毎週の説教メッセージ

off 今や、恵みの時

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙②6:1-13

「今」という時を、私たちはどのような思いで、どのように過ごしているでしょうか? 年度末のあわただしい時ですが、コロナウイルスによる不安な時でもあります。パウロも様々な不安と恐れの中にありました。自らの病と様々な苦難、欠乏、行き詰まり等々、さらに諸教会に対する心配事がありました。そのような中で、彼は「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と高らかにうたうのです。直面している現実の背後に、目に見えないもう一つの現実を見つめているからです。その現実とは、どんな時にも、神が恵みをもってこの世を支配しておられるという現実です。天地を造られた神がこの世を支配し、万事を益とされるのです。神の恵みの確かさは、独り子(イエス・キリスト)を賜うほどにこの世を愛され、御子の死と復活によって私たちを贖ってくださったことに示されています。その恵みの中で私たちは「今」という時を生かされているのです。この「神から頂いている恵みを無駄にしてはいけません」。私たちは、「今」という時を生かして用いなければなりません。「今や恵みの時、今こそ救いの日」なのです。さまざまな恐れや不安、苦難と思い煩いの中で、すべてを全能者である主の御手に委ねつつ、一日一日を、否「今」という時を感謝をもって大切に精一杯に生きたいものです。

off キリストの香り

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁2:14-17

コロナウイルスの蔓延によって、世界中に不安が満ちていますが、パウロの心にも大きな不安がありました。コリントの教会に激しい語調で書き送った「涙の手紙」が、どのような結果をもたらしたのか、パウロはテトスの帰りをトロアスで待ったが、不安のあまりじっとして居れず、マケドニアまで行って返事を待ったのです。下手をすればコリントの教会との関係が断たれてしまう心配があったのです。「神に感謝します。…」(14)。テトスは帰って来て思いがけない吉報をもたらしたのです。コリントの教会の人々は、パウロの手紙に心を打たれて悔い改め、和解を求めたのです。パウロの不安は霧のように晴れて、歓喜に満たされ、キリストに連なる者の歩みを凱旋将軍のパレードに例えたのです。世には様々な恐れや不安、苦難があるが、イエス・キリストはこの世の一切の苦しみを担い、十字架に架かられたが、それら一切の悪しき力に勝利され、私たちに先だって歩んでおられる、と。パウロは、その勝利の行進に振りまかれる「香」こそ、勝利者キリストの香りである説き、キリストに従う者たちもその香りを浴びることによって、多くの人々の心をなごませる香りになるというのです。私たちはどのような香りを放っているでしょう。「キリストの香り」は愛の芳香です。キリストに連なって、少しでも人々の不安や傷ついた心を癒すよき香りを放ちたいものです。

off 神の真実

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁1:12-22

信仰とは、神の真実に対して、真実をもって応答することです。それは神に対して真実であることともに、人と人との関係においても誠実に生きることを意味します。パウロは、だれよりもそのことを心掛けてきたつもりでしたが、コリントの教会の一部の人たちから、「パウロは『然り』と言いつつ『否』と言う、信頼できない人だという批判を受けたのです。これはパウロにとって心外なことでした。ことは、コリントを訪ねる予定が変更になり、予告通りにいかなかったことによります。パウロは、このことを弁明する必要にせまられました。しかしそれはパウロ自身の立場や名誉を守るたではなく、彼がこれまで語って来たみ言葉の真実と神の真理を守るためでした。「あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」。
天地を創造された神は、お造りになったすべてのものを「良し」とされました。その存在を肯定し、「然り」と受け入れられたのです。そのためにこそ、イエス・キリストを通して、人間の罪を贖うためでした。ここに神の「真実」があります。真実なる神の目に、今の日本の政権の嘘と偽り、ごまかしと虚偽は、どのように映っているでしょうか。それを反面教師としつつ、真実に生きたいものです。

