説教:加藤 久幸 牧師
マタイによる福音書3:13-17
15節「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。(参考までに岩波訳は「すべての義を満たすことは、私たちにとってふさわしいことだから」。本田司祭訳「抑圧からの解放にかかわることをみな実行するのは、だいじなことです。」) 原語の「プレロー」は満たす・実現(成就)する等の意味ですが、普通は受動形で用いられます。聖書の成就等も含め、その主語は神であると考えられます(その用例は神的受動態と言われます)。ここでは、イエスが洗礼を受けることにより我々(イエスとヨハネ)において神の意図が成就される、と受けとめられます。 この内容との関連でマタイ20:20-23を参照します。そこでは、イエスの受難(復活)予告の後(その成就の)「杯」を飲むことができるかが、話題となっています。イエスは、受洗の時も、この受難の時も、主体的・自主的に、「御心ならば…」と臨まれたと想います。イエスの洗礼は、主の御心の実現であり、人々(被造物)の歩みへの参与・連帯であると、私は想います。…私たちの「洗礼」も多様であり、一言では語りつくせません。しかしイエスが洗礼を自らお受けになっている出来事は、私にとっては模範であったと言わざるをえません。そして、そこから始まるイエスの公生涯、そして彼と共に歩む道は、私たちにとっては、尽きせぬ恵みであり慰めであり導きであります。この幸いと喜びに生かされて歩んでいきましょう。