毎週の説教メッセージ

off 永遠の命を受ける

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:18-30

「何をすれば永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」。ある若い金持ちの議員がイエスにこのように尋ねました。若くしてかなりの富を蓄え、しかも議員という社会的な地位を獲ていても、彼の心は満たされていなかったのです。「永遠の命」とは、長生きをするとか、死なないということではありません。「永遠」とは時間の長さではなく、時間の重さを意味する言葉です。充実した悔いのない生き方を彼は求めたのです。人がうらやむような地上の富も社会的な地位も決して永遠なものではありません。死の前に一切が虚無になります。彼は「何をすれば…」と、行為の中に生きがいを求めましたが、忙しく働くことは、一時的に虚しさを忘れさせることは出来ても、「永遠の命」に至るものではありません。彼は十戒の後半(隣人との関係における戒め)は、形式的に守っていたかもしれませんが、前半の神のみを神としてあがめるという戒めをおろそかにしていました。主イエスは「あなたには欠けているものが一つある」と言い、「すべてを貧しい人々に分け与え、わたしに従いなさい」と言われました。彼は地上の富や名声に心を奪われ、それを「神」のように敬っていたからです。「永遠の命」はイエス・キリストを通して、永遠なる神との交わりによって与えられるものなのです。彼は、富への執着のため、悲しみながら立ち去りました。「天に宝を積む」ことが出来なかったのです。あなたは?

off 聴かれる祈り

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:1-14

主イエスは、気落ちせずに絶えず祈るようにと、弟子たちにたとえを語られました。一人のやもめが、街の裁判官に「正しい裁きをして、私を守ってください」と、いくら訴えても聞き入れてくれないのに、熱心にしつこく訴え続けた結果、その願いが聞き入れられたというたとえです。聖書において「やもめ」は、「孤児」とともに、社会的に最も弱い立場の代表者です。このような立場の人は、手厚く保護されなければならないはずですが、世の政治家や権力者は、いつの時代も、このような弱い立場の人たちを無視し、ないがしろにしてきました。「神を畏れず人を人とも思わない」この不正な裁判官も、ついに彼女の粘り強さに根負けして、正しい裁判をした、というのです。このたとえは、どんなに小さな者の祈りでも、熱心に祈り続けるなら、神は必ず聴いてくださるということを示しています。それと共に、粘り強い祈りは、どんなに非道な悪しき政治をも変革する「力」であるということを示唆しています。フォーサイスは「祈りの精神」の中で「二枚の板を接着剤で張り合わせる時、外からの圧力が必要なように、人生の様々な苦難は、私たちの魂を神へと結びつける。そしてそのようにして接合された板は、どのような外圧にも耐えられる堅固な建材として用いられる」という意味のことを述べています。この悪しき世の様々な圧力や試練の中で、私たちは気を落とさずに祈り続け、ますます神と固く結ばれ、「世の光」「地の塩」しとての役割を果たしていきたいものです。

off 感謝する恵み

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書17:11-19

主イエスは、エルサレムに向かう途中、サマリアの地方を通られ、ある村で10人の「重い皮膚病」を患う人の集団に会われました。「レプラ」という原語のこの病は、以前「らい病」と訳されていましたが、今では「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。長い間人々の偏見から、不治の「汚れた病」とみなされてきましたが、近年、医学の進歩により完治し、感染も遺伝もしないことが明らかになりました。日本ではつい最近まで、この病の患者は「らい園」に強制隔離され、不妊手術まで強要される政策が続きました。旧約のレビ記には、この病にかかった人は、祭司が「清い」と判断するまで、人との接触を避け、患部を露出して「汚れている、汚れている」と叫び続けるように戒められています、主イエスと出会った10人の患者の中に、一人のサマリア人が加わっていました。サマリア人を嫌っていた当時のユダヤでは考えられないことでした。この病に対する人々の差別と偏見が、彼らを強く結びつけたのです。彼らは、主イエスに出会うと「汚れている」と叫ぶ代わりに、「私たちを憐れんでください」と声を張り上げたのです。それは彼らの心の叫びだったのです。主は彼らを等しく癒されたのですが、1人のサマリア人だけが、癒された喜びを感謝するために戻ってきたのです。主イエスは「ほかの9人はどこへ行ったのか」と気遣いつつ、「あなたの信仰があなたを救った」と新たな祝福を与えたのです。彼は病の癒し以上に、信仰によって生きる新たな力を与えられたのです。

