毎週の説教メッセージ

off 神の約束

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙3:15-20

 聖書の宗教は「約束の宗教」と云われます。聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っていますが、これは旧い約束の書、新しい約束の書の意味です。その約束の基が、アブラハムに対する神の約束です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。…地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:2-3)。イスラエルの民はこれを自分たちの民族に対する祝福として受け止めましたが、パウロは「すべての民」に対する祝福の約束として受け止め、この約束がイエス・キリストの到来によって確かなものとされたと説くのです。ことに主イエスの十字架の死は、私たちの受くべき呪いを主が代わって引き受けてくださったことによって、私たちの罪が赦され、信仰によって神から義と認められることを強調したのです。高齢になっても子が与えられずあきらめかけていたアブラハムに、神は、夜空に輝く星を数えてみよと命じ、あなたの子孫はあのようになると約束された時、アブラハムはそれを信じ、神に「義」と認められました(同15:9)。パウロは、これを論拠として、人は律法の行いによってではなく、信仰によって救われると説いたのです。私たちは、どんなに努力しても、自分で自分を救うことは出来ません。主イエス・キリストを通して、神の恵みによって救われるのです。

off 信仰による義

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 3:7 -14

 夏休みが終わり、新学期の始まる今頃は、子どもたちの登校拒否や自殺率が最も高くなると言われます。自由な生活から拘束されることへの抵抗があるからです。集団生活に規律は必要ですが、規則に縛られ、「駄目だ、駄目だ」と言われるところに生きる喜びはありません。一人一人の人格が大切にされ、それぞれの個性が認められ、受け入れられるところに、人は自由な喜びをもって生きられるのです。

 パウロは、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」と述べています。パウロ自身、かつて神の義を求めて、だれよりも熱心に律法を守り行うことに精進しました。しかしその結果、彼は律法を完全に守り得ない自らの弱さを自覚させられ、「なんと惨めな人間なのだろう」と嘆き(ローマ7:24)、「呪われるべき者」と悟ったのです。しかし、彼は復活のキリストとの出会いを通して、<イエスは私の呪いを引き受けて、私に代わって十字架にお架かりになった> ことに目が開かれたのです。それは、あるがままの自分が、神に赦され、「良し!」と認められ、受け入れられているという救いの発見でした。人は、律法の行いによって神に義とされるのではなく、ただキリストを信じる信仰によって、恵みによって義とされ、生き生きと生きるのです。

off 隅の親石キリスト

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説教:髙桑 義雄 教師

マタイによる福音書21章33~46節

主イエスのたとえ話しに出てくるぶどう園の主人は、収穫を受け取るために僕たちを農夫のところへ派遣しました。しかし農夫たちは、僕たちを袋叩きにして何も持たせずに帰したり、石で打ち殺したりしてしまいます。主人は自分の息子であればさすがに農夫たちから敬ってもらえるだろうと考えて息子を派遣しましたが、農夫達は相続財産を自分たちのものにしようと考えて、跡取りである息子も僕たちと同じように殺してしまいました。ここではぶどう園の主人が神、その息子が主イエス、農夫たちがユダヤ教の指導者にたとえて語られています。主イエスはユダヤ教の指導者たちに対して、ぶどう園の主人はこの農夫たちをどうするだろうか、と尋ねました。彼らは悪人である農夫を殺して、もっと適切な他の農夫にぶどう園をまかせるだろうと答えました。農夫たちは神のものを奪って自分こそが神になりかわろうとして、救い主である一人息子を殺すというとんでもない過ちを犯してしまったのです。

しかしこの殺されて捨てられた息子こそが、実は家を建てる時に欠かせない親石となったのです。これは主イエスが私たちの人生の全てを、隅の頭石となって支えて下さっていることを意味します。私たちはこの頭石によって、私たちの人生の全てが受けとめられ、支えられていることを覚えて歩んでいきたいものです。

