毎週の説教メッセージ

off ことばの力

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書7:1-10

 ある百人隊長の僕が重い病にかかった時のことです。長老たちは、百人隊長が主イエスに助けを求めているのを知って、イエスに助けに行ってほしいと依頼したのです。この百人隊長は、ユダヤを支配していたローマ軍の小隊長ですが、ユダヤ人を愛し、会堂まで建ててくれた恩人だというのです。この百人隊長が、直接イエスに依頼しなかったのは、自分の権威を個人的な目的のために利用することをためらったからです。イエスもまた、彼の善行の故に百人隊長の家に向かったのではありません。権威を笠に着ることなく、謙虚に、自分の僕(奴隷)を助けてほしいと切望する隊長の熱意に動かされたのです。 彼の家の近くまで行くと、百人隊長の友人が出てきて「主よ、ご足労には及びません。わたしは自分の家にあなたをお迎えする資格はありません。ただ、お言葉をください」と隊長の言葉を伝えたのです。主イエスはこれを聞いて感心し「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。主イエスは、彼の謙虚な態度と共に、「言葉の力」への信頼に心打たれたのです。百人隊長は、自らの体験から、権威ある者の言葉には力があることを悟り、「ただ、お言葉をくだされば、治ります」と告白したのです。主の言葉には人を癒し、立ち上がらせる力があります。今日ほど真実な力ある言葉が求められ時代はありません。

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:15-17

 オスカー・ワイルドの童話の中に「わがままな巨人」というのがあります。巨人の留守中、その美しい庭園は、子どもたちの素敵な遊び場でした。しばらくぶりに帰って来た巨人は、「ここはわしだけの庭だ」と怒って子どもたちを追い出し、庭に高い塀をめぐらし、「立ち入る者は罰を与える」という立札を立てます。やがて春が来ますが、巨人の庭だけ、雪と氷に閉ざされた冬のままです。巨人は何年も緑も花もない冬の庭を眺めて凍えていました。ある朝、美しい小鳥のさえずりに目が覚め、庭一面に花が咲き、木々が美しい緑に輝いているのに気が付きます。子どもたちが、壁の小さな穴から庭に入り込み、木に登って遊んでいたのです。巨人は自分のわがままを悔い改め、庭の壁を壊し、子どもたちを受け入れ、美しい庭で子どもたち共に遊ぶようになります。やがて巨人は年老い、身動きが不自由になりますが、しばらく見えなかった大好きな小さな子が、両手両足に釘の傷跡をつけて現れてこう言うのです。「あなたはこれまで、この庭で私を遊ばせてくれた。今度はわたしがあなたを私の楽園で休ませてあげよう」と。この童話は、「子どもたちをわたしのもとに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」との主イエスの教えを基にしたものです。子どもたち共に歩みましょう。

off 岩の上の家

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:46-49

 信仰は、聞くことから始まります。このことは、信仰の主体が私たちの側にあるのではなく、神の側にあることを意味します。つまり主なる神が私たちに語り掛け、私たちがそのみ言葉に聞くことから始まるのです。私たちが「主よ、主よ」と呼ぶことは、まず主のみ言葉に耳を傾け、そのみ言葉に聞き従うことを意味します。主イエスは、「平地の説教」(ルカ6:20-46)の締め括りの言葉として、み言葉を聞いて行う人と、聞いても行わない人との違いを譬えもって語りました。聞いて行う人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている」というのです。それに対して、聞いても行わない人は、「土台なしに(直接)地面に家を建てた人に似ている」というのです。外見上は見分けがつきませんが、雨が降り、洪水になって、川の水が押し寄せると、両者の違いは歴然とするのです。主イエスはこの譬えで、み言葉を「聞く」ことには、「従う」という行為が伴わなければ意味がないと述べているのです。み言葉を聞いて行うことは、深く自らを掘り下げ、しっかりとした「岩」の上に人生の土台を据えることなのです。激しい時代の流れの中で、この世の流れに押し流され、自らを見失ってしまうことがないように、日々み言葉に聞き従い、イエス・キリストという揺るがぬ岩の上に、堅固な土台を据え、悔いなき人生をまっとうしたいものです。

