毎週の説教メッセージ

off 一つになるために

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①11:17-22

コリントの教会には、指導者をめぐる分争のほかに、食事をめぐる「仲間割れ」がありました。各自食べ物を持ち寄って、共に分け合って会食をする大切な交わりの場で、早く来た金持ちたちは、貧しい労働者や奴隷の身分の人たちを顧みず、自分たちだけで飲み食いしていたのです。満腹し、酒に酔っている者がいる一方で、労働を終えて遅れて来た貧しい人たちは、食べる物がなく、空腹のままでいるというありさまでした。パウロは、そのような状態に、「あなたがたは神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせるのか」と憤り、主イエスのなさった「最後の晩餐」について述べているのです。主イエスはすべての弟子たちにパンとぶどう酒を与え、「これはあなた方のためのわたしの体であり、血である」と言われました。これは、主イエスの十字架の死は、すべての人の罪を贖うためであることを示しています。

今の時代、富める者が優遇され、貧しい者や弱い立場の人たちが、ますます無視され、その格差が広がりつつあるように思われます。私たち自身、自分の欲を満たすことに心を奪われ、どれだけ弱い立場や小さき者の立場に立って、共に生きようとしているか、反省させられます。「仲間割れ」を避けて、共に助け合って、一つになるために、主イエスは十字架の道を歩まれたのです。

off 召しに応えて

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説教:森 淑子 牧師

ヨハネによる福音書 21:15-19

ヨハネによる福音書は20章をもって完結しています。21章は後につけ加えられたのだと言われています。その理由はイエスが二人の指導的な弟子(ペテロと愛弟子)の将来について語られた事を告げるためです。15節~19節のペトロの場合から何を示そうとしているのか聞き取りたいと思います。
朝の食事が終わると、主イエスはぺトロに「ヨハネの子シモン。この人たち以上にわたしを愛するか」と言われた。共にした食事は赦されている者たちとの新しい交わりです。しかし、ペトロは自らの罪責感から複雑な思いでいたことでしょう。そこで主は「ヨハネの子シモン」と呼びかけられた。「ペトロ」は愛称で「ヨハネの子シモン」が本名です。この時ペトロは最初の召命の時のように、自分が一人の人として主の前にあることを覚えさせられたのではではないでしょうか。ここ後、主は三度「わたしを愛するか」と問われ、ペトロは「はい、主よ、あなた愛することはあなたがご存知です」と答えた。主は三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。これはペトロの三度の否認に対する三度の再召命です。
そして最後に「わたしに従いなさい」と主は言われます。主を愛することは主に従うこと。ペトロは共同体を導く使命を与えられ、共同体と共に従うよう命じられたのです。私たちは共同体の一員として主に従う者でありたいと思います。

off 神の栄光のために

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①10:23-11:1

コリントの教会にとって、偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうかどいう問題は、大きな問題でした。律法を大切に守って来たユダヤ人キリスト者にとっては、信仰的良心に関わる事柄だったからです。パウロは、偶像は神ではなく、キリストによって解放された私たちは自由であるという観点から、何を食べても自由であると主張しました。しかしそれと同時に、「食物のことで兄弟をつまずかせるくらいなら、わたしは今後決して肉を食べない」(8:13)とも言い切りました。

パウロにとっての「自由」は、「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求め」、他者に仕えることでした。それは自らの自由を「肉の働く機会とせず」、弱い立場の人(「いと小さき者」)の良心に寄り添い、共に歩むことを意味しました。

パウロは、この問題の結論として、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」と勧めています。「ただ神の栄光のために」。これは、宗教改革者カルヴァンがジュネーブの改革の旗印としたものですが、ここにこそ私たちキリスト者の信仰生活の土台があるのです。神の栄光のために生きることは、自分の利益や自分の飲み食いのことに心を煩わせることではなく、主から与えられた自由をもって、主が愛された「いと小さき者」に仕え、共に生きることなのです。

