毎週の説教メッセージ

off 力と愛と思慮分別の霊

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説教:加藤 輝勢子 牧師

テモテへの手紙➁1:3-7

パウロはテモテの純真な信仰を思い起こし、また、母エウニケと祖母ロイスによって養われた信仰。パウロによって按手を授けられたことで与えられている神の賜物を再び燃え上がらせるように言っています。神は臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えてくださったといっています。臆病な霊とは、例えば自分が一タラントンを受けたことに対して責任を取ろうとしなかった怠惰な悪い僕。一タラントンを誤って使うかもしれないという不安から埋めてしまった僕のことです。私たちは力と愛と思慮分別の霊で励みましょう。 説教前の「小さなかごに」という讃美歌。♪小さなかごに花を入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も張れるでしょう。※愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。「おはよう」とのあいさつも、心を込めて交わすなら、その一日おたがいに喜ばしく過ごすでしょう。※くりかえし。この讃美歌は信仰を具体的にするものだと思っています。私は年度の初めの月の職員会議の讃美歌として歌っています。キリスト教に初めて触れる職員たちに、ミッションや聖書の話をしますが、この讃美歌のように子どもたちと向き合うようにとの願いをもって歌っています。持てるタラントンは少なくても、それを埋めてしまうのではなく、力と愛と思慮分別の霊をもって、今この時できることをして共に歩みたいです。

off 命を得るために召される

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説教:加藤 久幸 牧師

テモテ6:11~16

新約聖書の中の手紙の中で、紀元100年代以降には、テモテ、テトス、ヘブライ等の各手紙が書かれるようになりました。6月の聖書箇所の牧会書簡と呼ばれる手紙は、教会の外と内との厳しい闘いのさなかに書かれました。それらは、教会が健全であるための教え、そのための教会指導者の責務を重要視しているからです。

今日の箇所では、最後の審判、「万物に命をお与えになる神の御前」(13節)にいるようにして、求めがなされています。そして、「命を得るために、あなたは神から召され、…信仰を表明したのです」(12節)。これは、牧師になる時の「按手」を指していると想われます。当時の(も)、牧者になることの厳しさを想います。
教会の外と内、牧者の外と内に、複雑に絡みあう闘いが満ちていたことでしょう。その闘いにおいて、今日の聖書は、「正義」を行え、「義」を追い求めなさい(11節)、そして義、信仰、愛によって闘うべき時が来たら、躊躇するな、と勧めます。
この闘いに召してくださったのは神であり、あらゆる者の創造者であり命を支える方が、イエス・キリストにおいて私たちと出会ってくださったのです。イエス・キリストは…ポンテイオ・ピラトの前でも真実に証言をし、自らの死を引き受けることにより「命を得ること」を示されたのです。この御業に参与することの「召命」と「使命」の恵みを想います。その感謝と讃美が、今日の聖書に満ちています。

off あっけにとられる出来事

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録2:1-11

聖霊降臨を経験した人々が伝えたお話(使徒言行録2章)はとても興味深いと思います。経験した人々も何が起こったのかよくわからず、聖書にあるようにしか表現できなかったのでしょう。私は、このお話を、自分のわかる形で受けとめようとは思いません。懸命に伝えようとした人々のお話に耳傾け(なるだけそのままに)伝えたいと思います。
復活のイエスに従う人たちは集まって祈り、「約束の聖霊」を待ち望んでいました。その日、突然、〔天から〕音が聞こえ、彼らがいた家中に響いた(2節)。それは、激しい「風」による〔ものと思われた〕。そして、次に、「風」は、そこにいた一人一人に触れた(それは「舌」に触られるように「感じた」「見えた」〔3節〕)。すると、そこにいた「一同」は、聖霊(風)に満たされ、霊(風)が語らせるままに他の国々の言葉で話しだした(4節)。〔音に、「舌」に触られる「感じ」に驚き、「一同」は外に出たのか、〕通りでは、祭(七週祭)のために世界各地から帰ってきていたユダヤ人たちがいたが、各々の国の言葉を聞くことになり、人々はあっけにとられてしまった(5-6節)。人々の中には、「驚き怪しむ」者(7節)、「神の偉大な業を語っている」と云う者(11節)、「『酒に酔っているのだ』とあざける者」(13節)がおり、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いあった(12節)。

