説教:加藤 久幸 牧師
使徒言行録7:37-53
ステファノの説教は、主イエスを指し示し、語ります(37)。旧約の民は、「この人(モーセ)が…シナイ山で…命の言葉を(律法を)受け、わたしたちに伝えてくれた…けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け…アロンに…『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください』」(38-40)と願いました。42-43節はアモス書5:25-27の引用ですが、ステファノは、先祖たちの律法違反と偶像礼拝がバビロン捕囚を引き起こしたと、見ています。同時に、「証しの幕屋」(44)があったことを指摘します。しかし、説教は、ソロモンの神殿奉献演説の一部(列王記上8:20-27参照)を引用し、「いと高き方は人の手に造ったようなものにはお住みになりません」(48)と、語ります。そして、イザヤ書66章1-2節を引用します(49-50)。私は、「わたし〔神〕の憩う場所はどこにあるのか」(49)ということと、引用されたイザヤ書の続きを、想います。「主は言われる わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(66:2)。説教の結び(51-53)も、他者への批判というだけでなく、自分事として語り聞いているように想います。ステファノ(使徒たち)の説教は、神の約束・恵みに共に預かるには、どうすれば…という地平に立とうとしているように想います。変わることがあったとしても――割礼による(8)が、心と耳に割礼を(51)に変化――、ルカ文書(使徒言行録)、キリスト教は、信仰者の生き方を〔共に}求め、立とうとしているのではないでしょうか。