毎週の説教メッセージ

off 目の中の丸太

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:37-42

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と主は言われます。「裁く」とは、人の価値を判断することであり、有罪判決を下すという意味です。

神さまは、天地を創造されたとき、造られた全てのものをご覧になって「極めて良い」とされました。神が良しとされた者を、人が勝手に判断し、「ダメだ」と決めつけることは、自分を神の立場に高めることになります。私たちは、人を裁くことが出来るのは神のみであることを自覚し、常に主の前に謙虚になり、互いに赦し合い、愛し合うことが求められているのです。主イエスは、互いに非難し合い裁き合う弟子たちに、譬えで次のように語られました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」と。人の小さな短所や過ちを気にしても、自分の大きな欠点や罪には気が付かないという、私たちの盲点を突いた指摘です。ダビデ王は、忠実な部下を戦死させその妻を奪うという罪を犯しながら、預言者ナタンに「それはあなただ」と諭されるまで、相手の痛みに気付きませんでした。権力の座に着くと、良心が麻痺し、相手の痛みに鈍感になるようです。私たちの目の中の丸太は何によって取り除かれるのでしょうか。主イエスの担った十字架は、荒削りの丸太でした。主が私たちの罪を担って死んでくださったのです。

off 敵を愛しなさい

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:27-36

「敵」とは、愛しえない者のことです。私たちを憎み、悪口を云い、侮辱する者のことです。主イエスはそのような「敵」を愛し、親切にし、祝福し、祈りなさいと命じられます。どうして「敵」を愛さなければならないのでしょう。黒人差別撤廃のために命を捧げたM.Lキング牧師は、自分たちの命まで脅かす「敵」を愛さなければならない理由として4つことを挙げています。①憎しみに対して憎しみで報いることは、闇に闇を加えるようなもの。愛こそが闇を駆逐する光だから。②憎しみは、相手を傷つけるだけでなく、自分の人格をも破滅させる。③愛のみが敵を友に変える。④私たちが神の子となるため。 私たち自身、かつて神に逆らっていた「敵」でした。そのような私たちのために神は御子キリストを通して、子として受け入れ愛してくださいました。この神の愛に応えることが④の意味です。八木重吉の詩に「許しうるものをゆるす/それだけなら/どこに神の力が要るか/人間に許しがたきを許す/そこから先は/神のためだと知らぬか」というのがあります。神の愛と赦しによってこそ、私たちは「敵」をも愛し赦すことが出来るのです。十字架の上で「父よ、彼らを許したまえ、何をしているのか知らないのです」と祈られた主イエスは、私たちにも「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われるのです。世の和解と平和のために。

off 信じて、帰る

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説教:小倉 和三郎 教師

ヨハネによる福音書4:46~54

重態の息子をかかえる父親の必死な願いに対して、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と告げました。このお言葉は予想外で、大いに疑問を感じます。けれども主イエスは、父親や私たちの「願いを叶えてもらう信仰」」を自己中心な信仰としてはっきり否定なさったのです。その信仰は自分を主として、神を従者、僕とする信仰だからです。

父親はそのことに気づいて、はっとして、「主よ」と答えました。つまり神を主として自分を僕とする信仰を告白しました。そして御心ならは息子をぜひ癒していただきたいのですが、全てを主なる神にお委ねします、という信仰を言い表しました。

主イエスは父親に「独りで帰りなさい」とお命じになりました。これも厳しすぎる命令です。しかし主イエスは「あなたの息子は生きる」と約束してくださいました。この約束は病気の息子の回復だけでなく、私たちを含む全ての人間の救いと永遠の命の大いなる約束です。父親は一人で帰途に着きました。しかし彼をキリストの約束のお言葉と聖霊の力が伴い支えとなりました。ここにキリストのお言葉を信じて従う、応答の信仰の姿が鮮やかに証しされています。

