毎週の説教メッセージ

off 『しるし』って

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイ12:38-42

本日は復活節第3主日の礼拝です。イースター礼拝を守り、先週は「墓が空であった」ことと「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」というみ言葉をいただきました。それでなぜここで律法学者やファリサイ派の人々は「しるし」を求めるのだろうか?「しるし」という語はいっぱいあります。ギリシャ語では(セーメイオン)と言い単数形です。この箇所ではイエスが神の子であることの確実な保証、不動の証拠としての明瞭な唯一のしるしを見せてほしいということになります。イエスは「よこしまで神の背いた時代の者たちはしるしを求める」といい、預言者ヨナの話と南の国の女王の話をして、それに勝るものがここにあると言います。律法学者やファリサイ派の人々は、イエスが既に片手のなえた人、目が見えず、口の聞けない人を癒された現場に居合わせて、奇跡行為を目撃しています。しかし、それは彼らにとってはイエスが神の子であるというしるしにはならないのです。パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架のキリストを宣べ伝えます。」と言っています。イエスはわかりやすいしるしを求めることそのものが間違っているというのです。救いそのものを受け止め、神にすべてを委ねることが大切なのです。復活を経て、新しくされた者として、赦されて生かされている者として歩みましょう。

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