毎週の説教メッセージ

off 自分の道を進む

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書13:31-35

主イエスがエルサレムに向かう途上での出来事です。何人かのファリサイ派の人々が、主イエスに近寄り「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と忠告したのです。狡猾で残忍なヘロデのことですから、ありうることですが、イエスに立ち去って欲しいのは、ファリサイ派の人々自身の思いでもありました。主イエスは言われました。「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』と伝えなさい」と。「狐」とはヘロデだけではなく、善意を装ったファリサイ派の人々にも向けられた言葉です。主イエスの道を遮るのは、権力者だけではなく、権力を利用して自己主張する身近な人々でもあったのです。しかし、主イエスはそれらの圧力や妨害にも左右されず、これまで為して来た業を「今日も明日も」為し続け「三日目に終える」というのです。「三日目」とは、十字架の後の復活を意味する言葉です。主イエスの地上の業は、復活の勝利まで続くのです。それは、地上の何ものも阻止できない神のご計画でもあったのです。「わたしは今日も明日も、その次の日も、自分の道を進まねばならない」。私たちにも、それぞれに神から与えられた使命があるはずです。如何なる力によっても誘惑によっても曲げてはならない生き方があるのです。主に従って、今日も明日も次の日も、ただ神の栄光のために生きよう。

off 今年こそは

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書13:6-9

新しい年を迎えて、「今年こそは」と、新たな計画を立て、決意を新たにすることは大切なことです。しかし、それを貫くことは何と難しいことでしょう。来る年も来る年も同じことを繰り返してきたように思います。イエスさまの話された「実のならないいちじくの木」のたとえは、私たちのことのように思われます。ぶどう園の主人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えて、3年の間、実を探しに来たが、見つからなかったというのです。ぶどう園は、イスラエルの民にとって「乳と蜜の流れる」神の約束の地です。そこに野生の木である私たちが招かれ、移植されたのです。毎年、よい実を結ぶことが期待されたのです。しかし3年経ってもいっこうに実を結ばず、主人は園丁に切り倒すことを命じます。その時、園丁は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と懇願したのです。これは、イエス・キリストの執り成しです。主イエスは、園丁という僕となって、私たちに仕えて下さった上に、執り成してくださるのです。ここには「神の子」としての3年間の公の活動の末に、十字架に架かられるという主イエスの並々ならぬ決意が秘められているのです(「一粒の麦」として「死ねば多くの実を結ぶ」との)。今年こそ、主の恵みと愛に応えて良き実を結びたいものです。

off 小さな命の輝き

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説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書2:13-23

主イエスの誕生の直後、ベツレヘム周辺で大変な悲劇が起こりました。ヘロデ王の命令で、2歳以下の男の子が皆殺しにされたというのです。東の国の占星術の学者たちから、「新しい王」の誕生の知らせを受けた王は、自分の地位や立場が脅かされると思い、恐れと不安にかられたのです。罪のない幼児の虐殺ほど残酷なことはありません。主イエスは、そのような邪悪で悲惨なこの世のただ中に生を受けたのです。幸い幼子イエスは、天使のお告げによって、エジプトに逃れて無事でしたが、多くの幼児が犠牲になったことは、痛ましい限りです。ボンヘッファーは「イエスが死を免れたのは、ただの後の日のあの十字架の出来事のためだけであった」と述べ、「殺された幼子たちは、キリストのための最初の殉教者となった」と説いています。主イエスにとってもこの出来事は、常に心を痛めていたことであったに違いありません。いつも幼子を受け入れ、「だれても幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言い、「いと小さき者にしたのは、わたしにしたのだ」と語られました。主イエスは十字架の道を歩むことによって、この世の「いと小さき者」に仕え、死と復活を通して「王の王、主の主」として、闇の世に光をともされたのです。「悲しむ人々は幸いである」。

