毎週の説教メッセージ

off 復活の希望

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説教:最上 光宏牧師

コリントの信徒への手紙①15:12-19

人はだれでも、未来に希望が無ければ、生きられません。そこで、私たちは未来に様々な夢を描き、希望を見出そうとします。しかし、どのような夢や希望も、「死」によって頓挫し、一切が虚しいものに思われます。死がすべての終わりであり、滅びである限り、未来に希望をもつことは難しいのです。しかし、聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、「死は勝利に飲み込まれた」、死は命の終わりではなく、新しい命の始まりであることを告げています。「死者の復活」とは、そのことを指しています。キリストの恵みによって、「永遠の明日」が約束されているのです。
かつて教団の議長であった鈴木正久牧師は、末期がんの宣告を受けた時、一瞬、目の前が真っ暗になり、明日がなくなったと思ったそうです。そして明日のない自分に、今日生きる意味がなくなったと感じたのです。しかし間もなく、聖書の中の「キリストの日に備えて」という言葉から、キリストの支配する輝かしいほんとうの明日を見出し、今まで以上に今日という日の貴重さを自覚し、病を押して、教団の「戦争責任告白」に基づき、韓国の教会との和解や沖縄キリスト教団との合同のために働かれ、安らかに主のみもとに召されたのです。キリストにある希望は、失望に終わることはありません。キリストのものとされた私たちは、キリストのいのちにあずかって、「死んでも生きる」のです。

off あなたの隣人はだれですか?

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説教:小林  則義 牧師(七里教会)

ルカによる福音書10:25-37

私たちは、本当に、傷ついて、倒れている人の隣人になれるのでしょうか?費用もかかるし、時間も取られる、面倒なことになります。自分の身に危険が迫ることもあるかもしれません。何故自分が関わらなければならないかという思いも湧き上がってきます。私は、高校を卒業し、一度就職してから受験勉強を始めました。当時1日に10数時間は勉強しました。しかし、いくらやっても成績は上がらず、とうとう勉強が続かなくなりました。頼れるものが何もなくなったように思え、自分ががたがたと崩れていくのがよく分かりました。私が22歳の時です。部屋で悶々としていると、高校時代にたまたま読んだ聖書のみことばが思い出されました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)この聖書のみことばが暗闇の中から光を帯びたように、私に迫って来ました。不思議なことに、このみことばで私は立ち上がることができたのです。今思うと、この時、私は「追いはぎに襲われ、傷ついて、倒れている人」だったと思います。私を介抱し、私を癒し、私を立ち上がらせてくれた方、それはイエス・キリストでした。よきサマリア人とはイエス・キリストのことです。私の本当の隣人はイエス・キリストだったのです。私たちは、よいサマリア人、本当の隣人、イエス・キリストのお手伝いをするように招かれているのです。

off 最も大切なこと

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①15:1-11

パウロは、コリントの教会に伝えた福音について、「最も大切なこと」と呼び、「わたしも受けたものです」と語っています。福音(良いしらせ)は、「最も大切なこと」の故に、語り伝えられ、受け継がれていくのです。ある集会で年配者たちが「終活」について語り合い、何を捨てるかという身辺整理(断捨離)について話していた時、若い女性が「終活とは、何かを捨てることではなく、大切なものを後世に遺すことではないですか」と言われ、ハッとさせられたことがあります。内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演の中で、私たちは、後世に何を遺すべきなのかと問い、誰にも出来ることとして、真実な生き方を遺し、少しでもこの世を明るく平和な世の中にしよう!と呼び掛けました。私たちキリスト者にとって「最も大切なもの」は、イエス・キリストの福音です。主イエスが私たちのために十字架に死に、復活して、私たちに出会われ、私たちと共にいてくださるという「神の恵み」です。パウロはこれを「宝」と呼び、「土の器」であるわたしたちは、この宝の故に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず…」(Ⅱ4:9)と謳います。私たちは何を「最も大切なもの」として、子や孫、後世に伝え、遺そうとしているのでしょうか。願わくは、キリストの福音にあずかって、真実な生き方を遺したいものです。

