毎週の説教メッセージ

off 前に向かって歩む

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説教:酒井 薫 牧師

フィリピの信徒への手紙3:12-16

使徒パウロは「前に向かって走れ」「目標目指してひたすら走れ」と私たちに訴えます。私たちはどこに向かって進んで行き、何を目標として歩んだらよいのでしょうか。結論を先に言うならば「行き先と目標は主に召されるその日その時を目指して、神のみ国に向かって」という事でしょう。生きている者たちは、いつか必ず主に召される時が来ます。 その前に解決しておきたい御言葉があります。それは「後ろのものを忘れ」という言葉です。人生の過去の時間の中には忘れてしまいたいことや、失敗や悲しみの出来事など沢山ありますが、それらの事柄は人生の積み重ねで、その経験が人を成長させるのです。さらに、その経験を生かして、次こそは、次の次は、、と上に向かって成長するのです。 主に召される日がいつか分からないならば、いつ召されてもよい目標を定めなければいけません。どれほど主を証することが出来るか、どれほど主の御心を行い成し遂げることが出来るのか、が目標になるのだと考えられます。しかし、その結論は神のみぞ知る、のです。だからこそ、人は16節にあるように「わたしたちは到達したところに基づいて進む」のです。人と比べるのではなくて、私は今この到達点です。だから上を見て、主にいただけるかもしれない賞を目指して生きて行きます、と言ってすすむのです。

off お互いの重荷を担いなさい

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説教:最上 光宏 牧師
「」 ガラテヤの信徒への手紙6:1-10

ガラテヤの信徒への手紙は、信仰による救いを強調した文書です。これは、当時の教会の中に、律法の行いや割礼の儀式を救いの条件として主張するユダヤ主義の人たちが多くいたためです。M.ルターは、本書やローマ書を基に、「信仰のみ」を強調しましたが、それは決して、私たちの行為や生きかたはどうでもよいということではありません。救いはただイエス・キリストによる神の恵みによって与えられるものであって、私たちの善行によって獲得されるようなものではありません。しかし、神の恵みによって救われ、自由にされた者は、その自由な喜びの中で、自ら進んで他者に仕え、他者の重荷を喜んで担うように促されるのです。ルターが言うように「キリスト者は、何ものにも支配されない自由な君主でありつつ、すべての者に仕え奉仕する自由な僕である」のです。パウロは、キリストから与えられた自由を、肉の働く機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧め、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(5:13-14)と述べています。私たちはどうしたら、自分を愛するほどの自由さをもって、自然に積極的に他者に仕え、奉仕することができるのでしょうか。み言葉に照らして日々「自分を吟味し」(6:4)つつ、十字架の主の恵みに応えて、「互いの重荷を担う」(6:2)者でありたいと願います。

 

off 神はわが住まい (召天者記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師
詩編90:1-12

愛する者との死別は、誰にとってもつらく悲しいものです。自分自身の死については、直視することも出来ません。ギリシャ神話の中にメデューサという恐ろしい怪物が出てきます。その目を見た者は、すべて石にされてしまうというのです。死はそのような魔力をもっています。この怪物を倒した英雄は、自分の盾に怪物を映して剣を振るって勝利したのです。H.リューティは、この盾こそ、死を克服する力であり、十字架と復活のキリストであると述べています。キリストを通してこそ、私たちは死に立ち向かい「死は勝利に飲み込まれた!」と叫ぶことが出来るのです。ルターが修道僧になったきっかは、友人の死と雷雨の中で体験した自らの死に対する恐怖でした。その彼が、死の恐怖から解放されたのは、「神の義は、罪人を裁き滅ぼす義ではなく、キリストを通して、罪ある者の罪を贖い、義人として認め受け入れてくださる義である」ことに気づいたからです。ルターは詩編を愛読し、特に90篇については何度も講義したようです。この詩には人生の短さはかなさが、草花やため息に譬えられ、神は永遠で、人の生も死も支配しておられることが詩われているのです。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」。私たちは生きるにも死ぬにも主のものとして、永遠なる神の住まいのうちにあるのです。

