毎週の説教メッセージ

off 主イエスの名のためならば

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録21:1-16

パウロたちは、エルサレムに向かうことになりますが、その途中カイサリアのフィリポのところに泊まることになりました。彼に関しては、「例の七人の一人である福音宣教者で」(8)と、紹介されています。彼は、エルサレムに新たに立てられたギリシア語を話す「七人」の指導者(6:1-6)の一人でしたが、迫害後に散らされ、各地で福音宣教しました(8章)。パウロとフィリポの出会いも感慨深いものですが、アガポという預言者が来訪し、パウロのエルサレムでの受難を預言します(11)。これを聞いた「わたしたち」は(12)-同行者も-、パウロにエルサレムに上らないように説得を始めます。その中で、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟している」(13)と語ります。聞いていた人々は、「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ」(14)というのです。イエスのオリーブ山での祈りを想います。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。使徒言行録のパウロたちは、神の御心に従うことは、時として苦しみを伴うと思ったのではないでしょうか。パウロたちは差し迫っている苦しみに立ち向かっていきます。それは、良いことだけが起こるというのではなく、パウロの生や教会の歩みに「主の御心が行われる」(14)と信じていたからです。祈りを合わせ、口をつぐんだ重要さを想います。この備えの時を経て、エルサレムの日々が始まります…。

off わたしの杯(さかずき)

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説教:小手川 到 牧師

詩編23:1-6

「23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。

この詩編を愛唱聖句にされている方も多いでしょう。主なる神さまを羊飼いになぞらえて、人生のすべてを通して神への感謝と信頼を歌った詩です。神さまは私たちに必要なものはすべて知っておられます。十分なものを与えてくださいます。苦難に会い、悲しみに会い、傷つく私たちを癒してくださいます。青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださいます。ここには争いのない平和な風景が描かれています。主なる神さまは、食卓を整え、頭から香油を注ぎ、杯にぶどう酒を溢れるほど注いでくださいます。神さまから受けたその溢れるほどの十分な恵みによって、私たちは命ある限り、神さまと共に平和に憩うことが許されているのです。

off 神の教会の世話をさせるために

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録20:13-38

パウロは、旅を急いでいたようで(13-16)、ミレトスにエフェソの「教会の長老たちを呼び寄せ」(17)、自らのことを話します。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです…神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(18,21)。そして、今後のことを語ります。「…わたしは、‟霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるのか、何もわかりません。…しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(22-24)。この後、パウロは、自らのことから転じて、エフェソの教会のこと、その長老たちへと、語ります。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたを この群れの監督者に任命なさったのです」(28)。[ここでの「監督者」は、広く教会の「長老」(14:23)「役員」と捉えてよいでしょう。] そして、教会を荒らす者・惑わす者は教会の外にも内にもいると語り(29-30)、大事ことを伝えます。「…神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に 恵みを継がせることができるのです」(32)。主イエスに従い、パウロの歩みも、神の民の形成に最大の関心があったと想います。

off 艱難と慰め

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録20:1-12

エフェソの騒動が収まり、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発」(1)しました。パウロは「この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシャに来て、そこで三か月を過ごし」(2-3)ました。誕生してまもない教会は、存在を無きものとする攻撃に日常的に直面していたので、パウロは諸教会を励まし、問安し、牧会的配慮をし続けたのです。それは訪問できた教会だけではなく、直接行けなくても、手紙という形でも指導していました。例えばコリントの教会(Ⅰコリ1:11)。

パウロはシリア州に向かって船出しようとしていましたが、ユダヤ人の陰謀があることがわかり、船で行くのをやめて、マケドニア州を通って行くことにしました。トロアスで信徒たちと落ち合いました。週の初めの日、パンを裂くために集まって、翌日出発することを伝え、夜遅くまで話は続きました。その時、3階の窓に腰かけていたエウティコという青年が眠りこけて下に落ちてしまったのですが、起こしてみると死んでいました。パウロが降りてきて、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言って、上に行き、パンを裂き、話は続いたのです。パウロを見送った人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められたとあります。教会の集まりにとって、何を大切にしなければ行けないかをパウロの宣教の歩みで教えられます。

