説教:加藤 久幸 牧師
ヨハネによる福音書20:1-18
登場人物たちが、慌ただしく動いています。「亜麻布と覆いが置いてあった」という事実を踏まえ[伝え聞いて]、あなたがたはどのように受けとめるのかという、物語が始まります。物語を繋ぐ9-10節は、聖書を読む全ての者に向けられていると思います。マリアが「亜麻布と覆いが置いてあった」事実を見たとは、聖書には出てきません。ただ、「墓から石が取りのけてあるのを見た」(1)ので、彼女は、「主[イエスの遺体]が取り去られた」(2,13)と、予測したにすぎません。後半の物語でも、マリアは、自分の予測・判断に従って天使たちと話を続けます…。しかし、主イエスから語りかけられる、「だれを捜しているのか」と後ろから声かけられ(15)、「マリア」と呼ばれることを通して(16)、主イエスは生きていると認めます。信仰の事柄は、自分が現実を見ることより、語りかけを受け、聞くことによるのでしょう。イエスは、十字架につけられ、動きを止めました。イエスの死を前にして[も]、人々は自らの思いでそれぞれに動かざるをえませんでした。心落ち着かず、ざわつき、その様はバラバラと形容できるでしょうか。しかし、神の力により、イエスはよみがえらされました…。地震や津波で遺品だけが残り、行方不明になっていた者が「わたしは生きている」と現われたかのように…。イエスの「生きている」という現われは、それまでの重く圧倒的な制止する力から解き放たれたという、喜びの出来事です。私たちは、イエスの復活の喜びを共にし、その導きを信じ歩むことができるでしょうか。