毎週の説教メッセージ

off パウロは教え続けた

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録28:11-16

パウロは、ユダヤ人たちを招き(17)、話をしました。その内容は、①自分(パウロ)は先祖の慣習(律法)に背くようなことはしていない(17)、②自分が批判したのは慣習を第一とする考え方(律法主義)でユダヤ人を告発するためではない(19)、③自分が宣べ伝えているキリスト教の使信(メッセージ)はイスラエルが希望していること(神が定めたこと)を成就するためである、です。ユダヤ人たちは応答し(22)、日を決めて大勢で再訪しました。パウロは、「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、説得しようとし」ました(23)。ところが、「ある者はパウロの言うことを受け入れ…他の者は信じようとはしなかった」(24)のです。福音を聞き、受け入れる者と拒絶する者がいるというのは、たびたび起こります。この時、パウロは、預言者イザヤの書を引用し説明しました(25)。ある注解は、この箇所で、イエスの「『大宴会』のたとえ」(ルカ14:15-24)を紹介し、神の国は、貧しく飢え悲しんで侮られている人々のみが、差し出された招きを聞きこれを受け入れることができるだろうと、語っています。こういう事情に鑑み、使徒言行録のパウロは「神の救いは異邦人に向けられました」(28)という表現をしているのではないかと想わされます。誰にでも、福音の門戸は開かれています。使徒言行録の最後は、「パウロは…借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(30-31)と結ばれます。パウロは「捕らわれて」はいましたが、福音の信仰の喜びに生きたのです。

off 神に感謝し、勇気づけられた

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録28:11-16

マルタ島で3か月が過ぎ、パウロたちは春になってアレクサンドリアの船に乗って出港しました。シラクサに寄港して3日間滞在し、海岸沿いにレギオンに行き、南風が吹いて来たのでプテオリに入港しました。きわめて順調な船旅でした。プテオリから陸路を通ってローマに向かいました。ローマまでは200㎞以上ありました。ローマのキリスト者たちは途中アビイフォルムとトレス・・タベルネまでパウロを迎えに来てくれました。「パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」(15)とあります。力や奇跡的救出、神の介入などの記述で満ち溢れているこの使徒言行録の物語において、このことは、多分弟子たちが発揮できるキリスト教信仰の最大の力を意味しています。教会におけるキリスト者の力です。パウロは迎えに来てくれた彼らを見て、勇気をもらったと思います。

私自身も新しい土地に移り住むときに、その地の教会から力をもらいましたし、教会員からも勇気づけられましたし、不安を感じることはありませんでした。

これから待ち受けている厳粛な運命をパウロも理解していたと思いますが、一人ではなく、神が共にいてくださり、同じ信仰者の存在は勇気づけられたと思います。苦難にあるパウロを支え、神がパウロのそばにはっきりといることと、キリスト者たちもまたパウロのそばにいるのです。この旅は、もはやパウロの一人ぼっちのローマへの旅ではないのです。キリスト者にとって、教会が神と人との交わりを大切にする居場所であり、弱さを誇れるような一人一人を大切にするところであれればと願います。

off わたしたちが助かったとき

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録28:1-10

パウロたちが上陸したところは、シチリア島の南方にある、マルタ島と呼ばれる島でした(1,聖書巻末地図9参照)。この島の住民は、ほとんどフェニキヤ人の血統で、言葉もフェニキヤ語の方言を使っていたため、ギリシャ人たちからもローマ人たちからも「未開な人」と見なされていたようです。島の住民は、パウロたちをもてなしてくれましたが、最初はパウロのことを犯罪人と考えたり(4)後には「神様」だと考えたりしました(6)。この後の後半には、島の長官(首長)でブブリウスという人が、「わたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた」(7)という、報告があります。さらに、「ブブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった」(8-9)と、あります。これらの出来事の背後に、「わたしたち」の中に医者ルカの存在を想定する人もいますが、いずれにしても、「わたしたち」が、島の人々を決して「見下す」ことなく、お世話になりながら、島の人々の信頼を受け、病気で苦しんでいる人々に関わる姿に、「宣教」の本来の姿を教えられるような気がいたします。私たちの信仰の歩みは、論争や科学技術の進歩の中にだけではなく、マルタ島の人々とパウロたちの交わりの中にこそあるのではないかと、思わされます。説教題に「わたしたちが助かったとき」としましたが、現実的には肉体的な命が助かったときを表していますが、その背後には信仰の感謝もあったのだろうと想います。そして、その感謝がその後の歩みを導いたのでしょう。

