毎週の説教メッセージ

off 新しい酒は、新しい革袋に

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:33-39

イエスさまは、徴税人や「罪人」と呼ばれてさげすまれている人たちと、よく食事を共にされました。疎外されていた人たちの友となられて、彼らに新しい命と力を与えるためでした。それは、断食を重んじる当時の人々の目に、奇異な印象を与えたようです。主イエスはそれに答えて、今は花婿が一緒に居る婚礼の時であり、喜びの時だ、と言われました。これは、キリストの到来によってすでに神の国が始まっていることを意味する言葉です。イエス・キリストによってもたらされた神の国の福音は、これまでの古い習慣や生き方を打ち破り、すべての人と喜びを分かち合う、新しい解放された生き方へと私たちを導くのです。 今は、古い服を脱ぎ捨てて新しい服を着るべき時なのです。だれも、新しい服から布切れを切り取って古い服につぎ当てしないように、信仰は、旧態依然とした古い習慣や生き方をそのままにして、福音の一部を貼り付けるようなものではなく、新しく生まれ変わることなのです。また、古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなことでもないのです。新しいぶどう酒は、発酵によって古い革袋を破るように、福音は古い体質を内側から破る力を秘めています。悔い改めて、「新しい酒を新しい革袋に」注ぎ入れ、新たな命と力に満たされて新年度の歩みを励みましょう。

off あの方は復活なさった

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書24:1-12

主イエスの復活を最初に宣べ伝えたのは、使徒たちではなく、マグダラのマリアたち数名の婦人たちでした。主イエスの十字架の死を最後まで見届け、遺体の埋葬にまで立ち会った彼女たちは、安息日の明けるのを待って、日曜日の朝早く香油を携えて主の墓を訪ねたのです。そこで彼女たちは驚くべき光景を目撃しました。墓は空で、天使から「なぜ生きている方を死者の中に捜すのか。あの方はここはおられない。復活されたのだ」と聞かされたのです。彼女たちの深い悲しみは大きな喜びに変えられ、墓を後にして弟子たちと他の皆に「主は甦られました」と伝えたのです。しかし使徒たちはそれを「たわ言のように思い、信じなかった」のです。この使徒たちの不信仰は、どこからきているのでしょうか。一つの理由は、自分たちの保身のために、主イエスの苦難と死から遠ざかったことです。第二の理由は、復活の証言が「女」たちによって伝えられたことです。彼らは当時の男尊女卑の風習から自由になれなかったようです。第三に考えられることは、マグダラのマリアの過去に対するこだわりです。彼らは自分の罪を棚に上げて、七つの悪霊に取りつかれ「罪の女」と呼ばれていた彼女の過去にこだわっていたのです。彼らのずるさと偏見と心の狭さは、私たちの弱さと罪なのです。

off キリストの死によって

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説教:最上 光宏 牧師

ローマの信徒への手紙5:6-11

イエス・キリストの十字架の死は、死刑執行人の百人隊長はじめ、多くの群衆に深い感銘を与えました。しかしその死の真の意味が明らかになったのは、3日後の復活を通してでした。パウロは、ここで「キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信人な者のために死んでくださった」と述べています。この「弱く」「不信人」であったという言葉は、「罪人であったとき」、「敵であったとき」という言葉に言い換えられていますが、ここにパウロ自身の苦い体験が込められています。彼はかつて自らの弱さに絶望し、「なんと惨めな人間なのだろう」と自らの不信人に嘆いていました。律法を学べば学ぶほど自らが罪人であることを知らされ、キリスト教徒を迫害することによって、神の義を得ようとしたのです。迫害のさ中、ダマスコ門外で復活のキリストと出会い、見えなくなった目が開かれた時、彼は知らずに神に敵対していた自分自身に気づかされ、キリストの十字架は、そのような自分の罪を贖うための犠牲の死であり、それによって神の赦しと和解が与えられたことを悟ったのです。彼はキリストの十字架の死を通して、神の愛を知り、迫害者から伝道者に生まれ変わったのです。苦難の中で「神を誇りとして」生きるパウロの生き方に私たちも与りたいものです。