off この道のことで

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録19:21-40

今日の聖書は、「このようなことがあり」(21)とエフェソでの出来事を振り返り、「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通り」(ヨーロッパのコリントなどを想いつつ) エルサレムに行こうと決心し」た(21)と、始まります。その後に、パウロは「…そこへ行った後、ローマも見なくてはならない」(21)と、語ります。同じ著者によるルカ福音書では、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)と述べ、イエスの最期の旅を語っていますが、今日の箇所に始まるエルサレムを経てローマへというパウロの旅は、多くの点で重なる響きがあります。使徒言行録でも、キリストに従う歩みは、キリストと共に歩む旅であります。今日の後半は(23-40)、パウロがマケドニアに出発する前に起きた事件を報告します。銀細工職人のデメトリオも(23-28)、ユダヤ人のアレクサンドロも(33-34)、町の書記官も(35-40)の演説も、自分の利益を優先する内容を語ります。当時のエフェソは、自由都市で、ギリシア的な政治体制をとっており、その中心は民衆のエクレシア(議会・集会)であったと言われています。恐らく、起こった事件も集会において解決しようとしたのでしょうが、「集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」(31)有様でした。パウロたちの宣教は激しい衝突の中で行われ、今日のような騒動も起こりうることでした。私たちは、事件に目を奪われがちですが、パウロたちが教会を養い育てることにどんなに心砕いていたかに、注目したいものです。

off 主イエスとの関わりにおいて

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録19:7-20

先週の箇所(18;24-19:6)と今日の箇所(19:7-20)は、パウロたちが第三宣教旅行を始めるにあたり(18:23)、受けとめ直したことや経験した中で大事なこととして考えたことが記されているように、思います。先週は、主の名による洗礼について、学びました。主の名による洗礼は、イエス・キリストがこの世界を統べおさめたもうことを信じることであり、私たちがその新しい救いの時を主と共に歩み出すことであると、学びました。このキリスト教のメッセージは、すぐに受け入れられ、信じる人々が登場したわけではありません。今日の箇所で、パウロは、エフェソの町で、二年三か月教えたと出てきます。また、かつての箇所、[第ニ宣教旅行の]コリントの町で、一年六カ月の間(18:11)パウロが教えたと、報告されています。

今日の聖書の後半は(11-20)、エフェソでの滞在中にある事件が起こったと報告します。報告されていることは、いかにも、怪しいことばかりです。聖書は、これら「魔術」と思える問題に、命あるものとの関わりの力は、「知識」や「商品」ではなく、相手との関わりの中にある、相手との介在の一部であると、見なしています。今日の聖書の言葉を借りて言うならば(11節)、「神は〇〇の手を通して目覚ましい『神の御業』を行われた」ということを受けとめ、その実現を祈っています。それ故に、教会は、どの人も、主イエス・キリストとの関わりにおいて、人生が形造られ、主と隣人と共に歩んでいくことを、願い歩んでいます。

off イエス・キリストの名による洗礼

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録18:18-19:7

今日の聖書は、「パウロは、なおしばらくの間ここ(コリント)に滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った」(18)と始まり、「一行がエフェソに到着したとき」やその後の様子(19-22)も報告されていますが、聖書は、パウロたちがアンティオキアで暫く過ごした後、「また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(23)と、第三宣教旅行の開始を報告しています。今日の聖書の背景には、パウロたちの第二宣教旅行の振り返りや第三宣教旅行の思いがあり、どうしても触れておくべき事項が挿話のように入れられているように想います。18章の最後では(24-29)、エフェソやアカイア州(コリント)でのアポロの活動を報告しています。そのアポロの活動と関連し、洗礼のことが19章の最初で(1-7)で展開されています。パウロは、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」(4)と、教えました。そして、イエス・キリストの名による洗礼は、イエスと共に新しい救いの時が始まっているという救いのしるしの洗礼であると示しました。イエス・キリストの名による洗礼は、水と聖霊による洗礼であると受けとめられ、聖霊を受けることとイエスの弟子となることは不可分であることを、表しています。キリスト教の宣教にあたって、洗礼は、人々を主と共に歩むことへと立ち直らせ、救いと恵みを思い返させる起点であると、示したのです。

