説教:加藤 久幸 牧師
コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12-26
12章で、パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えません」と宣べ、「賜物」「務め」「働き」には「いろいろあ」るが、同じ「霊」「主」「神」が「お与えになる」と宣べます(4-6)。そして7節で「一人一人に〝霊″の働きが現われるのは、全体の益となるためです」と語ります。神がこれらの贈り物を贈り、信じる者全てに霊を与えるのは、神の目的に仕えるためであり、共同体全体の利益になるためであると語ります(7)。12章前半(1-11)では「一人一人に」という語り口調ですが、今日の聖書(12-26)では「体は一つである…」(12)のように、一つの体・共同体全体という語り口調に移っていきます。13節は、教会が〝霊″の浸しと現れを受けたと、展開しているようです。コリントの教会では、一致の霊を受けたにもかかわらず、自らは特別の賜物を頂いていると、個人的な霊の資質を誇る動きが生じました。お互いの違いが、「弱く見える」(22)「恰好が悪い」(23)「見苦しい」(24)と批判の対象になり、「お前は要らない」(21)と排除の論理を生みます。その原因には、人間の自己崇拝が関係しています。パウロは、「部分」「役割」という表現を用い、自ら信じる神・キリストの体を、こう告白します。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(24後半-26)。