off 霊の導きに従って

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテヤの信徒への手紙5:16-25

  10月31日は、宗教改革記念日です。今からちょうど500年前のこの日、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に「95ヶ条の提題」を貼り付けて、改革の火蓋を切ったとされています。ルターが強調したことは「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」という3点に要約されます。聖書のみに権威があり、信仰によってのみ義とされ、すべての信徒が神に召されているということです。このルターの主張は、「キリスト者の自由」という著書の中にも描かれています。キリスト者は、神の選びとイエス・キリストの救いの恵みによって、「何者にも支配されない自由な君主」でありつつ、「すべてのひとに仕える僕(しもべ)」だと言うのです。イエス・キリストはまさしくそのような方でした。私たちも「小さなキリスト」となって、自由な愛をもって他者に仕えるように召され、この世に遣わされているのです。しかし、この与えられた自由を感謝し喜びつつ、自由に他者に仕え奉仕するということは、決して容易なことではありません。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。神の霊の導きによって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの「霊の実」を結びたいものです。

off あなたは愛されています。

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説教:キャロル.サック宣教師

ローマの信徒への手紙5:1-8

 私は大学生の頃、個人的な挫折の体験を通して、神さまは、何の価値もない自分をも無条件に愛し、受け容れてくださることを知りました。それ以来30年間、いつもどうしたら、その神さまの愛を人に伝えることが出来るかを求め続けてきました。50歳になって、アメリカで「音楽死生学」を学び、病人に寄り添い、ハープと歌と沈黙によって慰めを与え、神様の愛を伝える道があることを知りました。日本に帰って、山谷のホスピス「希望の家」などで、多くの患者さんに寄り添い、奉仕させていただきました。患者さんの呼吸に合わせて静かにハープを奏でるのです。人は息を吸うときより、吐くときリラックスするものです。聖書によると、息は霊(魂)を意味します。吐く息に合わせてハープを弾くことによって、その人の魂に触れることが出来るのです。厳しい顔をしていた患者さんの顔はほころび、涙を流して、心の重荷を打ち明けてくれます。音楽を通して、あるがままの自分が神さまから愛され、受け容れられていることを悟ることができるのです。アウグスティヌスは、「言葉がなくても祈れるように、神は音楽を下さった。歌う人の祈りは、二度の祈りである」と語っています。音楽を通して、どのような人も神さまから愛されていることを知って欲しいのです。愛についての概念が体験となるよう祈っています。

off キリスト者の自由

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙5:1-15

 キリスト教の救いは、「自由」という言葉で言い表されます。人はだれでも自由に生きているようで、お金や物に縛られたり、様々な欲望の虜(とりこ)になったり、周囲の目やひとの意見などに支配されています。自由に生きているようで、自由ではなく、目に見えない力に支配されていることが多いのです。中でも私たちから自由を奪い、不安にしているのは、罪と死の支配です。私たちは自分の力で、これらの支配から自由になることはできません。イエス・キリストは、自由を得させるためにこの世に来られ、私たちのすべての重荷と罪を担って十字架で死なれ、復活されたのです。このことによって、私たちは、罪と死の力から解放され、神との自由な交わり(和解)を与えられるのです。ここにキリスト者の自由があります。パウロはここで、「あなた方は自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を肉の働く機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧めます。宗教改革者ルターは、この言葉から、「キリスト者は、何者にも支配されない自由な君主」でありつつ、「すべての人に仕える奴隷」であると言いました。私たちは与えられている自由を大切にしつつ、その自由を自らの欲のためではなく、喜びを持って他者に奉仕する愛となるように祈り、努めたいものです。

off 約束の子として

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙4:21-5:1

 アブラハムには二人の男の子がいました。一人は女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、もう一人は正妻サラを通して与えられたイサクです。前者は、神の約束を待てずに、妻と相談の上で奴隷の女に産ませて得た「奴隷の子」であり、後者は、アブラハムが100歳になって神の約束によって与えられた「約束の子」です。 パウロは、律法の行いによって神の義を獲ようとする者を奴隷の子に喩え、イエス・キリストを信じる信仰により、神の恵みによって義と認められた者を「自由の子」に喩えて、両者の違いを説明するのです。どちらも「アブラハムの子」であることに違いはありません。しかし、両者とも「相続人」になるわけではありません。神の国を受け継ぐ者は、神の約束を待ち望む者です。救いは、自分の判断や計画・努力で勝ち取るものではありません。ただ神の恵みにより、信仰によって与えられるものです。主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、神の国を待ち望む者こそが、神の約束を受け継ぐ自由な「霊の子」なのです。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」(5:1)。常に、み言葉に固く立って、主に従いつつ、神の国を待ち望む者でありたいと願います。

