説教:加藤 久幸 牧師
使徒言行録17:1-15
今日は、前半(1-9)でテサロニケ、後半(10-15)でベレアでの、パウロたちの宣教に触れます。テサロニケでは「三回の安息日にわたって 聖書を引用して論じ合い」(2)、ベレアでは「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(11)と、あります。どちらの町でも、信じる者もいれば、信じない者もいます。結果として、テサロニケでは、「騒乱」が起こり、「群衆と町の当局者たちは動揺し…当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取った上で 彼らを釈放し」ます(8-9)。その「騒乱」を起こした者が、「ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせ」ました(13)。私は、どうして聖書を土台にして論じ合うことにならないのだろうかと、想います。主張や立場が先にあって、聖書の内容に照らした協議にならない現実があります…。今日の二つの町でもパウロたちは「退く」ことになりますが、使徒言行録を続けて読み、パウロたちの宣教は、議論をし論破することではなく、福音を宣べ伝えることに最終的な意味があったのだと思います。どの町にも信じる者が起こされるというのは、聖書の言葉に誠実に向き合うのなら、パウロたちの宣教が聖書に根ざしたものであろうことを、示唆しているように想います。私たちも、聖書を土台とし、主に倣う者(Ⅰテサロニケ1:6)でありたいものです。

