毎週の説教メッセージ

off 自由な人として

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説教:加藤 久幸 牧師

ペトロの手紙①2:11-25

今日の聖書を「外国人」「難民」を意識して読みますが、著者ペトロは彼らを含む教会に向けて「愛する人たち」と語りかけます。宗教的に(神の前に等しくある)自由の民として迎えられた喜びはいかばかりかと、想います。その事実を踏まえ、聖書は家庭訓という枠で勧めを展開します。最初に出て来るのは「奴隷たち」(共同訳「召し使いたち」)です。…22節の引用(イザヤ53:9b参照)は,本来「この方は、不法を働かず…」ですが、ペトロがここを「罪」としたのは、24節(イザヤ53-4,12b参照)の「罪」と結びつけるためであるのでしょう。新約の後期文書なら「受難」から「高挙」と展開してもよさそうですが、ペトロは「(キリストの)お受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(24節)と展開します。「奴隷たち」の「不当な苦しみ」「癒し」に関心を寄せています。25節との関連で、旧約の聖書日課を紹介します。「わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた」(エレミヤ50・6)。今日の聖書は牧師には厳しい。「制度」「皇帝」「主人」だから、そのままに「従いなさい」となるのか。「自由な民として生活しなさい…神の僕として行動しなさい」(16節)を受け、(キリストの)「足跡に続く」(21節)のか。キリストの受難を見あげる時、同時に「自由な民として生活した」イエスの言葉や行動がまざまざと甦ってきます(ペトロの読者は…)。主の足跡を歩みたいものです。

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