off 霊と理性によって

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説教:最上 光宏牧師

コリントの信徒への手紙(1)14:1-25

コリントの信徒への手紙(1)の12章から14章に記されていることは「霊の賜物」についてです。人それぞれに神から賜物が与えられていますが、それぞれの賜物を重んじ、尊重し合うことが大切です。コリントの教会には霊的に熱心なあまり、わけの分からない「異言」を語り出して、礼拝の秩序を乱す人が少なからずいたようです。パウロはそれをも「霊の賜物」として認めつつ、独りよがりの熱狂主義をいさめ、「異言」よりも「預言」を語るように勧めています。「預言」とは神の言葉を愛と理性とをもって語ることです。愛の無い自分勝手な言葉は、たとえ信仰的熱意から出た言葉であっても、人を傷つけ、混乱を招くだけです。「異言は自分を造り上げ、預言は人を造り上げ、教会を造り上げます」。現代も、愛の無い感情むき出しの言葉や、真実味のない、虚言が氾濫している時代のです。マックス・ピカートの「言葉の背後に沈黙がなければ、どんな言葉も饒舌になる」との言葉は、「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)と語るパウロの言葉と通底しています。「異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語ろう」(19)というパウロの勧めは、今の私たちにも語られた言葉です。霊性を重んじつつ、愛と理性をもって生きる必要があります。「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(15)。

off 新しい創造

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説教:最上光宏牧師

コリントの信徒への手紙(2)5:16-21

 新年を迎えて、若い頃年賀状に書いた「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とのみ言葉を思い起こしました。しかし、年は代わっても、私たちの生活も環境も何も変っていません。このみ言葉は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です」につながる言葉です。誰でもキリストによらなければ、新しくなることは出来ないのです。キリストによる「新しい創造」とは、アダム以来、神に背を向け続けている人間が、最初に造られた時のように、神と向き合って生きられるように「神と和解する」ことを意味します。キリストはそのためにこの世に来られて、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死なれたのです。このキリストによって私たちの罪は赦され、古い自分に死に、新しい人として生きる道が備えられたのです。この、神と和解させて頂き、新しく創造された私たちについて、パウロは「和解のために奉仕する任務」を授かった「キリストの使者」と呼んでいます。キリストが私たちに寄り添い、自ら十字架を担って神との和解の道を切り拓いて下さったように、私たちもこの世にあって、和解を生み出す働きへと召されている、というのです。分裂と争いが絶えず、新たな戦争の危険すら感じるこの世にあって、私たちは、和解を生み出し平和を造り出す「キリストの使者」として、新たな祈りと決意をもって歩み出したいと願います。

off 主よ、今こそ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:22-35

幼子イエスを胸に抱いたマリアとヨセフが、新生児奉献のために神殿に詣でた時のことです。大勢の参拝客で賑わう境内で、シメオンという老人がいきなり幼子を自分の腕に抱きあげ、高らかに神を賛美したのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます…」と。老シメオンは、イスラエルの慰められるのを待ち望み、毎日神殿で祈っていたのです。その祈りが聴かれて、聖霊の導きによって、幼子イエスを胸に抱くことが出来たのです。「主よ、今こそ…」という老シメオンの賛歌の中に、自分の人生に「思い残すことは何もない」という満ち足りた喜びと感謝の思いがこもっています。このような思いで自分の人生を締め括ることの出来る人は幸いです。ハイデルベルク信仰は、「生きる時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何か」という問と「私が、生きる時も死ぬ時も、真実の救い主イエス・キリストのものであることです」という答えで始まっています。イエス・キリストとの出会いは、私たちにそのような「慰め」を与えます。しかし、老シメオンは自分だけの慰めを得ただけではありません。それが同胞イスラエルの慰めと共に「異邦人を照らす光」となり、「万民のための救い」でもあると、謳いあげているのです。ここに、御子の降誕を祝った私たちの喜びと希望があります。今こそ、主の光を高く掲げて歩みましょう。

off 全ての民に与えられる喜び

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:8-21

クリスマスは、全ての民に与えられる大きな喜びの出来事です。日夜、羊と共に生活する羊飼いたちは、厳しいローマの住民登録が強制執行される中、野原で、羊の群れの番をしていました。町に住めない彼らは「住民」から除外され、排除されていたのです。そのような貧しく、差別されていた彼らに、上からの光が射し、大きな喜びのおとずれが告げられたのです。人々が待ち望んでいた救い主メシアの降誕です。その徴(しるし)が、黄金のベットや絹の羽根布団ではなく、「飼い葉桶」と「ぼろ布」だというのです。羊飼いたちの恐れは歓喜に変わりました。救い主の宿られた場所が、自分たちの寝起きしている場所と同じような家畜の匂い漂う家畜小屋であったからです。救い主キリストは、すべての人を救うために、自らへりくだり、最も貧しく虐げられている人たちに連帯されたのです。羊飼いたちは、「飼い葉桶の主」を心からあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。羊たちの待つ闇の野に。そこには、厳しい生活と冷たい差別がありましたが、彼らの心は新たな喜びと希望に満ちあふれていました。飼い葉おけの主が、彼らの心の中に宿られたからです。クリスマスを祝った者の喜びの姿がここにあります。時代の闇は依然として深く、日本の政治も世界の状況も混沌としていますが、神はその闇の中に、御子を通して光を投じられました。主と共に、希望と喜びをもって生きたいものです。

