説教:加藤 久幸 牧師
エレミヤ書23:1-8
今日の箇所は、その前にあるユダの王たちに対する審判の言葉(22:6-30など)、そして、その結びにある「だれひとり…ダビデの王座にすわり ユダを治める者が出ない」(22:30)に対応しています。今日の箇所には3つの短い預言が集められています。これらの預言は、いずれも希望に溢れる内容であり、ユダの将来の繁栄と統治について述べられていますが、エレミヤに直接由来するものではないと言われています。[説教では1-8節を順に解説したが、ここでは割愛する。] 今日の3つの預言を、当時の民はどのように聞いたのでしょう。そして今私たちは、どのように聞くでしょうか。エレミヤ自身の預言は、全体からすると、それまでのダビデ王権も神殿礼拝も必要不可欠であるとは語ってはいないように想います…。それだけ深い,絶望の中にある民に向けて、語られています。追加の今日の預言も含み、人間の目先の安易な希望(単にダビデ王権やユダ王国の復興など)ではなく、散らされた民を集めるために、「主は我らの救い」と呼ばれる牧者・指導者がご自分の国に導き上る、主は生きておられる、そのような「希望」に信頼したのでしょう。嘆きの中で、当時の民は、信じ、生き延びました…。その証しが、聖書の言葉となり、私たちに伝えられています。来週、アドヴェント(ラテン語「来る」)を迎えます。私たちも、闇の中に光を見出し、「希望」を確かにしたいものです。