off 東方の学者たち

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書2:1-12

東方の学者たちはエルサレムまで星に導かれてきました。しかし学者たちはユダヤの王はどこで生まれるかを、ヘロデ王に聞きに行きました。王様なら、なんでも知っていると思ったのでしょうか。それともメシアが生まれるのは王宮だと思ったのでしょうか。それを聞いたヘロデ王は民の祭司長や律法学者に尋ねると、「ユダの地、ベツレヘムです」と教えられました。学者たちに自分も拝みに行くから、見つかったら教えてくれといって送り出しました。学者たちは星が先立って進み、その場所を見つけました。そして、ひれ伏して拝み、贈り物をしました。「ヘロデ王の所へ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行きました。ユダヤ人の王が生まれると聞いて、不安に思ったのはヘロデ王だけではありません。エルサレムの人々も同様であったとあります。変化を恐れたのでしょうか。今、何とか暮らしていれば、多少不自由でもこのままでいいと思うのでしょうか。学者たちは星に導かれて、たどり着いたのは家畜小屋でした。飼い葉おけに寝かされている幼子と母を見ました。学者たちは真のメシアの意味がわかったのだと思います。この幼子がどんな人たちのメシアになっていくのかを。そして自分たちの生き方を考えたのでしょう。黄金、没薬、乳香は大変貴重なものですが、イエスとの出会いはそれ以上の価値があったのです。学者たちは別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。イエスに出会った学者たちは今までとは「別の道」を帰って行ったのです。イエス・キリストに従う道を歩みましょう。

off 人は力によって勝つのではない

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説教:加藤 久幸 牧師

サムエル記上2:1-10

今日登場するハンナは、子どもがいないことで悩み苦しんでいました(1章参考)。彼女が歌うのは、祈りがその通り実現したからでしょうか。もちろん、その喜びは確かにあったと想像します。しかし、それとともに、人にはなかなか理解してもらえない自分の悩み、嘆き、苦しみを、神は聞いて受けとめてくださった。一人ではあるけれども、孤独ではないことを、ハンナは身をもって知ったのではないでしょうか。歌・祈りには、歌・讃美について(1)、行いについて(3)、戦いについて(4)、食べ物・子どもについて(5)、命について(6)などが、社会的な広がりをもって歌われています。この歌は、ハンナの「高くされる角」(1、強さ)と主(メシア)の「高く上げられる角」(10、力)の両方を、名誉が回復されるように、見える形で表しているのでしょう。つまり、この歌・祈りは、王の詩編としても、個人的な家族の祝いの歌としても、受けとめられます。そう考えると、この歌・祈りは、ハンナが独創的に歌い展開しているというより、イスラエルがすでに長い間歌い続けてきた歌に、その声を重ねていると言えるでしょう。この歌は、全体として、未来と世界が「開かれる」と歌います。丁寧な説明はなされていませんが、明らかに変化・逆転を強調し、「主は 命を絶ち…命を与え、陰府に下し…引き上げてくださる」(6)と、この方にのみある力を、現実の「復活」を象徴的に讃美しています。私たちも、主が来られる(アドヴェント)・クリスマス(神の介入)の意味を思いめぐらしたいものです。

off 心に語りかけよ、呼びかけよ

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書40:1-11

第2イザヤは、天上の会議に陪席しているかのように、語ります。天上の会議の諸力に対して、主なる神は「慰めよ」(複数命令形)と命じています。この姿は、「神はいない」「神は働かない」と考えられていた現実と全く違うのです…。また、天上の諸力に「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ…罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた」(2)という呼びかけや、「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(3)という呼びかけは、驚きです。神は、地上の再建の詳細を、述べてはいません。しかし、神は、戦争の混沌に代えて、祝福の回復の幻を告げています。それだからこそ、「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」(5)と、告げています。「主の栄光」は神の顕現と神への賛美と関わりますが、第2イザヤの場合は第1イザヤと結びつきます(6章など参考)。今日の聖書は「呼びかけよ、と声は言う」(6)と続きます。この「呼びかけよ」は1人称単数で第2イザヤに向けられたものと想われますが、声は、天上の諸力も地上の民も「草に等し[く]…野の花のようなもの」(6)で、「主の風が吹きつけ」ると(8)「枯れ」「しぼむ」(7,8)が、「神の言葉はとこしえに立つ」(8)、全てを新たにする力がこの神にあると告げるのです。第2イザヤは、「良い知らせを…伝える者よ…声をあげよ…恐れるな」(9)と導かれ、「見よ、あなたたちの神」(9)との使信を始めます。勇士のイメージ(10)とは異なり、羊飼いのイメージ(11)で神の姿を語ります。「神はいない」と思われようが、人知れず、新しく歩み出そうとしていた神の姿に驚かされます。

