毎週の説教メッセージ

off 人を分け隔てしてはならない

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヤコブの手紙2:1-9

ヤコブの手紙の目的はキリストの福音を伝えることではなく、キリストの福音を信じる者たちが、どのような生き方をするべきかを伝えることにあります。

金の指輪をはめた立派な身なりの人と汚い服装の貧しい人を外見で判断し、貧しい人にぞんざいな態度を示すことは、差別意識を際立たせることになります。また、このような分け隔てをしているのは、その集まりの指導者的立場にある人です。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継がせる者となさったではありませんか」(5)といい、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)にもありあす。むしろ、富んでいる者たちこそ、あなたたちをひどい目に遭わせ、神を冒瀆しているのではないかと言います。「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているにしても、人を分け隔てしては、律法の違反になります。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物がなく、その日の食べる物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれに同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけで死んだものです」(15-17)。わたしたちは神が貧しい人をあえて選んだことを覚え、必要な手だてをして、人を分け隔てしない歩みをしましょう。

off 命を得るために

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテへの手紙一6:1-13

1-2節に奴隷のことが出てきます。パウロは奴隷についてよく語っていますが、パウロは政治的・社会的に直接的な変革をもたらそうとしなかったのでしょうか。このことは、キリスト教の宣教のあり方に関わる、基本的な問題です。教会の宣教は、社会の格差や人権軽視の現実を自覚しつつも、人々にキリストの福音を宣べ伝えることを、活動の第一としました。福音宣教は、社会の格差や差別の直接・即事の解消というより、人々の間に平和を作り出すという、息の長い取り組みであったと想います。平和の完全な実現の時まで、宣教の取組は続きます。イエスの生き様、イエス言葉「もはや、わたしは、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)は、どのように響いたでしょうか。世の現実(3-5)に触れた後、聖書は「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得です」(6)と語り始め、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。…欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」(8-9)と語ります。富そのものではなく、富を欲する欲が悪だと語っています。富の用い方・富みの分配がわからない、倫理が欠如し成熟していない社会においてこそ、私たちがどう生きるのか、今日の聖書は呼びかけています。社会の各々の所で(主人と奴隷の間においても)「平和を作りなさい」という主の福音(参考 ルカ16:1-13)に招かれ、教会は引き継いだのでしょう(11-13)。

off 新しい人間として

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説教:加藤 久幸 牧師

コロサイの信徒への手紙3:12-17

今日の聖書は、それ以前(3:5-11)とは、語り方が違います。否定的な表現から肯定的な表現へ、転換が見られます。私たちは、これらの肯定的なこと・良きことを、自力で「身につける」と受けとめるなら、大きな誤解が生じてしまうだろうと想います。私たちが手本とする・学ぶべき生き方は、すでに示されています。そればかりか、私たちは、「神に…聖とされ、愛されている」(12)、「主があなたがたを赦してくださった」(13)、キリストの「平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされた」(15)のです。私たちは、招かれて、主の愛・赦し・平和の内にあります。それゆえ、聖書は、「いつも感謝していなさい」(15)と、語ります。そして、良きことを自力で身につける「古い人」(9)ではなく、主の恵みと慈しみに預かる新しい人間として、「新しい人を身に着け」る(9)道が、今日の聖書に示されているように想います。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして 互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して 心から神をほめたたえなさい」(16)。コロサイの信徒たちは、礼拝と賛美によって、互いに連帯し、信仰が養われ強められる信仰生活を送っていたのではないでしょうか。そして、それは、日々の生活も、視野に入っていたのだろうと、想像します。今日の結びは、こう記されています。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17)。礼拝により、全ての者を新しい人間としてくださる恵みを、感謝したいものです。

off イエスの焼き印を身にうけて

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ガラテヤの信徒への手紙6:14-18

ガラテヤ書の最後の結びの言葉で、パウロは自分の手で大きな字で書いていると記しています。本当は今すぐにでも会いに行って、顔と顔を合わせて話をしたいのですが、それができない状態だからです。その原因は、こんなにも早く、イエスの福音から離れて、他の福音に乗り換えようとしていることです。それは、ユダヤ人キリスト者が、異邦人キリスト者に対して、イエスを信じることに加えて割礼を受け、律法を守りなさいというのです。パウロは、ガラテヤの信徒たちに、そう言っている人は自分たちが律法を守っているわけではなく、むしろあなたがたの肉について誇りたいためだと言っています。ユダヤ教の軋轢を回避するためとか、他の人によく評価されたいためにと、言っています。パウロはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはならないと言うのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、(主イエス・キリストにあって)新しく創造されることです(15)と言います。パウロが伝道のために受けてきた傷跡、つまりイエスの焼き印を身に受けているのです。焼き印は主人の所有を明示するもの、キリストはわたしと共におり、わたしの主人となられたのだから、割礼を受けさせようとしている者たちが、パウロに戦いを挑んでも無意味だと言います。私たちも「主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがない」というような歩みを今週もしましょう。

