毎週の説教メッセージ

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録4:13-31

今日は、聖霊降臨の後、誕生した教会がどのような出来事に遭遇し、何を願ったのかを、見ていきたいと思います。4:1-22は、自らの権威を主張して服従を求める議会の姿(15-18も参照)と、自らの権威ではなくイエスの名による神の権威に仕える使徒たちの姿(19-20も参照)が、対照的に伝えられています。釈放後、使徒たちは教会の仲間のところへ戻って、起こったことを分かち合い(23)、人々は「心を一つにし、神に向かって声をあげ」(24)賛美します(25-28)。そして、こう願うのです。29節、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができますようにしてください」。私たちなら、困難の中にあって自分たちが守られるようにと、祈るかもしれません。しかし、最初の教会は、御言葉を語ること(29)と、「イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(30)と祈ったのです。宣教の使信は、使徒たち一同が「一つに」なって祈る時に与えられます(31節)。

私たちは、往々にして、「祈ることしかできません」と口にします。しかし、最初の教会は、自らの願いではなく、神に向かい祈りました。祈ることは、神の臨在を願い呼び起こします。本当に権威ある方に願うこと、神の主権・実現を讃えることに、祈りの中心があることを、私たちは今日改めて覚えたいものです。

off 共に苦しみ、共に栄光を受ける

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ローマ8:12-17

8章は「キリスト・イエスによる神の義」を締めくくる章でもあります。パウロはわたしたちに一つの義務があると言われます。それは肉に従って生きる義務ではなく、神の霊によって生きる義務だというのです。肉に従って生きれば死にますが、霊に従って体の仕業を絶つなら、生きると言われます。体の仕業とは何のことでしょう。体の仕業は私たちに身に覚えがあるのではないでしょうか。私たちは自分の意志を超えて、体が欲することをしてしまいます。そして体が欲していることに負けてしまいます。食欲、肉欲に留まらず深い根があります。霊に従って歩むものは神の子供であり、子供であれば相続人であり、神の相続人であり、しかもキリストと共同の相続人であるとパウロは言います。神の相続人は共に苦しみ、共に栄光を受けると言われますが、私たちはその苦しみに目が行くより、共に栄光を受ける方を強く感じてしまうのではないでしょうか。それも人間的な栄光を考えてしまいます。しかし、私たちは信仰を与えられたからといって、人生の荒波が見る間に消えてしまうわけではありません。依然としてこの世は罪の世であり、罪の力は今なお人々を神から引き離そうとしています。苦しみを共にするとは神を暗闇の中の光として認めつつ、神を愛しつつ、神の前に立つことです。自己中心的になるのではく、神の霊に導かれて歩みましょう。

off 神の偉大な業を語っている

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-12

聖霊降臨は、使徒たちが祈り求める中で起こりました。その霊は、激しい風のように壁を突き抜ける「音」であり(2)、「炎のような舌」(3)が一人一人の上にとどまりました。「一同は聖霊に満たされ、‶霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出し」ました(4)。あらゆる国の言葉で語られる奇跡は何とも不思議ですが、この奇跡は、神の言葉の拡がりを示し、神の国の拡がる様を示唆しています。2つのことを覚えましょう。①ヨハネ福音書3:8、「風は思いのままに吹く」。聖霊降臨において示されている聖霊は、あらゆる壁を突き抜ける力です。その風は、私たちが捕らわれている制約を越え(神の御心により)思いのままに吹き、世界に変化をもたらします。私たちは、今日、この風によって教会が始まったことを、私たちの歩みもこの風と共にあることを、改めて覚えたいものです。②ルカ福音書10:2イエスは語ります。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。イエスにおいて「神の御業」は十全に伝えられました。実りは示されていますが、実りのために働く人・仕える人が少ないのです。今日の聖書によれば「神の御業を語る人」が少ないのです。「神の業」から遠ざかった人々が、「神の業」へと立ち返り、新しくされたのが聖霊降臨の出来事です。私たちも新たに神の業に生きる者でありたいものです。