off 人の内から生きた力が流れ出る

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書7:32-39

今日の後半の物語(37~39節)を、群衆のある人々はどのように受けとめたのだろうかという思いで、味わいたいと思います。「祭りの最も盛大に祝われる日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」(37節)。この祭りは「仮庵の祭」(7:2)と呼ばれます。仮庵の祭も、農耕歴の由来にイスラエルの信仰が重ねられています。
イエスの「渇いている人はだれでも」という招きに耳傾けたい。詩編22:16に「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」とあります。どのくらい渇くのか。かの地(荒野)の経験者はこう語ります。「(日常生活備品の素焼きに)水をかけると、たちまち吸い込んでしまう。また少しかける。すーっと吸い込んで、土器の表面は再びもとの白茶けた色。まるで渇いた空気の中で、土器も喉の渇きを訴えているようだ」。イスラエルの人々は、カナンの地に定着し農耕を学びましたが、荒野の「渇き」を忘れさることはなかった。若い時に私の渇いた魂は、渇いた舌や喉が水を求めるように、まだ見ぬ神を求め、イエスとの対話と交わりに安らぎと求めようしました。
イエスは、エルサレムやイスラエルが中心になるより、渇いている人を招きました。そして、霊や水といった象徴的な表現を示し、力を与えました。今この時も、求める者に力が与えられ、この世界を恵みで潤してください。お祈りいたしましょう。

off 勇気を出しなさい

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書16:25-33

私は道であり、真理であり、命である。…」14:6 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。…」15:5など、13章からの決別説教の中で語られてきました。
その最後の部分あたる25節で「たとえによらずに父について知らせる。父ご自身があなた方を愛している。それは私が父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。」という言葉をうけて、弟子たちはイエスが父のもとから来られたことを今信じましたとちぐはぐな応えをします。しかし、イエスには時間がないのです。「あなた方は散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする、心配はない、父がともにいてくださるからだ」(32)といって、「弟子たちにはこれらのことを話したのは私によって平和を得るためである。あなた方には世に苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(33)と言います。イエスに「勇気を出しなさい」と言われても、弟子たちの現実、そして私たちの現実は変わりません。弟子たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。私たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。イエスは「私は既に世に勝っている。」から大丈夫だというのです。新型コロナウイルスの影響で様々な困難がありますが、イエス・キリストの勝利を信じて、今週も「元気を出して、勇気を出して、安心して」遣わされた現場で主の僕として歩みましょう。

off 互いに愛し合いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書17:17-27

ヨハネ共同体が生きた世界は、迫害「前夜」とも言える現実のように思います。今日の聖書(18-27節)では、「最終」局面とも思える「様相」が語られていますが、ヨハネ共同体は、イエスの言葉をどのように受けとめ彼らの時代を生きたのでしょうか。17節の「互いに愛し合いなさい」は、一般的な標語のように聞こえなくもないのですが、(「自分の…」とかいう条件はつきようがなく)分け隔てなく「誰をも」愛するということが、明確に表現されているように思います。そしてここの脈絡では、イエスが弟子たちを「友」と呼び、イエスが不在になる「時」を託す場面です。愛は命令されて行うものではありませんが、「友のために自分の命を捨てる」愛(15:13)に応え、その愛を引き継ぐにあたって、「命令」「掟」「命」としか表現しようがなかったのでないでしょうか。そして、この「互いに愛し合いなさい」が、最初に触れた18~27節の様相の前に告げられている意味を想います。
私たちの世界は、紛争や人権抑圧、核や「原発」の使用、自然破壊や感染症蔓延で、最終「局面」を迎えているのでしょうか。それとも災い「前夜」で踏みとどまっているのでしょうか。フーテンの寅さんじゃありませんが「それを言っちゃあ(やっちゃあ)お終いよ」ということがあります。この世界が各々の「局面」で互いに滅びを迎え入れず、各々の命を尊重し「互いに愛し合いなさい」を受け容れ歩んでいきましょう。

off わたしに従いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書21:15-25

「ペトロは、イエスから三度(目)も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しみ」こそが、ペトロを牧者へと歩み出させていくことになったのではないかと想います。この「悲しみ」は、ペトロの三度の否認と関係しています。ルカ福音書の否認の場面(22:54-62)否認の予告(22:31-34)を見ると、イエスはペテロに、「シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31‐32)と語っています。ペトロは主を否認した後、初めて「主の言葉を思い出し」「そして外に出て、激しく泣いた」(22:61-62)のです。

