毎週の説教メッセージ

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説教:加藤 久幸 牧師

コロサイの信徒への手紙1:21-29

21-22節、「あなたがたは…しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者…とがめるところのない者としてくださいました」。コロサイの人々の中には、「聖なる者」とは天に通じる者たちを考えていました。しかしコロサイ書は、キリストの十字架の出来事により、キリストが「裁き」を受けられ、人々が贖われ御子の体である教会に連なる者とされた、それが「聖なる者」(1:21)だと示します。パウロは、異邦人伝道に召され、苦難を伴っても、「宣べ伝え…人を諭し、教えていま」(28)した。24節の「キリストの苦しみの欠けた」という背景には、パウロのユダヤ教黙示思想の影響が指摘されています(つまり、イスラエルでは、「選ばれた者たち」は、メシア(キリスト)が来る前、自分に割り当てられた苦しみを受けなければならないという、考え方があったようです)。29節、「わたしたちは労苦しており…キリストの力によって闘っています」。28節の「完全」の意味することは、コロサイの人々にとっては、天に通じる者・地上の苦しみとは無縁の者といった、他の世界観に通底するものです。しかし、パウロとその同労者は、キリストの労苦によって贖われ、今は、キリストの救いと喜びの内に生かされているという、「成熟」「完全」を語ります。コロサイの教会は、エパフラスによって伝道され(1:7)、その後パウロの同労ティキコ(4:7)等によって指導され励まされます。私たちも、教会の歩みを覚えましょう。
8,2:1-5)。

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