毎週の説教メッセージ

off 揺れ動かされることは

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説教:加藤 久幸 牧師

ヘブライ人への手紙12:18-29

「あなたがたが近づいたのは、シオンの山」です(22)。シオンの山は、地上の都を越えて、神が支配をされる「生ける神の都、天のエルサレム」(22)を指しています。その都の民は、「無数の天使たち」(23)、「天に登録されている長子たち」(23)です。恐らく、この都では、毎日の礼拝が行われていて、その礼拝が私たちの地上の礼拝にも繋がっていると、イメージされているのでしょう。そして、そこには、「すべての人の審判者である神」(23)がおられますが、既に裁きが行われ、キリストによって「完全なものとされた正しい人たちの霊」(23)、無罪とされた人々の様があります。復讐を呼び求める「[アベルの]血」の叫びではなく、キリストの成し遂げられた贖いの血によって「新しい契約の仲介者イエス」が語る、呼びかけがあります。後半は、「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と始まります(26)。主の臨在に際し、主は「守るべきものを守るために揺り動かす」(27・28を参考)と、語られています。それは、私たちに「あなたは誰と一緒に旅をするのか」という、招きでもあります。今日の最後は、「わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(29)で終わります…。神の火は、焼き、清め、あるものを 灰にします。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを守る・生かすために、神が「揺り動かされる」ことがあることを、覚悟したい。一人で「ひるむ」のではなく、新しい契約のイメージをしっかりと抱き、イエスと共に歩む道を歩みたいものだと願います。

説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書6:25-34

「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」とあります。イエス様は「命は食べる物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25)と言われています。生活や将来への不安や欲にとらわれてはいけないと言うのです。でも、私たちは食べる物はお母さんが用意してくれたものを食べるかもしれませんが、今日何着ていこうなんて悩みます。イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言います。空の鳥や野の花は何も考えていないのでしょうか。「ダウィンが来た」という番組で、ウグイスを取り上げていました。山の鳥だったウグイスが最近一年中、住宅街にいると言うのです。人がいる住宅街の方が、ヒナを天敵から守ることができると思ったのでしょう。ウグイスも生きるために考えていると思いました。また、道路のアスファルトの隙間から咲いている草花を見ると精一杯生きていて力強さも感じます。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」(33-34)。同じことをパウロも言っています。「…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。…」(フィリピ4:4-7)。イエス様が求めなさいと言っている神の国や神の義は、神を信頼し、ゆだね、喜んで力強く生きることではないでしょうか。実際の生活は思い悩むことも多い私たちですが、空の鳥、野の花のように私たちもまた神の御手の内にあります。

off 信仰は聞くことにより始まる

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙10:5-17

5節でパウロは、律法が神の恵み・神への信頼への呼び覚ますものであったが、ユダヤ人は律法を人間の行い・人間への信頼を呼び覚ますものとしたと、ほのめかしているようです…。そして、旧約以来、変わらぬ神は、神の恵み・神への信頼を呼び覚ます方として、キリストをお遣わしになった…。それは、信仰者が自分たちの努力によって知るというより、私たちの近くに来てくださる神の恵み・備えを表しています…。6-8節は、神の近さ・キリストの臨在を表現し、それを信じる「信仰の義について」表しています(申命記30:11-14参照)。パウロは、これらを旧約聖書から聞くことを通して明らかにし、「これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」(8)と、語っています。9-10節でパウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(申命記30:14参照)と語り、ここでも旧約聖書の預言とキリストの出来事を結びつけています。そして15節、「聖書にも、『神を信じる者は、だれも失望することがない』(イザヤ書28:16参照)と書いてあります」と語り、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)と、宣べ伝えます。パウロは[旧約]聖書を通して「信仰は聞くことにより始まる」(17)と、真剣に宣べ伝えています。