off 試練の中で (教会創立49年記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①10:1-13

イスラエルの民は、かつてエジプトの奴隷でしたが、神の選びと導きによって奴隷の地から解放され、40年の荒野の時代を経て、「乳と蜜の流れる」約束の地を受け継ぎました。パウロは、このイスラエルを教会の原型とみなし、今は荒野の時代ではあるが、神の国を目指す「神の民」として、イスラエルの歩みを前例として、今に生かそう、と説くのです。イスラエルの民は、荒れ野において、絶えず神の御手によって守られ、天からのマナや岩からの水によって養われて、約束の地へと導かれましたが、その途上、モーセがシナイ山に登っている間に不安にかられた民は金の子牛を拝む罪を犯し、絶えず食べ物や水が少ないと不平不満を言って神を試み、土地の娘たちと戯れるなどの過ちを犯しました。そのため多くの民が神の怒りによって滅ぼされました。パウロはこの過去の神の民の歴史を、現在のコリントの教会の現状に当てはめ、過去の歴史を「前例」として、今に生かせ! と警告するのです。ドイツの前大統領のヴァイツゼッカーは、「過去に目を閉ざす者は、未来に対して盲目である」と述べましたが、私たちは過去の先達たちの歩みから、多くのことを学びつつ今に生かし、悔い改めつつ次世代に引き継いでもらう必要があるのです。「神は真実な方です。耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていていてくださいます」

off 仕える自由

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①9:19-23

M.ルターは、名著「キリスト者の自由」の冒頭で、二つの命題を掲げています。その一つは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない」であり、他の一つは「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」です。この二つの命題は、パウロの「わたしは、誰に対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました」(19)からとられたものです。自由と奴隷というこの相反する二つの立場を結び合わせるのが、隣人への愛です。パウロはそのことを「その人を得るためです」という言葉で言い表しています。主イエスは漁師のシモンに「人間を獲る漁師になりなさい」と言われましたが、「人を得る」とは、隣人を愛して、その人を神の救いへと導くことです。そのためにパウロは「どんなことでもする」と言い、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった」「異邦人には異邦人のようになった」「弱い人には弱い人のようになった」「すべてのひとにはすべての人のようになった」と言います。これは相手に対する媚びや同調ではありません。キリストにある主体性をもって、相手のために相手を愛する、自由な仕える生き方です。キリストによって罪赦され自由にされた私たちは、その与えられた自由を、自分の肉の欲のためにではなく、神と隣人のために、喜んで仕えるために用いたいものです。主よ、私にも「愛する自由」をお与えください!

off 権利と自由

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①9:1-18

キリスト教の迫害者であったパウロが、復活のキリストと出会って、伝道者になったことは、各地で波紋を呼びおこしました。パウロを「使徒」として受け入れることに批判的な人々の中には、彼が使徒としての権威に欠けていると悪口を言う人たちがいたようです。彼が飲み食いを控え、妻をめとらないこと、生活のために仕事(天幕造り)をしていることなどが、批判の対象になったようです。それらは、偶像に供えた肉を問題にする人をつまずかせないための配慮や、厳しい伝道に専念するための自制、また貧しい信徒たちに経済的負担をかけないための努力であったのです。心ない批判は、どんなにパウロの心を傷つけたことでしょう。彼は、自由と権利を持ちつつ、あえてそれを自分のために「用いず、利用しない」と言い切っているのです。自由を自ら規制する自由、権利を自ら用いない権利があるのです。それは、単なる我慢ではありません。他者への愛と、福音に生きる喜びの故です。パウロにとって、福音を語ることが喜びであり、福音を無償で伝えることで、十分な報酬を得ている、と言うのです。私たちは、ここに自分の権威に固執せず、一切の権利を捨てて、十字架への道を歩まれた主イエス・キリストの生き方を示されます。私たちも自分の権利と自由のみを主張するのではなく、神といと小さき者のために、自由な喜びをもって仕える者になりたいと願います。キリストの心を心として。

off 唯一の神

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)8:1-6

偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか? コリントの教会の中で問題になったこの問い対して、パウロは食べても食べなくても自由であると答えています。パウロはその論拠として、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」と述べています。これは、十戒の第一戒の「神以外のいかなるもの(偶像)をも神としてはならない」という戒めに基づくものです。彼はその信仰に立って「万物は、唯一の主イエス・キリストによって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」と告白しています。ここにわたしたちの自由の根拠があります。キリストによって解放された私たちは、何者をも恐れず、また何事にもとらわれず、自由に大胆に生きることができるのです。何を食べても、食べなくても自由なのです。しかしパウロはそのように答えつつ、もしその肉を食べることが、弱い兄弟をつまずかせることになるなら、「わたしは今後決して肉を口にしません」(13)と言い切っています。真の自由は、他者への愛の故に自己を抑制し、相手に仕える自由となるのです。神ならぬ神々が祀られ、人間が神格化され、資本や金、権力や名声などが絶対化される今日の日本の社会の中で、私たちは、主イエス・キリストを通して示された唯一の神のみを神としてあがめ、愛をもって自由に他者に仕える歩みを大胆に貫き通したいものです。

