毎週の説教メッセージ

off つながって ~今、わたしを生きる~

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説教:加藤 久幸 牧師

マルコによる福音書16:1-8

詩編121編は、人生の旅路、歴史の試練を、問題にしているのかもしれません。私たちの人生には、どんなに望んでも、全然助けが来なかった!ということがあります。また同時に、厳しい現実は変わっていないのに、自分の物事に対する見方が変わっただけで、霧が晴れるように、様々なことが解決へと導かれることがあります。また、あまりに悲しすぎて、あまりに試練が長すぎて、自信が持てなくて、私たちは、目を閉ざし、心を塞ぐことがあります。 詩編121編は、「わたしの助けはどこから来るのか」(1)という祈りに対して、「目を上げて」(1)と、応じています。「目をあげて」というのは、視点を変えることです。「目を上げる」は、小さなことかもしれません。しかし、現実の困難にだけ目を向けて、そこに目を奪われている時には、「わたし」に注がれているまなざしを感じることができません。うつむいてしまっている自分から視線を変える時、私たちは射しこんでくる光を見ることができるのかもしれません。最後に2節の「天地を造られた主」「天地の造り主」という表現は、創世記1:1と同様、「天地」は存在するもの全てを指すものとして用いられています(使徒信条「我は天地の造り主…を信ず」も同様)。その表現は造り主がどのような方であるかに重点を置き、「何者によっても制限されない、無限の助けと、祝福の力を持っておられる方」から、助けは来るのです。

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