毎週の説教メッセージ

off 知るようになる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書52:1-10

「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」(1)と、呼びかけられます。同じ呼びかけが、51:9では「主の御腕」に向けられていたのが、ここではシオンに向けられています。続いて、「輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」(1)と、身支度・準備をするようにと語りかけられます。イスラエルは、真の慰めはどこから来るのか、自分たちが今後どのように歩むかを確かめるために、方向転換をした…。それが、荒れ野へ、荒れ地へ、神が来られる方向へ、目を転ずることだったのだと想います。その転換は、かつてのエジプトやアッシリアでの苦難(4)、そして、今ここで起こっている(バビロニア時代の)試練を受けとめさせ(5)、「ただ同然で売られたあなたたちは…買い戻される」(3)という語りかけを、聞くのです。「それゆえ わたしの民は わたしの名を知るであろう。その日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言うものであることを知るようになる」(6)。7節の「いかに美しいことか…良い知らせを伝える者の足」の言及には、驚かされます。神自らが、荒廃が満ち廃墟となったエルサレム/シオンに、「王となられ」(7)、「主が…帰られる」(8)と告げられ、そのことを待ち望む民が起こされたことを、想います。それは、「その日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言うものであることを知るようになる」(6)という預言の実現であろうと想います。

off 帰らせ住まわせる主

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説教:加藤 久幸 牧師

エレミヤ書23:1-8

今日の箇所は、その前にあるユダの王たちに対する審判の言葉(22:6-30など)、そして、その結びにある「だれひとり…ダビデの王座にすわり ユダを治める者が出ない」(22:30)に対応しています。今日の箇所には3つの短い預言が集められています。これらの預言は、いずれも希望に溢れる内容であり、ユダの将来の繁栄と統治について述べられていますが、エレミヤに直接由来するものではないと言われています。[説教では1-8節を順に解説したが、ここでは割愛する。] 今日の3つの預言を、当時の民はどのように聞いたのでしょう。そして今私たちは、どのように聞くでしょうか。エレミヤ自身の預言は、全体からすると、それまでのダビデ王権も神殿礼拝も必要不可欠であるとは語ってはいないように想います…。それだけ深い,絶望の中にある民に向けて、語られています。追加の今日の預言も含み、人間の目先の安易な希望(単にダビデ王権やユダ王国の復興など)ではなく、散らされた民を集めるために、「主は我らの救い」と呼ばれる牧者・指導者がご自分の国に導き上る、主は生きておられる、そのような「希望」に信頼したのでしょう。嘆きの中で、当時の民は、信じ、生き延びました…。その証しが、聖書の言葉となり、私たちに伝えられています。来週、アドヴェント(ラテン語「来る」)を迎えます。私たちも、闇の中に光を見出し、「希望」を確かにしたいものです。

off 救いの約束

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説教:加藤 輝勢子 牧師

出エジプト2:1-10

ヨセフを知らない新しい王が、エジプトを支配し、イスラエル人の数の多さに脅威を覚え、強制労働、重労働をさせたが、効果がなく、助産婦に出産時に男子を殺すように命令するが、これも効果がない。しまいには全国民に、生まれた男の子はナイル川に放り込め、女の子は生かしておけと命じました。そんな時にレビの男女に男の子が生まれたのです。3か月の間、隠していましたが、ついに隠しきれないと思い、パピルスの籠に防水を施して、ナイル川の葦の茂みの間に置きました。そこへファラオの王女が水浴びをしに来て、籠を見つけました。中には赤ん坊がいて、ヘブライ人の男の子がいました。赤ん坊の姉が王女に「その子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んできましょうか」と言い、その子は王女の代わりに大きくなるまで乳母に育てられ、その後王女に育てられました。その子の名は「モーセ」と名付けられました。生存の危機に瀕している弱く小さい命は、抑圧されている母、その娘、王命に背く王権の支配下にある女性によってつながられてゆきます。人間の目には生存し続ける可能性が著しく低いように思われる時、それでもなお、命が保たれ支えられ続ける可能性があること、その希望がなお存在することを、モーセの生涯の始まりの物語は伝えています。現在のわたしたちもまた、神を畏れ、祈り、他者を思い、それぞれの生活の場で神の救いの約束を信じて、アドベント、クリスマスを迎える準備をしましょう。

