毎週の説教メッセージ

off その方は来られる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:13-25

パウロたちは、キプロス島では、地方総督などに出会い、結果として、不思議な力を示し、主の福音を宣べ伝えました(6-12)。しかし、今回のピシディア州では、パウロたちは、ユダヤ教の礼拝に参加し、お話をします。このスタイルが、パウロたちの宣教の基本でした(参考5)。今回の話は(16-41)、ユダヤ人たちになした、パウロたちのキリスト教の「基本」を示していると思います。2回に分けて紹介しますが、パウロは、ユダヤ人に話す時に[イスラエルの]歴史と信仰を受けとめて、主(神)の福音を伝えます。つまり、出エジプトと荒れ野の旅を語り(17-18)、カナンの地へ定着していく時代を語ります(19-20)。さらに、「人々が王を求めたので」(21)、サウルに続いてダビデを王位につけたことを語ります(21-22)。そして、このダビデの子孫から、[神は]「イスラエルに救い主イエスを送ってくださった」(23)と宣べています。この想起は、神が、かつてダビデのような指導者を与えたように、[真のイスラエルの導き手であり完成者である]イエスを与え、約束の国(世界)へと導き、その生・その命を守られる…。このパウロの[前半の]話は、まさに、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16)への、招きの言葉となっています。キリスト教は、困難があり、祈る(求める)ならば、「その方は[あなたがたのところに]来てくださる」(参考25)と、宣べ伝えた…。導くのは神であるという、この福音・平和の宣教が、ローマ世界の人々にとどき、響き、展開し始めました…。

off 二人を出発させる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:1-12

最初にアンティオキア教会に連なる5人の人たちが紹介されています(1)が、このような様々な人々がいる教会は一つになることが難しい教会ではなかったのかと、想像します。それ故、この教会は、神の福音に従い、イエス・キリストにおいては一つであるという基本的なことに熱心であったのではないかと、想像します。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを わたしのために選び出しなさい。わたしが 前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2)。結論的に言えば、礼拝が、教会の活動、宣教を生み出します。続けて語られる「そこで、彼らは 断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3)も、遠い昔のことではなく、今のキリスト教においても基本成されています。このことは、伝えられている儀式にあずかる以上に、そこで語られる主の言葉に誠実に聴くかどうかに、焦点が当たっています。

バルナバとサウロの最初の宣教は、[バルナバの故郷の]キプロス島で行われました(4-12)。それは、サウロ(パウロ)に示されたように(9:15-16)、➀キリストを伝える者(「器」)が立てられ、②キリストの名は異邦人や王たちに[も]伝えられ、③キリストの福音を伝えるために[世と対峙する]苦しみも厭(いとわ)わない、神の民の活動の始まりでした。そのことは、人々の社会生活の組み替え・変革を含み、福音(良き知らせ)の広がりの始まりとなりました。

off 祈りは聴かれる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録12:1-25

ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺して、教会を迫害しているヘロデ王は、イエス誕生の際、身の不安を感じて2歳以下の男子を殺したヘロデ王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世です。このヘロデ王はヤコブを殺したことで、ユダヤ人たちに喜びを与えたことに気をよくして、使徒たちの筆頭格であるペトロも捕らえました。そして過越祭の後に民衆の前に引き出し、処分しようと牢に入れて、厳重に兵士をつけて見張っていました。そのころ「教会は彼のために熱心な祈りを神にささげていた」(5)のです。一方のペトロは、二人の兵士の間で寝ていた時、天使が現れて、ペトロを起こし牢から出し、町に通じる鉄の門を過ぎ通りまで来て、天使が離れ去った時、ペトロは我にかえりました。「今、初めて本当のことが分かった。…わたしを救い出してくださったのだ」(11)。ペトロは教会の仲間のところへ行きました。熱心に祈っていた人たちは、取り次いだ女中の言葉を「あなたは気が変になっているのだ」(15)といいます。ペトロの救いのために熱心に祈っていても、その祈りが聞き入れられるなどと想定はしていないのです。でもペトロの姿を見て喜びました。 ヘロデは、兵士を死刑にし、カイサリアで住民に神と持ち上げられた瞬間、主の天使に撃ち倒されました。このコントラストは教会に何を語っているのでしょうか。「祈り」は神に頼ることです。自分は無力だからこそ神に祈るのです。私たちの祈りが神の御旨のままにと祈ることができる歩みをしましょう。