off 慰めの共同体

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(2)1:1-11

コリントの信徒への手紙(2)は、短い挨拶に続いて、いきなり「ほめたたえられよ」と、「慰めを豊かにくださる神」への賛美で始まっています。著者のパウロは、アジア州(エフェソ地方)での伝道で、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失う苦難の中で、神のみが「唯一の慰め」であることを深く悟ったのです。それは、自分を頼りにすることを断念し「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ことによって与えられた慰めでした。神学校の同級生で、重い病との戦いながら、四国で9年間伝道して30台で亡くなったU牧師は、説教の中で「自分の弱さ無力さをさらけ出し、神に白旗を揚げよう。」と述べています。慰めは、神さまの御手にすべてを委ねることによって与えられるものです。人はだれでも、悩みや苦しみ、孤独や不安の中で、自分を頼りとし、他人や物、快楽などに慰めを見出そうとします。しかしそれらの物や人、快楽は「一時のなぐさめ」にはなっても、私たちの傷を癒し、悩みの淵から私たちを立ち上がらせる「ほんとうの慰め」にはなりません。パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神から頂く慰めによって、あらゆる苦難の中にいる人々を慰めることができます」と記しています。教会は「慰めの共同体」です。殺伐としたこの世で傷ついている人々の「オアシス」でありたいと願います。

off 労苦は無駄にならない

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①15:50-58

まばたきの詩人 水野源三さんの詩に「かくれている」というのがあります。「緑や花のない冬の庭には 神の恵みはないだろうか。… かくれている かくれている 雪の下に 土の中に 豊かな神の恵みが」。 雪深い津軽で伝道していた頃、よくこの詩を思い起こして、励まされました。人生の厳しい冬の中にも、春が芽生えるように、私たちの直面する現実がどんなに辛く厳しくても、その中にも、神の豊かな恵みが隠されているのです。聖書は 死は終わりではなく、新しい命の始まりであると説いています。イエス・キリストが私たちのために死んで復活されたからです。このキリストと結ばれた私たちも、「朽ちるべきもの」(肉の体)から「朽ちないもの」(霊の体)に変えられる、というのです。それは「死は勝利に飲み込まれた」ことを意味します。 パウロは、このような神の恵みのゆえに、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と勧めるのです。「主に結ばれているならば、苦労は決して無駄にならない」からです。「復活」を信じる信仰は、どんなに厳しい現実においても、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。「苦労は決して無駄にならない」のです。主イエスは今も私たちに語っておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。

off 復活の希望

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説教:最上 光宏牧師

コリントの信徒への手紙①15:12-19

人はだれでも、未来に希望が無ければ、生きられません。そこで、私たちは未来に様々な夢を描き、希望を見出そうとします。しかし、どのような夢や希望も、「死」によって頓挫し、一切が虚しいものに思われます。死がすべての終わりであり、滅びである限り、未来に希望をもつことは難しいのです。しかし、聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、「死は勝利に飲み込まれた」、死は命の終わりではなく、新しい命の始まりであることを告げています。「死者の復活」とは、そのことを指しています。キリストの恵みによって、「永遠の明日」が約束されているのです。
かつて教団の議長であった鈴木正久牧師は、末期がんの宣告を受けた時、一瞬、目の前が真っ暗になり、明日がなくなったと思ったそうです。そして明日のない自分に、今日生きる意味がなくなったと感じたのです。しかし間もなく、聖書の中の「キリストの日に備えて」という言葉から、キリストの支配する輝かしいほんとうの明日を見出し、今まで以上に今日という日の貴重さを自覚し、病を押して、教団の「戦争責任告白」に基づき、韓国の教会との和解や沖縄キリスト教団との合同のために働かれ、安らかに主のみもとに召されたのです。キリストにある希望は、失望に終わることはありません。キリストのものとされた私たちは、キリストのいのちにあずかって、「死んでも生きる」のです。

off あなたの隣人はだれですか?

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説教:小林  則義 牧師(七里教会)

ルカによる福音書10:25-37

私たちは、本当に、傷ついて、倒れている人の隣人になれるのでしょうか?費用もかかるし、時間も取られる、面倒なことになります。自分の身に危険が迫ることもあるかもしれません。何故自分が関わらなければならないかという思いも湧き上がってきます。私は、高校を卒業し、一度就職してから受験勉強を始めました。当時1日に10数時間は勉強しました。しかし、いくらやっても成績は上がらず、とうとう勉強が続かなくなりました。頼れるものが何もなくなったように思え、自分ががたがたと崩れていくのがよく分かりました。私が22歳の時です。部屋で悶々としていると、高校時代にたまたま読んだ聖書のみことばが思い出されました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)この聖書のみことばが暗闇の中から光を帯びたように、私に迫って来ました。不思議なことに、このみことばで私は立ち上がることができたのです。今思うと、この時、私は「追いはぎに襲われ、傷ついて、倒れている人」だったと思います。私を介抱し、私を癒し、私を立ち上がらせてくれた方、それはイエス・キリストでした。よきサマリア人とはイエス・キリストのことです。私の本当の隣人はイエス・キリストだったのです。私たちは、よいサマリア人、本当の隣人、イエス・キリストのお手伝いをするように招かれているのです。

