毎週の説教メッセージ

off 必要なただ一つのこと

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書10:28-32

  主イエスと弟子たちの一行がマルタとマリアの家に立ち寄られた時のことです。姉のマルタは、積極的に一行を迎え入れて、接待に忙しく立ち働きました。妹のマリアは、主イエスの足元に座って、その話に聞き入っていました。ここに二人の個性の違いがあらわれています。二人ともそれぞれの仕方で主に仕えているのです。主イエスは、それぞれの奉仕を喜び、受け入れておられたのです。ところが、突然、姉のマルタがイエスのもとに来て叫んだのです。「主よ、妹は私だけにもてなしをさせています。何ともお思いになりませんか。手伝うように仰ってください」と。マルタはなぜ、直接マリアに声を掛けず、イエスに訴えたのでしょう。妹への妬みや、いつも妹の犠牲になっているとの積年の思いが爆発したのかも知れません。これではせっかくの奉仕も台無しです。主は、マルタに語りました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである。マリアはその良い方を選んだ」と。忙しさに心を取り乱し、本来の自分を見失っているマルタに、主は深い憐れみをもって語られたのです。どんなに忙しくても、み言葉に聴くことをおろそかにせず、本来の自分を見失わず、他人と比較せずに、絶えず喜びをもって仕えなさい、と。

off 苦労は無駄にならない

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)15:50-58

 東日本大震災の救援プロジェクトとして作られた「花は咲く」という歌の中に、「花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」という一節があります。地震や津波で家族や家、財産などを失った被災者の方々の思いを歌ったものですが、「わたしは何を残しただろう」という問いは、私たちすべての人間の問いでもあります。高齢になり、あと何年生きられるのだろうと思うにつけ、この問いが心をかすめます。そして時には、これまでの労苦が無駄ではなかったかと考えさせられる時もあるのです。人生に「死」がある限り、苦労して生きてきたことの空しさがつきまとうのです。

 使徒パウロも、厳しい伝道の闘いの中で、そのような空しさを感じることがあったと思われます。伝道は、目に見える成果が得がたいものです。コリントの教会の現実は、ことのほか「わたしは何を残したのだろう」という失意を感じさせるような混乱ぶりでした。そのような中でパウロは語るのです。「主に結ばれているならば、自分たちの苦労は決して無駄にならない」と。パウロはこの言葉を、「復活」について論述した結びの言葉として記しているのです。十字架に死なれた主イエスが復活され、「死に勝利された」ことにより、私たちも、朽ちることのない新しい命にあずかるのです。

 主に結ばれて「主の業に常に励み」ましょう。労苦は無駄にならないのです。

off 啓示の光

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:28-36

 主イエスは、ご自分の受難について予告された後、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて、祈るために山に登られました。主イエスは、ゲッセマネの祈りにおいても、この3人だけを伴って祈られました。十字架の死を受け入れるために、主は特別な思いを込めて、必死に祈る必要があったのです。その祈りの中で主イエスの顔が輝き、その服も真っ白に輝いたのです。「山上の変貌」と呼ばれるこの出来事は、祈りによる神の栄光の輝きの反映であるとともに、祈りに対する神の応答の輝きでもあります。神は、主イエスの真摯な祈りに応えて、十字架の死の後の復活の栄光の輝きを主イエスと3人の弟子たちに啓示されたのです。「啓示」とは、神の隠されたご計画が開き示されることです。主イエスはこのような啓示の光を受けて、苦難と十字架への道を、神のみ心として受け入れ歩みだされたのです。

 私たちを取り巻く世界は、闇に包まれ、どこに神のみ心があるのかわからないような混沌とした状況です。しかし、私たちの祈りに応えて、神はみ心を示してくださいます。この世も神の支配の下にあるのです。ヨハネ福音書で、主イエスは弟子たちに言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主の勝利を信じて、私たちも主に従いましょう。

