毎週の説教メッセージ

off 『ぶどう園と農夫』のたとえ

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書20:1-19

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して 長い旅に出た」(9)。(ぶどう園はイスラエル?) 「収穫の時になったので」(10)、僕を送りました。事業の結果を確認し、対応を伝達・指示するために、僕を送ったということになるでしょうか。農夫たちは、「僕を…追い返し」(10)、「ほかの僕をも…追い返し」(11)、「三人目[の僕を送ったが、これ]にも傷を負わせてほうり出し」ました(12)。ぶどう園の主人は考えます。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれる…」(13)と。しかし、「農夫たちは息子を見て…『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14-15a)。イエスは、「…ぶどう園の主人は 農夫たちをどうするだろうか」(15b)と問いかけ、「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(16)と、語りました。これに対し、「そんなことがあってはなりません」(16)、「律法学者たち…は、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」(17)と、2つの反応があります。実際、イエスは、全ての者に当て、伝わるよう話をされ、生きました。世界の現実と神の御心が、顕わにされるために。彼こそ、「隅の親石」(17)、「人生(世界)の鍵となる石」(18)、そういう方であります。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書9:28-36

先週の箇所を受けて、イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈るために山に登られました。イエスが祈っておられると顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いて、二人の人と話していました。モーセとエリヤです。ペトロはそのすばらしさに仮小屋をそれぞれに建てるとい言うと、雲が現れて「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との声が聞こえました。そこにいたのはイエスだけでした。この出来事を弟子たちは当時誰にも言わなかったのです。
イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」は「エクソダス」となっています。脱出、出発、出口、それはさらに地上の人生からの旅立ちとしての死をも意味するのかもしれません。イエスがエルサレムで遂げようとしておられるエクソダスはイエスの死のことであり、同時に復活のこと、さらに昇天、来臨を含めた栄光の御業のことかもしれません。この後、51節でエルサレムに向かう決意を固められます。この変容はイエスの宣教の目的地がエルサレムであり、そこで「最期」(エクソダス)を遂げることが宣教の目的であることが鮮明になっているのです。マタイ、マルコの並行記事では「変容」の出来事に対して沈黙命令がありますが、ルカでは弟子たちが自ら沈黙しました。しかし後にペトロの手紙Ⅱ(1:11-18)はこの出来事を大胆に信徒に語っています。日常、私たちの取るに足りない歩みですが、受難節を覚え、証しできる歩みをしましょう。

off 神からのキリスト

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書9:18-27

21-22節、「イエスは 弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は 必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。この21節と22節の文体は結びついており、ルカ福音書における、イエスの沈黙命令はイエスの「受難」と結びついているようであります。その一方、マルコやマタイでは、イエスの受難予告の後、ペトロとイエスの厳しいやりとりがありますが、ルカにはその場面はありません。各々の福音書の伝え方に違いはあるのですが、いずれも、キリスト(救い主)が苦難を受けることを、群衆も弟子たちも想像できなかったことを伝えています。23節、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23)。ルカだけが「日々」という言葉を付け加えています。その意図は、イエスに従うことを、特別の死・殉教から、日々の犠牲へと、強調点を移しているからでしょう。27節にもルカの独特の伝え方があります。マルコ(9:1)やマタイ(16:28)は、神の国は終末・将来において「現れる」「来る」と伝えますが、ルカは「神の国を見る」という言い方をします。ルカにとって、神の国は、イエスという存在や働きにおいて現存し、神の目的が完成する未来においても存在します。従う者には、前触れとして、見ることができるのでしょう。

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書11:14-28

今日の聖書は、‶霊〟を見分けることが、話題となっています。20節、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(「神の指」は出エジ8:15を参照)。23節、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は、散らしている」は、23節は「神に味方しない者は神に敵対」するが真意でしょう。そして、先ほどの20節は、「ものを言い始めた」(14)男だけでなく、イエスに論争をしかけてきた者(15)やイエスを試そうとして天からのしるしを求める者(16)も含み、全ての者に対して、語られています。言葉にできないこと・言葉にしないことは暴力だということを、想います。イエスと周りの歩みにおいても、言葉で解決できなくなった時に、暴力・暴虐の嵐が吹き荒れることを、想います。「ものを言い始めた」(14)男は、イエスから「神の霊」を与えられ、この後も、神の霊に満たされ、自由に語ったのだろうと、想像します。