off 恐れるな。語り続けよ。

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録18:1-17

コリントに伝道活動に来たパウロはアキラというユダヤ人とその妻プリスキラと出会いました。彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をしながら、パウロは安息日には会堂で論じていました。シラスとテモテがマケドニア州からやって来たので、パウロは御言葉を語ることに専念できました。パウロが御言葉に専念して語るようになっても、ユダヤ人が口汚くののしりました。パウロは服の塵を振り払って「あなたがたの血は、あなたがたの頭にふりかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」(6)と言って、神をあがめるティティオ・ユストの家に移り、活動を続けました。ユストの家は会堂の隣でした。会堂長のクリスポも一家をあげて主を信じるようになりました。ユダヤ人はパウロを捕らえて、法廷に引き立てましたが、地方総督のガリオンは相手にしませんでした。コリントの信徒への手紙では「兄弟たち、わたしはそちらに行ったとき、…わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。…」(Ⅰコリ2:1-5)と、パウロがコリントに初めて訪れた時のことを思い返しています。自分は衰弱し、恐れに取りつかれ、不安であったというのです。アテネでの伝道活動がうまくいかなかったこともあったかもしれません。主の幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9-10)と励まされました。私たちもパウロの姿勢に学び、キリストの福音を語り続けましょう。

off 知られざる神に

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録17:16-34

パウロのアテネ滞在の様子を、聖書は次のように報告します。「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者も パウロと討論した」(17-18)。その展開の中で、パウロは、アレオパゴスで、福音宣教をすることになります。パウロは、アテネの人々の知的好奇心に訴えかけつつも、キリスト教の言説を宣べます。22-28節を再び読みますが、パウロは、29節で偶像礼拝を批判した後、30-31節でまとめへと展開します。「神は…今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられ」(30)、神は、創造の神でもあるが、「裁く」(31)神でもあると明示します。そして、この「裁き」は、「一人の方」とその方の「復活」から、すべての人に確証をお与えになった(31)と、伝えるのです。[「裁き」は、現代の用法も眺め、広く受けとめたいと思います。]パウロは、このアテネでも(他の町においてもそうですが)、聴衆から拒絶されるという危険を冒しても、敢えて「復活」について語ります。知識や「自然神学」は自然の成り行きを説明しますが、「復活」は神の領域に触れるのです…。そして、アテネの町でも「信仰に入った者」がいたという報告があります(34)。パウロは、伝えるべきを伝え、新しいことを求めるだけで(自分は変わることなく)時を過ごしていた人々を後にして、コリントへと移っていきます。

off 人を活かす言葉

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

ヨハネによる福音書5:1-9

本日の聖書箇所は「このことの後に」(5章1節)という書き始めで、イエスとの関わりの中で“命”の在り方に焦点を当てた、4章との繋がりを読者に意識するよう促しています。本日の箇所は、池の水が動く時に、その中に入れば病が良くなるとされる池(ベトザタ)の付近に38年も居る男と、イエスとの関わりに焦点が当てられています。38年と言う年月の経過は、人生の隆盛期を過ぎて下降局面に入っていることを示唆します。人間的な価値基準からすれば、彼よりも将来を嘱望される人が居ると想像されますが、イエスはなぜ彼に声をかけたのか。彼は自分の人生における転換期(池の水が動く時)に、他人任せにする人生を歩んできました(7節)。それを聞きイエスは、「起き上がりなさい」(8節)と彼に命じます。この語は、目を覚ます・復活するとも訳され、神から与えられている使命に目覚め、新たに起き上がること(復活)を私たちが神(イエス)から期待されていることが記されているのです。しかし、彼はイエスによって新たに歩み出す機会を与えられたにもかかわらず、自身の責任で自分の人生を歩むのではなく、他者に転嫁するこれまでの歩みを改めることをしません(10節~11節)。私たちの感覚からすれば、神の期待を違えることに対する恐れがありますが、イエスは変わらず関わりを持って下さいます(14節)。人間的な基準でなく、私たちを唯一無二の存在として、イエスは「人を活かす言葉」を今も私たちに掛けています。