off 十字架の誘惑

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書23:25-29

ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立てられました。主イエスを真ん中にして、両はじに二人の犯罪人が磔にされたのです。これは、主イエスがイザヤ書53章の苦難の僕の預言どおりに、「罪人の一人に数えられた」ことを意味します。十字架上のイエスに対して「メシアなら自分自身を救え」という罵りの言葉が、イエスを磔にした兵士たちや議員たちから浴びせかけられました。これはかつて荒れ野で悪魔の誘惑を受けた時のように、神の子としての権威と力を自分の救いのために利用して、安易な生き方へといざなうものでした。主イエスは、ここでも悪魔の誘惑を退け、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。主イエスは、十字架の苦しみを最後まで担うことによって、悪魔の虜になっている人々の罪を負い、執り成しの祈りをされたのです。犯罪人の一人は、それとは知らずに「自分自身と我々を救ってみよ」と悪態をつき、もう一人の犯罪人はそれをたしなめて「我々は自分のやったことの報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない」と語り、「み国でわたしを思い出してください」と祈ったのです。主イエスの執り成しの祈りに、心打たれ悔い改めてすべてを主のみ手に委ねたのです。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。主にある死は新しい命の始まりなのです。

off あなたの罪は赦された

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:17-26

 中風で寝たきりの病人が、床ごと友人たちに運ばれて主イエスのもとにやって来ました。主イエスの居られた家は、多くの人で入る余地が無かったために、友人たちは病人を屋根まで担ぎ上げて、瓦をはがして、病人を主イエスの前に釣り降ろしたのです。これは明らかに非常識で乱暴なやり方でした。もしも礼拝の最中にそのようなことが起こったらどうでしょうか。当然のように非難の声が上がったことであろう。住居破損、不法侵入で訴えられても仕方のないような暴挙です。しかし主イエスは、その友人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と言われたのです。救いを求めて集まってきていた人々も、それなりの信仰をもって主を取り囲んでいたに違いありません。しかし彼らの内、誰一人として、この病人のために場所を譲ろうとはしなかったのです。「人間の壁」は、屋根の瓦よりも固く冷たかったのです。友人たちは、そのような障害にもめげずに、一人の病む友を主イエスに引き合わせるために必死になって、力を合わせたのです。主イエスは、その彼らの「信仰」を見たのです。信仰は、ただ自分の心の満足にとどまるものではありません。主の恵みと愛に応えて、助けを必要としている隣人のために仕える行動、生き方を伴うのです。この友人たちの「信仰」の故に、この病人は罪を赦され、肉体の拘束からも解放されたのです。

off お言葉ですから

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:1-11

 努力の結果がすべて報われるとは限りません。むしろ苦労が徒労に終わることが多いのです。ガリラヤ湖の漁師であったシモンは、一晩中網を打ち続けて、一匹の魚も獲れなかったという挫折を経験しました。明け方、虚しく網を洗っていると、イエスが陸に引き上げていたシモンの舟に乗り込み、岸から少し漕ぎ出すように頼まれました。疲れ果て落ち込んでいたシモンにとって全く迷惑なことでしたが、前に姑が熱病を癒して頂いたという借りもあり(4:39)、しぶしぶ舟を漕ぎ出したのです。イエスは舟の中から岸辺の群衆にみ言葉を語られ、シモンは聞く気もなしに、一番近くで主のみ言葉を聴かされる結果になったのです。そしてこのことが、彼の人生を大きく変えるきっかけになったのです。 「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」話し終えられたイエスは、シモンにそう命じられました。「先生、わたしは夜通し苦労しましたが、何も…」彼はそのように言いかけながら、「しかしお言葉ですから…」と、み言葉に従ったのです。主のみ言葉に癒され、み言葉の力に信頼したからです。そして主の言われた通りにしてみると、おびただしい魚の群れが網にかかり、彼は圧倒されて主の前にひれ伏すのです。シモンはこのようにして、主に従い「人間をとる漁師」(伝道者)となったのです。み言葉は力です。

off 神の子羊

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説教:森 淑子 牧師 (狭山教会)
ヨハネによる福音書1:29-34

洗礼者ヨハネは三回自分を否定して、自分を「声」と紹介することによって、イエスをことば(ロゴス)なる方として紹介している。声は「ことば」を持ち運ぶ道具に過ぎない。声の中に盛られている内容こそが「ことば」である。ヨハネが語ることはイエス・キリストであり、その方が表わされることを願っている。そのイエスは世の罪を取り除く神の小羊である。イザヤ書53章に描かれている羊とか、祭壇で屠られる羊を指しているのであろう。