24-26節は「汚れた霊」が戻ってくる話ですが、もし男が「神の霊」に満たされていたなら、「汚れた霊」は何処に住み着いたのだろうかとの想像を、促します。また、27-28節は「驚嘆した」(14)群衆の中の一人の女性が「イエスの母を褒めたたえます」が、イエスは「幸いなのは 神の言葉を聞き、それを守る人である」と、お応えになりました。イエスは、恐らく、全ての人に向けて、そう語っているのでしょう。

off 宣教に出ようとしている時に

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカに慮る福音書4:1-13

イエスが「空腹を覚えられた」(2)時、悪魔が登場します。最初の「石をパンに変える」ことは、空腹時のイエスの必要に適ったものであり、個人的・一般的なことのように響きます。しかし、悪魔の3つの誘惑は、いずれも、イエスがこれから宣教活動をしようとする時に、こういうことができれば、こういうことをすれば、その宣教活動は効率的で有利に展開するのではないかと、誘うのです。誘惑とは、自分の力の範囲内のことを、誘います。最初の誘惑の「石をパンに変える」(3)は、社会的なものと言えるでしょう。悪魔は、「神の子なら」(3)できるでしょうと誘います。2番目の誘惑は、政治的なものです。「すべての国々」(5)の「一切の権力と繁栄」(6)を手に入れたら、宣教活動がやりやすいでしょうと誘います。ただ、そのためには、他の力・悪魔と手を結ぶことが必要と助言します(7)。3番目は、宗教的なものです。「神殿の屋根の端に立たせ」(9)、[旧約]聖書の詩編91編には「主は あなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」(91:11)、「彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当らないように守る」(91:12)とあるので「神の子なら」(9)証明してはどうかと誘うのです。イエスも、自らの強さを試される試練に遭遇します。イエスは、いずれの誘惑にも、神の言葉によって応じられました。6節(申命記8:3)、8節(申6:13)、12節(申6:16)。受難節を迎えました。この時、イエスが受難・試練を受けられたのは何故かを、私たちは想起しましょう。

off 主の力が働く

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカ福音書5:12-26

後半物語の論争部分(21-24)を括弧に入れて読むと、今日の聖書は、2つの癒しの物語として読むことができます。前半の物語で(12-16)、癒しの後、イエスは、この人に2つのことを厳しく命じます(14)。①人に話してはいけない、②祭司に体を見せ、モーセの律法のとおりに行ない、人々に証明しなさい。①は、この人が②のことを速やかに行うことを意図しているようにも考えられますが、人々の評判がさらに高まり、イエスの本来の使命を果たすことができるかどうかという事情とも関連しているように想われます。そのあたりの事情を、15-16節が伝えています。「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を癒していただいたりするめに、集まってきた。だが、イエスは 人里離れた所[複数]に退いて祈っておられた」。前半の物語と似て、後半の物語(17-26)では、群衆・人々の反応が記されています。26節「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」。2つの物語の繋ぎのような箇所の17節後半は、イエスが主の力が働くことを祈ったことを暗示させます。イエスは、その器、その表現、実現者で、主の力を待ち望む人であったと想います。それ故、イエスが宣教・活動される時、そこに、「驚くべきこと」(26),主の力が働いているのを見たという、証言と賛美が生まれます。

off 見ても見えず、聞いても理解できない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカ福音書8:4-15

「種まく人」のたとえ話は、聞いている人にとって分かりやすいお話です。ただ状況が理解できても、それは「どんな意味か」と問わずにはおられません。イエスはイザヤ章6章を引用しました。イザヤが召命を受けて、神の言葉を語っても、神の民は拒否します。自分たちにとって命である神の言葉を聞いても理解せず、預言者イザヤが遣わされてもその意味を悟らない現実は、イザヤを失意に落としました。「見ても見えず、聞いても理解できない」現実を明らかにするために遣わされたことをイザヤは確信します。民の状況は違っても、イエスもまたそのことを感じていたのでしょう。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。道端であり、石地であり、茨のある土地であり、良い土地であるということが固定されているものであるなら、イエスの言葉は私たちの現実をつまびらかにするものでしかありません。イエスは聞く耳を持てと言われました。そうすると乾ききった道端を耕すことに、石地の石をあるいは茨を取り除くことにならないでしょうか。聞く姿勢(心)を整えることが、無自覚に聞いていれば実を結ばなかった種が、豊かに結ぶことになるのです。イエスの語る言葉を前屈みになって聞き、主を信頼し委ねる人、求め、願い、言葉を聞きに来た人にはさらに与えられるのです。自分の与えられた場所で主の言葉を求めましょう。