off キリストが形づくられるまで

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテヤの信徒への手紙4:8-20

パウロは、ガラテヤの人々がキリストの福音からはずれ、「律法」の戒めに囚われていることに深く失望し、「なぜ、支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度奴隷として仕えようとするのか」(9)と問うています。キリストの十字架の贖いによって救われたパウロにとって、彼らの「逆戻り」現象は、キリストの死を無駄にするものであり、これまでの自分の労苦を空しくしてしまうことでした。彼は「途方に暮れ」ながら「語調を変えて話したい」(20)と訴えています。確かに、これまで激しい怒りをもって綴られてきたこの手紙の語調は、がらりと変わり、かつてパウロがガラテヤを訪ねた際、病いに苦しんでいた自分をどんなに手厚く介抱し、温かく受け入れてくれたか感謝し、そのときの主にある交わりの喜びと幸せを思い起こさせています。ここに、真理を語りつつも、自分の立場を絶対化せず、相手の立場を思いやり、愛をもって相手の立ち帰りを祈る牧会者パウロの姿を見る思いがします。対話において大切なことは、自分の正しさを押し通すことではなく、相手の立場に寄り添いつつ、相手の幸福(15)を祈ることです。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたのうちに形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19)。

off 神による相続人

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙4:1-7

 どこの国でも「未成年者」には、さまざまな制約があります。パウロの時代においても、相続人は、成人となるまで後見人や管理人の監督の下におかれました。未熟な若者を保護するためです。「律法」にはそのような意味がありました。しかし、時満ちて、神はその独り子を世にお遣わしになり、律法の拘束から私たちを解放してくださったのです。私たちはこのキリスト贖いの恵みによって、奴隷の子から、自由な神の子とされるのです。「あなたがたが子であることは、神が『アッバ父よ』と呼ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださった事実から分かります」(6節)。 神を「父よ」呼ぶことは自明のことではありません。神の御子イエス・キリストの恵みにあずかり、その霊(聖霊)によって可能になるのです。それが、私たちが成熟した大人となり、神の国の「相続人」となることなのです。主イエスの語られた「放蕩息子の喩え」(ルカ15章)は、相続人としての資格を放棄し、放蕩に身をもちくずした弟が、自らの罪を悔い改めて父のもとに立ち帰った話です。「父よ、わたしは息子と呼ばれる資格はありません」と告げる彼に、父親は彼を「わが子」として迎え、「死んでいたのに生き返ったのだ」と、怒る兄を説得し「相続人」として受け入れるのです。私たちも、主イエスを通して、いつでも「父よ」と呼んで、神の御許に立ち帰りたいものです。

off 信仰による神の子

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 3:7 -14

 アブラハムは75歳で、親族や親しい者に別れを告げ、行き先も知らずに住み慣れた地を後にしました。高齢の身で、郷里を離れることがどんなに厳しいことであるか、私たちは原発事故で郷里に住めなくなった高齢者の苦悩から察することが出来ます。アブラハムにその決断を促したのは、「祝福の源となる」との神の声でした。その約束は「地上のすべての氏族」が祝福を得るためのものでした。高齢者の課題は後世に何を遺すか、ということです。アブラハムは「信仰によって義とされる」という生き方を遺し、そのことによって、「イスラエルの父」となりました。

 しかしパウロは、ユダヤ人だけが「アブラハムの子」ではなく、イエス・キリストを信じるものすべてが、アブラハムの祝福を受け継ぐ「神の子」だと主張したのです。イエス・キリストがすべての人の罪を担い、「信仰によって神に義とされる」道を開いたからです。アブラハムに示された神の約束は、イエス・キリストを通して実現し、すべての人がすでに祝福にあずかっているのです。神の救いのみ手は、全世界のすべての人に差し伸べられています。み子イエス・キリストの贖いの恵みによって、一人でも多くの人が「神の子」として、神の国を受け継ぐ者となるよう、祈りたいものです。私たちは子どもや孫、後の世に何を遺そうとしているのでしょう。