毎週の説教メッセージ

off イエスによる信仰が

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録3:11-26

ペトロは、3:1-10の出来事を受けて、神殿での最初の説教(演説)をすることになります(12)。最初にイエス・キリストについて語り(12-15)、次に生まれながら足の不自由な男が立ち上がったことについて説明をします(16-19)。使徒言行録は、イエスの死を、人間の悪・無知によるものだと説明します。パウロの手紙のように、罪を贖う、十字架の神学のようなものは見られません。人間の悲惨な行為-暴力と十字架-イエスへの「否」を、神は力強い行為-復活-イエスへの「然り」で応えました。初代の教会の人々は、このことの、神の「証人」(15)なのです。そして、男のことも「イエスによる信仰が…この人を完全にいやした」(16)と、証言します。それ故、イスラエルの人たちに、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19)と、呼びかけます。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださる…このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる その時まで、必ず天にとどまることになっています」(20-21)。この後、モーセやアブラハムの語った[旧約]聖書を引用し、説教のまとめをします。

説教全体は、命か死か、祝福か滅びか、厳粛な問いかけがなされます。別の言い方をすれば、神の約束を相続する者は誰か、そういう問いかけがなされています。「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」(25)は、真のイスラエルを問題にしています。福音に与かるために悔い改め、神に立ち帰った者のみが、真のイスラエル・神の民であると、示しているのではないでしょうか。

off イエス・キリストの名によって

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録3:1-10

いつものように、「ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に登って行った」(1)。2-3節に登場する男は、生まれながら足が不自由で、誰かに運んでもらい、施しを乞うことでしか、日々の生活ができない有様でした。社会も、そして、この男自身も、「駄目な人間」と「あきらめていた」のかもしれません…。「ペトロは…『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かをもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい』」(4-6)。この男は、生きるためには「施し」、金銭が全てと、考えていたのではないでしょうか。そのような状況を察し、ペトロ[たち]は「金や銀はない」と応えたのでしょう。ペトロたち自身の、イエスの十字架の時の「駄目な人間」から、今立って生きるに至った転換が、きっと背景にあることでしょう…。ペトロたちは、今回、この男に関わりました。男は「施し」を願ったのですが、「救い」がもたらされました…。ペトロたちは、イエス・キリストの名が呼ばれるところ、そこに復活の主が臨まれると信じて、歩みました。この男も、それまで無縁と考えていたかも知れませんが、神に呼ばれ、イエスに招かれていると、受け入れたのでしょう…。天に生きて働いている主と、地の人々の歩みが、「イエス・キリストの名によって」(6)結びつけられ、力が解き放たれました。それは、大きな「しるし」となりました(9-10)。

off ひたすら心を一つにして

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:42-47

「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(43-45)。これは、現代的に考えれば「共産制」と言えるのかもしれませんが、注目したいのは、「不思議な業としるし」を生み出す交わりがあり、そこには喜びと真心があった、ということです。私たちは、[旧約]聖書からも、主の平和や貧しさのない福音・約束を、聞いています。8月4日の説教で、私は「神の約束の到来は、イエスの到来と共に始まり、『迫りつつ』あります…」と、述べました。「すべてのものを共有」するという形・結果に、こだわる必要はないと思います。敢えていうなら、「共有」を達成しようとする計画により格差や差別が生まれるのであれば、強いてやる必要はない…。それよりも、「不思議な業としるし」を生み出す交わりに心砕いているか、「主の御声・戒め」に絶えず立ち直ろうとしているかが、問題になります。今日の聖書は、キリスト者にとって、教会の活動は、私たちが考えるような他の活動に替わるものではなく、「必要なことは ただ一つだけである」(ルカ10:42)と、示しているように想います。今日の聖書は、それを、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42)と指し示しています。私たちは、神とイエスに忠実であるよう、熱心であるよう、招かれています。このことを覚えたいものです。