off 狼の中に宿る小羊

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説教:最上 光宏 牧師

イザヤ書11:1-10

 イザヤ書には「メシア預言」呼ばれる箇所が三つあります。7:14,9:511:1です。前の2か所には「ひとりの男の子が産まれた」という表現で、救い主の誕生が予告されていますが、11章では「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで…」と描かれています。エッサイとはダビデ王の父親の名前で、その切り株はダビデ王家の滅亡を意味します。大国アッシリアの滅亡と共に、その属国のユダも、神に依り頼まず大国の軍事力や偶像に依存したため、切り倒されたのです(10:30)。しかし、その切り株から一つの芽が萌えいで、若枝が成長し、その上に主の霊が留まるというのです。イザヤはこのような表現で、王国の滅亡とやがてダビデの末から救い主が産まれることを預言し、この救い主の到来によって、正義と真実が貫かれ、弱い人や貧しい人が顧みられると語ったのです。さらに神の支配は全被造物に及び、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子とともに育ち、小さい子供がそれらを導く…」と詩ったのです。「弱肉強食」の世が正され、神の支配(神の国)が実現することを告げたのです。イエス・キリストは、そのために神の小羊として、この世に来られ「狼」の群れの中に宿られたのです。

off 平和の君の到来

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説教:最上 光宏 牧師

イザヤ書9:1-6

救い主(メシア)の到来は、730年も前からイザヤによって預言されていたことでした。当時イスラエルは北と南に分裂し争ったため、アッシリア大国に支配され、重い強制労働と多額の貢ぎ物を課せられ喘いでいました。そのような中でイザヤは「闇の中を歩む民は光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」と語ったのです。それは、武力による圧政と、強制的な労働からの解放を意味する預言でした。そのしるしとして「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」と述べられているのです。これは、将来必ず救い主が来るという預言です。「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と説明されています。「驚くべき指導者」はメサイアのハレルヤコーラスで「ワンダフル・カゥンセラー」と歌われるように、権力をもって支配する指導者ではなく、カゥンセラーのように相手の言葉に耳を傾け、相手を受け入れる「仕え人」です。力ある神、永遠の父から遣わされる権威ある方でありつつ、私たちのカゥンセラーとして、仕えるためにこの世に来られるというのです。貧しい飼い葉おけの中にお生まれになった「みどりご」こそ、イザヤの預言した救い主に他なりません。主イエスは、まさに平和を造り出すためにこの世に来られ、十字架への道を歩まれたのです。来たりませ「平和の君」!

off 主を待ち望め

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説教:最上 光宏 牧師

詩編130:1-6

 今日からアドベントです。「アドベント」は「来る」という意味のラテン語で、キリストの来臨を意味する言葉です。クリスマスまでのこの期間、来臨の主を心から待ち望み、お迎えしたいものです。詩編130篇は、深い淵の底から、主を待ち望んでいる歌です。「深い淵」とは死者の赴く黄泉の世界を現わす言葉です。いわば「地獄の底からの叫び」です。戦渦の中の叫びかもしれません。重い病の中からの呻きかも知れません。しかしこの詩人は絶望しているのではありません。主なる神を待ち望み、そこに唯一の慰めと希望を見出し、「わたしは主に望みをおき…わたしの魂は主を待ち望みます」と歌うのです。「見張りが朝を待つにもまして」と。深夜、敵の襲来から町を守のために、命懸けで城壁に立ち続ける「見張り」にとって、朝の到来ほど待たれるものはありません。詩人はそれ以上の切実さをもって、救い主の到来を待ち望むのです。このような長い間の待望と祈りの末に、イエス・キリストが到来したのです。ボンヘッファーは、ヒットラー政権下の暗い閉塞された状況をその頃起こった炭坑の落盤事故に喩えて、「暗闇の中に閉じ込められた坑夫たちのもとに救助隊の槌音が聞こえる。これがアドベントだ」と語りました。主は深い淵の底から私たちを解放するために、地の底にまで来てくださったのです。

説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書15:1-10

 今年もお米や野菜、果物などたくさんの収穫が与えられたことを神さまに感謝したいと思います。神さまはそのようにして私たちの命を養ってくださるのです。

 イエスさまはご自分をぶどうの木にたとえて、「わたしにつながっていなさい」と言われました。ぶどうの木はたくさんの枝を伸ばし、その枝の隅々にまで水や養分を送り、多くの実を実らせます。しかし枝がしっかりとつながっていないと、必要な養分が行き届かず、実を結ぶどころか枯れてしまいます。私たちはイエスさまにつながることによって、イエスさまから命の水や養分()を頂いて、生き生きと生かされるのです。イエスさまは「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。イエスさまにつながるとは、イエスさまの招きに応えて、イエスさまの言葉に聴き従うことです。礼拝を大切に守り、いつもお祈りすることです。私たちの平安と生きる力の源は、イエスさまから与えられるのです。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスさまは言われました。「豊かな実」とはどのような実でしょうか。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で「霊の実は、愛、喜び、平和、寛容…」と述べています。私たちもよい実を結びたいものです。

off 新しい霊を宿せ (講壇交換)

