毎週の説教メッセージ

off 『わたしはある』という方が

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説教:加藤 久幸 牧師

出エジプト記3:1-15

モーセは、神との出会いの前に何の備えもありません。そして、彼は、備えを求められているわけでもありません。モーセの今までの歩み(1-2章)が、受け容れられ、否定もされていないと、言えるのではないでしょうか。神は、モーセが神と自由に対話できるよう、自らを低くして現れ、名前を告げられます(6)。しかし驚くべきことに、この後、モーセの召命が、神から告げられます(7-10)。神の現れの時に従順であったモーセ(4-5)は、使命が示されると、彼の異議や抗議が始まります。しかし、この後長く展開される、神とモーセの対話は、抑圧的でなく、ある種の親密さと心配り、自由さに満ちています。モーセは、最初は「わたしは何者か」と問うたのですが(11)、やがて神に「あなたは誰か」と問います。神は、6節の名に加え、「…『わたしはある』という方がわたしを…遣わされたのだと」語り(14)、15節を命じます。「これこそ、とこしえに わたしの名」(15)は、神が民の歴史に参与すること、民が神の業に参与することを、示唆しています。神が「民の苦しみを…知」り(7)現れ名乗ることは、神が「苦しみを共にする」表明でもあります。この神の救い(解放)は、何かからの解放だけでなく、何かへの解放であり、人々を贖いから創造へと至らせます。モーセへの約束が、私たちにも示されています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12)。私たちも主と共に、この世界・歴史へと出て行きましょう。

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