off 喜びが満ちあふれるように

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書17:1-13

17章の祈りは、宣言・感謝の響きがあります。1節後半-2節、「…あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(5、7—8も)。イエスは、神と対等に、栄光や権威があり、永遠の命の与えることができると、宣言します。17章を味わい感じるのは、父(神)とイエスの一致・相互性です(17:21参照)。明らかに、「一致」「相互性」は、「遣わす」「派遣」の脈絡で語られています。17章で明言されない聖霊も含め、神・子・聖霊が働くところには、一致・相互性・浸透性が現れます…。3節でイエスはこう語ります。「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。イエスは明らかに「地上で生きる」使命を与えられました。ヨハネ福音書は、世のことを「みじめ」「悲惨」と考えています(17:14~も参照)。しかし17:17のイエスの「友」が聖くされる願いや、17:18の「彼らを世に遣わ」すという言及から、やがては世も聖くされていくという願いが暗示されているように想われます。私たちも「天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り続け、神・子・聖霊、「御言葉を守」る者(5)、世において、イエスの「喜びが満ちあふれるようになるため」(13)に、歩んでいきましょう。

off 喜びに変わる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネ16:16-24

今日の訣別説教は洗足という愛の象徴行為の後に弟子の「裏切り」と「離反」に挟まれた形でイエスと弟子たちの別れが予告され、地上に残された弟子たちに対する愛の掟の付与がなされた後、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」(14:1)の訣別説教が始まる中に入っています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)と言うイエスの言葉に「父のもとに行かれる」とか、「しばらくすると」とはいったいいつまでなのか論じ合っている弟子達を見て、イエスは強い口調ではっきりと「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世が喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20)と言うのです。しかし、「見えなくなる」、「しばらくすると」という言葉の意味がわからない弟子たちに悲しみが喜びに変わるということはわかりません。「悲しみ」がイエスとの別れなら、イエスが復活することで弟子たちと一緒にいてくださることで「悲しみ」の原因が無くなりますが、この「喜び」はイエスが一緒にいてくれるということになります。それが、復活に限らない、霊なる主イエスであれば、主イエスを信じる私たちにも同じことが言えます。共に主イエスと共にいる喜びを感じて歩みましょう。

off つながっていなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書15:1-11

1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。2節農夫(神)は「豊かに実を結ぶように手入れをなさ」れ、「実を結ばない枝は…取り除かれる」と、イエスは語ります。ここでは、明らかに、農夫のぶどう作りの剪定作業が、譬えとして語られています。実りを得るためには、剪定作業は必須で、3節の「清く」も元々は剪定由来の言葉と考えられます。「枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができない」(4)のです。剪定作業の譬話をベース(基底)にしながら、5節「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば…」以降の「つながって」は寓喩・喩えとして語られているようです。弟子たちとイエスの「つながって」は、3節にあるように「わたし(イエス)の話した言葉よって、あなたがたは既に清くなっている」。さらに7節で、「あなたがたはわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば…」と、より明確に「つながって」という約束を表現しています。6節の言葉に目を留めましょう。「つながって」と聞くと、人間の努力や選択を問うているように考えるかもしれませんが、5節後半にあるように「わたし(イエス)を離れては…何もでき」ず、人間が実を結ぶのは、神の力により、その力は(人間の内側にあるのではなく)イエスによりもたらされます。6節は終末時・未来を示します。私たちは「つながっていなさい」(4)に生きましょう。

off 互いに愛し合いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書13:31-35

ヨハネ福音書はイエスの時から60年ほど経ってからまとめられた福音書です。イエスの「出来事」を記しながら、その「出来事」に触れる後の教会の人々の状況も、受けとめています。また、過去・現在・未来を貫いてある「天からの」表現に満ち、「現実の世界」と「神の世界」の境界線に立ってヨハネ福音書は表されているように想えます。32節、「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」。「栄光」は別の言い方で言えば、(神の)「光」「命」になるでしょうか。イエスは十字架・復活を通して「栄光」をお受けになることを表現しているのでしょう。33節は、現代の私たちには、イエスの帰天、つまりイエスが天(神)から来られ天(神)に帰っていくことを述べていると、伝わってきます。イエスの洗足に対しユダは裏切り、「新しい掟」(33-34)に対しペトロは見捨てることになります。ぺトロは、イエスの「栄光」を見ておらず、彼が「帰天」するという告知を聞くこともできず、この時点では「天からの」という視点はないのです。イエスの弟子たちが、神とイエスの「栄光」をわかるのは、イエスの十字架・復活を経てからでありました。やがて「子たち」(33)となるメンバーは、自らの「誓い」ではなく、「互いに愛し合う」(34-35)掟に留まり、「栄光」つまり「光」「命」を分かちあったことが、福音書を通して伝わってきます。