それ故、旧約聖書に示される神は、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)方であり、13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5参照)のです。パウロは、自らが信頼できる神であることを[旧約]聖書が語っていると、宣べるのです。

off キリストを現してくださいます

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテ書一6:11-16

今日の聖書は、生きる意味や人生について、先ず語っているように想います。人間にとって大事なのは、「命を得る」(12)ことであり、それは、交換も、購入も、蓄積もできない、かけがえのないものです。私たちは、「お金は天国には持っていけない」と語りますが、生きている間「お金を蓄積する」ことに熱心です。聖書は、「永遠の命を手に入れ」る(11)ため、「万物に命をお与えになる神の御前で」(13)、「この掟を守りなさい」(14)と、勧めます。それは、「神の人よ、あなたはこれらのことを避け…正義、信心…を追い求めなさい」(11)ということです。聖書は、命は天国においても存在するものですから、命に関わる正義や信心に、また、恵みとして与えられる命に感謝しなさいと、教えています。それと共に、「避けなさい」というのは、適切な距離をとる・付き合い方をしなさいと、勧めているのでしょう。「信徒の友」2022年9月号は、「お金と信仰」という特集を組んでいます。その中で、浜矩子さん(同支社大教授・経済学者)が語られている「お金に支配されない生き方」という文章は参考になります。最後に、「キリストを現してくださいます」(15)は、聖書の文脈からすると「イエス・キリストの再臨」(14)を示唆しているのでしょう。しかし、私たちは、この世において信仰を明らかにしつつ、「証しをなさった」(13)キリスト・イエスの姿を思い起こしつつ、歩みたいと思います。神は聖霊を通して「キリストを現してくださいます」と、私は信じています。

off “霊”が語らせるままに

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

私たちは、繰り返し、今日の物語に聞き、そして、新たに出発します。私は、この物語に触れる度に、この出来事に最初に巻き込まれた人々は、何を語ったのだろうと、想像します。しかし、物語では、「何を」ということは明確には語られていませんが、「何が起ったのか」ということは語られています。この物語は、「神の偉大な業」(11)は、言語も、民族も、宗教も、越えていくと、示しています…。その出発点は、家の中にいた「一同」であります。イエスの去った後(1:9)、イエスの弟子たちは、この時を、閉ざされた場所で、慣習に従って過ごしていたのかもしれません…。しかし、彼らは、新しい世界へ飛び出すことになります(1:8)。“霊”は、人々を動かし、世界を打開していきます。その風は、熱を帯びており、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに…話しだした」(3-4)のです。弟子たちも、イエスの弟子という「同質性」にとどまっていたかもしれません。しかし、霊を受けて、彼らの一人一人の歩みが始まります。それでいて、その歩みは、各々の考えや歩みではなく、「“霊”の語らせるままに」(4)、すなわち「聖霊の導くままに」一つとされる歩みでもありました。現代の私たちも、既得権益のように受けとめてしまう慣習や恵みから新たにされて、この世界の中での「神の偉大な業」、“霊”が語っていることに、身を委ねるものでありたいと、願っています。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネ福音書7:32-39

「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」(31)という群衆の声を聞いて、祭司長やファリサイ派の人々はイエスを捕らえようと下役を遣わした。時は仮庵祭が盛大に祝われる終わりの日にイエスは大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38)と言います。イエスとサマリアの女とのやり取りで「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)を想起させます。私たちは自分の魂の渇きを自分自身の努力によって解決することはできません。しかし、イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と私たちの渇きを潤してくれることを約束されます。イエスとの出会いによって、私たちは生きた水を飲むことができるのです。その生きた水とは「聖霊」です。その聖霊は私たちを「導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)のです。「渇いている人」がイエスから呼び出されています。イエスはいっときの水を提供するだけでなく、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38)と言います。イエスは天に昇り、この地を去ります。イエスの命の水に与った私たちは、その渇きを癒さるだけではなく、その人の内から「生きた水が川となって流れ出る」という使命を指し示されています。そのような歩みをしましょう。

off その日には

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書16:23-33

「その日には…あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23-24)。「喜びで満たされる」ことがはっきり示されています。さらに、イエスの言葉が響きます。「その日には…願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」(26-27)。弟子たちは、「今、わかりました」(30)と語り、自らの理解やイエスとの関わり方において、その変化に気づき始めたのかもしれません…。そのような弟子たちに、イエスの踏み込んだ言葉が続きます(31-32)。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ」。32節は、イエスの近い未来であり弟子たちの未来でもあることを示唆し、31節は、信じることは、御言葉を聞くだけではなく、御言葉を生きることでもあると、示唆しているかのようであります。イエスの最後の言葉が響きます(33)。「勝利」に関して言えば、信じる者たちが神の正義・真実・平和が実現することを祈り「一致」する様相を聖書全体は伝えていると想います。私たちは、まさにイエス・キリストの名によって神に直接祈っています。「その日」の実現を信じ、イエスのように生きたい、生きようと願っています。