off 赦し、信仰、奉仕

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書17:1-10

主イエスは、弟子たちに対して「つまずきは避けられない」と述べつつ、「それをもたらす者は不幸であると」と言われました。主イエスは十字架への道を歩むにあたり、弟子たちが受けるであろうサタンの試みと試練のために祈りつつ、「いと小さき者の一人」をもつまずかせることがないように、と諭されたのです。それにしても、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海の中に投げ込まれてしまう方がましである」とは、過激な表現です。
そこに、「小さい者」に対する主イエスの大きな愛があるのです。「小さい者」とは、幼子や弱い立場の人、貧しい人、疎外されている人など、社会的弱者の総称です。主イエスは、そのよう人々を「わたしの兄弟」と呼び、「この最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことだ」と言われました(マタイ25:40)。私たちにとって、「隣人」は「小さなキリスト」(ルター)なのです。弱い立場にある「小さな人」をこそ、私たちは大切に、愛し受け入れ、彼らに仕えていく必要があるのです。主がそのような「小さき者の一人」を愛され、そのために尊い命を捧げてくださったからです。主イエスがここで語られた「赦し」と「信仰」と「奉仕」の勧めは、この「小さき者の一人」をつまずかせないために、私たちが常に祈り努めるべき課題なのです。

off ほんとうの豊かさとは

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書16:19-30

今、一部の富める者と多くの貧しい人々との格差が、世界的に広がり、難民などの深刻な問題となっています。日本も例外ではありません。主イエスの語られた「金持ちと貧しいラザロ」の譬えは、両者の隔たりを見事に描いています。毎日贅沢に遊び暮らしている「金持ち」には、門前の「ラザロ」の飢えと悲しみは、全く気にもなりませんでした。しかし、死は両者に等しく訪れ、両者の関係は逆転します。ラザロは天でアブラハムの懐に抱かれ、金持ちは陰府(よみ)で地獄の火にさいなまれます。神はすべての人を公平に扱われるのです。金持ちは、アブラハムに、ラザロを遣わして一滴の水で舌を冷やさせてくださいと懇願します。彼はラザロを自分の僕のように扱おうとします。金持ちの驕りです。この死後の裁きは、神は私たちの生死を越えて生きて働いておられ、この世の矛盾を正されることを意味します。金持ちは、特に不正や暴力を働いたわけではありません。何もしなかったのです。しかし、貧しく苦しんでいる人を前に何もしないことが罪なのです。無関心・無感動・無責任(三無主義)こそ、神の前に問われていることなのです。この譬えを語られた主イエスは、私たちの罪を担って十字架に死に、陰府にまで降って、甦られたのです。私たちが互いに愛し合い、共に助け合って、陰府で苦しむようなことがないためです。そこに、ほんとうの「豊かさ」があるのです。主は、「私たちを豊かにするために貧しくなられた」のです。

off 不正の中の真実

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書16:19-30

今、国会で厚生労働省の不正データーが問題になっています。今の政府には嘘や偽り、隠蔽や改ざんなど不正が多すぎます。主イエスは、不正を働いた管理人を主人が褒めたという譬えを語っています。その管理人は、主人から油100バトス借りている者の借用証書を50バトスに書き換えさせ、小麦100コロス借りている者の証書を80コロスに書き換えさせるなどの不正を働いたのです。ところが主人は、この管理人の抜け目ないやり方を褒めたというのです。不正は不正なのですが、この管理人は不正な富で友達を作ったからです。大きな借財を担った小作人たちにとって、その借財は大変な重荷でした。その一部でも免除されたということは、どれほど大きな恩恵であったか分かりません。管理人は友達を作ることによって、解雇された後「永遠の住まいに迎えてもらえる」備えをしたのです。彼の不正は、借財に苦しむ貧しい人々と連帯し、彼らの重荷を共に担おうとする動機によるものでした。それは政治家の不正とは違い、神の真実に根ざしたものでした。 主イエスは、常に貧しい者、「罪人」と呼ばれ蔑まれていた人々の友となられ、病人や心を病む人々の重荷を負われました。自分を裏切ったユダをも「友よ」と呼び、彼のためにも十字架に架かられました。主は私たちの罪を担うことによって、私たちを「友」として受け入れて下さったのです。私たちも「友なき者の友」となろう!

off 預言者を助けた貧しいシングルマザー

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説教:広瀬 香織 牧師(新居浜教会)