off 全世界を手に入れても

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:21-27

 「あなた方はわたしを誰と言うか」との主イエスの問いに、ペトロは「神からのメシア」と答えました。このペトロの答えに、主イエスもまた「人の子は必ず多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され、…」と受難の予告をされました。信仰は心で信じることですが、口で告白することによって、その信仰はより深められ、救われるのです(ローマ10:10)。しかし、口で告白することは、単に口先だけのことではなく、生き方を伴うことです。主イエスは皆に言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。イエスを「メシア・主」と告白することは、自分を主とする生き方を捨てて、あくまでも主なるイエスの意志に従って、日々、十字架を負って「主に従う」生き方なのです。マタイやマルコ福音書によると、ペトロはイエスを「主」と告白しながら、主の受難予告を受け入れられず、主をいさめたため「サタン、引き下がれ」と厳しい叱責を受けました。主の御心に従うより、自分の思いを達成させようとしたからです。「全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたら、なんになるか!」と、主は言われるのです。この世的繁栄よりも、永遠の命こそ大切なのです。十字架を負って、日々、主に従いましょう。

off キリストにおいて一つ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:高桑 義雄 教師

エフェソの信徒への手紙2:14-22

 私達は今やキリストの十字架の血によって神に近いものとされています。これはキリストが平和を実現して下さったからです。キリストによる平和は、神と人とが和解し、人と人とが和解することによって実現されます。敵対していた二つのものが一つになるということは、それまでのものが全く新しく変えられるということです。罪のゆえに神に敵対していたものが、キリストの恵みによって神と和らぎ、神の愛を確保するのです。私達はキリストの体として新しく作り変えられ、神のために生きる人間とされるのです。

 新しくされた私達の体とは、キリストの体であり教会です。私達一人ひとりの体は教会を建てるために、他者と組み合わされ、一つとなって建物の全体を形成しています。このキリストを基とする建物を築くために、私達は自分自身をふさわしい形に削らなければなりません。しかしこれらは私達の力によるのではなく、キリストの力によって、キリストと一つにされてなされる業であるのです。

 私達人間は誰もが完全ではありません。ゆえに謙虚に歩み、キリストによって常に新しく作り変えられながら歩んでいきたいものです。そして神の栄光に満ちた教会を形成していきたいと思います。

off わたしをだれと言うか

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:18-19

私たちの人生には、大切な問いと答えがあります。「わたしをだれと言うか」との主イエスの問いは、主イエスにとっても、弟子たちにとっても大きな意味を持っていました。その問いのために、主イエスは遠くフィリポ・カイサリアまで出かけ、祈りつつ弟子たちに尋ねたのです。最初の問いは「群集は、わたしを誰というか」でした。弟子たちは、口々に群集の意見を伝えました。ひとの意見は自由に言えるものです。責任がないからです。「それではあなたがたは、誰というか」と問い返された時、弟子たちは一瞬、戸惑い沈黙したのではないかと思います。信仰の告白には、主体的な責任が伴うのです。「神からのメシアです」。ペトロが弟子を代表して答えたとき、主イエスは、だれにも話さないように命じ、ご自分の受難の予告をされたのです。イエスは「神からのメシア」として、いよいよ十字架の苦難の道を歩む時が来た、と悟られたのです。「あなたはわたしを誰というか」。十字架と復活の主は、今も私たちにそのように問いかけているのです。イエスを「主」と告白ことは、イエス以外の如何なる人間も(天皇も首相も)主(絶対者)ではないことを意味します。周囲の人の意見に振り回されず、常に十字架を負って主に従い、身をもって、主の問いに答える者でありたいと願います。

off あなたがたの手で

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書9:10-17

主イエスが、5つのパンと2匹の魚で5千人もの群衆の空腹を満たしたという出来事は、四福音書すべてに記されている唯一の奇跡物語です。この出来事は、聖餐式の原型とも、神の国の祝宴の象徴とも解されて来ました。しかしそれと同時に、この出来事は、教会の社会に対する関わり方を示す出来事として理解することも出来ます。弟子たちは、休息の地にまでついてくる群衆をうとましく思い、解散させようとしました。食事の世話までとても出来ないと思ったからです。しかし主イエスは、群衆を「飼う者のない羊」のように憐れみ、疲れをいとわず、み言葉を伝え、病を癒されたのです。その主は、弟子たちの求めに「あなたがたの手で食べ物を与えよ」と命じられました。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません」とつぶやく弟子たちに、主イエスはそれを手に取り、感謝の祈りをささげて弟子たちに配らせたのです。すると、すべての人が満腹したのです。問題なのは、自分たちが少数者で無力あることではなく、どれだけ周囲の人々の痛みに連帯し責任的に関わろうとしているか、ということです。自分のことばかりでなく、自分の周りの人、社会の問題に責任をもって関わろうとする時、自分の小さな賜物が主に用いられて、多くの人を満たし社会を潤す力となるのです。