off アンティオキア教会の成立

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録11:19-30

「迫害のために散らされた人々は…フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」(19)。そして、広く使われていたギリシア語を話す人々に語りかけ、「主イエスについて福音を告げ知らせた」(20)。新たに誕生したキリスト教はエルサレム教会の指導下にありましたが、ローマ社会のアンティオキアに生まれた教会も、エルサレム教会からの問安を受けることになりました(22)。派遣されたバルナバは…教会の有様を見て喜び、「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧め」ました(23)。そして、バルナバは、「サウロ(パウロ)を捜しにタルソスへ行き…見つけ出してアンティオキアに連れ帰[り]…二人は、丸一年の間 そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」(25-26)というのです。[サウロ(パウロ)がなぜ指導者として選ばれたのか、バルナバの権限は?、私たちの想像を刺激することは幾つもあります。] さらに、27-30節は、アンティオキア教会について、別の要素を与えれてくれます。問安を受ける教会が、飢饉の機会に、エルサレム教会を支える奉仕をしたことです。

アンティオキア教会の成立は、ある町に集まりが誕生したという意味だけでなく、初めてのキリスト教の「教会」が誕生したということを、意味しています(26参考)。それは、ペンテコステの時に語られた、「この約束は…神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられている」(2:39)が、実現したのです。その教会は、「神の恵みが与えられた有様」(11:23)をなしていたと、言えるのではないでしょうか。

off 神がなさるのを

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録11:1-18

「異邦人も神の言葉を受け入れたこと」を(1)、エルサレムの人々も耳にします。ペトロがエルサレムに戻ってきた時、「割礼を受けている者たちは…『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と」(2-3)、批判しました。この記述は、起こった事態を和らげているように想います。批判の本当のところは、割礼を施さないで洗礼を授けたことを問題にしたかったのではないかと想います。そこで、ペトロは、「事の次第を順序正しく説明し始め」ました(4)。5-17節に展開されるペトロの報告は、10章の出来事を踏まえて語り、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになった わたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17)と、結んでいます。この報告を聞いて、「人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美し」ました(18)。しかし、カイサリアで起こったことの「衝撃」の波紋は、広がり続けているように想います…。この事態は、エルサレムから眺めるだけでなく、聖霊が臨む、神の介入と思われる出来事をどのように告白・表現していったかという、ペトロたちの経験に聞く必要があります。確かに、カイサリアは「微妙」な町であったと思いますが、ペトロも、後のパウロも、そしてキリスト教も成熟していくためには、通らなければならない「世界」だったのです。

off 神は人を分け隔てなさらない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録10:33-48

ペトロがカイサリアのコルネリウスの招きに応じて、訪問したところから始まります。ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34-35)と語り、「預言者もみな、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(43)と締めくくっています。    さらに、ペトロが語っていると、話を聞いている一同の上に聖霊が降ったとあります。その情景を見て、ペトロが「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47)と言い、再びペンテコステの出来事が起こったのです。この個所は、聖霊の働きと、水の洗礼の順序がこれまでとは逆になっていることが興味深いです。これまでの福音書の理解によれば、水の洗礼を受けた者にさらに聖霊が働いて立ち上がられるという順序が前提とされていました。しかし、「水の洗礼」から「聖霊の風」へと言う順序が逆転して、先ず聖霊の風が吹き、その上で洗礼へと至る方向の転換が示されています。私はここで、主の聖餐のクローズとオープンのあり方について考えさせられました。初代教会の豊かで柔軟な歩みの学ぶものがあると思います。「神は人を分け隔てなさらない」と言うことは現代風に言えば「神は人を差別しない」とも言えます。この信仰に立ってそれぞれの課題や困難に向き合って今週も歩みましょう。

off どんな人をも

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録10:1-33

物語の主導権は、神・幻にあります。コルネリウスもペトロも全く受け身です。

コルネリウスは、信仰あつく、祈り、施しをしています。それは、彼個人のみならず、その家族や仲間たちも、同様に動いていたかのようです。しかし、彼は、軍人であり、外国人です。政治的弱者であるユダヤ人から見た場合、彼はどのように映っていたでしょうか。キリスト教と呼ばれている動きに、彼自身が直接近づいていったのでもないようです。一方、ペトロは、タビタの癒しへと(9:36-43)導かれヤッファに滞在していたのかもしれません。彼は、神が創られたものを示されるかのような体験をするのですが(11-13、27)、清くない物・汚れた物は何一つ食べない(14)、外国人と交わることは律法で禁じられている(28)と、固辞します。しかし、その中で、ペトロは、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15)という声を聞き、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28)と、語ります。コルネリウスもペトロも、各々の現実の、ある枠内に留まっています…。

