままで出発した時、神から与えられた“祝福=たたえる”(12:2,27:4,28:14)で、兄弟間で確執の元凶となった“祝福=賜り物(27:13,41)”とは質を異にします。神の祝福より、物質的な祝福をめぐる謀により兄の恨みを招き、ついには独りで家を出ることになります。この時、神がヤコブに現れ“祝福”を約束されるのです。彼は神の前で罪に関する発言はなく、自身の保身を願います(28:20-21)。ここで注目したいのは、神が自己保全を優先する彼を咎めないことです。神は自己中心的な私たちに、「あなたと共にいる。必ずあなたを守り、連れ帰る」(15)と誓って下さるのです。利己的で不和を招く私たちだからこそ、神が共にいて守る、との誓いを果たすのです。無条件の神の恵みに応えたい。

off 主において同じ思いを抱きなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピ書4:1-3

パウロは、教会で読み上げられる手紙において、エポディアとシンティケという2人の女性の名前を挙げ、勧めています(2)。この2人の女性の動きと不和が、教会の交わりの一致に深刻な影響を与えたようです。ですから、パウロは、教会の問題として、教会で公に取りあげようとしているように想えます。それ故、パウロは、教会員に語りかけます。1節で、パウロにとって、現時点での信徒の意味は、「愛し、慕っている」存在であり、終わりの日における信徒の意味は、「喜びであり、冠である」存在であると、語り始めます。今の時も、「目標」(3:14)を迎える時も、共に「走る」(3:14)同労者なのです。そして、共に喜ぶ存在です。2節で、2人の女性に対し、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。それは、パウロを悩ませていた対立の問題(2:1-16)を振り返るかのようであり、同じような言葉が重なり出てきます。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし…があるのなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:1-2)。さらに、2-3節で名前のあがる協力者はよくわかりませんが、いずれも「命の書に名を記され」「福音のためにわたし[パウロ]と共に戦っている」(3)人たちです。パウロは、信徒の動きや不和を教会の事柄として取り上げ、共有・協働することで解決を求め、教会の成長を願ったのです。

off 各々が自分の重荷を負っている

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説教:加藤 久幸 牧師

ガラテヤ書6:1-10

今日の聖書は3つに分かれます。➀1-5節。パウロの反対者たちは、洗礼による聖霊体験により、旧来の規則や生活習慣からの自由を与えられたと、自覚していました。しかるに、彼らは、信仰に入る者・洗礼を受ける者に、割礼と律法遵守を求めました。このダブル・スタンダード(2つの基準)が、共同体に不和と混乱をもたらしました。パウロは、「“霊”に導かれて生きている あなたがた」という複数形で呼びかけ(1節前半)、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と単数形で、注意深く勧めています(1節後半)。「だれかが…何かの罪に陥ったのなら」(1)ば、その人は困っており、助けを必要としています。「正しい道に立ち帰」り(1)は、処罰ではなく、回復を意味しています。審判を求めるのではなく、審判はキリストが既に受けられ、私たちは贖われています。3-5節は、私たちに、人の自己満足と自惚れは、恩着せがましい高慢を生み、他人の欠点ばかりに気を配り、自分自身の欠点には気付かなくなりがちであると、振り返らせます。➁は➂の7-10節に橋渡しをし、➂の7節でパウロは、善を行うことに倦み疲れない根拠を、公平な審判者・終わりの日の審判者がイエスご自身であることに置き、「今、時のある間に、すべての人に対して…善を行ないましょう」(10)と、勧めます。この善は、「互いに重荷を負いなさい」(2)と示し行ってくださった「キリストの律法」(2)に誠実であり謙虚であったのかを問い、証しします。

off 生命の回復

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録20:7-12

パウロが旅をして主イエス・キリストの教えを説いて回り、いろいろな困難があったと思いますが、イエスを信じあがめるようになった人々もまた、それぞれの場で暮らすことには困難があったように思います。そしてトロアスの人々もパウロからのパン裂きや話を聞くということをとても大切にしていたのだろうし、パウロ自身も話しておくことがいっぱいあったのだと思います。パウロの口から出る言葉を一つ一つ聞き逃すまいとしていても、肉体は弱いのです。エウティコは眠気を催し、落ちてしまいました。突然の不幸です。周りにいたものは恐怖のどん底に落とされました。しかし、パウロは青年を抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言って、また話し始めます。パウロが出発した後、残された人々はパウロの話を聞き、祈り、聖餐にあずかったこと、また、死んだと思っていた青年が生き返ったという証人になれたこと、それこそがまさに青年だけではなく、ともに集っていた人の「生命の回復」なのではないでしょうか。この集まり(礼拝)の中で「エウティコの死と復活」が起こったということです。私たちは先週、聖餐にあずかることができました。私たちも主日礼拝ごとに私たちと神との真実な出会いの場になるように、私たちが畏れ、おののき、また感謝と希望、み言葉による力を与えられ、みんなで祈り、遣わされたそれぞれの場で歩みましょう。

off ためらわないで一緒に行きなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録11:1-18

ペトロは、[宣教の]旅の途上で、幻を示されます。ペトロは、この幻を通して神の御心を受け入れ、その後異邦人に洗礼を授けます。11章では、「屠って食べなさい」(7)との声を聞いたペトロは、「主よ、とんでもないことです。[私は]清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」(8)と応じたと、報告しています。すると再び、天から、「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」(9)という声があり、こういうことが三度あり、新しい展開が始まります。「カイサリアから…差し向けられた三人が…到着し」(11)、「“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』」(12)と命じました。カイサリアの百人隊長コルネリウス(10:1)の家で、「わたし(ペトロ)が話しだすと、聖霊が最初わたしたちに降ったように、彼らの上にも降」り(15)、ペトロは「『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた 主の言葉を思い出した」(16)と、報告しています。6月の説教で見聞きした言行録は、人間(使徒たち)が計画したというより、「不思議な霊の導き」(6/25)に押し出され、語り・行動せざるを得ない直面させられる事態でした。各々の所で、「命に至る道」(6/4)「神の前に正しいかどうか」(6/18)が問われました。神の成されること・聖霊の導きは驚きであり、ペトロが受けた命令(12)もその事情をよく物語っています。