off わたしは良い羊飼い

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書10:7-21

私たちは、羊飼いも羊の門の喩えも見栄えがして理想的なことを語っていると想い描くのではないでしょうか。しかし、クリスマスにルカ福音書の降誕物語を聞く時、私たちは、羊飼いが「外に」おり(ヨハネ9:34)「野宿しながら夜通し羊の群れの番」をする(ルカ2:8)姿を見ます。そして今日の12節、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす」を、私たちは当然のように想います。しかし、11節の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というイエスの言葉は、全く非効率に想えます。効率で考えるなら、「羊一匹を見捨てて、皆で逃げる方がよっぽど効率的である」という人さえいます。私たちは、見失われた一匹の羊を探す羊飼い、イエスの徹底した愛の関わりを深く受けとめる必要があります(同様に羊の門の喩えも意義深い)。14-15節「わたしは良い羊飼い…わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っており、わたしが父を知っているのと同じである」。イエスは17節で「わたしは命を、再び受けるために、捨てる…」と示し、16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない…羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と語ります。イエスが来たのは羊が「命をうけるため」(10)です。

off つながって ~今、わたしを生きる~

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説教:加藤 久幸 牧師

マルコによる福音書16:1-8

詩編121編は、人生の旅路、歴史の試練を、問題にしているのかもしれません。私たちの人生には、どんなに望んでも、全然助けが来なかった!ということがあります。また同時に、厳しい現実は変わっていないのに、自分の物事に対する見方が変わっただけで、霧が晴れるように、様々なことが解決へと導かれることがあります。また、あまりに悲しすぎて、あまりに試練が長すぎて、自信が持てなくて、私たちは、目を閉ざし、心を塞ぐことがあります。 詩編121編は、「わたしの助けはどこから来るのか」(1)という祈りに対して、「目を上げて」(1)と、応じています。「目をあげて」というのは、視点を変えることです。「目を上げる」は、小さなことかもしれません。しかし、現実の困難にだけ目を向けて、そこに目を奪われている時には、「わたし」に注がれているまなざしを感じることができません。うつむいてしまっている自分から視線を変える時、私たちは射しこんでくる光を見ることができるのかもしれません。最後に2節の「天地を造られた主」「天地の造り主」という表現は、創世記1:1と同様、「天地」は存在するもの全てを指すものとして用いられています(使徒信条「我は天地の造り主…を信ず」も同様)。その表現は造り主がどのような方であるかに重点を置き、「何者によっても制限されない、無限の助けと、祝福の力を持っておられる方」から、助けは来るのです。

off 出かけ、目を上げ、見ると

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説教:加藤 久幸 牧師

マルコによる福音書16:1-8

マルコ福音書の構成は、本体が1:16-15:47で、それにプロローグ(1:1-15)とエピローグ(16:1-8)が付いていると、言われることがあります。今日の聖書で、女性たちが墓の中に入ると、「白い衣を着た若者」(御使い)が「あの方は復活なさって、ここにはおられない…『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」と告げなさい(5-7)と託されます。しかし、女性たちは墓を出て行き、「震え上がり、正気を失」い、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8)。マルコ13:9-13は、「恐れ」「沈黙」していた人々がその後どうしたかを暗示しているように想えます。また13:21-23には、「偽メシアや偽預言者」(22)が出てきますが、それは、弟子たち自身がかつて考えていた「偉く…一番上に…仕えられるため」(10:43-45)という、彼ら自身のメシアの理解と同じであるかと想います。しかし、女性たちも、弟子たちも、やがて(時が来て)、復活のイエスに会い、「聖霊」(13:11)を信じ、「わたし(イエス)の名のために…最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)存在になっていったのだと、想わされます。紹介した13章の段落の結びの23節にも、「あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」と出て来るのは印象的です。
イエスの予告は各々の現場(ガリラヤ)で実現していきます。祈りましょう。