off 主が招いてくださる者ならだれにでも

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録2:37-42

ペトロの説教を聞いた大勢の人々が使徒たちに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞き、ペトロは「悔い改め」なさいといいました。イエスが宣教の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)といったように、ペトロもまた「悔い改め」ることを求めます。「悔い改める」はギリシャ語でmetanoia、「神」の方向に向くこと「回心」と訳しますが、大阪釜ヶ崎でホームレス支援をしているカトリックの本田哲郎神父は「低みに立って見直す」と訳し直されました。ペトロはエルサレムの人々の人々に「キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めます。その赦しの約束はすべての人々に開かれているというのです。イエス・キリストの福音が、一切の条件なしに、すべての人々に約束されているというのです。ペトロの言葉を受け入れた多くの人々が大勢仲間に加わって「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42)とあります。「相互の交わり」はギリシャ語でkoinonia「交わり」「交流」と訳し、さらに使徒言行録では「共有する」「分け前に与る」という意もあるようです。本田神父は「相互の交わり」を「けがれをも分け合う交わり」としています。分け合うと言ったとき、良いものだけとか、少し余裕があるからとかではなく、都合の悪い部分、自分の弱さや欠けを分け合い、支え合うことが求められていると言うのです。イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪赦されたものの教会として、主が招いてくださっています。

off あなたがたが十字架につけたイエスを

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:14-36

聖霊降臨の不思議な出来事の後、次の展開が始まります。「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」(14)。使徒たち(教会)は人々に向かい合いますが、その中には、理解する人もいたし、そうでない人もいました。使徒たちは、演説・説教を通して、福音を解釈し伝えます。使徒言行録には、28ほどの演説があり、全体の三分の一を占めていると言われます。そして、私たちは、使徒言行録の説教(演説)は、外部の人たちに語られたより、むしろ、教会のキリスト者に向けていると、心に留めておきたいと思います。私は使徒たちが語る時、その内容は自らが一番に聞くべき事柄であったあったのではないかと、想像します。今日の要約でもある36節も、「わたしたちが十字架につけたイエスを神は主とされた」という使徒たちの畏れと信仰を抜きにしては理解しがたいものです。それ故にと言うべきか、[旧約]聖書の引用・解釈に集中することも、当然の帰結かもしれません。

今日は、平和聖日です。今日は、教団の「戦争責任告白」を告白しますが、私たちは、毎週の礼拝で「平和の挨拶」を交わしています。キリストの平和を願うと共に、キリストの業に参与する者たちへのキリストの平和を願っています。神の約束は、イエスが導き成就してくださると信頼していますが、その成就に私たちも参与しているという自覚・信仰を大事にしたいものだと願います。

off 突然、激しい風が

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-13

聖書は、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2)と、伝えます。何が起こったのでしょうか。私なら、ガザの空爆の映像、あるいは、集中豪雨や津波襲来の予報の事態を、想像するでしょうか。「座って」なんかいられない、ともかく、外に出て安全と感ずる方向にひたすら避難する、そういう事態です…。しかし、人々には、何が起っているのかは冷静にはわからない…。私たちが「神の事柄」と呼ぶ事態は、後で振り返った時にあの時はこうだったと、おぼろげながら受け容れられるのかもしれません…。この時の「神の事柄」を振り返った時、それは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(3)と、人々は振り返ります。この表現から、そこには「熱」があり、その「熱」は(ずっと)とどまっていると伝えているように、私には想えます。私にとって聖霊を受けるという最近の経験を一つだけ語るとすれば、それは、2015年9月の関東豪雨の「浸水」とその後の経験かもしれません。[そのことを簡単に紹介しましたが]「水害を受けると共に、神の恵みを受けた人」は、神が望んでいることを求め、確かめ、そこから歩もうとしました。その経験から「話し出し」(4)、それは「神の偉大な業」(11)の証しに繋がっていたのでしょう…。聖霊を受けるということは、一時で終らず、その後の「生」にも息づいています。

off 主の復活の証人となるべき

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録1:15-26

1:14は、それまでのユダヤ教の枠組みを越える、新しい何かが始まっていくことを予感させます。イエスが12弟子を選ばれたのは、イスラエルの12の部族に弟子を遣わすという意味があったと、言われます。15節に「120人ほどの人々」とあるのは、恐らく象徴的な意味で用いられているのでしょうが、その背景には、共同体(教会)をきちんと運営していく備えがあり、この共同体は「使徒」を選ぶことから始めます。しかも、「裏切り」のユダについて、かつて「見捨てた」ペトロが語ることから始まるのは、印象深い。そして、共同体は、「使徒」の定義を「主イエスが…洗礼の時から…天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか」(22)と、定めます。その結果、ヨセフとマティアが候補に立てられました(22)。人々は…「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」(24)と、祈りました。「事を定めるのは主」であると、最初の共同体は、神の事柄を待ち、祈り、備えました。新しい共同体(教会)は、「新しいイスラエル」に仕えることが、使命でした。そして、新しく立てられる「使徒」は、「主の復活の証人となるべき」(22)と示されます。それは、人の思いではなく、様々なことがあったであろう最初の共同体(教会)――ユダやペテロなどの経験――に、主が臨まれたという事柄であったと思います。私たちも、神が臨んでくださるという信仰・謙虚さに生きるものでありたい。

