毎週の説教メッセージ

off 信仰の完成を目ざして

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(2)13:5-13

今日は、この教会での最後の礼拝となりました。13年間、共に礼拝を守り、主にあるよき交わりを頂き、心から感謝しています。53年にわたる伝道牧会生活の最後を、この所沢みくに教会で締め括ることが出来たことを、ほんとうに幸せに思っています。昨年の3月に、隠退・辞任のことを皆さんに認めて頂き、それ以来、毎回、説教の度にそのことを意識して、み言葉を取り次いで来ましたので、今日、最後の説教と言っても、特別なことをお話しすることはできません。いつものように、いつもの通りに、聖書のみ言葉を取り次がせて頂きます。

私たちの教会では、昨年の5月から、この礼拝において、ずっと「コリントの信徒への手紙」を、通して学んで参りました。第一の手紙を学び、この2月から第二の手紙を、飛び飛びにですが学んで参りました。今日はその第二の手紙の最後の結びの言葉からご一緒に学びたいと思います。
著者のパウロは、この手紙の結びの言葉を、「終わりに」という言葉で語りかけています。これは、文字通り「最後に」という意味です。
私たちが手紙を書く場合、一番最後に、どういうことを書きますか?
今の時代、あまり手紙を書かない人が多いかもしれません。せいぜいネットやスマホのメールで、用件だけ打って、「じゃーねー」とか「またねー」という言葉で済ませてしまうことが多いかも知れません。
けれども、パウロの時代、遠く離れている人との連絡は、手紙以外にはありませんし、その手紙もそう簡単に届くわけではありません。数週間も時には数か月もかかってやっと届くという状況ですし、その間にお互いの身に何が起こるか分からないという状況です。パウロの場合には、伝道の困難な厳しい状況の中で書いているわけですから、それこそこれが「最後の手紙」になるかもしれない、という緊張した思いの中で綴っているわけです。その手紙の末尾に何を書くかということは、私たちが創造する以上に思い意味があったと思います。

さて、その手紙の最後、「終わりに」という言葉でパウロが記していることは、こういうことです。11節
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」
ここでパウロが記していることは、決して特別にま新しいことではありません。これまでも色々な機会に語って来たことです。最後に語るべき言葉は、決して斬新な、真新しい言葉ではないのです。むしろいつも語って来た大事なこと、一番心がけてほしいこと。それが「最後のことば」として一番ふさわしいのです。
パウロがこの手紙の最後に、一番語りたかったこと、その筆頭に挙げられたのが、「喜びなさい」という言葉でした。
「喜びなさい」。この言葉を最も多く語っているのは、この後でパウロがフィリピの信徒に書き送った手紙です。その手紙は、私がこの教会に赴任して最初に取り上げた講解説教の箇所です。そこには「喜べ、喜べ」と何度も勧めすられています。
先ほど読んで頂いた2章17節にはこのように記されています。「あなた方が礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と。さらにその先の4章4節でも「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されています。

「喜び」というのは、他人から言われて喜べるものではありません。ことにコロナウイルスがはやっているようなこんな不安な状況の中で、とても喜べるものではありません。しかし、パウロは「常に喜びなさい」、「いつも喜んでいなさい」というのです。どうしてこんなことが言えるのでしょう。信仰による喜びは、条件に依存しないのです。神さまの私たちに対する愛は、いつも変わらないからです。ひとり子イエス・キリストを私たちにお与えになり、私たちの身代わりとして十字架の上で苦しまれた主の愛は、永遠に変わることのない神の愛の証しです。私たちはたとえ辛い悲しみや苦しみの淵にあっても、この神の愛によって、なお喜ぶことが出来るのです。
このフィリピの信徒への手紙は、パウロが晩年、ローマの獄中から書き送った手紙とされています。先ほどの言葉に見られるように、パウロは信仰の故にそこで、殉教の血を注ぐかもしれないという危機の中にありました。たとえそうであっても、「わたしは喜びます」というのです。イエス・キリストの十字架と復活の恵みと神の愛は、はるかに自分の苦しみを越えているからです。そのような喜びに満たされつつ、パウロは「あなたがたも喜びなさい」と勧めるのです。そういうところから、このフィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」の一つでありつつ、「喜びの手紙」と呼ばれているのです。