列王記上17:1-16

預言者エリヤの生きた時代は超暗黒の時代でした。北イスラエルの王であるアハブはイゼベル(その意味は「バアルが共にいます」)と結婚し、偶像礼拝を積極的に行い、その上イゼベルは主の預言者たちを次々と殺害していったのです。このような悪事への裁きとして「わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」という主の言葉がエリアに臨み、アハブにその言葉を告げたのです。雨が降らなければ、当然、作物も育ちません。これは主の裁きであると同時に、豊穣をもたらすというバアル信仰への挑戦状だったのです。しかし、これではエリア自身も飢えてしまいます。そこで神はケリト川の烏たちに命じて、朝夕パンと肉を運ばせるという形で彼を養わせます。次はサレプタのシングルマザーのもとに行けと命じ、貧しいシングルマザーを通して彼らを養って下さったのでした。烏もシングルマザーも頼りない存在です。しかし、神様は彼らを用いて、その背後に全地全能の神が生きて働いておられることを示すのです。「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」という奇跡を起こして彼らを養い続け、エリアもシングルマザーの親子も養われてゆきました。まことの神を信じる信仰がいかに真実であるか、偽りの神を信じる信仰がいかに虚しいものであるか。この物語を通して私たちは深く教えられます。どんな暗黒の時代であろうと、主は生きて働いておられるのです。そして主に従う民たちを主はどのような手段を用いてでも守り導いて下さるのです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求める信仰」(マタイ6:33)をもって歩んで参りましょう!

off 失われた者

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書15:11-15

「放蕩息子のたとえ」の主人公は、彼の父親です。この父親には二人の息子がいて、その弟が父親から財産を譲り受けて、遠くに旅立ち放蕩に身をもち崩してしまったのです。豚の餌にさえ手を伸ばしたくなるような飢えと絶望感の中で、父を思い起こし、息子と呼ばれる資格はないが、下僕として雇ってもらおうと、帰途につくのです。父親は、そのような息子の帰りを待ちわびていて、走りよって抱き寄せ、最良の着物、指輪、履物を調え、肥えた子牛まで屠って迎えたのです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜ぶ父親の中に、比類なき神の愛を覚えます。 他方、兄は、弟の帰還に腹を立てて家に入ろうともしないのです。父親は出てきてなだめるのですが、「わたしは何年もお父さんに仕えてきたのに、子ヤギ一匹くれなかった。ところがあなたの息子が娼婦どもと一緒にあなたの身上をつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠って歓迎する」と不満を述べたのです。兄は弟ともに父の財産を譲り受け、父の元で十分に満ち足りた生活を送ってきたのです。彼の怒りは弟との比較による不満であり、嫉妬(ねたみ)によるものです。しかし、父なる神はこの二人を比較せず、同じように愛し、慈しみ「共に喜ぼう」と呼びかけているのです。たった一人の弟を受け入れられず、父の心を理解し得ない兄もまた、「失われた者」なのです。私たちは弟でありつつ、兄でもあるのです。

off 自分の道を進む

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書13:31-35

主イエスがエルサレムに向かう途上での出来事です。何人かのファリサイ派の人々が、主イエスに近寄り「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と忠告したのです。狡猾で残忍なヘロデのことですから、ありうることですが、イエスに立ち去って欲しいのは、ファリサイ派の人々自身の思いでもありました。主イエスは言われました。「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』と伝えなさい」と。「狐」とはヘロデだけではなく、善意を装ったファリサイ派の人々にも向けられた言葉です。主イエスの道を遮るのは、権力者だけではなく、権力を利用して自己主張する身近な人々でもあったのです。しかし、主イエスはそれらの圧力や妨害にも左右されず、これまで為して来た業を「今日も明日も」為し続け「三日目に終える」というのです。「三日目」とは、十字架の後の復活を意味する言葉です。主イエスの地上の業は、復活の勝利まで続くのです。それは、地上の何ものも阻止できない神のご計画でもあったのです。「わたしは今日も明日も、その次の日も、自分の道を進まねばならない」。私たちにも、それぞれに神から与えられた使命があるはずです。如何なる力によっても誘惑によっても曲げてはならない生き方があるのです。主に従って、今日も明日も次の日も、ただ神の栄光のために生きよう。

off 今年こそは

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書13:6-9

新しい年を迎えて、「今年こそは」と、新たな計画を立て、決意を新たにすることは大切なことです。しかし、それを貫くことは何と難しいことでしょう。来る年も来る年も同じことを繰り返してきたように思います。イエスさまの話された「実のならないいちじくの木」のたとえは、私たちのことのように思われます。ぶどう園の主人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えて、3年の間、実を探しに来たが、見つからなかったというのです。ぶどう園は、イスラエルの民にとって「乳と蜜の流れる」神の約束の地です。そこに野生の木である私たちが招かれ、移植されたのです。毎年、よい実を結ぶことが期待されたのです。しかし3年経ってもいっこうに実を結ばず、主人は園丁に切り倒すことを命じます。その時、園丁は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と懇願したのです。これは、イエス・キリストの執り成しです。主イエスは、園丁という僕となって、私たちに仕えて下さった上に、執り成してくださるのです。ここには「神の子」としての3年間の公の活動の末に、十字架に架かられるという主イエスの並々ならぬ決意が秘められているのです(「一粒の麦」として「死ねば多くの実を結ぶ」との)。今年こそ、主の恵みと愛に応えて良き実を結びたいものです。