off 平和があるように

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書10:1-15

主イエスは12弟子を選び、汚れた霊を追い出す権能を与えて、世へと派遣されました。その動機は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9;36)からです。教会はキリストの愛に押し出されて、世に仕えるために呼び集められ者の集りです。病人を癒したり、悪霊を追い出すようなことは私たちには出来ませんが、重荷を負って苦しんでいる人々に寄り添い、祈ることができます。私たちの祈りと働きを通して、主がみ心を行われるのです。主イエスは弟子たちに、お金も袋も何も持たずに行けと命じられました。神のみを頼りとし、ひたすら神と隣人に仕えよという意味です。またどの家に入っても「平和があるように」と挨拶することを命じられました。挨拶は心と心をつなぐ大切な絆です。俵万智の短歌に「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいる温かさ」というのがあります。「平和があるように」(シャローム)という挨拶は神の平和を祈る言葉です。その挨拶には平和生み出す力があるのです。もしその挨拶を受け入れず、平和を拒否する相手がいた場合、「あなたの願う平和は、あなたに返ってくる」と主は言われます。平和の祈りは決して無駄にはならないのです。敵意と憎しみ満ちたこの世にあって、平和への祈りは教会の大切な務めです。

off わたしに触れた者はだれか

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書8;26-39

大勢の群衆が押し迫る中で、一人の女性が主イエスの後ろから近づき、衣の裾に触れました。彼女は血の流失が止まらない「長血」を患う女性で、12年間も医者から苦しめられ見捨てられ、町の人たちから「汚れた女」とさげすまれてきたのです。人目を忍んで、主イエスの衣にでも触れれば、と必死の思いであったのです。そのような思いが伝わったのか、主イエスは自分から力が出て行ったことを知り「わたしに触れたのは誰か」とあたりを捜されたのです。弟子たちは「こんなに群衆が押し合っているのに…」と咎めるのですが、それでも群衆を掻き分けるようにして探し求めたのです。一方長血の女は、血の流失が止まり癒されたことに気付き、また主が自分を捜しておられることを知って、恐れおののきながら、主の前に名乗り出たのです。 なぜ主イエスは、道を急いでいるのに、わざわざ群衆に紛れた彼女を捜し求められたのでしょうか? 病気が治っただけでは、ほんとうの救いにはならないからです。主イエスの人格に触れ、キリストによって新しく生まれることこそ大切なのです。主イエスは彼女を「娘よ」と呼び、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。主イエスの復活の命にあずかり、翻って生きよ! と新しい命への道を示されたのです。

off 一人の人間の重み

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書8;26-39

主イエスは、ガリラヤ湖の東岸ゲラサ人の地で、裸で墓場を住み家とする「悪霊に取りつかれた男」と出会いました。鎖で繋がれ、足枷をはめられて監視されていた彼は、村人たちから完全に疎外され排除されていたのです。イエスは彼に近寄り、名を尋ねました。一人の人格として受け入れた証拠です。男が名のった「レギオン」とは、ローマの武装した6千人の軍団の意味です。もしかしたら、彼はローマ軍の残虐行為や圧迫を受けて、心を病むようになったのかも知れません。人を狂わせる悪霊は、軍隊の中にも宿って、平気で虐殺や略奪を行わせるのです。「レギオン」を名のる悪霊は、主イエスの権威におののき、「滅ぼさないで、豚の中に移動することを認めてほしい」と懇願し、認められたのです。奇妙な話ですが、山の上で飼われていた沢山の豚(マルコによると2千匹)に悪霊が入ると、豚は崖から湖になだれ込み、おぼれ死んでしまったのです。豚はゲラサ人たちの貴重な資産でした。この出来事は、軍が資本と結びつくと破滅的な事態を招くことを意味します。村人たちは、悪霊から解放され正気となった男の回復を喜ぶより、失った豚を惜しんで、イエスを町から追放したのです。一人の人間の命よりも資本を重んじた結果です。主は一人、一人の命のために十字架に架かられたのです。