毎週の説教メッセージ

off わたしはあなたと共にいる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書43:1-7

2025年度の年度聖書に提案しようといるのは、南王国ユダの人々がバビロンに連行されたバビロン捕囚期(紀元前6世紀)に語られた言葉だと、言われています。「自分たちはもう…見捨てられた」と感じた人々に、神さまは「わたしは あなたと共にいる」(5)と語られ、「わたしの目に あなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛」する(4)と言われます。私たちは自分にあると思う時間や能力に重きを置こうとしますが、神さまは違います。あなたがたは「皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」(7)と言われます。「わたしが あなたを造った。…わたしはあなたを愛している。だから、あなたと共にいる」と。それ故、私たちは神さまを愛し、神さま[の栄光]を賛美します。そのことが、私たちを招いている使命(生きなさいという促し)、生きる意味そのものなのだと、私は想います。主題の「ともに」との関連では、神さまが「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と、助け手(隣り合う者)を創ってくださったことを想います。振り返ってわかることですが、私たちは「ともに」ということをやめると、助け手となる存在も裁き合い傷つけ合う相手としてしまいます。私たちは、他者との関わりをもう一度受けとめ直さなければならない時(それは、他の存在との付き合いは「もういいよ」と感じてしまうような時も含めて…)、その出発点・起点となるのが、神さまとの「ともに」という関わりにあると、今日の聖書は語っています。

off あの方は復活なさったのだ

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書28:1-10

2021年のイースター礼拝で紹介した、奥田知志牧師(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会)の文章(「闇の中ではじまる―コロナ禍を生きるために(マルコ16:1-8)」(日本基督教団『教師の友』4-6月号)を、再び紹介します。「…それは 夜明け前、闇のただ中での出来事だった。復活の深みはここにある。復活は、弟子や女たちが、そして私たちが闇の中でもがいていた、その時に起こっていた。私たちは、それに気づけないでいたが、『知らないから無い』とは言えない。あなたがたが それを知らずとも、そして信じなくとも、復活は起こるのだから」)。4節と8節に注目します。地震か、天使の言動に触れたからなのかはわかりませんが、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震えあがり、死人のようになった」(4)。女たちも同様であったと想います。しかし、女たちは、天使の言葉を聞き、信じ始めます。「あの方は…復活なさったのだ。…弟子たちにこう告げなさい。『あの方は…あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(6-7)。女たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8)。女たちは、死の虜(とりこ)から解放され、イエスの復活を信じる、生かされる世界[現場]へと、歩みを始めます。こういう生き方もあるのだと、聖書は証しします…。私[たち]は、女たちと同様、泣き悲しみ途方にくれています…。しかし、神さまは被造物のために自らの業を成し遂げ、主イエスは日々の中で声掛けをし寄りそってくださいます。

off 本当にこの人は神の子だった

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書27:32-56

十字架にかかったイエスに対して「神殿を打ち倒し、三日で建てる者…そして十字架からおりてこい」(40)、「他人を救ったのに、自分を救えない。…『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(42-43)。これらの言葉は、通りかかった人々や左右で十字架にかかっている強盗、祭司長や律法学者、長老たちが半狂乱になってイエスにむけた言葉です。イエスは息を引き取る前に「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と言いました。詩編22編の朗誦だという研究者もいます。しかし、このイエスの叫びさえも周りにいた者たちはエリヤを呼んでいるから少し様子を見てみようと興味本位でしかないのです。イエスが息を引き取った時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け」(51)たとあります。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』」(54)と告白します。百人隊長や見張りをしていた人たちにとって、地震やそれに付随する出来事は、ちょうどイエスが湖の上を歩かれたことで、弟子たち畏れの念を生じさせたように(14:16)、この出来事は、百人隊長たちに聖なる恐れを引き起こさせ、この場に働いた神の力、神の啓示を素直に受け取ったのだと思います。

