毎週の説教メッセージ

off 主に信頼して歩む

tokorozawa-mikuni to 未分類  

 説教:小倉 和三郎 教師

フィリピの信徒への手紙4:1-7

 使徒パウロは、自分が設立に関わったフィリピの教会へ送った手紙の中で、エポディアとシンティケと言う名の二人の女性会員の間で起こった問題に触れ、その二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています(4:2)。現在の教会の中でも、熱心に奉仕する自分が信仰に基づいて純真な思いで尽くしていると自負しているのに、自分をよく理解しない人に気づくと、自分の信仰と奉仕を否定されたように感じて、その人と対立しやすいものです。 パウロはその事情をよく知っていて、当事者の二人に、キリストの前で自分を見つめ直し祈るよう導いています。これは非常に大切なことで、何よりも重要なことです。パウロはさらに“真実の協力者”に、問題の解決のため二人を支ええるようお願いしています。(4:3)。真実の協力者とは、現在の教会では長老(執事、役員とも呼ばれる)に当たります。ここでは長老の最も大切な務めは、教会の信者たちの教会内外の信仰生活のために祈り、配慮して、皆が共にキリストに信頼して従うことによって一致して前進するよう執り成して支えることです。教会員もこの長老の働きのため祈り支える務めがあります。

off 聖霊によるバトンタッチ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書3:15-22

 救い主(メシア)の到来は、旧約の時代から預言者たちによって預言され、イスラエルの民が心から待望していたことでした。洗礼者ヨハネは、旧約時代最後の預言者として、救い主に対する道備えの役割を担っていましたが、民衆から「彼がメシアではないか」と期待されたのです。彼はそれを強く否定して「わたしは水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火によって授ける」と語ったのです。自分の洗礼は、罪を水で洗い流すものでしかないが、救い主は、人間の罪を贖い、聖霊によって人を新しく造り変えるものであると証言したのです。そのヨハネのもとに主イエスが来られて、進んで洗礼を受けられたのです。罪のない神の子である主イエスが、なぜヨハネの洗礼を受ける必要があったのでしょうか。考えられる理由の一つは、まったき人となられた救い主イエスが、罪ある人間に連帯され、私たちと同じ立場に立たれたということです。もう一つの理由は、旧約以来の預言者たちが担ってきた神の約束を、イエス・キリストが受け継ぎ、それを実現されたということです。長い間受け継がれてきたリレーのバトンが、ヨハネから最終ランナー・イエスに受け継がれたのです。その時、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り「あなたはわたしの子」との声が響いたのです。いよいよ新しい時代が始まったのです。信仰はのちのちまで継承されるべきものです。

off 主の道を備えよ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書3:1-14

 主イエスの地上での働きの直前、洗礼者ヨハネが荒れ野で、悔い改めの説教をし、罪の赦しを得させるためのバプテスマを施していました。罪の赦しは、主イエス・キリストの贖いの恵みによってもたらされるものです。ヨハネの働きは、主イエスの働きに対する「道備え」の意味をもっていました。ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とのイザヤの預言(40:1)の成就であったのです。「悔い改め」とは、単なる反省や口先だけの謝罪ではありません。向かうべき方向を転換することであり、生き方を変えることです。ですから安易な救いを求めて来た人や、赦されることを当然のように思っていた人たちに、彼は激しい語調で神の怒りを語ったのです。「では、わたしたちはどうすればよいのか」との質問に、ヨハネは「下着を2枚持っている者は、1枚を持っていない者に分け与えてやれ、食べ物も同じようにせよ」と命じたのです。徴税人には「規定以上のものを取り立てるな」と言い、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」と命じ、権力を傘に私腹を肥やしたり、職権を乱用して他人を傷つけることを戒めたのです。このような悔い改めこそが、「主の道を備える」ことなのです。私たちも日々悔い改めつつ、心の深みに主を迎え入れ、「荒野で呼ばわる声」としての務めを果たしていきたいものです。