off 神に従うか人に従うか

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録4:5-20

ペンテコステの出来事は、弟子たちに大きな変化を与えました。彼らは信仰の確信に満たされ、大胆に力強く神の言葉を語り出し、病人を癒すなどの力ある業をも行うようになったのです。使徒言行録3章には、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を「イエスの名」によって立ち上がらせたことが記されています。このことがさらに多くの人々を驚嘆させ、祭司長たち宗教的指導者たちの妬みを買うことになったのです。二人は捕らえられて、最高法院で大祭司から「何の権威、誰の名によってああいうことをしたのか」と問われたのです。その2週間ほど前、主イエスもその同じ場所に立たされて、同じような審問を受けたのです。ペトロは、あの夜の出来事を思い起こしたのではないでしょうか。あの時、自分はどこで、何をしていたのかと。主イエスがこの場所で尋問されていた時、ペトロはその中庭で火にあたりながら、女中の問いに答えて、3度「その人を知らない」主を否定したのです。主の予告通り鶏が鳴き、激しく泣いたあの夜のことを思い起こし、ペトロは泣きたい思いをこらえながら答えたことでしょう。「あなた方が十字架につけて殺し、神が復活させられたイエス・キリストの名によるのです。この名のほかに救いはない」と。また「今後、イエスの名を語るな」との議員たちの脅しに、「わたしたちは語らずにはおれないのだ」と拒否し、信仰を貫いたのです。

off 聖霊の働き

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録2:37-47

ペンテコステは、神の霊(神の息)が弟子たちに吹き込まれた出来事です。イエスを天に送り、失意と寂しさの中にあった弟子たちが、新しい命に満たされて、一斉に力強く神の言葉を語り出したのです。彼らが熱い思いで語り出したのは、イエス・キリストに対する信仰の確信が与えられたからです。「十字架に架けられたイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」(2:36)という確信です。神の霊による確信に満ちた言葉であるからこそ、それは言語の壁を越えて、諸外国から来ていた人々の心をも打ったのです。信仰は自分の知恵や力で得られるものではありません。神の霊の働き(啓示)によるものです。聖霊によらなければ、誰も信じることも、神の言葉を語ることも聞くこともできません。「邪悪なこの時代から救われよ」とのペトロの言葉に3千人もの人たちが仲間に加わったとあります。この日を「教会の誕生日」というのは、この数の増加によるのではありません。それらの人々が「使徒たちの教えを守り、パンを裂き、共に祈る」交わりもったのです。この礼拝を中心とした主にある交わりこそが「教会」なのです。その交わりはさらに深められ、彼らは持ち物を共有にし、必要に応じて分け合ったのです。この生きた交わりが、多くの人々に好意をもたれ、日々救われるものが加えられ、成長したのです。私たちも聖霊の導きを祈りましょう。

off 目の中の丸太

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:37-42

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と主は言われます。「裁く」とは、人の価値を判断することであり、有罪判決を下すという意味です。

神さまは、天地を創造されたとき、造られた全てのものをご覧になって「極めて良い」とされました。神が良しとされた者を、人が勝手に判断し、「ダメだ」と決めつけることは、自分を神の立場に高めることになります。私たちは、人を裁くことが出来るのは神のみであることを自覚し、常に主の前に謙虚になり、互いに赦し合い、愛し合うことが求められているのです。主イエスは、互いに非難し合い裁き合う弟子たちに、譬えで次のように語られました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」と。人の小さな短所や過ちを気にしても、自分の大きな欠点や罪には気が付かないという、私たちの盲点を突いた指摘です。ダビデ王は、忠実な部下を戦死させその妻を奪うという罪を犯しながら、預言者ナタンに「それはあなただ」と諭されるまで、相手の痛みに気付きませんでした。権力の座に着くと、良心が麻痺し、相手の痛みに鈍感になるようです。私たちの目の中の丸太は何によって取り除かれるのでしょうか。主イエスの担った十字架は、荒削りの丸太でした。主が私たちの罪を担って死んでくださったのです。

off 敵を愛しなさい

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:27-36

「敵」とは、愛しえない者のことです。私たちを憎み、悪口を云い、侮辱する者のことです。主イエスはそのような「敵」を愛し、親切にし、祝福し、祈りなさいと命じられます。どうして「敵」を愛さなければならないのでしょう。黒人差別撤廃のために命を捧げたM.Lキング牧師は、自分たちの命まで脅かす「敵」を愛さなければならない理由として4つことを挙げています。①憎しみに対して憎しみで報いることは、闇に闇を加えるようなもの。愛こそが闇を駆逐する光だから。②憎しみは、相手を傷つけるだけでなく、自分の人格をも破滅させる。③愛のみが敵を友に変える。④私たちが神の子となるため。 私たち自身、かつて神に逆らっていた「敵」でした。そのような私たちのために神は御子キリストを通して、子として受け入れ愛してくださいました。この神の愛に応えることが④の意味です。八木重吉の詩に「許しうるものをゆるす/それだけなら/どこに神の力が要るか/人間に許しがたきを許す/そこから先は/神のためだと知らぬか」というのがあります。神の愛と赦しによってこそ、私たちは「敵」をも愛し赦すことが出来るのです。十字架の上で「父よ、彼らを許したまえ、何をしているのか知らないのです」と祈られた主イエスは、私たちにも「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われるのです。世の和解と平和のために。