イエスの時代に生きた者たちの生き様から学び、今、受難週の時を生きる私たちも「イエスは神の子だ」としっかり証しできる歩みをしましょう。

off 仕えるために

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書20:20-28

イエスの三度目の受難・復活予告(20:17-19)の後、「ゼベダイの息子たちの母が…息子と一緒に…来て」(20)願い出ます。イエスは、母ではなく、弟子たちに対し、「あなたがたは…わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22)と尋ねます。「二人が、『できます』と言うと」(22)、イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは…わたしの父によって…」と(23)、言われました。すると、「ほかの十人の者は これを聞いて、この二人の兄弟のことで 腹を立て」(24)始めました。弟子たちは、イエスが「イスラエルのために国を建て直す」(使徒言行録1:6)ことを、期待していたことは疑い得ないでしょう。そして、神の国において自分が大事な役割を果たすことも…。しかし、弟子たちの願いは、[苦難の]杯を受けるというより、[栄光の]杯を受けるということに、傾斜していたのでしょう。イエスは、弟子たちの願いを非難するのではなく、その代価・使命を指摘します。それは、弟子たちがやがて民・教会を導くことに対して、たとえ無理解や裏切りの弱さがあったとしても、イエスは、ご自身の歩みに従い僕となることを願います。「イエスは、一同を呼び寄せて言われた。『…あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子は…仕えるために…自分の命を献げるために来た…』」(25-28)。イエスは、人は仕えるために生まれると、明らかにされたのです。

off 救いをもたらすために

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:44-52

「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(44-45)。私は、この場面を、パウロたちがユダヤ教の会堂の外で迎えたのではないかと、想像します。「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい。わたしたちは異邦人の方に行く』」(46)。そして、[旧約]聖書が引用されますが(47)、それは、今までと同じように聖書に既にこう語られていると明示するようなものです。参考に、引用された原文を見ておきましょう。「…わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(イザヤ書49:6)。パウロたちの(使徒言行録の)宣教姿勢が公にされました。「異邦人たちは これを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。…こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は…町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」(48-50)。意見が違う場合は、往々にして、除外・排除することが起こります。最後の段落は、イエスが72人を派遣する物語を想起させます(ルカ福音書10:1-12)。イエスも、パウロたちも、その時は他の働きを優先して転じていきます。そこには「喜びと聖霊の満たし」(51)がありました。

off 神が復活させた方

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:26-43

パウロの話の後半は、「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々…あなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」(26)と、始まります。しかし、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉[聖書]を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させた」(27)。そして、「死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするように…求めました」(28)。しかし、「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(30)。このイエスと共にガリラヤから来た「人々」(31)は「イエスの[復活の]証人」(31)となり、「わたしたちも…あなたがたに[復活の]福音を告げ知らせています」(32)と、語ります。そして、聖書が引用・解釈され(33-35)、「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」(37)と、強調しています。だから、「この方による罪の赦しが告げ知らされ…信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38-39)。この後、預言者の書(聖書)が引用・警告されます(40)。引用箇所とは違い、ここでは、「とうてい信じられない事」=「福音宣教(神の言葉)がユダヤ人から外国人(異邦人)に向けられるという事」が暗示されているように想われます(参考46-48)。パウロの話への反応については(44-52)次週触れたいと思います。最後に、パウロたちが語った「神の恵みの下に生き続けるように」(43)という勧めは、私たちも大事にしたいものです。

off その方は来られる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:13-25

パウロたちは、キプロス島では、地方総督などに出会い、結果として、不思議な力を示し、主の福音を宣べ伝えました(6-12)。しかし、今回のピシディア州では、パウロたちは、ユダヤ教の礼拝に参加し、お話をします。このスタイルが、パウロたちの宣教の基本でした(参考5)。今回の話は(16-41)、ユダヤ人たちになした、パウロたちのキリスト教の「基本」を示していると思います。2回に分けて紹介しますが、パウロは、ユダヤ人に話す時に[イスラエルの]歴史と信仰を受けとめて、主(神)の福音を伝えます。つまり、出エジプトと荒れ野の旅を語り(17-18)、カナンの地へ定着していく時代を語ります(19-20)。さらに、「人々が王を求めたので」(21)、サウルに続いてダビデを王位につけたことを語ります(21-22)。そして、このダビデの子孫から、[神は]「イスラエルに救い主イエスを送ってくださった」(23)と宣べています。この想起は、神が、かつてダビデのような指導者を与えたように、[真のイスラエルの導き手であり完成者である]イエスを与え、約束の国(世界)へと導き、その生・その命を守られる…。このパウロの[前半の]話は、まさに、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16)への、招きの言葉となっています。キリスト教は、困難があり、祈る(求める)ならば、「その方は[あなたがたのところに]来てくださる」(参考25)と、宣べ伝えた…。導くのは神であるという、この福音・平和の宣教が、ローマ世界の人々にとどき、響き、展開し始めました…。