off 少年イエス

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:39-52

 聖書は、主イエスの少年期や青年期のことについて、ほとんど触れていません。このルカによる福音書の記事は、12歳の時の主イエスについて記した唯一の箇所です。ガリラヤのナザレの村で成長された少年イエスが、両親と共に過越祭にエルサレムに上った時のことです。祭りの期間が終わって帰路につき、一日路を下った所で、両親は道連れの中にイエスがいないことに気が付いたのです。必死で探しながらエルサレムに戻り3日後に神殿の境内で、律法の学者たちの真ん中に座り、熱心に学び論じ合っているイエスの姿を見つけたのです。母マリアが驚いて、「なぜこんなことをしてくれたのです。どんなに心配して捜したことか…」と小言を言ったのは当然のことです。ところがイエスの答えは意外なものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。なんという生意気な口の利き方でしょう。しかしそれは単なる反抗期のせいではありません。神の子としての自覚に目覚め、自分は常に神と共に居るではないか、と諭したのです。子は親の所有物ではありません。自立して親元を離れる時があるのです。神の子イエスを自分たちのもののように思い込み捜し回っていた両親の方が「迷子」になっていたのです。神の子イエスを見失うことなく、主と共に神の家に宿る一年でありたいと願います。

off 幼子を胸に

tokorozawa-mikuni to 未分類  

 説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:21-38

 クリスマスの喜びは、子供たちや若者たちの喜びであるだけではなく、老人にとっても大きな喜びの出来事です。母マリアとヨセフが、乳飲み子イエスを主に献げるためにエルサレムを訪れたとき、多くの人で賑わう神殿の境内で、老シメオンと84歳の女預言者アンナは、マリアの胸に抱かれた乳飲み子を救い主と認め大喜びをしたのです。彼らは、長い間救い主を待ち望み、神殿から離れずに祈り続けていたのです。それだけに彼らの喜びは大きかったのです。シメオンは幼子を自分の腕に抱き、「主よ、今こそ…この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と高らかに主を賛美しました。喜びのあまり、今死んでも悔いはないという心境です。死は誰にとっても不安なものであり、この世への未練は断ち切り難いものです。彼は救い主と出会ったことにより、死は終わりではなく新しい命の始まりであると、聖霊の示しを受けたのです。また救い主の到来は、単に自分個人の救いであるだけではなく、「万民のため」のものであり、すべての民に与えられる光であると歌い上げているのです。アンナもまた、主を賛美しつつ、エルサレムの皆に幼子のことを伝えたのです。幼子を胸に、私たちも喜びと希望をもって新しい年の歩みを始めたいものです。

off クリスマスの喜び

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書1:39-56

 クリスマスの喜びは、単なる日常的な喜びではありません。羊飼いたちに告げられた天使の言葉は「恐れるな」という言葉で始まっています。闇の夜に天からの光が差し込んだように、天が開かれて、神の御心がこの地上の歴史の中に実現したのです。その出来事は「すべての民に与えられる大きな喜び」です、「今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった」というのです。旧約の時代から救い主(メシア)を待望してきたイスラエルの民にとって、それはどんなに大きな喜びであったか分かりません。しかし当時のユダヤの社会から疎外され、差別されていた貧しい羊飼いたちにとって、救い主は、自分たちとは直接関係がない方のように思われていたかも知れません。 神は、そのような貧しい羊飼いたちを選んで、この喜びの知らせを告げたのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。救い主の「しるし」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると聞かされた羊飼いたちは、この方こそ自分たちのために来られたまことの救い主と信じ、急いで駆けつけたのです。飼い葉桶の貧しさを通して、彼らは自分たちの友として来られた救い主と出会い、神をあがめ、賛美しながら野宿の場へと帰ったのです。主は私たちを見放すことなく、常に共にいてくださるとの喜びと希望に満たされて。飼い葉桶に宿られた主は、あなたの内にも宿っておられます。

off マリアの賛歌

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師
ルカによる福音書1:39-56
受胎告知を受けたマリアは、直ちに親戚のエリサベトを訪ねました。み使いに「お言葉どおりこの身になりますように」と答えたものの、恐れと不安で心が一杯だったからです。一方エリサベトも高齢の身で妊娠6ヶ月を迎え、やはり恐れと不安に満たされ家に引きこもっていました。イエスの母となる乙女と洗礼者ヨハネの母となる老女の不思議な出会いです。二人は年齢も身分も立場も全く違いますが、共に神から選ばれ、神に仕える者とされている点で共通していました。また大きな希望と共に、恐れと不安を共有していました。それだけに二人は、共に手を取り合って喜び、祝福し合ったのです。バルトは「そこに教会が存在する」と述べています。それぞれ立場の異なる者が、神の言葉による希望によって一つとされているからです。マリアはこの主にある出会いと励ましによって、大きな喜びに満たされて、高らかに神を賛美したのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます…」と。この「あがめる」という言葉はギリシャ語で「大きくする」という意味です。いと小さき「主のはしため」にも目を留め、大きなみ業をなしてくださった神は、「この世の身分の低い者を高く上げ」、「権力ある者をその座から引き下ろされる」からです。共に身を低くして、神をあがめましょう。