説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録1:3:14

イエスと離れて不安の中にあった弟子たちのところへ「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3)とあり、失望して落胆していた弟子たちは希望と喜びに変わりました。そして「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授かる」(5)と言われ、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」(6)と問うと、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(7-8)と言われました。この返答は神の国はすぐ来ないかもしれないということ、また、一イスラエル民族・国家のためではない、神の意思を問いつつ「神の心を聴く生き方」を生きることを期待されている言葉でした。

弟子たちは主イエスの期待に応えるべく動き始めました。弟子たちやイエスの母マリアや婦人たちと一緒に熱心に祈っていたのです。この時から弟子(使徒)たちは復活の主イエスに対する確かな信仰に基づいて歩み始めました。この新しい歩みには、多くの困難や迫害が予想されますが、弟子(使徒)たちは命を惜しまない「証人」として立ち上がったのです。使徒言行録の全体のテーマは「地の果てに至るまで、私の証人となる」です。「教会」に連なる私たちも「証人」です。

off イエスが行い、教え始めてからのこと

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカ福音書1:1-4、使徒言行録1:1:2

ルカ文書(ルカによる福音書-使徒言行録)は、物語というスタイルを取って、語りかけます。新約聖書の手紙というスタイルは、ある特定の個人やグループに、直接向けられる伝達方法です。それに対して、物語は、間接的な伝達手段と言えるでしょう。今後、使徒言行録を続けて読むことにしますが、著者ルカは、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」を使徒として位置づけ、その「証言」をもとに、ルカ文書を「すべての事を初めから詳しく調べ」「順序正しく」(ルカ1:3)、著しました。「順序正しく」というのは、歴史的にという意味ではなく、神の出来事の通りにという意味でしょう。宛名の「テオフィロさま」(ルカ1:3,使徒1:1)は個人名か団体名か明確ではありませんが、キリスト教は知っていたが、何らかの危機が迫ると信仰や希望を失ってしまう可能性があったのではないかと、指摘されています。ルカ文書には、信仰に生きた人々の「わたしたちの間で実現した事柄」(ルカ1:1)が証言されています。その意味では、ルカ文書は、信徒を励ます宣教を扱っています。使徒言行録を読み進めていくにあたり、機会ある毎に、「聖霊」(使徒1:1-2)についても触れたいと思います。ルカの関心は、福音がどのようにして世界の隅々にまで広がったのかを示すことにあると、想います。もちろん、時代や地域によって、状況は異なります。しかし、今後の歩みを模索している現代の教会にとっても、使徒言行録は、大きな意味があり、慰めと励ましになることでしょう。

off 応答する者

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マタイによる福音書9:1-8

マタイ福音書8章は、様々な病の癒しが記されており、その癒しが「罪の赦し」と密接に関係していることが9章で取り扱われています。神がイエスの誕生に際し「自分の民を罪から救う者=イエス」、「神が我々と共におられる=インマヌエル」、という使命を負う者であることを明記します(1章21節、23節)。マタイ福音書で、イエス自身が「罪の赦し」に直接言及するのは本日の箇所が最初です。「中風の人をいやす」記事はマルコやルカにもあり、イエスの働きの中でも重要であったことが伺えます。マタイ版の特徴は、イエスが「その人たちの信仰を見て」(2節)と語った際の、連れて来た(献げる)人たちの行動が記されていないことです。並行句のマルコとルカの両福音書では、群衆に阻まれていたのでイエスがいる付近の屋根をはがすという具体的な描写があります(マルコ2:4/ルカ5:19)。マタイ福音書は、この描写を省くことで、信仰が人間の熱心な行いでなく、神の赦しに信頼する(献げる)という姿勢にあることに意識をむけます。この段落(9:1-8)を通して中風の人は、自身の人生(可能性)に対して消極的で、神への信頼という点でも弱い印象を強く受けます。現在の私たちにも、神の御心を体現する自身の行いの強弱が信仰の強弱に比例するのでは、という意識があります。しかし、イエスはそれとは全く関係なく「神はあなたの罪を赦している」(2節)を宣言されるのです。神が私の可能性を諦めないのなら、私自身も…と応答する者になることをイエスは期待しています。