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

エゼキエル書36:25-32

主なる神は私たちに、「わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。」(25節後半)と宣告し、その後に「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」(26節前半)と続けます。主がここで語られる“すべての汚れとすべての偶像”とは、外見的なことではなく人間の本性(内面)に向けられた人間本位の欲望や権力のことで、それが私たちを神の御心から引き離す元凶です。聖書が示す神と人間との関係は常に、神の御心(調和)に対する人間の離反(不和・不信)が繰り返し記され、その度に神から救いが差し伸べられています(出エジプト記14章~17章)。また、神が私たちに示して下さった救いの約束ことば(十戒;戒=ことば)は、神の救いの堅さ・確かさを象徴して、石板に刻まれました。私たちはそれを変質させて、表面的で内実のない行為に終始する頑なな心で受け止めてしまう。その頑なな心に換えて、新しい心と霊を与えると神は言われます。「新しい」とは、これまで存在しなかった心を新たに誕生させるのではなく、これまであった心(弱さ・醜さ)を新しくされるという意味です。神の御心から外れるこの私の存在を認め存続させるため、新しい霊を宿せと励まして下さる神に応える者となりたいものです。

off 目を覚ましていなさい

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書12:35-48

聖書の構造は、創世記の天地創造に始まり、ヨハネ黙示録の終末におけるキリストの再臨で終わっています。歴史には初めと終わりがあり、そのすべてを神が支配しておられるのです。キリストの再臨は、天地を造られた神のみ業の完成のためであり、神のみ心が完全に実現するためです。それは善と悪、真実と虚偽が神の前に明らかにされ、公正な裁き(決済)が行われる時です。 主イエスは、しばしば弟子たちにその時がいつ来てもよいように、「目を覚ましていなさい」と警告されました。婚宴から帰って来る主人を待つ僕のように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と。そのような僕は、主人が帰って来た時、主人のもてなす宴にあずかり、主人の帰りが遅いからと言って、飲み食いしたり、下男や下女に暴力を振るったりする僕は厳しく罰せられる、と言うのです。 今の時代は、あたかも終末がないかのように、人々は快楽を貪り、緊張を欠いた状態ではないでしょうか。人々が眠っているうちに、政治はどんどん腐敗し、経済の格差は増大し、戦争の危機と核による人類の破滅が近づいているような気がします。「目を覚ましていなさい」。弟子たちに語られた主の言葉は、今日の私たちへの警告に他ならないのです。「主よ、来たりませ」と目を覚まして祈りたいものです。

off 主はわが羊飼い  (召天者記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師

詩編23:1-6

「主はわたしの羊飼い」。この詩人は神を羊飼いに、自分を羊に喩えています。羊はすべての動物の中で最も弱く頼りない生き物です。他と争うような強い角も牙もなく、逃げるための速い足もありません。しかも方向感覚の鈍く迷いやすい動物です。つまり羊飼い無しには生きられない存在です。詩人は自分の迷い多き人生を振り返り、しみじみと自分の弱さを思いつつ、主はわたしの羊飼いとして、「青草の原」「憩の水のほとりに」導いてくださったと感謝し、「わたしには何も欠けることがなかった」と主を讃美しているのです。人生の晩年に、このように主に感謝し、讃美出来たらどんなに幸いなことでしょう。 このような過去の恵みを感謝しつつ、詩人はこれから迎えることになる死を見つめつつ、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」と歌います。「あなた(主)がわたしと共にいてくださる」からです。神に伴われる人生は、死に際しても恐れることがないのです。この詩は、後半、荒野で旅人をもてなす天幕の住民の喩えに変化しますが、これは神の国の祝宴を象徴するものです。神と共に歩む者は、地上の生涯を終えたのちにも「主の家に帰り」そこで永遠の安らぎを与えられるのです。「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われた主イエス・キリストの死と復活によって、私たちも生きるにも死ぬにも主のものとして、その慰めに与りたいものです。