off キリストによる自由

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①7:17-24

パウロはここで、3度も繰り返して「召されたときの身分のままでいなさい」と勧めています。割礼を受けている者はその跡をなくそうとせず、受けていない者は受けようとせず、奴隷であったものも奴隷のまま、自由な身分の者もそのままでよいというのです。これをパウロの保守主義と見る人もいますが、彼は単に現状維持をとなえているのではありません。「古いものを脱ぎ捨て、新しく生まれる」ことこそ、パウロの願いです。「そのままの身分でよい」とは、コリントの教会の中に、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人の身分の違いによる差別や対立があり、強い立場の者が傲慢に振舞い、弱い立場の者が自らを卑下し、強く見せかけようとする不自由さがあったためと思われます。パウロは「召されたときのままでいなさい」と繰り返すことによって、< 神さまはあるがままのあなたを愛し、召し(選び)、救って下さったのだ。そのままでよいのだ >と、まず、神から愛されている自分自身を受け容れることを勧めているのです。「あなたがたは身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷になってはなりません」と。奴隷も自由人も、ユダヤ人もギリシャ人も、皆、イエス・キリストがご自分の命を犠牲にして買い取られた自由なキリストの僕(しもべ)なのです。互いに、身分や立場の違いを越えて、自由な愛をもって和解し合い、共に主の召しに応えて歩もうと訴えているのです。

off 自分の体で神の栄光を

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説教:最上  光宏牧師
コリントの信徒への手紙①7:17-24
「わたしには、すべてのことが許されている」。ここで2度繰り返されているこの言葉は、コリントの人たちが口癖のように語っていた言葉です。彼らはこの言葉で、自由を謳歌し、享楽的な生活を楽しんでいたのです。それに対してパウロは「しかし、すべてのことが益となるわけではない」、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と語ります。人間の欲望は、自然を破壊し、貧しい人々を窮地に追いやり、自分の身をも破滅に導きます。それは自由に振舞っているようでも、肉欲に縛られ、罪に支配されている状態です。このような自由のはき違えは、極めて今日的な課題です。イエス・キリストがこの世に来られ、十字架に架かられたのは、このような肉欲と罪の奴隷状態から私たちを解放するためです。パウロは、コリントの信徒に「あなたがたは代価を払って買い取られた」キリストの僕であり、「キリストの体の一部である」であることを強調し、自由の名のもとに、自分の身を汚してはならない、「自分の体で神の栄光を現わしなさい」と訴えたのです。私たちは、この世にあって、この世のものではなく、キリストによって贖われた「キリストのもの」です。この世の流れに流されず、「地の塩」「世の光」としての役割を果たしていく者でありたいと願います。

off 召しにふさわしく歩む

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説教:高桑 義雄 教師
フェソの信徒への手紙4:1-6
私達の信仰生活とは「招き(召し)」にふさわしく歩むことであって、そこには招く方である神と、招きに応じる者である私達人間があります。神が私達を招く目的は、人間を御国の民としてキリストの教会に加えることであり、私達は神によって召し集められて教会に集っている者達です。
招かれた者である私達は、神が造り主であることを覚えることが大切です。私達は神によって造られた者であり、神の支配下に置かれています。このことを知るならば、私達は高ぶることなどできません。神の愛にふれ、互いに許し合い、耐え忍ぶとき、私達の心に平和が与えられます。この平和こそが教会の一致の基礎となるのです。教会の一致は霊による一致とも言われており、教会に一致をもたらす聖霊の力を私達は熱心に求め続けることを勧められています。なぜなら一致は熱心に求めないことには、決して与えられないものだからです。
私達は神によって召し出され、教会の一員となりました。この神の招きに応じて一致した教会を築き上げていくことこそ、召しにふさわしく歩むということです。私達は聖霊の力を熱心に求め続け、高ぶることなく、柔和、寛容、忍耐を行う教会として、共に一致して歩んでいきたいと思います。