off 祝福の源

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説教:加藤 久幸 牧師

創世記11:30-12:9

11:30-33を読むと、アブラムには深い闇・克服できない溝があったことが伝わってきます。「不妊」という表現(11:30)は、単に子どもが生まれないというだけでなく、希望のなさを表わしていると受けとめるべきかと思われます。神は、人間の中にある力に根拠おかず、神ご自身の語りかけの中に根拠をおき、出来事を始められます。このことは信じがたい出来事です。「主は…言われた」(1)。「あなたは 生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1)。この語りかけは、父がとどまっていたハランを離れることだけを、意味していません。むしろ、慣れ親しみ、希望がなくともついつい頼ってしまう、自分の期待や世の安全に留まることを断念し、神の語りかけに従い、神と共にある、危険を伴う旅に希望を見出すことを意味しています。この後の約束は(2)11:30-33の状況とは対照的で、この招きと約束は、それを成される方を信じること以外に、実現しない…。彼は、その転換点・狭間に立っています。4節、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。6節の主の言葉が表わすように、彼は約束の土地にいましたが、彼には与えられていません。与えられるのは彼の子孫です。与えられることは、受ける者がいて、初めて成り立ちます。彼は、このような信仰の旅を続けました。8節の「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」は、その途上において、神に向き直り、祈ることが必要であったことを物語っています。彼は、私たちの信仰の祖として立っています。

off どこにいるのか

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説教:加藤久幸 牧師

創世記3:8-24

創世記2-3章は誤解されることが多くあり、2:17の「善悪の知識の木」も他の聖書の物語では登場しません。他の要素も含めて、多くの人が、この物語を特別なものとして受けとめ、悪・罪・死などについて抽象的な検討を重ねることがあります。しかし、現実的な危機(悪・罪・死など)に遭遇した時、人間はどう生きるかを、この物語は語ります。今日の聖書は、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8)と、始まります。神は、人間が変化したのか触れず、「どこにいるのか」(9)と語りかけます。人間の反応から、園・神・人間の在り様はそれ以前とは変化がないにもかかわらず、人間の見方・関わり方が変化したことを受けとめます。神の意図に「誘惑」をもって歪みをもたらした蛇への対応が、14節に出てきます。蛇がどうなったかというより、神は見過ごしにされずに対応されたと受けとめたいものです。人間に対しては、自らの思いや判断に伴い生じた、歪みの責任を担うことが宣告されます。歪みは、裸に伴う弱さ(3:7,10)、恐怖(10)、敵意(15)、苦しみ(16)、支配(16)など、関係を疎外するものとして現れます…。驚くべきは、人間に対する使命は、この宣告においても変わっていないことです。そして、皮の衣(21)を与え、土・世界を「耕す」(23)ことへと、人間を改めて遣わされます。「どこにいるのか」と語りかけてくださる主と共に、歩みたいものです。

off イエスの宣教

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説教:岩河 敏宏 牧師

ルカによる福音書4:42-44

ルカ福音書は使徒言行録と共に、テオフィロさま(閣下)宛てに記していることから、ローマ帝国の高官を読者に想定していると考えられ、力(軍事力・経済力・生産力)の強弱が人間の価値の優劣に直結するという、現代にも共通する価値観が支配的な社会での生活があります。この背景からルカ福音書は、①誘惑を受ける。②ガリラヤで伝道を始める。③ナザレで受け入れられない。④汚れた霊に取りつかれた男をいやす。⑤多くの病人をいやす。⑥巡回して宣教する、という独自の展開でイエスの宣教を記します。①と②は“霊”が強調され、宣教がイエスの独善ではなく、神の御心に沿うものであること。③は当時の価値観に抗い、自己の可能性を無価値と諦めている者に解放・回復を告げることがイエスの使命であること。④と⑤は、③の実践として位置づけられています。ここで注意したいのは、4章18節の「~人に解放を、~人に視力の回復を告げ、~人を自由にし、」です。視力の回復の(名詞)語は、動詞で天を仰ぐ(9章16節)と訳され、“神に目を向ける”が本来の意味で、その結果として(物事の本質が)“見える”に繋がることを心に留めたい。イエスが告げようとされる福音(良い知らせ⇒人間の価値基準を超えて、総ての命が生の全領域にわたって存在価値があるという神の御心)は、特定(地域・階層)の人々にではなく、あらゆる人々に向けられています(43節~44節)。であれば、私たちが相互に命を大切にして歩むことで、イエスの宣教を現代に継承したい。

off 尽きない恵みはあるのか?

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書19:11-27

今日の話は「…イエスは更に一つのたとえを話された」(11)と始まります。その理由は二つあるようです。一つは「エルサレムに近づいたから」であり、もう一つは「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」と言われています。「一つのたとえ」と言われていますが、二つの話が一緒になっているようです。一つ目は、ある人が「王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12)というものです。人々は、この話を譬えとして聞いたでしょうか。同時代の歴史として、似た事件がありました。もう一つは、ある人が「遠い国へ旅立つことになった」(12)、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13)と、始まります。この人が帰ってきた時、ある者は「一ムナで十ムナを」(16)と言い、ある者は「一ムナで五ムナを稼ぎました」(18)と言いました。しかし、ほかの者は「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。…恐ろしかったのです」(20-21)と言いました。イエスの話は、現実の世の動き、人々の動きを語っています。しかし、イエスが語ったことが「神の国の到来」―それはイエスの宣教のうちに既に始まっている―であるなら、私たちは、人々を導く神の恵みは無限であることに信頼を寄せ、歩みたいものです。私たちに委託されたこと「福音を宣べ伝えなさい」が明確である以上、委託された期間、喜んで仕えるものでありたいと、願います。

