毎週の説教メッセージ

off 仕えられるためではなく仕えるために

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書20:20-28

イエスの受難(・復活)予告と従う者たちの反応を顧みると、イエスの言葉を受けとめていないこと、自らの願いが働きから地位・序列へと動いていく等の連続です。
今日の場面22節、イエスが「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と語ると―この「杯を飲む」というのは(端的に言うと)その人に定められている死を受け入れるということ―二人は即座に「できます」と応えます(22節)。それに応じるイエスの言葉には驚かされます。二人は何らかの労苦・犠牲は覚悟していたと思いますが、23節でイエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲む(殉教する)ことになる」と言われたのです。今回、このイエスの言葉を聞いて、こういうことを考えました。…憲法を具現化していくため,どれほど多くの血が流されたことか。2011年の東京電力福島第1原発事故によって、どれだけの無念の死・苦悩の歩みがあった(ある)ことか。…私たちはこれらの受難・死に向き合い歩むことができるのか。…イエスに従う者たちに、新しい歩みのための教えが説かれます。「…皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の[皆の]身代金として 自分の命を献げるために来たのと同じように」(26-28節)。イエスはここで、自分自身を、従うモデルとして指し示します。私たちがわかる(under-stand)のは、同様に、従う時なのでしょう。

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