わたしは信徒の身分のまま開拓伝道を始めたので、御言葉を語ることに畏れを感じ長い間悩んだ。ある時、私は洗礼者ヨハネがイエス・キリストを指し示すことに徹していることに感銘を覚え、ヨハネのように、イエス・キリストを証することに徹しようと決心した。ヨハネによる福音書1章には、「見る」という言葉が繰り返されている。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」、見るのは自分の罪や他人の罪ではなく、その罪を取り除く神の小羊である。信仰には、この「見る」ことが大切である。イエスは「来てみなさい」と言ってくださる。

「信仰の導き手であり、また、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか」(ヘブライ人への手紙12:1~2)

off 言葉の力

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説教:最上 光宏 牧師
ルカによる福音書4:31-37

主イエスの言葉には、権威と力がありました。郷里のナザレの村の人々は、その権威に驚きながらも、イエスを村から追い出し崖から突き落とそうとしました。

「ヨセフの子、大工の子ではないか」という既成の知識、固定した観念が、主イエスの言葉を謙虚に聴く姿勢を拒んだのです。主イエスはやむなく、カファルナウムの町に移って、同じように会堂で教えられました。この町の人たちは、その教えに非常に驚き、多くの人が福音の恵みにあずかることができました。主イエスの言葉の権威と力を素直に受け入れ、それに従ったからです。主イエスは、会堂で突然叫びだした男から「汚れた霊」を追い出し、高熱で苦しんでいたシモンの姑から熱を追い去らせ、癒されました。いずれもみ言葉の権威と力によるみ業でした。しかし、主イエスの権威は、「上から目線」の威圧するような「権威主義」とは違います。また調子のよい口先だけの言葉とも無縁です。「一人一人に手を置いて癒された」(40)とあるように、あくまでも相手の立場に立ち、その人の痛みや苦しみを自ら担うことによって相手に癒しと平安を与えたのです。

偽りの口先だけの言葉が飛び交い、心無い言葉で傷つけあう時代の中で、私たちは愛と真実に満ちた「力ある言葉」をもって、互いに仕え合いたいものです。

off 神の言葉の実現

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書4:14-30

 主イエスは、郷里のナザレの会堂で、示されるままにイザヤ書の巻物の一部を読み、「この聖書の言葉は、今日、実現した」と語られました。その聖書の言葉は「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた…捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を…」というイザヤ書61:1-2のみ言葉でした。主イエスはこの言葉で、自分は、すべての人に神の国の福音を伝えるために遣わされて来たことを宣言されたのです。主は、貧しい人、虐げられ圧迫されている人、病気や障害で苦しんでいる人々をその苦難から解放するためにこの世に来られたメシア(油注がれた者)なのです。ナザレの村の人々はイエスの言葉に驚嘆しつつも、「ヨセフの子ではないか」とつぶやき、郷里のためにその力を発揮すべきことを要求したのです。しかし、主イエスがエリヤやエリシャが、貧しい外国のやもめや、外国の重い皮膚病の将軍に遣わされた例をあげると、たちまち態度を硬化させてイエスを追い出し崖から突き落とそうと図ったというのです。彼らは郷土愛から、自分たちの村の利益だけを考え、異邦人の救いなどは赦せないと憤ったのです。偏狭な愛国心は、人を味方と敵に分け、敵に憎しみを向ける結果になります。しかし神の国は、敵も味方もなく、キリストによって一つにされた交わりなのです。

off 悪魔の誘惑

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書4:1-13

 人はだれでも、一つの目標に向って前に進もうとする時、それに逆らって、足を引っ張るマイナスの力を体験します。イエスさまが洗礼を受け「神の子」としての自覚をもって、新たな一歩を踏み出そうとした時にも、荒野で同じような体験をされたのです。「神の子なら、石をパンにしたらどうか」。これは「神の子」としての立場と力を自分の空腹を満たすために用いる安易な生き方への誘惑でした。「人はパンだけで生きるものではない」。イエスは聖書の言葉でその誘惑を退けました。第二の誘惑は、「世界の国々の権力と繁栄を与えよう」というものでした。それは悪魔に屈服する道でした。「ただ主に仕えよ」。イエスはやはりみ言葉によってそれを拒否しました。第三の誘惑は、「エルサレムの神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」というものでした。「神の子なら天使が支える」と云うのです。これは人々をあっと驚かせて、苦も無く人々の心を捉える方法でした。「主を試してはならない」。主イエスはこの試みをも神の言葉によって退け、勝利されたのです。主イエスは、私たちが日々遭遇する試みを私たちに代わって受けられ、それに勝利することによって、十字架への道を選ばれたのです。私たちも試みの中で、ただ主に仕えたいものです。