off 共に恵みにあずかる者

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説教:加藤 久幸 牧師

フィリピの信徒への手紙1:1-11

パウロは、挨拶(1-2)の後、フィリピのキリスト者の過去(3-6)・現在(7-8)・未来(9-11)を思い、祈っています。挨拶で、パウロは、神の恵みがあるようにと祈っていますが(2)、3-6節では感謝を言い表わしています。恵みと感謝という行為は、神から人間に向けられたものであるとき「恵み」と言われ、人間から神に向けられたとき「感謝」となります。パウロは、この両方を強く意識しているように想います。パウロは、「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも…」(7)と、現在のことを語り始めます。実際パウロは監禁されていますが(1:13)、彼の言葉遣いからすると、被告席に立つのは神の福音そのものという、理解があるようです。そのような脈絡から、7節「共に恵みにあずかる者」という言葉を聞きましょう。パウロは、福音宣教や神の働きへの参与とは言わずに、監禁や法廷と関連づけ、「共に恵みにあずかる」という言い方をします。ですから、1:29で「あなたがたには、信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられ」と表現しています。パウロは、フィリピの信徒たちを「共に恵みにあずかる者」と見なし、「喜びをもって」(4)祈り、「心に留めている」(7)と語ります。そして、今後(未来)も「キリストの日に備えて」(10)、「知る力と見抜く力とを身につけて…愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。…」(9-11)と祈っています。親しいが故に、パウロはフィリピ教会に福音を伝える必要を感じたのではないでしょうか。

off 愛する協力者

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説教:加藤 久幸 牧師

フィレモンへの手紙1-25

パウロは、挨拶(1-3)の後、4-7節で、手紙の受け手であるフィレモンに、彼の愛と信仰について、前置きのように書いています。当時、悪事(参考18)を働いたと見なされた逃亡奴隷への対応を見ておくことは、意味があると思います。しかし、パウロは、厳しい奴隷(制)の現実については、直接語っていません。パウロは、キリスト教的同情(12節)と、フィレモン自身のキリスト教的負債(19節)について、語ります。そして10節「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、お願いがあります」と、切り出します。オネシモの入信の経緯も詳しくはわかりませんが、パウロの願いは、「愛に訴えてお願いします」(9)と語っています。全体として、パウロは、奴隷も「キリストに仕えている」、その主人・所有者も公正な扱いをする「神という主人を天にもつ」、そして、奴隷もその主人も「キリストの奴隷」であるということを、想起させています。そこから、パウロは、「オネシモは…愛する兄弟であるはずです」(16)と、「主の兄弟」という観点から、この願いを書いています。もしこの手紙に題をつけるとすれば、「キリスト者としてのフィレモンの関わり・自由」ということになるでしょうか。今日の説教題「愛する協力者」は、挨拶の「愛する協力者フィレモン」(1)や、結びの「わたしの協力者」(24)から、来ています。私たちの主人はキリスト・イエスであり、私たちも、その主から愛される協力者であるとの自覚のもと、私たちの歩みを成したいものです。

今日の説教題に、「愛する協力者」と付けました。それは、挨拶の「愛する協力者フィレモン」(1)や、結びの「わたしの協力者」(24)から、来ています。私たちの主人はキリスト・イエスであり、私たちはその主人から愛される協力者であるとの自覚のもと、私たちの歩みを成したいものです。

off 人を分け隔てしてはならない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヤコブの手紙2:1-9

ヤコブの手紙の目的はキリストの福音を伝えることではなく、キリストの福音を信じる者たちが、どのような生き方をするべきかを伝えることにあります。

金の指輪をはめた立派な身なりの人と汚い服装の貧しい人を外見で判断し、貧しい人にぞんざいな態度を示すことは、差別意識を際立たせることになります。また、このような分け隔てをしているのは、その集まりの指導者的立場にある人です。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継がせる者となさったではありませんか」(5)といい、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)にもありあす。むしろ、富んでいる者たちこそ、あなたたちをひどい目に遭わせ、神を冒瀆しているのではないかと言います。「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているにしても、人を分け隔てしては、律法の違反になります。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物がなく、その日の食べる物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれに同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけで死んだものです」(15-17)。わたしたちは神が貧しい人をあえて選んだことを覚え、必要な手だてをして、人を分け隔てしない歩みをしましょう。