説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書14:1-14

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1)。これは「動揺する必要はない」という意味で、「希望によって生きなさい」と語っているのでしょう。なぜなら、イエスが取り計らう、未来は来ると、約束しているからです(3)。私たちが何気なく交わす言葉、例えば「天国で会いましょう」等は、信じている時は普通なのですが、「心を騒がせる」時は混乱してしまいます。その混乱は、イエスとトマスのやりとりにも(4-5)、イエスと弟子たちとの行き違いにも(7-8)顕わにされています。イエスは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じられないなら、業そのものによって信じなさい」(11)と語り、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12)と示されました。イエスは、ゴール(目標)を知っており、私たちを「迎える」と約束してくださり、私たちは「目標」に向かっています。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)と示してくださいました。私たちは、イエスの道を行き、イエスが歩まれたように歩みます。その途上においても、神・イエス・聖霊が共におり、真理を知り、命を大事にします。また、途上には、様々なことがあり、歩み方も違い、歩めない時もあります…。それ故、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(13)と、寄り添ってくださっています。

off わたしを愛しているか

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書21:15-25

前半は、イエスがペトロに三度「わたしを愛しているか」(15,16,17)と確認し、その三度とも「[わたしの]羊を飼いなさい」という内容を告げています。信従する者に、共同体を養う、教会を育てるというようなことを告げることは、それ以前のヨハネ福音書1-20章では珍しいかと想います。後半には、「イエスの愛しておられた弟子」(20)が登場します。ヨハネ福音書が現代の形で成立する時には、ペトロも「イエスの愛した弟子」も既に亡くなっていたと想いますが、両者の事情を知る者が21章を付け加えたのだろうと想います。21章では、ペトロに、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21)と、尋ねさせています。この背景には、二人の弟子のどちらが偉大なのか、イエスの愛された弟子は[イエスの再臨の時まで]生き続けるだろうというような、噂・推測が広くあったことが想像されます。そうしたことに対して、イエスは、21章の著者は、「[そうしたやりとりよりも、あなたにはもっと大切ことがある。] わたし[イエス]に従いなさい」(22)と言われたと、告げているかのようです。福音書の最後に、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」と出てきます(24)。「書いた」という言葉は、恐らく、この文書の「背後に立っている」「保証している」という意味なのでしょう。大事なことは、他者との比較ではなく、自分にできる、イエスに対する真実で忠実な証しです。そのことの故に、イエスご自身も、私たちに近寄り、「わたしに従いなさい」と招いてくださっています。

説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書21:1-14

ペトロたちはティベリアス湖(ガリラヤ)へ戻って、「漁へ行く」といって出かけました。しかし、何も取れずにかえって来ると、復活のイエスが岸に立っていた。しかし、弟子たちはイエスだとはわからなかった。「何か食べ物があるか」と言われたが、「ありません」と答えた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」と言われ、魚が多く取れました。イエスの愛している弟子がペトロに「主だ」と言うと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込んだ(7)。漁の場面、復活のイエスのことが分からなかった場面など、私たちはルカ福音書のペトロを弟子にする場面やエマオ途上の場面を想起します。弟子たちは復活のイエスを見ました。しかし、1回見れば、いつもわかるわけではありません。信じることができなければ、イエスがその場におられても、わからないのです。「漁に行く」ということがペトロたちの宣教の象徴だとしたら、イエスの派遣命令に応えて、希望を持って出かけたが、結果はみじめなものでした。しかし、イエスの指示に従い、行ってみると大きな成果がありました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である…」(15:5)のみ言葉の実現であります。派遣命令に懸命に従う弟子たちと共にいて、教え、励ましてくださるイエスがここにおられます。イエスの宣教に召し出された人々が、多く、多様でも、網は破れないのです。このしるしを見た弟子たちはもはや「あなたはどなたですか」とは問わないのです。私たちもイエスの宣教の業に招かれています。