off 幸いと不幸

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:20-26

主イエスの説教は、「幸いだ!」という祝福の言葉で始まっています。その教えが「神の国の福音」だからです。それにしても、「貧しい人、飢えている人、泣いている人、人から憎まれている人たち」が、なぜ「幸い」なのでしょう。主イエスが来られたことによって、神の国(神の支配)がすでに始まっているからです。主が彼らと共におられ、その貧しさや飢え、悲しみ寂しさを共に担い、正しく報いて下さるからです。 一方、主イエスは「富んでいる人、満腹している人、笑っている人、人から褒められている人」に、「あなたがたは不幸だ!」と言います。これらの人たちは、この世の富や名声に満足し、神の国(神の支配)を受け入れようとしないからです。貧しい人や、飢えている人、泣いている人、虐げられている人々が大勢いる中で、自分だけ富んで、満腹し、笑い、自己満足していることは、ほんとうに幸せなことなのか? と主イエスは問うておられるのです。むしろそれは、神の前に「不幸だ」と言われるのです。神のみ心は、富んでいる者も貧しい者もなく、愛をもって互いに分かち合い、喜びも悲しみも共にする「共生」の社会なのです。主イエスはそのために貧しくなられ、私たちに仕えて下さったのです。「み国を来たらせたまえ」と祈りつつ、主のみ心に従いたいものです。

off 安息日の主

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書6:1-11

モーセの十戒の中に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めがあります。これは、神が天地を造られた時、6日間働いて、7日目に安息されたことにちなんで、この日、息子娘、男女の奴隷、家畜、寄留の外国人に至るまで、すべての労働から解放され安息にあずかるよう定められた祝福の日でした。しかし人々はこの戒めを守るために、数多くの細かな規則を作り、息苦しい日にしてしまったのです。ある安息日、イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたということが、ファリサイ派の人々の非難を受けました。安息日に禁止された収穫、脱穀、篩い、食事の世話などの労働とみなされたからです。またほかの安息日にイエスが右手の萎えた人を癒されたことが、律法学者たちを憤らせました。人を生かし、自由と喜びをもたらす神の戒めが、いつの間にか自由と命を奪う掟にされてしまったのです。非戦を誓った「平和憲法」が、戦争するための道具に改悪されつつある傾向や、学校や教団などの管理体制が次第に強化されつつある傾向とどこか似ています。主イエスは命を懸けてそのような体制と闘い、人々の自由と命を守るために十字架の道を歩まれたのです。「人の子は安息日の主である」からです。主は復活を通して、「週の初めの日」を真の安息の日、礼拝の日とされたのです。

off 新しい酒は、新しい革袋に

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:33-39

イエスさまは、徴税人や「罪人」と呼ばれてさげすまれている人たちと、よく食事を共にされました。疎外されていた人たちの友となられて、彼らに新しい命と力を与えるためでした。それは、断食を重んじる当時の人々の目に、奇異な印象を与えたようです。主イエスはそれに答えて、今は花婿が一緒に居る婚礼の時であり、喜びの時だ、と言われました。これは、キリストの到来によってすでに神の国が始まっていることを意味する言葉です。イエス・キリストによってもたらされた神の国の福音は、これまでの古い習慣や生き方を打ち破り、すべての人と喜びを分かち合う、新しい解放された生き方へと私たちを導くのです。 今は、古い服を脱ぎ捨てて新しい服を着るべき時なのです。だれも、新しい服から布切れを切り取って古い服につぎ当てしないように、信仰は、旧態依然とした古い習慣や生き方をそのままにして、福音の一部を貼り付けるようなものではなく、新しく生まれ変わることなのです。また、古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなことでもないのです。新しいぶどう酒は、発酵によって古い革袋を破るように、福音は古い体質を内側から破る力を秘めています。悔い改めて、「新しい酒を新しい革袋に」注ぎ入れ、新たな命と力に満たされて新年度の歩みを励みましょう。

off あの方は復活なさった

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書24:1-12

主イエスの復活を最初に宣べ伝えたのは、使徒たちではなく、マグダラのマリアたち数名の婦人たちでした。主イエスの十字架の死を最後まで見届け、遺体の埋葬にまで立ち会った彼女たちは、安息日の明けるのを待って、日曜日の朝早く香油を携えて主の墓を訪ねたのです。そこで彼女たちは驚くべき光景を目撃しました。墓は空で、天使から「なぜ生きている方を死者の中に捜すのか。あの方はここはおられない。復活されたのだ」と聞かされたのです。彼女たちの深い悲しみは大きな喜びに変えられ、墓を後にして弟子たちと他の皆に「主は甦られました」と伝えたのです。しかし使徒たちはそれを「たわ言のように思い、信じなかった」のです。この使徒たちの不信仰は、どこからきているのでしょうか。一つの理由は、自分たちの保身のために、主イエスの苦難と死から遠ざかったことです。第二の理由は、復活の証言が「女」たちによって伝えられたことです。彼らは当時の男尊女卑の風習から自由になれなかったようです。第三に考えられることは、マグダラのマリアの過去に対するこだわりです。彼らは自分の罪を棚に上げて、七つの悪霊に取りつかれ「罪の女」と呼ばれていた彼女の過去にこだわっていたのです。彼らのずるさと偏見と心の狭さは、私たちの弱さと罪なのです。

