毎週の説教メッセージ

off 人はひそかに神を笑う

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説教:加藤 久幸 牧師

創世記18:1-15

「三人の人」(2)がアブラハムを訪れ、彼らは去っていきます(16)。しかし、アブラハムとサラと対話をするのは、「主」(1,13,14-15)です。物語は、人間には理解できないことがあると言わんばかりに、展開します。1-8節では、アブラハムが主導的で、忙しく、うやうやしく「客」をもてなします。9-15節では、主導権は「客」(≒主)にあり、ゆったり(遅く)展開するように感じます。「わたしは、来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10)。この場面のサラの態度が記されます。「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年をとっているのに、と思ったのである」(12)。アブラハムとサラは、断念・諦めさえすれば、制約のある(閉じられた)世界で自らの努力や主導的な行動が取れる(例えば、養子をもらう、妻以外の女性に子どもをもうける)と考えたでしょう。それに対し、閉じた扉をノックし続けるように繰り返される「主の約束」は、希望の無さとして響いたのではないでしょうか。主は決定的な問いかけをします。「主に不可能なことがあろうか」(14)。言葉は既に発せられました(10,14)。しかし、アブラハムとサラは「なお」「さらに」疑いの中におり、サラと主の緊張あるやりとり(14,15)で、今日の物語は終わります。しかし、来るべき未来は、開かれたままなのです!

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