off 最も大切なこと

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①15:1-11

パウロは、コリントの教会に伝えた福音について、「最も大切なこと」と呼び、「わたしも受けたものです」と語っています。福音(良いしらせ)は、「最も大切なこと」の故に、語り伝えられ、受け継がれていくのです。ある集会で年配者たちが「終活」について語り合い、何を捨てるかという身辺整理(断捨離)について話していた時、若い女性が「終活とは、何かを捨てることではなく、大切なものを後世に遺すことではないですか」と言われ、ハッとさせられたことがあります。内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演の中で、私たちは、後世に何を遺すべきなのかと問い、誰にも出来ることとして、真実な生き方を遺し、少しでもこの世を明るく平和な世の中にしよう!と呼び掛けました。私たちキリスト者にとって「最も大切なもの」は、イエス・キリストの福音です。主イエスが私たちのために十字架に死に、復活して、私たちに出会われ、私たちと共にいてくださるという「神の恵み」です。パウロはこれを「宝」と呼び、「土の器」であるわたしたちは、この宝の故に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず…」(Ⅱ4:9)と謳います。私たちは何を「最も大切なもの」として、子や孫、後世に伝え、遺そうとしているのでしょうか。願わくは、キリストの福音にあずかって、真実な生き方を遺したいものです。

off 霊と理性によって

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説教:最上 光宏牧師

コリントの信徒への手紙(1)14:1-25

コリントの信徒への手紙(1)の12章から14章に記されていることは「霊の賜物」についてです。人それぞれに神から賜物が与えられていますが、それぞれの賜物を重んじ、尊重し合うことが大切です。コリントの教会には霊的に熱心なあまり、わけの分からない「異言」を語り出して、礼拝の秩序を乱す人が少なからずいたようです。パウロはそれをも「霊の賜物」として認めつつ、独りよがりの熱狂主義をいさめ、「異言」よりも「預言」を語るように勧めています。「預言」とは神の言葉を愛と理性とをもって語ることです。愛の無い自分勝手な言葉は、たとえ信仰的熱意から出た言葉であっても、人を傷つけ、混乱を招くだけです。「異言は自分を造り上げ、預言は人を造り上げ、教会を造り上げます」。現代も、愛の無い感情むき出しの言葉や、真実味のない、虚言が氾濫している時代のです。マックス・ピカートの「言葉の背後に沈黙がなければ、どんな言葉も饒舌になる」との言葉は、「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)と語るパウロの言葉と通底しています。「異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語ろう」(19)というパウロの勧めは、今の私たちにも語られた言葉です。霊性を重んじつつ、愛と理性をもって生きる必要があります。「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(15)。

off 新しい創造

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説教:最上光宏牧師

コリントの信徒への手紙(2)5:16-21

 新年を迎えて、若い頃年賀状に書いた「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とのみ言葉を思い起こしました。しかし、年は代わっても、私たちの生活も環境も何も変っていません。このみ言葉は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です」につながる言葉です。誰でもキリストによらなければ、新しくなることは出来ないのです。キリストによる「新しい創造」とは、アダム以来、神に背を向け続けている人間が、最初に造られた時のように、神と向き合って生きられるように「神と和解する」ことを意味します。キリストはそのためにこの世に来られて、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死なれたのです。このキリストによって私たちの罪は赦され、古い自分に死に、新しい人として生きる道が備えられたのです。この、神と和解させて頂き、新しく創造された私たちについて、パウロは「和解のために奉仕する任務」を授かった「キリストの使者」と呼んでいます。キリストが私たちに寄り添い、自ら十字架を担って神との和解の道を切り拓いて下さったように、私たちもこの世にあって、和解を生み出す働きへと召されている、というのです。分裂と争いが絶えず、新たな戦争の危険すら感じるこの世にあって、私たちは、和解を生み出し平和を造り出す「キリストの使者」として、新たな祈りと決意をもって歩み出したいと願います。