説教:加藤 久幸 牧師
使徒言行録4:32-5:11
今日の聖書は、最初の信仰者の様子を、「使徒たちは、大いなる力をもって 主イエスの復活を証しし」(33)と伝えます。[私は、ここで「主イエスの復活を告白する」と言われていないことに、注目をしたいと思います。] そして、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、各々分配されたからである」(34-35)と報告され、使徒バルナバの例も紹介されます(35-36)。しかし、続くアナニアとサフィアの物語(5:1-11)は、別の視点から、最初の信仰者たちの様子を考えさせます。アナニアとサフィラは、信仰者の仲間が行っているので、[同調圧力を感じたのかはわかりませんが]自分たちも「名誉」を得るために、自分たちの考えで献げたのかもしれません…。そして、嘘が生まれた…。私たちは、自らの名誉や保証を得るために、弁解するという術を身に着けています。最初の信仰者たちは、イースターの時に死の囚われを打ち破り、ペンテコステの時に言葉の壁を打ち破り、そして今、財産すなわち自己保証・自己担保の執着からの解放を、経験してきました。しかし、アナニアとサフィラは、死に囚われ、言葉だけは復活を信ずると同調したかもしれませんが、自己保証・自己担保の道を捨てられなかったのではないかと、想われます。形にこだわる必要はないと思いますが、信仰は「悔い改めなさい」(2:38)、「悔い改めて立ち帰りなさい」(3:19)という、生き方の転換へと招いていく出来事でもあったのです。このような経験をしていく信仰者の群れを、ここで、使徒言行録で初めて「教会」(5:11)と呼ぶのは意義あることだと思います。