off キリストの死によって

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説教:最上 光宏 牧師

ローマの信徒への手紙5:6-11

イエス・キリストの十字架の死は、死刑執行人の百人隊長はじめ、多くの群衆に深い感銘を与えました。しかしその死の真の意味が明らかになったのは、3日後の復活を通してでした。パウロは、ここで「キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信人な者のために死んでくださった」と述べています。この「弱く」「不信人」であったという言葉は、「罪人であったとき」、「敵であったとき」という言葉に言い換えられていますが、ここにパウロ自身の苦い体験が込められています。彼はかつて自らの弱さに絶望し、「なんと惨めな人間なのだろう」と自らの不信人に嘆いていました。律法を学べば学ぶほど自らが罪人であることを知らされ、キリスト教徒を迫害することによって、神の義を得ようとしたのです。迫害のさ中、ダマスコ門外で復活のキリストと出会い、見えなくなった目が開かれた時、彼は知らずに神に敵対していた自分自身に気づかされ、キリストの十字架は、そのような自分の罪を贖うための犠牲の死であり、それによって神の赦しと和解が与えられたことを悟ったのです。彼はキリストの十字架の死を通して、神の愛を知り、迫害者から伝道者に生まれ変わったのです。苦難の中で「神を誇りとして」生きるパウロの生き方に私たちも与りたいものです。

off 十字架の誘惑

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書23:25-29

ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立てられました。主イエスを真ん中にして、両はじに二人の犯罪人が磔にされたのです。これは、主イエスがイザヤ書53章の苦難の僕の預言どおりに、「罪人の一人に数えられた」ことを意味します。十字架上のイエスに対して「メシアなら自分自身を救え」という罵りの言葉が、イエスを磔にした兵士たちや議員たちから浴びせかけられました。これはかつて荒れ野で悪魔の誘惑を受けた時のように、神の子としての権威と力を自分の救いのために利用して、安易な生き方へといざなうものでした。主イエスは、ここでも悪魔の誘惑を退け、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。主イエスは、十字架の苦しみを最後まで担うことによって、悪魔の虜になっている人々の罪を負い、執り成しの祈りをされたのです。犯罪人の一人は、それとは知らずに「自分自身と我々を救ってみよ」と悪態をつき、もう一人の犯罪人はそれをたしなめて「我々は自分のやったことの報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない」と語り、「み国でわたしを思い出してください」と祈ったのです。主イエスの執り成しの祈りに、心打たれ悔い改めてすべてを主のみ手に委ねたのです。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。主にある死は新しい命の始まりなのです。

off あなたの罪は赦された

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書5:17-26

 中風で寝たきりの病人が、床ごと友人たちに運ばれて主イエスのもとにやって来ました。主イエスの居られた家は、多くの人で入る余地が無かったために、友人たちは病人を屋根まで担ぎ上げて、瓦をはがして、病人を主イエスの前に釣り降ろしたのです。これは明らかに非常識で乱暴なやり方でした。もしも礼拝の最中にそのようなことが起こったらどうでしょうか。当然のように非難の声が上がったことであろう。住居破損、不法侵入で訴えられても仕方のないような暴挙です。しかし主イエスは、その友人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と言われたのです。救いを求めて集まってきていた人々も、それなりの信仰をもって主を取り囲んでいたに違いありません。しかし彼らの内、誰一人として、この病人のために場所を譲ろうとはしなかったのです。「人間の壁」は、屋根の瓦よりも固く冷たかったのです。友人たちは、そのような障害にもめげずに、一人の病む友を主イエスに引き合わせるために必死になって、力を合わせたのです。主イエスは、その彼らの「信仰」を見たのです。信仰は、ただ自分の心の満足にとどまるものではありません。主の恵みと愛に応えて、助けを必要としている隣人のために仕える行動、生き方を伴うのです。この友人たちの「信仰」の故に、この病人は罪を赦され、肉体の拘束からも解放されたのです。