毎週の説教メッセージ

off 神に栄光、地に平和

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クリスマス説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:8-20

 クリスマスの出来事は、「すべての人に与えられる大きな喜び」の出来事です。この大きな喜びの知らせが、最初に貧しい羊飼いたちに伝えられたということは、大変意義深いことです。彼らは、昼も夜も羊の群れの中で、羊と共に野原で野宿するような生活をしていましたから、町には住めず、人々から疎外され見放されていた人々でした。こういう貧しく寂しい人々にまず、この大きな喜びの知らせがもたらされたということは、このクリスマスの意義を最もよく伝えていることではないかと思います。クリスマスは、すべての人々のための大きな喜びの出来事ですが、中でも、貧しい人々、悲しんでいる人々、寂しい人々にとって大きな慰めと喜びの出来事なのです。

 この羊飼いたちが、羊の群れの番をして、野宿しているときに、「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」とあります。

 大変幻想的なメルヘンの世界を描いているように見えますが、このような描写で、ルカによる福音書の記者は、あの闇の支配する混沌の世界に「光あれ」と語って、光を生じさせた創造主なる神の臨在を示しているではないかと思います。天地を造られた神は、今も生きて働いておられ、虐げられ、闇の中で寒さに震えている人々を、決してお見捨てにならないということです。天地を造られた神は、今も闇のなかで労苦する人々に、ご自身の栄光の光を当てて、闇に包まれた舞台裏から、歴史の表舞台へと登場させ、キリスト降誕の最初の目撃者・証人・告知者として選びお用いになられたのです。

 私たちは神の選びの不思議さを思わないわけにはまいりません。パウロが語るように「神は無学な者、世の無力な者、身分の低い者、見下げられている者をあえて選ばれるのです」(コリント一1:27-28)。

 さて、その羊飼いたちは、まばゆいばかりの神の栄光の光の中で、主のみ使いたちの不思議な声を耳にするのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。ここで、民全体に与えられる大きな喜び知らせが、「恐れるな」という言葉で語られていることに、まず注目をしたいと思います。これは、羊飼いが神の栄光の輝きに「非常に恐れた」からに他なりませんが、この「恐れるな」というみ使いの言葉は、ここだけではなく、降誕物語の中に、4回も語られています。

 まず、ルカによる福音書の1章13節を見ると、主イエスの道備えとして生まれたバプテスマのヨハネの誕生に際して、父親となる祭司ザカリアに対して「恐れるな」という言葉で、妻エリサベトに男の子が生まれると告げられています。また同じルカ福音書の1章30節によると「マリア、恐れることはない」といって「あなたは身ごもって男の子を産む」という受胎の告知を受けています。さらに、マタイ福音書1章20節によると、許婚(いいなづけ)ヨセフがマリアが身重になったことに悩み密かに離縁しようと思っていたときに、夢の中に天使が現れ、「恐れるな、マリアを妻として迎え入れよ」と告げます。

 クリスマスの物語には、このようにどの場面にも、天のみ使いが現れ、「恐れるな」という言葉で、神のご計画が告げられているのです。このことは、クリスマスの出来事そのものが、尋常な出来事ではなく、驚きと恐れを伴った出来事であったということです。ザカリアも恐れ、マリアも恐れ、ヨセフも恐れ、そして羊飼いも「非常に恐れた」のです。

 しかし、この恐れは単なる恐怖による恐れではありません。人間の常識を超えた、神のみ業に対する驚きであり、神の栄光が現れたことに対する恐れなのです。私たち闇の中にある人間には、神の栄光の輝きは、まぶしくて耐えられないのです。クリスマスの出来事は、このような、神の栄光が地に現れたという恐れを伴った喜びの出来事なのです。

 そういう意味で、クリスマスはただ単に「嬉しい楽しいクリスマス」と喜び祝うだけでは、十分ではないのです。神さまのなさった大きなみ業に対する恐れ(畏敬の思い)が伴った喜びの出来事であり、そのような恐れをもって喜び祝うことが必要なのです。

 ある神学者の言葉に「恐れのないクリスマスの祝いは、それと並んで、クリスマス的ではないこの世的恐れに包まれているのではないか」と言っています(K.バルト)。クリスマスを祝う私たちの中に、そのようなほんとうの恐れがあるでしょうか。

 確かに私たちの現実の生活は、多くの恐れに覆われています。政治の世界はまさに危機的です。過去の戦争の過った道を逆走しているような恐れを感じます。また原発による放射能汚染はますます深刻の度合いを深めているように思います。また個人的には病や死に対する恐れや不安があります。老いと老後の生活に対する不安があります。また人間関係の中での人への恐れや気遣い等もあります。けれども、クリスマスの恐れは、それらの私たちの恐れとはまったく違うものであり、逆に、私たちの日頃のすべての恐れを吹き払うような、聖なる恐れなのです。それがマリアやヨセフ、羊飼いたちの恐れた恐れです。そういう彼らに、み使いは「恐れるな」と語りかけ、かれらの恐れは大きな喜びへと変えられていったのです。

 「恐れるな」という言葉で語りかけられたみ使いの言葉は、「すべての民に与えられる大きな喜びの知らせでした。その内容は11節にありますように、「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」というものでした。

 「今日」、「あなたのために」とあります。ここにクリスマスの喜びの大きさと深さがあるのです。クリスマスの出来事は遠い昔の出来事ではなく、また時間を超越したメルヘンの世界の空想的な出来事でもなく、今日、ここで、この私のために与えられた喜びの出来事だということです。救い主・キリストは、確かにこの世のすべての人の救いのために、この世に来て下さいましたが、それは私たち一人一人のためのものであり、私たち一人一人が、その恵みを<今日、この私のためのもの>として受け入れ、その恵みにあずかるためなのです。

 救い主である御子が、貧しく汚れた「飼い葉桶」の中に宿られたように、主は私たちの貧しさ弱さ、穢れの中に宿りたもうのです。そして主はその闇に覆われた貧しさと穢れと破れのただ中で、光を放たれるのです。

(先ほど礼拝の始まる直前に、こどもたちがりんごをくりぬいた中に光を灯した飾りをもって入場しました。私はそれを見てはっとしました。私たちも、傲慢な自分の心を打ち砕いて、心を空にして中にイエス・キリストの光を受け入れ、その光を灯し続けなればならないのだと思はされたのです。)

 み使いたちが語られた時、天の軍勢が加わって、神への讃美がなされたと記されています。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、み心に適う人にあれ」と。

 「神に栄光があるように」。これは、自分の栄光を求めず、人を恐れたり、権力者におもねたりするのではなく、イエス・キリストの父なる神のみを神として崇めるということです。そのことは、必然的に、この世に神の御心である「平和」を造り出すことでもあるのですす。今、世界は対立と緊張を深めています。日本国は平和憲法までも変えて、いつでも戦争が出来る国にしようとしています。

 神がひとり子イエス・キリストをお与え下さったのは、私たちが互いに愛し合い赦し合い、「地上に平和を」来たらせるためでした。神の栄光はそのことによって保たれるのです。

 み使いと天の軍勢が「神に栄光、地に平和」と神を賛美する中、羊飼いたちは、ベツレヘムへと急ぎ、飼い葉桶に寝かされた御子イエス・キリストを探り当て、喜びに満たされて心から神を賛美しつつ、この主イエス・キリストのことを多くの人々に宣べ伝えたのです。

 私たちもこの世を救うために貧しくなられてこの世に来られた主イエス・キリストを心の深みにお迎えして、神の栄光のために、そして地上に平和を造り出すために、共に祈り励みたいと願います。

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