off 二人を出発させる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:1-12

最初にアンティオキア教会に連なる5人の人たちが紹介されています(1)が、このような様々な人々がいる教会は一つになることが難しい教会ではなかったのかと、想像します。それ故、この教会は、神の福音に従い、イエス・キリストにおいては一つであるという基本的なことに熱心であったのではないかと、想像します。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを わたしのために選び出しなさい。わたしが 前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2)。結論的に言えば、礼拝が、教会の活動、宣教を生み出します。続けて語られる「そこで、彼らは 断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3)も、遠い昔のことではなく、今のキリスト教においても基本成されています。このことは、伝えられている儀式にあずかる以上に、そこで語られる主の言葉に誠実に聴くかどうかに、焦点が当たっています。

バルナバとサウロの最初の宣教は、[バルナバの故郷の]キプロス島で行われました(4-12)。それは、サウロ(パウロ)に示されたように(9:15-16)、➀キリストを伝える者(「器」)が立てられ、②キリストの名は異邦人や王たちに[も]伝えられ、③キリストの福音を伝えるために[世と対峙する]苦しみも厭(いとわ)わない、神の民の活動の始まりでした。そのことは、人々の社会生活の組み替え・変革を含み、福音(良き知らせ)の広がりの始まりとなりました。

off 祈りは聴かれる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録12:1-25

ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺して、教会を迫害しているヘロデ王は、イエス誕生の際、身の不安を感じて2歳以下の男子を殺したヘロデ王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世です。このヘロデ王はヤコブを殺したことで、ユダヤ人たちに喜びを与えたことに気をよくして、使徒たちの筆頭格であるペトロも捕らえました。そして過越祭の後に民衆の前に引き出し、処分しようと牢に入れて、厳重に兵士をつけて見張っていました。そのころ「教会は彼のために熱心な祈りを神にささげていた」(5)のです。一方のペトロは、二人の兵士の間で寝ていた時、天使が現れて、ペトロを起こし牢から出し、町に通じる鉄の門を過ぎ通りまで来て、天使が離れ去った時、ペトロは我にかえりました。「今、初めて本当のことが分かった。…わたしを救い出してくださったのだ」(11)。ペトロは教会の仲間のところへ行きました。熱心に祈っていた人たちは、取り次いだ女中の言葉を「あなたは気が変になっているのだ」(15)といいます。ペトロの救いのために熱心に祈っていても、その祈りが聞き入れられるなどと想定はしていないのです。でもペトロの姿を見て喜びました。 ヘロデは、兵士を死刑にし、カイサリアで住民に神と持ち上げられた瞬間、主の天使に撃ち倒されました。このコントラストは教会に何を語っているのでしょうか。「祈り」は神に頼ることです。自分は無力だからこそ神に祈るのです。私たちの祈りが神の御旨のままにと祈ることができる歩みをしましょう。

off アンティオキア教会の成立

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録11:19-30

「迫害のために散らされた人々は…フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」(19)。そして、広く使われていたギリシア語を話す人々に語りかけ、「主イエスについて福音を告げ知らせた」(20)。新たに誕生したキリスト教はエルサレム教会の指導下にありましたが、ローマ社会のアンティオキアに生まれた教会も、エルサレム教会からの問安を受けることになりました(22)。派遣されたバルナバは…教会の有様を見て喜び、「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧め」ました(23)。そして、バルナバは、「サウロ(パウロ)を捜しにタルソスへ行き…見つけ出してアンティオキアに連れ帰[り]…二人は、丸一年の間 そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」(25-26)というのです。[サウロ(パウロ)がなぜ指導者として選ばれたのか、バルナバの権限は?、私たちの想像を刺激することは幾つもあります。] さらに、27-30節は、アンティオキア教会について、別の要素を与えれてくれます。問安を受ける教会が、飢饉の機会に、エルサレム教会を支える奉仕をしたことです。

アンティオキア教会の成立は、ある町に集まりが誕生したという意味だけでなく、初めてのキリスト教の「教会」が誕生したということを、意味しています(26参考)。それは、ペンテコステの時に語られた、「この約束は…神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられている」(2:39)が、実現したのです。その教会は、「神の恵みが与えられた有様」(11:23)をなしていたと、言えるのではないでしょうか。