説教:加藤 久幸 牧師
コリントの信徒への手紙二5:14-6:2
14節、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上…」。「ために」が難しく感じられ、14節全体の意味も十分に受けとめ伝えることにも困難を覚えます。…1995年阪神淡路大震災が起こり、6434人が亡くなりました。被災後に何度か現地に入り、「6434人が亡くなったのではなく、一人ひとりの死が6434回あったのだ」と示され、亡くなった方や生き残った人の「証し」を聞きました。私たちは、ややもすると、災害の大きさや被災者の数、目の前の悲惨な現実に、目を奪われ耳を塞がれます。一人ひとりの「証言」に触れる時、私は[意識していた否かに関らず]いつも「キリストの死」を想っていました。キリストの生涯・死・復活を想う時、どのような一人ひとりの生涯・死にも、私たちは向き合うことができる、新しい道が開かれたと言うことができるのではないでしょうか。「すべて」という言葉は同じでも、ここには、全体という「すべて」から、一人ひとりの「すべて」という転換があります。16節、パウロは「肉に従って」キリストを知ろうとはしませんと語ります。人間的関心ではなく、神の関心が焦点となります。十字架・死が語られる時、法律の概念から、義とされる,義認が展開されることがあります(参考:21)。しかしパウロは、日常生活を背景とする、和解を語ります。今日の聖書をじっくり味わうと、罪への言及より、それをはるかに覆う希望と愛が語られています。