off あれほどの体験をしたのに

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙3:1-6

「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに…」。パウロがここで述べている「あれほどの体験」とは、ガラテヤの教会の人々の前にイエス・キリストの十字架の姿がはっきりと示されたことです。彼らはパウロの説教を通して、主イエス・キリストの救いの恵みにあずかり、新しく生まれ変わったのです。それにもかかわらず、いつの間にか彼らは、ユダヤ主義の偽教師たちの影響を受け、律法を守り割礼を受けなければ救われないという偽りの教えに陥ってしまったのです。パウロの驚きと怒りは「ああ、物分りの悪いガラテヤ人たち」という激しい言葉の中にも表れています。パウロの怒りは、自分の労苦が無駄になったことに対するものではありません。「霊(聖霊)によって始めたのに、肉によって仕上げようとする」ことに対する怒りです。それは神の恵みを無にすることであり、イエス・キリストの死を無意味なものにしてしまうことになるからです。私たちは過去の体験を無駄にしてはなりません。戦争体験にしてもそれを過去のものとして、風化させたり忘れ去ったりするのではなく、今の生活の中に生かし、次の世代に伝えていく責任があるのです。十字架のイエス・キリストは、復活して今も生きて働いておられます。主の恵みを無駄にせず、主と共に歩み続けましょう。

off キリストによる生と死

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙2:15-21

パウロにとって、ダマスコ途上でのキリストとの出会いは強烈なものでした。今までユダヤ教徒として、律法を絶対的なものとし、キリスト教徒を迫害していた彼が、律法によっては救われない。ただキリストを信じる信仰によって救われると説き始めたのです。パウロは復活のキリストとの出会いによって、イエスの十字架の死は、自分の罪の贖いのためであったことを悟ったのです。その回心の背後には、それまで懸命に追い求めてきた律法の行いに対する挫折があったと考えられます。ローマの信徒への手紙の7章で、パウロは律法に従って善をなそうとする意志はあってもそれを成し遂げる力がなく、欲しない悪を行ってしまう自分の弱さについて嘆いています。「わたしは何と惨めな人間なのだろう、だれがこの死の体からわたしを救ってくれるのだろう」と。彼はこの挫折の中で自らの罪を深く知らされ、キリストの十字架の死と復活の中に、深い罪の赦しの根拠を見出したのです。パウロはその恵みによる救いを「わたしは神に対して生きるために、律法に対して死んだ」と述べ、「キリストに対する信仰によって生きている」と語るのです。「生きているのは、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。私たちも、キリストと共に、古い自分に死んで、主と共に翻って生きたいものです。

off 真実を語る勇気

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙2:11-14

 日本基督教団の戦争責任告白が公にされて、今年で50年になります。これが公にされたとき、教団の中に大きな反発が起こりました。その最も大きな理由は、当時の厳しい状況の中で教団を守った指導者や苦労した教職信徒を批判し糾弾するものだ、という誤解に基づくものでした。先達たちを労(いた)わる気持ちは尊いことですが、過去の過ちを隠蔽し水に流すことは、私たちや次の世代が、再び同じ過ちを犯すことに繋がります。私たちは同じ教団に属するものとして、過去の罪責を自からの罪責として担いつつ、明日の教団に向けて、悔い改めと決意の表明をする必要があったのです。

 パウロは、先輩格のケファ(ペトロ)のとった過去の行動に対して、衆人の前で公然と批判したことを記しています。その頃ペトロは、ユダヤのエルサレム教会の指導的立場にありましたが、シリアのアンティオキア教会に来たとき、異邦人たちと共に食事をしていたのに、エルサレムから他のユダヤ人信徒が来ると、次第に異邦人から身を引き、ユダヤ人としか食事をしなくなったのです。仲間のユダヤ人からの批判を恐れ、異邦人の顔色を伺った結果の偽善的な行為でした。その行為は他のユダヤ人にも影響を及ぼし、主の教会に亀裂が生じたのです。パウロは、敢えてみんなの前で、先輩の過ちを指摘するひつようがあったのです。共に「福音の真理」に従うためです。

off 応えるものに

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

マルコによる福音書2:13-17

徴税人であったレビは、イエスとの出会いによって、これまでの生き方から大きく飛躍する転機が与えられました。多くの人がイエスのそばに集まって来る一方、レビはたった一人で収税所に座っている。そのレビに、イエスは「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は、立ち上がってイエスに従った。福音書の著者は、状況や心情の描写を極力省くことで対照を際立たせています。そうすることで、なぜ一人で座っていたのか?なぜイエスの声に応えることが出来たのか?という問いを読者である私たちに起こさせます。その問いは、今の私に向けられることになります。 その後の展開は(15節~)、レビがイエスと大勢の者を招いて食事をしていると、律法学者がイエスの弟子にイエスの行動を非難する場面へと移っています。ここで非難されているのはレビではなく、他の弟子を介してイエスに向けられています。レビはイエスの言葉に応じて立ち上がりましたが、その結果として非難の矛先が仲間の弟子や師であるイエスに向けられたのです。これに対するイエスの対応を見ますと、レビに声をかけた時点で周囲からの非難を受ける覚悟を持っていたと考えられます。人の思い(自己の弱さへの嫌悪、他人の非難)と神の思い(人間存在の肯定、たとえ弱くとも)がぶつかる時、どちらに同意するのかが問われています。自身への非難を顧みず、私たちに声をかけ招いておられるイエスの覚悟に、私たちもこれまでの殻を破って応える者になりたい。

