毎週の説教メッセージ

off 大事なことは何か

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録19:11-20

11-12節、「神は パウロの手を通して 目覚ましい奇跡を行われた。彼が 身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って 病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出ていくほどであった」と始まります。その様子を見聞きしたユダヤ人の巡回祈祷師たちの中には、パウロの力は一種の魔術であると思い、試しにイエスの名を唱えて癒そうとした者もいたというのです(13-14)。すると悪霊は、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、お前たちは何者だ」と言い対したのです(15-16)。使徒言行録8:9-24に、魔術師シモンとペトロたちのやりとりがあります。ペトロたちは、癒しの力は人間の思いで所有したり利用できるものではないと宣べています。イエスは、聖書の中で最も大事なことは何かと問われて、①「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、②「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37,39)と応えました。これらは、神に聞き自ら応え(責任ある者として)生きなさい、を意味するでしょう。今日の終末部では、人々が悪行を告白し(18)、魔術師たちが不要になった物を捨てた(19)とあります。捨てた物の総額は、銀貨5万枚(5万ドラクメ)であったと報告されています(一日賃金を1万円とすると5億円になるでしょうか)。今の時、「必要(大事)なものは何か」を、自ら考え取り組むものでありたいと願います。

off 神は望んでいます

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテ書一2:1-7

2章で、著者は、初期の教会で用いられていた信条を伝えていると、言われます。それは、口伝の告白内容を、3つの点で表しているだろう、というのです。つまり、▷ひとつの神(5)、▷一人の仲介者キリスト・イエス(5)、▷すべての人の贖いを可能にするキリストの死(6)です。神が唯一なら、すべての人間(性)は、この唯一の神との関係において、一つと見なされます。創造者たる神において、すべての人間が(共通の関係に)基礎づけられています。仲介者は、二つの異質なもの、人間のもとに来たが故に人間の本性を担うものであり、神のもとから来たが故に神の本性を担うものであります。信仰者からすれば、彼は「滅び行く罪人、不滅の義である方」として現れたのです。「この方はすべての人の贖い」(6)のしるし・証しとして来られました。それは、あらゆる時代の、すべての場所の、「囚われている」すべての人間の救い・解放を、意味しています。原始キリスト教の「多くの人の身代金として」(マタイ20・28)来たという表現は、イエスがすべての人のために自発的に行為した、ことをも意味していると想います。それは、4節の「神は、すべての人々が 救われて真理を知るようになることを 望んでおられます」と結びつきます。初代教会は、今示してきた福音・証しに、仕え生きてきました。迫害の時でさえ、迫害者のために祈りました…。1節の「…すべての人々に」は、この文脈で受けとめるよう促されます。

off 信じた人々の群れ

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録4:32-5:11

聖書の前半の話(4:36-37)に出てくるバルナバは、使徒言行録によれば、彼はアンティオキアを訪問し(言行録11:22-24)、回心したパウロをタルソスに探しに行き(同25)、見つけ出し、丸一年の間アンティオキア教会に一緒にいて多くの人を教えた(同26)とあります。…このバルナバも含め、「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、…その金は 必要に応じて、分配された」(4:34-35)という今日の聖書の報告を聞く時、私たちはつぶやき耳そばだてるのではないでしょうか。「本当に、そのようなことが起こったのか」と。ある「幅」はあると想いますが、私は、今日の物語は現実に起こった出来事の報告であると受けとめています。聖書を大きく読むと、当時の「信じた人々の群れ」(4:32)は、神の国は近い、終末の到来は近いという切迫感があったと想います。言わば、非常時の中で生きていた…。そして、その中で、4章そして続く5章のような出来事が起こった…。ルターは、「保証」は究極的な偶像であると、言ったそうです。富・所有・保証等にどう対応するかは、この群れ(そして終末遅延時の後の群れ)の課題になりました。この群れは神の国が来たならば…との信仰によって歩みました。その経験と姿が、非常時の経験であったとしても、世界と歴史に告げる、「教会」の大切な「しるし」「指標」となったのです。ルカは、ここで初めて、神中心で現実的な,この群れを「教会」(5:11)と呼んでいます。
ルカは、ここで初めて「教会」(5:11)