ガラテヤ書の最後の結びの言葉で、パウロは自分の手で大きな字で書いていると記しています。本当は今すぐにでも会いに行って、顔と顔を合わせて話をしたいのですが、それができない状態だからです。その原因はこんなにも早く、イエスの福音から離れて、他の福音に乗り換えようとしていることです。

それは、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して、イエスを信じることに加えて割礼を受け、律法を守りなさいというのです。パウロはガラテヤの信徒たちに、そう言っている人は自分たちが律法を守っているわけではなく、むしろあなたがたの肉について誇りたいためだと言っています。ユダヤ教の軋轢を回避するためとか、他の人によく評価されたいために言っています。パウロはわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはならないと言うのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、(主イエス・キリストにあって)新しく創造されることです(15)と言います。パウロが伝道のために受けてきた傷跡、つまりイエスの焼き印を身に受けているのです。焼き印は主人の所有を明示するもの、キリストはわたしと共におり、わたしの主人となられたのだから、割礼を受けさせようとしている者たちが、パウロに戦いを挑んでも無意味だと言います。私たちも「主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがない」というような歩みを今週もしましょう。

off キリストの真実にかけて

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説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙二11:7-15

パウロは主の指示を伝えています。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資[新訳:「糧」]を得るようにと、指示されました」(Ⅰコリント9:14、参考:福音書)。教会から報酬を受ける者がいました。新約聖書の手紙等から類推できるように、教えることで金銭を受け取る、時には高額な金銭を要求する遍歴(巡回)の教師がいました。この報酬により、本来、教師は宣教に専念することができました。それ故、この方式が一般的であると考えられたかもしれません。また、この方式に支えられている教師は「正当な」教師として見られました。しかし、パウロは、自活できるように「手職」を身につけていました。パウロは、新しい町に行った時には、自分の生活のために働いたことでしょう。まだ教会が成立していない時、誕生しても自立することが困難な時には、教師は働き続けたでしょう。そのような教師の状況を知り、かつて交わりのあった教会が教師のために献金・援助を献げることもありました。初期の時代も、このような教師は、教会から報酬を受ける教師よりも「劣る」と見なされることがあったようです。上記を踏まえ7-9節を読みます。パウロは「今していることを今後も続けるつもりです」(12)と語り、それはコリントには自らを誇る教師がおり「その機会を断ち切るため」(12)であると語ります。「キリストの真実にかけて」(10)、宣教に仕えたパウロの姿を覚えたいものです。

off 生きるのも死ぬのも主のため

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説教:髙桑 義雄 牧師

ローマの信徒への手紙14:7-12

私たちはどのように生きるのか、私たちは一生このことを考え続けて生きています。私たち信仰者には、自分のために生き死にするのではなくキリストのために生き死にする道が与えられました。私たちはキリストによって救われたことを知るとき、自分のために生きることが罪であることを知ります。これは死から生へ、望みのない生活から喜びの生活への方向転換です。私たちは主によって召されており、生きているときも死のときも、全てが主のみ手の中にあります。私たちの生涯は自分のもののようですが、自分で動かすことのできないことに支配されており、ここに神の意志があります。キリストによって生かされているということは、キリストによって裁かれているということでもあり、私たちは最後には神の裁きの前に立たされます。私たちは他者を裁くことなく真の裁きをキリストに委ねなければなりません。そして自分を高ぶらせることなく、主の前に「生き」「死ぬ」ことができる信仰者でなければなりません。これは簡単なことではありませんが、キリストが血を流して私たちのために身を捧げて下さったことによって与えられるのです。

神が生きて働いてくださっていることにより、私たちには喜んで主のために生きる道が与えられました。私たちは主の前に罪の悔い改めによる砕けた魂を最も重要な備えものとして捧げたいと思います。そして生きるのも死ぬのも主のために礼拝を守り賛美を共にして歩んでいきたいと思います。

off 聞いて、行う人

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説教:加藤 久幸 牧師

ヤコブの手紙1:19-27

怒りは現実を変革するエネルギーも秘めていますが、「諦め」や「甘受」や「制御不能」に陥る力も秘めています。それ故、今日の聖書は、「御言葉に生きなさい」と勧めます。そして、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21)と教え、「御言葉を行う人になりなさい」(22)と勧めます。21節では「心に植え付けられた御言葉」という言葉が使われていましたが、22-23節の文脈で言えば、「御言葉を行う人」(22)、「植え付けられた御言葉」(23)が実を結ぶようになることと、言えるでしょうか。 23-24節では、「聞くだけで行わない者」(23)が、「鏡に映った自分の姿を…すぐに忘れてしまう人」(24)に、喩えられています。この喩えは、必ずしも成功しているようには思えません。例えば、古代の鏡が磨かかれた金属であり、写りが悪かったと考えられますが、それにしても「すぐに忘れてしまう」ような事態があるのか、など。さらに、喩えは、鏡が「自由をもたらす完全な律法」(25)であることへと変化することも、わかりづらいものになっている気がします。しかし、この喩えは、視覚的により優れた環境にある、現代の私たちにも警鐘を鳴らしているかのようです。