コリントの手紙の中で、パウロは直接「喜び」について語ることは多くありませんでした。それというのも、コリントの教会の内部には、様々な分争や具体的な問題があり、パウロに対する厳しい批判があったためです。パウロはそれらの問題の解決と使徒としての弁明に終始しなければなれませんでした。しかし、それでもその手紙の最後に、やはり、どうしても言わなければならないこととして語ったのが、「兄弟たち、喜びなさい」ということであったのです。「福音」は、「喜びのおとずれ」です。絶えずみ言葉によって、変わることのない神の愛と恵みにあずかりつつ、喜ぶということが、福音に生きる私たちの基本的なあり方だからです。

次にパウロが語ったのは、「完全なものになりなさい」という言葉です。「完全」とは、普通「欠点や欠けのないこと」を意味します。欠点や破れだらけの私たちにとって、果たしてそのようなことが可能でしょうか?
完全なのは神さまだけです。ところがイエスさまも、「山上の説教」の中で「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と命じられました。それは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたすぐ後のことです。「完全な者になる」とは、敵をも愛する神の愛に倣い、主に従って敵をも愛するように努めるということです。現状に甘んじて、自分の弱さや周囲の状況に流されて生きるのではなくて、「恐れおののきつつ救いの達成に努める」(フィリピ2:13)ということです。パウロは、フィリピの信徒への手紙の3;12で、「わたしは、それを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもあれません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と述べています。キリスト者の完全は、自分の不完全さを自覚しつつ、絶えず主なる神の愛と恵みにあずかり、信仰の完成を目ざすところにあるのです。パウロは、同じフィリピ書の1章6節でこうものべています。「あなた方の中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」と。神さまが、私たちの不完全な信仰を育て導いて、それを完成させてくださるのです。
「完全なものになりなさい」とは、そのことを信じつつ、日々主に従って、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって、神から与えられる目標をざしてひたすら走ることです」。
パウロがコリントの教会に最後の言葉として語ったことは、そのように、喜びをもって、主に従い、「信仰の完成につとめよ」ということです。そしてそのために、「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と勧めているのです。

信仰の完成は、自分一人の力で達成されるものではありません。主に召されている私たちが、思いを一つにして、共に励まし合い、平和を保つことによって、培われるものなのです。聖霊による一致と平和を求めつつ共に励まし合うこと。ここに教会のあるべき姿が示されているのです。
そのような最後の勧めに続いてパウロが記しているのが、祝福の祈り「祝祷」です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。」
この言葉は、お気づきのように、いつも礼拝の最後の「祝祷」において祈られている言葉です。ここで祈られていることは、キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりという、三位一体の神の祝福です。パウロはこの祝福の祈りの中に、これまで語って来たすべての思いを込めているのです。信仰による喜びも、信仰の完成も、一致と平和も、御子イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と聖霊の導きによって、私たちに与えられる賜物だからです。

ある人の言葉に、「人間が他者に対してなし得る最後の最高の業は、他者を祝福することです」という言葉があります。私は、今でも礼拝の中で一番緊張するのは、礼拝の最後の「祝祷」です。父・子・聖霊なる神の名において、神に代わって、祝福をいのり、皆さんをこの世に派遣するのです。それは、ほんとうに畏れ多いことです。
このことでいつも思い出すのは、わたしが初めて主任牧師として金沢の教会に遣わされたときのことです。長年その教会の長老をしていた年配の方が、いつも必ず、最前列の真ん中の席に座られるのです。その方は、ある時、私にこう言われました、「私は、いつも牧師からの祝祷を一番近くで受けたいという思いで、ここに座らせてもらっているのです。神さまからの祝福を受けなければ、私は、この厳しい社会の中で信仰をもって闘うことが出来ないからです」と。当時私はまだ30代の駆け出しの牧師でしたが、神の祝福を取り次ぐ牧師の務めの重さを改めて深く思わされました。私はそのようにして、それぞれの教会の信徒によって支えられ、励まされ、育てられて、この務めを果たしてくることが出来ました。この教会においても、皆さんの祈りと支えと励ましによって、最後の務めを全う出来た、と心から感謝しています。どうか主イエス・キリストの恵みと神の愛によって、常に喜び、いつも感謝と祈りをもって主に仕え、聖霊の導きの下に一つとなって、救いの完成のために励んで頂きたいと願います。

アーメン

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