毎週の説教メッセージ

off どんな人をも

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録10:1-33

物語の主導権は、神・幻にあります。コルネリウスもペトロも全く受け身です。

コルネリウスは、信仰あつく、祈り、施しをしています。それは、彼個人のみならず、その家族や仲間たちも、同様に動いていたかのようです。しかし、彼は、軍人であり、外国人です。政治的弱者であるユダヤ人から見た場合、彼はどのように映っていたでしょうか。キリスト教と呼ばれている動きに、彼自身が直接近づいていったのでもないようです。一方、ペトロは、タビタの癒しへと(9:36-43)導かれヤッファに滞在していたのかもしれません。彼は、神が創られたものを示されるかのような体験をするのですが(11-13、27)、清くない物・汚れた物は何一つ食べない(14)、外国人と交わることは律法で禁じられている(28)と、固辞します。しかし、その中で、ペトロは、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15)という声を聞き、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28)と、語ります。コルネリウスもペトロも、各々の現実の、ある枠内に留まっています…。

しかし、今日の聖書で、神は明確に「外国人である者」を招き導かれます。まず、神が動き、外国人も使徒も、共に変えられていきます。キリスト教は、「神の招きに応える者はだれでも神の家族である」という福音に、今までの伝承や枠から困惑を覚えつつも、その危険と思われる福音に、神の導きに、身を委ねようとします。

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