毎週の説教メッセージ

off 起きよ、光を放て

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの信徒への手紙5:8-20

今日の聖書で、「光の子」と呼び名が与えられ、「光の子」がどういう存在であるかが物語られます。14節は初期の洗礼の賛歌と想いますが、「光の子として歩」(8節)もうとするなら、知恵が必要だということが15-18節で展開されています。そして、大事なこととして礼拝・賛美のことが19-20節で語られています。16節の「時をよく用いなさい」という言い方は、「市場」という商業用語から来ていていると言われます。関連して18節の「酒に酔いしれてはなりません」とか11節の「実を結ばない暗闇の業に加わらない」にも触れておきたいと思います。ここで言われていることは、酒が好きとか泥酔したとか個人的・道徳的なことではないと想います。当時の人々が飲んで騒ぐことは「社会の友好」のためであり「普通」のことだったと思います。先ほどの「市場」を「広場」「社会」とするならば、その「市場」「社会」のことがそういう場で(ある人々によって)決められていったことを暗示されているのでは…。泥酔は判断を鈍らしますが、それ以上に、ここでは、そういう社会的な動きと「距離を取る」ことが言われている…。当時のキリスト者は制約・圧迫を感じて生きています。それだからこそ、今日の結びがあるように想います。19節の「語り合い」に特に注目したいと想います。礼拝・賛美は、神との垂直関係と共に人々との水平関係への影響も覚えます。「ソーシャルデイスタンス」に苦慮しながら歩むキリスト者が、礼拝・賛美によってどんなにか慰められ楽しみ導かれたことでしょう。

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