イエスの憐れみは「断腸の想いに駆られた」「はらわたをつき動かされる」であるとも訳されますが、イエスこそが悲しみを知る方であり、悲しみの内にある者を放置される方ではなかったと想います。

イエスはペトロを牧者として招かれます。ここには牧者としての資格審査はありません。もしあるとすれば、イエスがそうであるように、牧者が、自らの、隣人の「悲しみ」を知っているかどうかです。「何もかもご存じ」(17節)のイエスが、「わたしに従いなさい」(19節)と招かれます。

off 希望の源である神

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙15:7-13

今日の聖書は、ローマ書15章7~13節です。その前にある1~6節と今日の箇所は、似た構造になっていると言われています。1~6節は「隣人に対する責任の目的」を、7~13節は「キリストが人々に果たしてくださった責任の目的」を表わしていると、言われます。「忍耐と慰めの源である神」(5節)、「希望の源である神」(13節)といった似た表現や、最後が祝福で終わるという点も共通しています。
ローマ書は、私たちの在り様の根拠、「主体」を、一貫して問題にしていると思います。キリストは、神の憐れみ、赦し、平和を示し、それらが満たされるような世界の「初穂」となってくださいました。私たちも、キリストに倣って、愛によって「一つとなること」を願って歩みたいと思います。「一つになること」には、形や様を合わせるという「一致」があります。他方、形や様が異なっていても、「調和」しているという「一致」があります。「生きることはキリストである」(フィリピ1・21)。キリストこそが、私たちの根拠であり、生きる姿勢であり、主体であると覚えたいものです。私たちの形や様が変わっていくとしても、変わらない真実な方が昔も今も将来もいてくださいます。キリストを私たちのところにお送りくださった神こそ、私たちの「希望の源」です。「希望に満ちあふれさせてくださる」(13節)時が来ることを信じて、今年度の、これからの歩みを、進めていきましょう。

off あなたの手を見なければ

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書20:19-31

週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家に鍵をかけて閉じこもっていました。その真ん中にイエスが立って「あなたがたに平和があるように」と言われました(19節)。弟子たちは大変喜びましたが、その場にいなかったトマスは心を頑なにして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」とまで言います(24‐25節)。8日の後、家に閉じこもっている弟子たちのところへイエスが真ん中に立ち、「平和があるように」と言われ、トマスにも向き合いました(27節)。トマスの頑なさに自分の姿をみます。また、家に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちの姿を私たちは他人事ではないように感じます。「新型コロナウイルス感染拡大」で私たちの命は脅かされています。先の見えない状態です。礼拝を守りたくても行くことができません。子どもたちも学校にも楽しみにしている教会学校にも行くことができません。そんな不安の直中にいる私たちのところへ、イエスが真ん中に立って、「平和があるように」と言ってくださいます。今は皆で集まることができなくても思いを一つにして祈ることはできます。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20)また、ヨハネ16:33の言葉に励まされながら今週も歩みましょう。

off 方向転換

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書20:1-18

今日は、イースター(復活日)の礼拝です。ヨハネによる福音書は、復活の物語においても、他の共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にはないことが出てきます。「イエスの愛しておられた弟子」の存在と、その強調です。空っぽの墓を見たペトロとその弟子は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解しておらず、家に帰っていった(9-10節)と、ヨハネは伝えています。しかし、それとともに、「イエスの愛した弟子」は(イエスの復活を)「信じた」(8節)、そういう可能性を秘めた伝え方にもなっています。
後半は、共観福音書にも共通する、最初に(復活し生きている)主を伝えたのは女性であったという点であります。マリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、主が言われたことを伝えます(18節)。「ラボニ」(先生)ではなく、「主」(キリスト)を見たと伝えるのです。復活の主を見た、・信じる行いには、もともと主体的であり、個性的であり、多様性があります。
私たちの人生も与えられ限りあるものですが、「空っぽの墓」を覗きこむような生き方から「命」にまなざしを注ぐ生き方へ、とこしえの命を約束する方を仰ぎ見る歩みへ、方向転換することが問いかけられ促されています。一人一人の生を大胆に転換させる―それがイエスの復活の出来事に秘められた「力」であり、「不思議」です。