off わたしはあなたの神

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説教:岩河 敏宏 牧師

イザヤ書41:9-10

本日の聖書箇所である9節~10節を含む8節~16節は、イスラエルの救いを記しています。8節のヘブライ語本文は文頭に「しかし(反意を表す接続詞)」を用い、諸国民に関係する裁きの弁論(1節~5節)と対照にイスラエルに向けられた慰めの言葉を導くために用いられています。ただ、「創造主なる神がイエスの十字架という贖いにより私たちの罪を赦して下さった」(参考;コロサイ書1:9~23)という新約聖書の視点から再解釈するなら、キリスト者を含む総ての民へ拡げられる性格のものです。神は私たちに異なる使命(賜物)を与え、私にしかできない働きを成す者となることを期待されます。たとえ私が神の期待に気付かなかったとしても、神は変わらず私を見守り続けています。キリスト教において愛するとは、「目の前にいる者のために痛み苦しむこと」また、「その人の存在を大切に想い行動すること」です。創造主なる神も、救い主イエスも、裏切る者にも心を留め救いの手を伸ばして下さったことを私たちは知っています。私たちも、せめて親子や家族の間ではそうでありたい。神は、私たちが弱り意気消沈する時に(イザヤ書41章の時代状況)、「固くとらえて決して見捨てない」(9)「わたしはあなたの神」(10)と言われ、苦難の中にある時、決して見捨てることなく助けて下さる方だと心に留めたい。この神を中心に、2023年の所沢みくに教会の歩みが展開されますよう、お祈りしています。

説教:加藤 久幸 牧師

ルカに慮る福音書4:16-30

イエスは、会堂で、イザヤ書61章(ルカ4:18-19)を読み、「今日、[この聖書の言葉は]あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました(21)。イザヤ書61章は[苦難の]僕の歌です。今日の聖書では、イエス・キリストは、貧しい者や抑圧された者や、投獄されている者の希望を実現する、神の僕であると示唆されています。イエスは、朗読の後「この聖書の言葉は、今日…成就した」(21)と言われました。つまり、聖書の言葉を聞いて、信じ、生き始めるところでは、神の言葉は実現し始めるというのです。聖書朗読は別にして、ルカ福音書において成人したイエスの最初の公の言葉は「今日」という言葉です(ギリシア語聖書の出だしは「今日」)。イエスは、今日、み言を聞き、信じ、生きることに向き合います。

しかしナザレでは、イエスの福音の知らせとその成就を、カファルナウム(23)のように受け取らなかったようです。ルカは、旧約の神の約束(例,創世記22:18)がすべての人に向けられていること、そして、その成就がイエス・キリストにおいて始まったと伝えます。ナザレの人々は、この福音を受けとらず、イエスを石打ちにしようとします(29)。このことは、イエスの十字架への道を暗示しているように想います。イエスは、拒絶されたから「別」を選んだのではなく、宣教の初めから、聖書の福音に忠実に生き、[苦難の]「僕の道」を歩まれたと、今日の場面でルカは示していると想います。私たちも、今日聞いて、歩み始めたいものです。

off しかし、お言葉ですから

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書5:1-11

イエスがゲネサレト湖畔で、一そうの舟に乗り込んで群衆に話されました。その舟は、夜通し漁で苦労して何もとれなかったシモンのものでした。イエスが話を終えて、「沖に漕ぎ出し網を降ろして、漁をしなさい」と言われました。躊躇したシモンは「しかし、お言葉ですから」と言って、網を降ろすと、おびただしい魚が取れました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言って、ペトロはイエスの足もとにひれ伏しました。何故、罪深い者と言ったのでしょうか。
シモンたちは「神の言葉を聞こうとして」やってきた群衆たちと違って、彼らの仕事に追われていました。彼らはイエスに何の関心も持つことなく、むしろ自分の仕事に集中していました。つまり、神の救済を目の前に見ながら、それとはまったく無関係に生きることが可能です。でも、イエスは何も取れていない漁師たちに近づかれたのです。そして漁師たちの空しさを満たすかのように、もう一度漁をしないかと言われるのです。

「しかし、お言葉ですから」。この言葉の持つ力を感じます。神の招きに応える言葉です。チャレンジの言葉です。私たちは生活の中でいろいろな言葉に出会います。そしてイエスからも言葉をいただいています。「しかし、お言葉ですから」という言葉を言える勇気を持ちたいものです。