毎週の説教メッセージ

off 主の死を告げ知らせる

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説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙一11:22-34

今日は、所在を明らかにするため、22-34節を読みました(聖書日課は23-29節)。当時の聖餐を再構成することは難しいのですが、21節にあるような状況が教会にはあったようです。当時は、食事(愛餐)の中で聖餐が行われていたようで-福音書等も参照-、先ず、当時の教会の食事から、お話をしましょう。キリスト者の集会は個人の家で行われていたこともあり、愛餐や聖餐もそこで行われました(中略)。
パウロは-その用法や解釈から-、神によってイエスは「わたしたちの罪のために」「死に渡され」たと受けとめています(ローマ書4:25)。イエスは私たちのために自らを死に引き渡したのです(イザヤ書53:6を参照)。晩餐は、このイエスの死(と生)を記念するのです。そして、この大いなる愛の受け手である私たちは、同じように献げる者に変えられるのです。教会がパンと杯を分かち合うのは、キリストにある教会の(献げ合う・支え合う)一致を象徴する出来事なのです。26節は、それを踏まえたパウロの注釈です。しかし、教会は「共に集って」いたが、主にある「一つ」を象徴していないとパウロは語るのです。27・28節を取り上げましょう。今日の11章は教会の一致に力点があり、主の死(十字架)、すなわち「イエスの体と血に対して犯す」という共同訳を用いる方がふさわしいと思います(中略)。最後に、パウロの[全体の]指示を味わうため、マタイ福音書25:31-45の譬えを併読することを、お勧めします。

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