今日の聖書は、体全体で、「聞いて…行う人」(25)が、御言葉を生きることであり、自由をもたらし、神の恵みに生きることと、示されています。私たちも、神の恵みを「一心に見つめ、これを守」り、「行う」者でありたい(25)と、願うものです。

 

 

off 主に倣う者

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説教:加藤 輝勢子 牧師

テサロニケの信徒への手紙一1:1-10

テサロニケはマケドニア州の中心地であり、マケドニア州にはオリンポスの山々があり、そこには、ギリシャ神話に出てくる神々が住むと信じられていました。テサロニケの人々もギリシャ神話の神々を信じておりました。そのうちの一つが町の守護神とあがめられていたようです。町の有力者たちが熱心にその神を信仰していて、テサロニケの町に住んでいて、その祭りを拒否する者は、集団で暴行を受けることもあったようだと言われています。そのような町に、パウロを始めとする、三人の伝道者がイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。使徒言行録17章によれば、パウロたちはテサロニケの町に3週間ほど滞在して福音を伝え、その働きによって主イエスを信じる者たちが起こされました。そのことでユダヤ人たちが騒動を起こしたために、そこにいられなくなって、南のべレアという町に逃れました。パウロはそこからアテネを経由してコリントへ行き、そこで腰を据えて伝道することになりました。テサロニケの信徒たちが「ひどい苦しみの中から」(6)偶像の神から離れ、イエスキリストの神に従う歩みは困難でした。しかし、私たちもそれぞれの現場の中で「主に倣う」歩みは困難の中にあると思いますが、主に倣う者として「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という勧めのなかにこそ、神に立ち帰る歩みがあると信じて今週も歩みましょう。

off 互いに敬いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙12:9-21

今日の招きのことばは、ローマ書12:1を選びました。1節は、平たく言うと、「神の恵みをうけた者の生き方」ということになるでしょうか(参考 ローマ書6:13後半、第2コリント5:17)。12:2と12:21は分量も表現も違いますが、同じ内容を指すと言われています。12:21は、言葉を補うとこうなります。「悪(この世)に負けることなく、善(恵みの力)をもって悪(この世)に勝ちなさい」。この21節と2節で囲まれる前半(13:3-13)においては、キリスト者共同体のことが語られ、恵みに対する応答の実例が示され、「一致」形作ると示されています。後半(14-21)は、現実社会の対応が語られ、恵みは「平和」を形作ると展開します。18節、「あなたがたは すべての人と平和に暮らしなさい」。パウロは、平和の一例として、「復讐」(19-)を取り上げます。パウロは、キリスト者の責務は和解と平和への道であり、神の「恵み」を具現化することであると、示しています (ここで、イエスの言動と彼が払った「献身」を思い起こすことは、意義あることです。マタイ16:24-25)。神の恵みにある生は、新たに召し出されたので、自分の生きている現実社会と折り合いが悪くなることがあります。しかし、私たちは、神の恵みを忘れることなく、限界ある者として、招かれています。神の創造された世界に、神の恵みによる生、神の平和が満ちていくことを願って、歩んでいきましょう。

off 誓いを果たされる神

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説教:岩河 敏宏 牧師

創世記28:13-22

私たちは、人生における針路や目標・目的地について、多くの場合は自己判断で選択します。しかし、私たちの判断は利己的であるため、本人の意図とは別に不和や分断を招くこともあります。聖書は、私たちが人生の岐路に立つとき、語りかけ寄り添う存在として、神がおられることを記しています。本日の個所も、その一つです。双子でありながら、兄エサウと弟ヤコブの間には、父イサクからの“祝福”をめぐって確執が生じます。イサクが子へと継がせる“祝福”とは、神が「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)とアブラハムに告げ、彼がそれに応え、明確な針路も目的地も明示されないままで出発した時、神から与えられた“祝福=たたえる”(12:2,27:4,28:14)で、兄弟間で確執の元凶となった“祝福=賜り物(27:13,41)”とは質を異にします。神の祝福より、物質的な祝福をめぐる謀により兄の恨みを招き、ついには独りで家を出ることになります。この時、神がヤコブに現れ“祝福”を約束されるのです。彼は神の前で罪に関する発言はなく、自身の保身を願います(28:20-21)。ここで注目したいのは、神が自己保全を優先する彼を咎めないことです。神は自己中心的な私たちに、「あなたと共にいる。必ずあなたを守り、連れ帰る」(15)と誓って下さるのです。利己的で不和を招く私たちだからこそ、神が共にいて守る、との誓いを果たすのです。無条件の神の恵みに応えたい。