説教:最上 光宏 牧師
ヨハネによる福音1:19-28
主イエスが神の子としての公の活動を始める直前、バプテスマのヨハネが荒野で悔い改めの説教とバプテスマを施していました。来るべきメシアを迎えるための道備えでした。救い主を迎え入れるためには、心の備えをする必要があったのです。このヨハネのもとに、エルサレムの議会から祭司たちが遣わされて来て、「お前はだれか」と問われたのです。ヨハネの答えは「わたしはメシアではない」というものでした。「ではエリヤか」、「あの(モーセのような)預言者か」、矢継ぎ早の問いにヨハネはその都度はっきりと「違う」と返事をしました。これが「ヨハネの証し」でした。「わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」。ヨハネは自らを否定することによって、来るべきメシアの偉大さを証したのです。これは、パウロが自らを「土の器」と呼ぶことによって、その中に収められた信仰という「宝」の尊さ、力強さを強調した(Ⅱコリント4:7-)のに似ています。「それでは、お前は自分を何というか」とのさらなる尋問に、ヨハネは「わたしは荒れ野で呼ばわる声」と答えました。声は虚しく消えていく存在です。けれども叫ばれた言葉の真実は残るのです。「主の道をまっすぐにせよ」。アドベントの今こそ、私たちはこの荒野で呼ばわったヨハネの言葉をしっかりと受け止め、主を迎える心の備えをしましょう。