説教:加藤 久幸 牧師
コリントの信徒への手紙一15:35-55
パウロは、44節で「霊の体が復活するのです」と宣べ、45—49節でその「霊の体」を展開するために、アダムとイエスの類比(予型論)を用いています。44節は、共同訳を基本としながら、別の訳を参照したいと思います。「それは 蒔かれた時に 魂に形を与えた。それは 復活させられた時に 霊に形を与えた。もし、魂に 具体的な表れがあるなら、霊にも 具体的な表れがある」[エルサレム・バイブル訳 NTD注解を参考・引用]。私たちは、人間が造られた時、魂・息を吹き入れられて、生きる者とされたことを、信じています。別の言い方をすれば、魂・息を与えられ、大事な体を与えられ、私たちはこの世界で生かされています。そうならば、復活の時にも、霊を与えられ、霊にふさわしい体・信じがたい体が与えられることを、信じる者でありたい。関田牧師の言葉を紹介します。「永遠の命というのは、死んでからもなお魂だけが残っている…命ではありません。…死を前提としても、なお働き続ける、それが永遠の命というもの、復活の命です。…使命に生きようと決意した時に、死が相対化される…死を突き抜けてなお、歴史を担って、主なる神のご計画に参加していく。それこそが永遠の命である。限りある私たちの肉体にイエスの命が現れるというのは、そういうことではないでしょうか」(「目はかすまず気力は失せず」より)