off 時が満ちて

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師
ガラテヤの信徒への手紙4:1-7

イエス・キリストの降誕に関する記事は、ルカとマタイによる福音書に詳しく記されていますが、パウロの手紙にはほとんど触れられていません。ガラテヤの信徒への手紙4章4節は唯一の例外と言えます。そこには「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と記されています。「時が満ち」とは、降誕は神のご計画による、神ご自身の決意による出来事であることを意味します。「その御子を女から」とは、神と等しい御子を、人の子としてこの世に遣わしたという意味です。また「律法の下に」とは、イエスは、ユダヤ人としてこの世に生を受け、この世の苦難を担われたことを意味します。神はこのように、私たちのために、御子をこの世にお遣わしになったのです。

この4節の言葉を軸にして、その前半(1節-3節)と後半(5節-7節)の内容が闇から光へと大きく転換しています。前半は律法に縛られ、「世を支配する諸霊」に奴隷のように支配されている未熟な人間の姿です。後半は律法やこの世の悪しき霊力から解放されて、神の子として自由に「アッバ父よ」と祈る成熟した人間の姿です。御子の降誕は、この世の悪しき力に支配され拘束されている私たちを解放し、私たちを自由な、神の国の「相続人」とするためであったなのです。主よ来たりませ!

off 十字架の誇り

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師
ガラテヤの信徒への手紙 6:11-18

ユダヤ人にとって「割礼」は、神に選ばれた民としての印であり、民族としての誇りでもありました。ガラテヤの教会を攪乱したユダヤ人キリスト者たちは、その誇りのあまり、あたかも割礼が、救いの必要条件であるかの如く説き、他の教会員にも強要したのです。パウロは、彼らのことを「肉において人からよく思われたがっている者たち」と呼び、「キリストの十字架の故に迫害されたくないばかりに、無理やり割礼を受けさせようとしている」と批判し、キリスト者の誇りは何か、と問うているのです。パウロも、かつてはユダヤ人としての誇りをもって生きていました。誰よりも熱心に律法を学び、その誇りの故にキリスト教徒を迫害さえしました。しかし復活のキリストとの出会いにより、一切の誇りを糞土のように投げ捨てて、ひたすらキリストの十字架の福音を宣べ伝える者になったのです。キリストの十字架による救いの恵みの「あまりの素晴らしさ」の故です(フィリピ3;8)。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。これはパウロの不退転の決意の表明です。彼はユダヤ人にもギリシャ人にも、ただ十字架の福音を語り、そのために受けた迫害の傷跡を「イエスの焼き印を身に受けている」と語るのです。あなたは何を誇りとしますか。

off 主がお入り用なのです (収穫感謝)

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師
マルコによる福音書11:1-10
今年も多くの収穫を与えられました。神様に感謝しましょう。これらの果物や野菜は、農家の方たちが苦労してお世話してくれたものですが、育ててくださったのは神様です。神さまは植物だけではなく、動物も人間も育ててくれます。
イエス様はエルサレムに入城するに当たって、なぜか、まだ誰も乗ったことのない小さなロバの子を引いて来させました。「主がお入用なのです」と。イエス様はそのロバの子にまたがって、エルサレムに向かわれました。未熟な小さなロバの子にとって、初めて人を乗せてエルサレムまでの坂道を上ることは、とてもきついことであったにちがいありません。歯を食いしばってよろめきながら歩いたと思います。しかし、イエス様をお乗せした子ロバはとても幸せでした。今まで、弱く小さく、だれからも顧みられなかった子ロバは、イエス様のお役に立てた! と思うだけで、うれしく幸せでした。「ホサナ、主の名によって来られ方に、祝福があるように」と、人々の叫ぶ喜びの声に、小さなロバの子は、「イエス様のお役に立ててほんとうによかった!」と、心から思ったことでしょう。このようにしてこの子ロバは、大きな自信を与えられて、神と人とに仕える立派なロバとして成長したのではないでしょうか。柔和な「平和の王」として来られた主は、小さく弱い私たちを愛し、用い、育ててくだるのです。