毎週の説教メッセージ

off 憐れみの器

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説教:最上 光宏 牧師

ローマの信徒への手紙9:19-29

 「だれが救われ、だれが救われないか」ということは、私たち人間の判断すべきことではありません。神の自由な意志によるものです。パウロはそのことを、焼き物師を例に、「彼には同じ粘土から尊い器と、貴くない器に造る権限があるではないか」とのべています。しかし他方、神は「怒りの器」にも忍耐と憐れみを施し、「憐れみの器」として用いられるとも述べています。S.モームの「土の器」は、手の付けられないような荒くれ男の物語です。隣の島で発生したコレラの救援のために、それまで毛嫌いしていた宣教師の妹(看護婦)の助手として派遣され、大活躍をし、すっかり別人になって帰還し、二人はめでたく結ばれるという内容です。初めのうち、宣教師からもその妹からも「怒りの器」のようにしか見られていなかった男が、一つの事件をきっかけにして受け入れられ、「憐れみの器」へと変えられていったのです。人を、見かけや先入観で判断することは出来ないのです。どのような人の中にも、神の良き賜物が与えられているのです。 神がそのひとり子、イエス・キリストをお遣わしになったのは、この世を愛され、すべての人が御子の贖いによって赦され、神の「憐れみの器」となるためです。私たちは「土の器」ですが、神の憐れみによって、愛と平和を造りだす神の「道具」として用いられたいものです。

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