off 慈善の業

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説教:加藤 輝勢子 牧師

Ⅱコリント8:1-15

パウロはマケドニアでテトスから、コリントの教会が異なる福音から離れて、「正常」の状態に戻り、パウロに対する非礼を悔いているという朗報を受けました。パウロは、マケドニアの信徒が迫害や貧困にくじけず寛大な心を閉じることがなく、エルサレム教会への献金を求めていることを知ったとき、力以上のものを献げました。それは強いられたのでもなく、勧められたのでもなく、自由意思によって献げられたというのです。パウロはマケドニアのキリスト者の寛大な心は、ただ他者への献金の必要を知らせるために言っているのではなく、それを神の恵みの業として理解しているというのです。パウロはマケドニアの信徒がしたように、コリントの教会の信徒が信仰、言葉、知識、あらゆる熱心を慈善の業においても、恵みの働きにおいても豊かになるように勧めています。献金を献げるということは自分たちの欠乏を補うということだけではなく、エルサレム教会とコリント教会はじめマケドニアの諸教会との一致が実現することであり、ユダヤ人教会と異邦人教会の隔ての中垣が取り払われるものとなると言っています。

私たちの慈善の業は今までもしてきたように、主の福音を喜んで証しし、教会の連帯、地域の連帯、個人の信仰の自由のための日々の歩みなど、また教会研修会を受けて具体的にどのようにしていくかを考え、祈り歩んでいきましょう。

off 神に従順でいなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピ書2:12-18

2:12は「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて…」と語ります。パウロとフィリピの信徒たちとの間には、分かち難い結びつきがあります。フィリピの信徒たちは、パウロの伝道の協力者であり、パウロが投獄されても、法廷に立たされても、パウロの苦しみを共にすることで、イエスの苦しみをも理解したと想います。2:17にある「…礼拝を行う際に、わたしの血が注がれるとしても」は、パウロの死の知らせが届いた時、信徒たちは礼拝のために集まるでしょう。その礼拝において 「わたし(パウロ)は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます…」(17-18)と、前もって語ります。キリスト者が先ず向き合うのは、この世ではなく、神です。パウロは、1:20-21でこう語っています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています…」。パウロは、この世における友情や交わりが途絶えることより、キリスト・イエスにおける「共にある生」が失われてしまわないように心砕いています。今日の箇所の前の2:5の「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」に始まる、『キリスト賛歌』(6-11)が迫り、2:15-16の言葉が満ちてきます。「よこしまな曲がった時代の中で…世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう…」。

off 知られざる神に』対して

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録17:22-34

23-24節「あなたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その神です。この神は天地の主です…」。26-28節も再度読み上げます。「…これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば,神を見いだすことができるようにということなのです。

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちにある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです」。この後(29節から)も、パウロの言説の基本的な(アテネ人の好奇心に訴える)姿勢は変わりませんが、彼の信ずる神について語り始めます。その神は、創造の神でもあるが、「裁く」(31節)神でもあると、明示します。創造も裁きも、「一人の方」と「復活」の出来事からすべての人が確証できます(31)と。

29節でパウロは、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った…像と同じものと考えてはなりません」と語り、その後の30節で、「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と語ります。「大目に見てくださる」神に倣って、振る舞うパウロの姿を描いているように思います。「悔い改めよ(生き改めよ)」と告げたなら、その後は、聖霊に大胆に委ねよという感触すらいたします。

off 『証印』は押された

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの使徒への手紙1:3-14

エフェソの[諸]教会や世界の人々の中に、争いや格差や壁がなかったわけではありません。ユダヤ人と異邦人、上(天)にある者と下(地)にある者、聖なる者と汚れた者の間には、歴然とした違いがあり、その運命は変えられないという考えが支配的でした。その根拠は、当時の思想・制度・科学にあり、著者の論敵のキリスト者[指導者]も、それらを「福音」よりも優位に考え、しかも「普遍」「真理」として動いていたようです。これはどの時代にもあり、私たちの時代や世界でも、分断と対立が深まり、自己中心的な考え・生き方・政策が広がっています。私たちは、エフェソ書[の著者]のように、神を賛美しつつ、同時代の世界に対し、[神と世界に]応答する者でありたいと願います。私たちのゴールは「時が満ちる」(10)時です。私たちは、私たちが生きる被造世界のことは全て神御自身が解決してくださると、信じています。そして、「時が満ちる」「神の世界(国)が完成する」ゴールに、自力で到達するのではありません。向こう側から、「時」「世界」は近づいており、イエス・キリストは来てくださいます。それ故、私たちも、歴代の信仰者も、安心して・主の平和のうちに、その時に向かうことができます。さらに,神・キリストは、その時に至るまで、信仰者を導き・支え・共に歩む「力」「聖霊」を送り続けてくださっています。13「聖霊の証印」は、約束の明示とともに、それまでの保証です。