off 信じて、帰る

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:小倉 和三郎 教師

ヨハネによる福音書4:46~54

重態の息子をかかえる父親の必死な願いに対して、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と告げました。このお言葉は予想外で、大いに疑問を感じます。けれども主イエスは、父親や私たちの「願いを叶えてもらう信仰」」を自己中心な信仰としてはっきり否定なさったのです。その信仰は自分を主として、神を従者、僕とする信仰だからです。

父親はそのことに気づいて、はっとして、「主よ」と答えました。つまり神を主として自分を僕とする信仰を告白しました。そして御心ならは息子をぜひ癒していただきたいのですが、全てを主なる神にお委ねします、という信仰を言い表しました。

主イエスは父親に「独りで帰りなさい」とお命じになりました。これも厳しすぎる命令です。しかし主イエスは「あなたの息子は生きる」と約束してくださいました。この約束は病気の息子の回復だけでなく、私たちを含む全ての人間の救いと永遠の命の大いなる約束です。父親は一人で帰途に着きました。しかし彼をキリストの約束のお言葉と聖霊の力が伴い支えとなりました。ここにキリストのお言葉を信じて従う、応答の信仰の姿が鮮やかに証しされています。

off 幸いと不幸

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:20-26

主イエスの説教は、「幸いだ!」という祝福の言葉で始まっています。その教えが「神の国の福音」だからです。それにしても、「貧しい人、飢えている人、泣いている人、人から憎まれている人たち」が、なぜ「幸い」なのでしょう。主イエスが来られたことによって、神の国(神の支配)がすでに始まっているからです。主が彼らと共におられ、その貧しさや飢え、悲しみ寂しさを共に担い、正しく報いて下さるからです。 一方、主イエスは「富んでいる人、満腹している人、笑っている人、人から褒められている人」に、「あなたがたは不幸だ!」と言います。これらの人たちは、この世の富や名声に満足し、神の国(神の支配)を受け入れようとしないからです。貧しい人や、飢えている人、泣いている人、虐げられている人々が大勢いる中で、自分だけ富んで、満腹し、笑い、自己満足していることは、ほんとうに幸せなことなのか? と主イエスは問うておられるのです。むしろそれは、神の前に「不幸だ」と言われるのです。神のみ心は、富んでいる者も貧しい者もなく、愛をもって互いに分かち合い、喜びも悲しみも共にする「共生」の社会なのです。主イエスはそのために貧しくなられ、私たちに仕えて下さったのです。「み国を来たらせたまえ」と祈りつつ、主のみ心に従いたいものです。

off 安息日の主

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:1-11

モーセの十戒の中に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めがあります。これは、神が天地を造られた時、6日間働いて、7日目に安息されたことにちなんで、この日、息子娘、男女の奴隷、家畜、寄留の外国人に至るまで、すべての労働から解放され安息にあずかるよう定められた祝福の日でした。しかし人々はこの戒めを守るために、数多くの細かな規則を作り、息苦しい日にしてしまったのです。ある安息日、イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたということが、ファリサイ派の人々の非難を受けました。安息日に禁止された収穫、脱穀、篩い、食事の世話などの労働とみなされたからです。またほかの安息日にイエスが右手の萎えた人を癒されたことが、律法学者たちを憤らせました。人を生かし、自由と喜びをもたらす神の戒めが、いつの間にか自由と命を奪う掟にされてしまったのです。非戦を誓った「平和憲法」が、戦争するための道具に改悪されつつある傾向や、学校や教団などの管理体制が次第に強化されつつある傾向とどこか似ています。主イエスは命を懸けてそのような体制と闘い、人々の自由と命を守るために十字架の道を歩まれたのです。「人の子は安息日の主である」からです。主は復活を通して、「週の初めの日」を真の安息の日、礼拝の日とされたのです。