毎週の説教メッセージ

off 求めることから『しるし』となる

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書6:1-15

今日の聖書で(続く16-18節も含め)話題になっている、施し・祈り・断食は、個人の宗教的実践としての意義があります。しかし、社会的な意義や今日的な意義についても考えさせられる、拡がりがあります。この3つの教えは冒頭・結びの形が似ていますが、祈りは形が崩れています。イエスの教えた祈りは、呼びかけも含め、はっとさせられます。「御名が崇められますように」(9)「御国が来ますように」(10)「御心が行われますように」(10)は、その受動態が暗示するように、これらの祈りの主体・実現者は誰なのかです。これらの祈りを成しうる・もたらしうるのは、神さまのみであって、私たちは、そのために祈りを合わせ、待つことができるのです。後半の「わたしたち」の祈りも、「わたしたち」をどう捉えるか―自分を中心とした同心円状の拡がりで祈るならば―その祈りの内実は大きく変容します。主の示す祈りは世界を包み、この「わたしたち」は「世界の全ての民」を意味していると、聞いたことがあります。これらの祈りは、神の最後の[審判の]時を想定して受け取る人がいますが、私は、この祈りは、天と地(10)、未来と今日(11)を結ぶところに位置していると、想います。イエスの祈りは、神に向けられ、「神のみが神である」との信頼によって行われています。私たちは、この祈りの「しるし」となるよう、招かれています。「主の祈り」を「わたしたちの祈り」として祈り、参与していきましょう。

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