off 読み聞かせなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

エレミヤ書36:1-10

今日の聖書の関連として、列王記下22-23章にある、一つの書物の発見に端を発するヨシヤ王の改革に目をとめます。その列王記下には、ヨシヤ王の後を継いだのはヨアハズで、ヨアハズの運命とその後に立てられたヨアキムの治世、エジプトの政策などが、報告されています(23:31-37)。本当に、この時代の歴史を振り返るのは難しいと思います。今日の聖書にあるように、神さまはなぜ「わたしが ヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」(2)と、お命じになったのでしょうか。その意図を、神さまは「わたしがくだそうと考えている すべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(3)とも語っています。エレミヤは「主の神殿に入ることも禁じられてい」た(5)ようなので、バルクに次のように命じます。「書き記したこの巻物から 主の言葉を読み、神殿に集った人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい」(6)。何もなかったことにはできない、そのことを伝えなければならない、それでいながら、その証拠・文書すら隠滅されてしまうことが…。神さまの思いと同時に、このアドヴェントの時期、主の言葉を「読み聞かせる」ことに自らの人生と命をかけた、旧約の[記述]預言者の姿を想います。そして、やがて来たり給う主イエスが、神の言葉をどのように「読み聞かせ」歩まれたのかを想います。神の存在を知っているだけでなく、神の言葉を聞き従う大切さを想うものです。

off 本当の希望

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書51:4-11

預言は、預言者を通して、「聞け」という言葉で告げられています。この「聞け」(1,4,7,21)は、聞く者たちに「奮い立て」「目覚めよ」「立ち去れ」(51:9など)という行動に向かうように促しています。行動への促しを受けるのは、後の三つはエルサレム/シオンであり捕囚の民ですが、最初の箇所(9)では主(ヤハウェ)であることに注目しておきましょう。4-6では、語りかけられる人々は「わたしの民/国」へと拡大されていますが、託される委託は「諸国の民」に神の正義・救い・裁きを明らかにすることです(参考・42:1-9)。そして、7-8では、「人に嘲られることを恐れるな」「ののしられてもおののくな」と述べ、彼らは朽ちるものであり、神の「恵みの業はとこしえに続き…救いは代々に永らえる」(8)と述べるのです。預言者の言葉の背景に、厳しい闇の社会が広がっている様を感じます…。この後「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ」(9)と、神さま御自身へ呼びかけられます。具体的には、創造と出エジプトが思い返されていますが(8—9)、根本的には、カオス(混沌)を贖われる主の臨在と主の力の到来を待ち望んだのです。捕囚からの帰還は、当時の人々にとってはこれからのことですが、創造と出エジプトの物語の想起はいつも変わらぬ主の姿を暗示しているのではないでしょうか。望みを見出すことができない人々に対して、共に歩んでくださる方、先に自らの姿勢を示してくださる方、そういう神を見出すことが本当の希望なのではないでしょうか。預言者がそういう地点にまで立ち帰り、預言している姿を想います。

off 生き延びるために

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録27:27-44

十四日目の夜に船員たちは陸地が近いことを感じました。水の深さを測ると20オルギィヤ(37m)で、少し進んで測ってみると15オルギィア(約27m)でした。暗礁に乗り上げると危険なので錨を4つ降ろして朝を待つことにしました。しかし、船員たちは錨を降ろすふりをして小舟を降ろし、逃げ出そうとしていました。パウロは百人隊長や兵士たちに「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたたちは助からない」(32)と言って、綱を切って小舟を流しました。朝になり、パウロは「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33-34)と言って、パンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを食べ始めました。船の中にいた人たちも十分に食べました。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくならないという言葉に励まされ、食事をする気になり、可能性への期待を持ったかもしれません。朝になり、どこの陸地かわかりませんが砂浜のある入り江を見つけて、そちらに進みました。しかし、深みの浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、動かなくなりました。船尾は壊れ始めました。兵士は囚人たちが逃げるかもしれないと思い、殺そうとしましたが、百人隊長は泳げる人は泳いで陸地へ、以外の人は板切れや乗組員につかまって泳いで全員が無事に上陸しました。パウロの神を信頼する姿勢に学びましょう。

off

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録27:1-26

航海が始まります(地名は聖書巻末地図9参照)。航海はシドンに寄港し、「向かい風のためキプロス島の陰を航行し」(4)、「リキア州のミラに着いた」(5)。「ここで百人隊長は、アレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた」(6)が、「船足ははかどら」なかった(7)。「風に行く手を阻まれ…クレタ島の陰を航行し…ようやく…『良い港』と呼ばれる所に着いた」(7-8)。パウロは「良い港」で忠告をしますが聞き入れられず(9-11)、この後出港した船は、「南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて 錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく、『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろしてきた。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた」(13-15)。そして、「…ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日後には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間…暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」(18-20)。この時パウロは人々に語り始めます(21)。昨夜神の天使がパウロのそばにたった(23)という不思議な経験をへて、彼は、「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。…わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」(25-26)と、宣言します。私たちは、望みが消えそうな時、希望を失わず、神を信頼し、具体的に行動できるでしょうか。