 

 

 

off 他人の自分

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙2:1-16

 人間は、その言葉のとおり、人と人との間(関係)の中で生きるものです。しかし異なる他者と共に生きるためには、愛と忍耐が必要です。真理が明らかにされるために、パウロのように激しく怒ることもあります。しかし相手の非を怒っても、その人を憎むのではなく、対話によって非をただし、異なる他者と共に歩むことによって、お互いの関係はさらに豊かになるのです。異邦人伝道を使命とするパウロと、ユダヤ人への伝道に重きをおくヤコブやペトロたちの間には大きな溝がありました。それはユダヤ人たちが伝統として大切にしてきた律法や割礼を救いの条件とするかどうかという問題を巡ってでした。キリストの十字架の恵みによってのみ救われると説くパウロにとって、それ以外の条件を加えることは、主の死を虚しくするもので、受け入れられないものでした。そこでパウロは、バルナバたちと共にエルサレムに上って、権威ある使徒たちと激しい議論を交わしたのです。この「使徒会議」の結果、パウロたちの立場が認められ、それぞれの働きを尊重しつつ、共に貧しい人々のために仕えようという一致点に到達したのです。自分の信仰的立場を明確にしつつ、異なる立場をも尊重し、対話によって一致点を見出そうとしたこの姿勢こそ、主の教会のあるべき姿です。対話のない今の世にあって、対話の輪を広げていきたいものです。

off かつてと今

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙2:1-10

 水野源三の詩に「不思議です 不思議です 今なお生かされていることが …主の信仰を保ちこられたことが 天のお父さまに感謝するのみです」というのがあります。

使徒パウロにとっても、キリストと出会って、信仰によって生かされていることが不思議でならないことでした。かつてキリスト教の迫害者であった彼が、今その福音を命がけで宣べ伝えているのです。パウロはその恵みと導きを、しばしば「かつて」と「今」という言葉で対比させて述べています。傷だらけの自分の過去について語ることは、勇気の要ることです。ことに自分に敵対する人たちの前では、絶対に不利になるような証言はしないものです。しかしパウロは、大胆にかつて教会の迫害者であったことを告白します。キリストと出会ったことがあまりにもすばらしく、今の恵みがあまりにも大きいからです。パウロはこの体験を通して、救いの恵みは値なき者(罪人)に無償で与えられるものであること。人の努力や善行などの功績によらないことを確信したのです。パウロが、この手紙の中で律法主義者と厳しく対決しているのは、自分自身が律法によって救われなかっただけではなく、キリストの十字架と復活の恵みはそれ自体で完結しており、律法の行いなどを加える必要がなかったからです。私たちはただ主の恵みによって救われているのです。

off ほんとうの福音

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙1:6-10

 ガラテヤの信徒への手紙は、挨拶に続いて、「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」という言葉で本文が始まっています。原文では、「あきれ果てた」(驚いた)という言葉が冒頭に来るのです。この手紙が「闘争書簡」とか「怒りの手紙」呼ばれる所以(ゆえん)です。それにしてもパウロの怒りの激しさは尋常ではありません。「わたしが告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」とさえ語ります。怒りは、人間の沸騰点です。液体と同じように、どこで怒るかによって、その人の本質が明らかになります。パウロは、自分の誇りが傷つけられたとか、これまでの労苦が無駄になったというようなことで怒っているのではありません。ユダヤ的な伝統や慣習を重んじる人々が、キリストの福音の他に、律法の行いや、割礼の儀式を救いの条件とし、それにガラテヤの教会員たちが同調したためです。イエス・キリストがわたしたちの救いのために命をかけてくださったのに、そのキリストの犠牲を無にするような「ほかの福音」に我慢がならなかったのです。キリストの恵みによってのみ救われ、どのような状況の中でも、「イエスこそ主である」と告白する「まことの福音」に固く立ちたいものです。