毎週の説教メッセージ

off 赦されない侮辱

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書12:22-32

22節「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て」いやされます。すると「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」(23)のです。これはエゼキエル書34:23-24を連想させます。ところが、ファリサイ派の人々は、自分の言動とは異なるので、律法違反の嫌疑をにおわし、敵対者とみなしたのです。イエスの生において何が起こっているのか見ようとしないのです。28節「イエスが神の霊で悪霊を追い出している」のであれば、それを「悪魔のわざ」とする人々は、神を中傷・冒涜していることになります―27節「彼ら(悪霊)自身があなたたち(ファリサイ派)を裁く者となる」との言葉も考えさせられます―。31節「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。確かに本当の「悔い改め」があるならば「赦される」のでしょう。しかし32節「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」あるいは(人の子・自らへの批判を甘受しても)「(聖)霊に対する冒涜は赦されない」という31節のイエスの言葉を、私たちはどう受けとめればよいでしょうか。イエスの言葉は、聖霊の働きに委ねよ、神の働きに道・世界を開けよ、と響いてきます。人間の狭い了見で、神の広い「憐れみ」を限定するな。そうならば、ファリサイ派への厳しい言葉も、最終的な決定(ピリオド)ではなく過渡的な勧め(カンマ)のように響きます…。

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