off 救い主の宿る場所

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書2:1-7

イエス・キリストが誕生して宿られた場所は、ベツレヘムの飼い葉桶でした。皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録のため、身重のマリアまでが夫ヨセフと共に、ガリラヤのナザレからベツレヘムまでの長旅を強いられたのです。しかし、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったために、マリアは家畜小屋で出産し、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。この悲惨な出産は、原爆投下直後の広島の地下壕で、重症の助産婦が若い婦人の出産を命がけで助けた実話「生ましめんかな」の詩を連想させます。そこには、地下壕の被爆者みんなが、自分の苦しみを越えて、「生ましめんかな」という、新しい命に対する祈りの思いが描かれています。ベツレヘムの宿屋には、多くの人が泊まっていましたが、誰一人、出産ま近のマリアに場所を譲ろうとする者がいなかったのです。宿泊者たちも、旅の疲れでホッとしている気持ちはよく分かります。しかし事は、若い婦人と赤ん坊の命にかかわることがらです。「場所がない」のは、彼らの心のゆとりの問題です。現代の私たちも、自分の幸せや満足を満たすことや思い煩いで、心の余裕を失い、他者の命にかかわることに無関心、無責任になっていないでしょうか。イエスさまを戸の外に追い出すようなことのないよう心の深みに迎えましょう。

off 約束を信じる喜び

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説教  最上 光宏牧師

ルカによる福音書1:26-45

天使から思いがけない受胎の告知を受けたマリアは、直ちに、年老いた親戚エリサベトを訪ねました。ガリラヤのナザレからエルサレム郊外のユダの町まで、徒歩で4,5日はかかる日程です。まだ14,5歳の若い女の子の一人旅にしては危険すぎます。マリアがそこまでしてエリサベトに会いたいと思ったのには、深いわけがありました。み使いが「聖霊により男の子を産む」と告げたとき、エリサベトも高齢の身で身ごもり、6ヶ月になっていると聞かされたためです。その時、み使いが語った「神にできないことは何一つない」という言葉は、マリアに「お言葉どおりこの身になりますように」と、すべてを主にゆだねる決意を与えました。自分に大きなことをしてくださった主が、高齢のエリサベトにも大きなみ業をなさったことを知ったとき、マリアはどうしてもお会いして喜びを共にしたいと願ったのです。
互いに挨拶を交わし、喜びをもって祝福を祈り合い、共に賛美するこの二人の中に、K.バルトは「ここに教会がある」と述べています。高齢のエリサベトと年若いマリア。一方は身分の高い祭司の妻、一方は貧しい田舎の小娘。さまざまな違いを持った者同志が、主にあって一つに結ばれ、共に喜び主を賛美しつつ、互いに労わりあい、祝福しあうのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところにわたしもいる」と言われた主イエスの言葉を思い起こします。

off 独り子を与える神の愛

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書3:16-12

今日からアドベントに入ります。クリスマスの出来事は、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に見事に言い表されています。「独り子」とは、かけがえのない最も尊い存在、自分の分身を意味します。そのような独り子をこの世にお与えになって、この世への愛を具体的に示されたのが、このクリスマスです。飼い葉桶から十字架の死にいたる主イエスの生涯は、この世に対する神の「極みまでの愛」を物語っています。この「世」は、神によって造られ導かれていますが、神に背を向け、罪の故に破滅への道を辿りつつあります。私たちも、この世の一部です。神はそのような世を愛し、私たちすべての者のために、御子を犠牲にされたのです。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。神の愛は、世のすべての人に注がれています。にもかかわらず、ここで救われて永遠の命を得るものが「独り子を信じる者」に限られれているのは、なぜでしょうか? 真実な愛は、応答を求めるのです。独り子を与えるほどの神の愛を、喜びをもって受け入れ、愛をもって応えることによって、神の愛は成就するのです。神は一人も滅びず、すべての人が永遠の命を得るために、尊い御子をこの世にお与え下さいました。クリスマスを迎えるにあたって、この神の愛を、心の深みにしっかりと受けとめ、この世の救いのために祈り労する者でありたいと願います。