しかし、今日の聖書で、神は明確に「外国人である者」を招き導かれます。まず、神が動き、外国人も使徒も、共に変えられていきます。キリスト教は、「神の招きに応える者はだれでも神の家族である」という福音に、今までの伝承や枠から困惑を覚えつつも、その危険と思われる福音に、神の導きに、身を委ねようとします。

off 起きなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:32-43

今日の前半は、アイネアの癒しです(32-33)。「ペトロは方々を巡り、リダに住んでいる聖なる者たちのところへ…行った。…そこで、中風で八年前から床についていたアイネア…に会った。ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい…』と言うと、アイネアはすぐに起き上が[り]…リダ…に住む人は皆 アイネアを見て、主に立ち帰った」というのです。
後半は、タビタの癒しです(35-43)。「ヤッファにタビタ…と呼ばれる婦人の弟子がいた」(36)が、「病気になって死んだ」(37)。リダにいたペトロが招かれ、遺体が安置されていた屋上の部屋に入ります(38-39)。40節、ペトロは、「皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった」(40)。この後、「ペトロは彼女に手を貸して立たせ…聖なる者たちややもめたちに…生き返ったタビタを見せた。このことは ヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(41-42)というのです。

牧会において、主イエスよって歩みなさい(生きなさい)と語りかけられることの大切を、想います。死から生へと変わる、もう一つの世界の物語を、アイネアもタビタも聞きました。「起きなさい」。聖書は、その展開を、語られ、聞かれ、世界に突入し、広がるとしか、語りません…。リダ…に住む人も(35)、ヤッファに住む人も(41)、これらの出来事を見、「主に立ち帰った」(35)「主を信じた」(42)のです。

off すぐ、イエスのことを宣べ伝えた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:19b-31

私たちは、ステファノの殉教に続くキリスト教の迫害のこと、信者が散らされていったこと、そして、エチオピアから来た人が洗礼を受けたこと(8:26-41)、サウロが回心したこと(9:1-31)などを、見てきました。それらを振り返ると、回心は、霊によって引き起こされ、様々な形態をとり、多種多様な反応を引き起こす、個々人に特有な事態であることが、わかります。しかし回心は、個人的なことにとどまるのではなく、むしろ、共同体的な事柄でもあります。先週、私たちは、アナ二アがサウロの回心に関わったことに触れましたが、今日の聖書でも、サウロが教会のメンバーに受け入れられるように、バルナバが関わっています(27)。回心は、個人的な出来事でありながら、共同体に受け入れられ、洗礼を受け、パンと杯に預かり、祈るという、共同の営みでもあります。しかも、回心を共同の営みと考える時、回心は終わりではなく、回心は始まりであるということが、よくわかります。私たちは、人生の途上で、「この道」(キリスト教、9:2)のメンバーとして振る舞おうとしているのではないでしょうか。そして、その途上で、驚くべきことに遭遇し、重大な方向転換をなすことが度々あったのではないでしょうか。さらに、回心は、召命の物語でもあります。ある人が神の業のために招かれ、神の福音を前進させるため、自分が受けた恵みをどのように用いるかを考えさせる事態ではないでしょうか。サウロの回心をめぐり、彼も、教会も、主の関与を受け留めようとしています。

off 主よ、ここにいます

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録9:10-19a

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との問いに「主よ、あなたはどなたですか」とサウロが言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(6)。ダマスコにはアナニアという弟子がいました。主の呼びかけに「主よ、ここにいます」と応えた。「…サウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。…自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようしてくれるのを、幻で見たのだ」(11-12)。しかし、アナニアはサウロの噂を知っていました。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで…、御名を求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(13-14)と言って躊躇します。アナニアこそ、ダマスコでサウロが迫害しようとしていた一人であったからです。主は「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15)と言われました。アナニアがサウロの上に手を置くと、たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり目が見えるようになり、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気になりました。

サウロの回心は、サウロ自身はイエス・キリストの呼びかけを聞いていますが、それを承認し、さらに方向づけるアナニアという一人のキリスト者が備えられました。回心という出来事はただ独りでできることではないのです。主イエスに従っている私たちも「主よ、ここにいます」と用いられる歩みをしましょう。