off 『風』が起こり、響いた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

私は、この一年の歩みを経て、使徒たちは不安と希望の入り混じった中で(聖霊降臨を)待っていたと、とりわけ強く感じるようになりました(1:3-5参照)。ルカは「エルサレムで」と指示しますが、地名はともかく、使徒たちはイエスから「生きなさい」と示された現場で、待ち続けたのです。先ほど紹介した1:3-5は私たちの姿をも示しているように想います。聖霊降臨は、待つことを通して、実現されました。そして聖霊降臨は、一瞬で終わった出来事ではなく、継続・歩み・物語の中で受け取られるべきものです。使徒たちは、イエスの歩み・活動を、自分事(じぶんごと)として受けとめ、語り始めました。聖霊が語らせる(4節)「福音」は、一言で言えば「和解の言葉」です。このことは、共有できる言葉で語り出した展開(6—11)、その後に続くペトロの説教「…わたしの霊をすべての人に注ぐ…若者は幻を見,老人は夢を見る…」(17)とも、関連しています。聖霊は「目」にはみえませんが、私たちの内と外において働きます。最初のペンテコステにおいても、人々の間には一致はありません(6-13)。現代においても、世界の至るところで、分断と対立が深まっています。秩序と調和、平和と一致の創造は、聖霊と深く関連づけられ、古くから「聖霊よ、来てください」と、祈り続けられています。聖霊は、人々を整え、世界を整え、終わりの時まで御心を推進し完成へと導く、不思議な「力」です。

off キリストの召天

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書24:44-53

二人の弟子がエマオへ向かっている途中に旅人(イエス)に出会い、聖書の話を聞いて、宿屋に泊まろうとして、食事の席についた時、旅人がパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いた時に、初めてイエスだと気が付きました。そこですぐにエルサレムに戻って、弟子たちに報告しているときに、イエスは弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているような感じだったので、イエスは手と足を見せ、また焼いた魚を一切れ食べました。弟子たちはイエス自身から復活のことを聞いていたし、今まさにそのことをみんなで話していたにもかかわらず、この事実に直面する用意、心構えが一切なかったのです。復活の証言の全体に貫かれているのは、弟子たちの側の驚き、恐れ、勘違い、疑い、不信、無理解であり、それをそのまま伝えている弟子たちの報告です。復活のイエスは「聖書に書いてあることはすべて実現する。…あなたたちがその証人となる」(46-48節)イエスの復活の事実に直面してなすすべがなかった弟子たちは、自分たちもまた、今やただ中の人であり、当事者そのものにさせられたのです。イエスの召天は別れではなく、思い出も希望も、確かな信仰への活力になったのです。私たちもイエスの言葉や働きを自分のこととして心に刻む歩みを今週もいたしましょう。

off 求めることから『しるし』となる

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書6:1-15

今日の聖書で(続く16-18節も含め)話題になっている、施し・祈り・断食は、個人の宗教的実践としての意義があります。しかし、社会的な意義や今日的な意義についても考えさせられる、拡がりがあります。この3つの教えは冒頭・結びの形が似ていますが、祈りは形が崩れています。イエスの教えた祈りは、呼びかけも含め、はっとさせられます。「御名が崇められますように」(9)「御国が来ますように」(10)「御心が行われますように」(10)は、その受動態が暗示するように、これらの祈りの主体・実現者は誰なのかです。これらの祈りを成しうる・もたらしうるのは、神さまのみであって、私たちは、そのために祈りを合わせ、待つことができるのです。後半の「わたしたち」の祈りも、「わたしたち」をどう捉えるか―自分を中心とした同心円状の拡がりで祈るならば―その祈りの内実は大きく変容します。主の示す祈りは世界を包み、この「わたしたち」は「世界の全ての民」を意味していると、聞いたことがあります。これらの祈りは、神の最後の[審判の]時を想定して受け取る人がいますが、私は、この祈りは、天と地(10)、未来と今日(11)を結ぶところに位置していると、想います。イエスの祈りは、神に向けられ、「神のみが神である」との信頼によって行われています。私たちは、この祈りの「しるし」となるよう、招かれています。「主の祈り」を「わたしたちの祈り」として祈り、参与していきましょう。