毎週の説教メッセージ

off 独り子を与える神の愛

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書3:16-12

今日からアドベントに入ります。クリスマスの出来事は、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に見事に言い表されています。「独り子」とは、かけがえのない最も尊い存在、自分の分身を意味します。そのような独り子をこの世にお与えになって、この世への愛を具体的に示されたのが、このクリスマスです。飼い葉桶から十字架の死にいたる主イエスの生涯は、この世に対する神の「極みまでの愛」を物語っています。この「世」は、神によって造られ導かれていますが、神に背を向け、罪の故に破滅への道を辿りつつあります。私たちも、この世の一部です。神はそのような世を愛し、私たちすべての者のために、御子を犠牲にされたのです。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。神の愛は、世のすべての人に注がれています。にもかかわらず、ここで救われて永遠の命を得るものが「独り子を信じる者」に限られれているのは、なぜでしょうか? 真実な愛は、応答を求めるのです。独り子を与えるほどの神の愛を、喜びをもって受け入れ、愛をもって応えることによって、神の愛は成就するのです。神は一人も滅びず、すべての人が永遠の命を得るために、尊い御子をこの世にお与え下さいました。クリスマスを迎えるにあたって、この神の愛を、心の深みにしっかりと受けとめ、この世の救いのために祈り労する者でありたいと願います。

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)12:12-27

今日は、収穫を感謝して、子どもと大人が一緒の礼拝を守っています。小さな子どもから高齢者まで、教会は多くの色々な人たちの集まりです。一人一人みんな違っていますが、みんなイエスさまにつながって、心を一つにして礼拝し、神さまにお仕えしています。パウロさんは、このような教会の姿を「キリストの体」と呼びました。体は一つでも、手や足、目や鼻や耳などのように多くの部分から出来ていて、みな違う形や働きをしていますが、教会の場合も同様だからです。教会につながっているみんなは、イエスさまにしっかり結びついて、イエスさまの思いに従って、イエスさまのために働きます。足が「手ではないから体の一部ではない」とは言えず、耳が「目ではないから体の一部ではない」とも言えないのです。また、目が手に向かって「お前は要らない」とも、頭が足に向かって「お前はいらない」とも言えないのです。どの部分もどの部分も、キリストの体の大切な部分として、互いにいたわり合い、助け合って、一つになって主の愛に生きるのです。「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。この後、みんなが大好きなカレーを頂きます。ニンジンや玉ねぎが嫌いという人でも、カレーだとみんなおいしいと言って残さずに食べますね。イエスさまによって味付けられた教会は、好き嫌いなく、みんなを受け容れる一つの体なのです。

off 聖霊の賜物

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)12:1-11

コリントの教会からパウロに寄せられた問い合わせの中に、「霊的賜物」についての質問がありました。それは、宗教的熱意から、異教的偶像の神々に心を寄せる人たちに対する対応でした。パウロはそれに対して、「神の霊によって語る者はだれも『イエスは見捨てられよ』とは言わないし、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と答えています。信仰心や宗教的熱意が大切なのではなくて、イエスを主と告白するかどうかが、大切だというのです。「イエスは主である」と信じ、告白することは、「イエス以外のいかなるものをも主(神)とはしないということで、神の霊(聖霊)によってのみ信じ、告白し得ることです。当時の教会は、人間の造り上げた偶像やローマの皇帝を「神」として崇める風潮や圧迫のもとで、「イエスは主である」という信仰に固く立って、十字架と復活の主を命がけで宣べ伝えたのです。教会は、信条や規則によって一つに統制される組織体ではありません。聖霊によって、イエスを主と告白する信仰によって一つとされた共同体です。聖霊は一つですが、その働きは多様です。さまざまな異なる賜物をもった人たちが、それぞれの賜物を生かして共に主に仕え、「キリストの体」を立てていくのです。ラグビーのモットーは「一人はみんなのために、皆は一人のために」だそうです。教会の交わりを示唆しているようです。

off 信仰・希望・愛  (召天者記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①13:8-13

天に召された教会関係者の遺影を前に、一人一人のことを思いつつ、主を讃美し祈りを捧げると、これらの先達たちも、天において私たちと共に主を礼拝し、地上の私たちを見守り、励ましておられるように思います。パウロは、「愛の賛歌」の中で「愛は決して滅びない」と述べていますが、主によって結ばれた交わりは、死によって断ち切られるものではありません。目に見えるものは滅び、人間の生み出した知恵や知識はすたれていきますが、神の愛は絶えることはないのです。地上の私たちにとって、神の愛は「鏡におぼろげに映ったものを見ている」ように、間接的ですが、天にあっては、「顔と顔とを合わせて見るように」に、直接的に知ることになるのです。ヨプは理由の分からない苦悩の中で、「わたしの皮がこのように滅ぼされた後、わたしは肉を離れて神を見るであろう」と語りました。天に召された先達たちは、地上で肉の故におぼろげにしか見ることの出来なかった神を、顔と顔とを合わせるように向き合い、その愛の中に憩おっておられることでしょう。「そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる」のです。神の愛は、私たちのことを極みまで知り尽くす愛です。私たちもやがて、主イエス・キリストを信じる信仰によって、はっきりと神を知ることが出来るのです。この信仰と希望と愛によって、私たちは神を待ち望むのです。

off 新しい契約

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説教:最上 光宏 牧師

コリントへの第一の手紙13:8-13

イエスさまが、捕らえられた夜、弟子たちと共に食した「最後の晩餐」は、弟子たちにとって忘れられない貴重な体験でした。初代の教会は、食事の度に主イエスを記念して、パンを裂き共に食し、ぶどう酒の入った杯を回し飲みして、キリストを味わっていたのです。それをパウロが受け継いで、コリントの教会に伝えたのです。「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、そして言われた『これはあなたがたのための、私の体である。わたしを記念するためこのように行いなさい』…」と。これは「聖餐式」の制定の言葉として今も式文で読まれている言葉です。ここには、主イエスの十字架の死が「あなたがたのため」と明記されています。回心前のパウロは、イエスの十字架を神の呪いの印として、教会を迫害しましたが、それが自分のための犠牲であったことを悟って以来、十字架の福音を述べ伝える伝道者になりました。「記念する」とは、単に過去を懐かしむことではなく、過去を現在化することです。十字架の主は、復活して今も生きて、私と共にいてくださることを、体で体験することです。それはモーセの「十戒」のように石に刻まれた契約ではなく、私たちの心に刻まれる「新しい契約」なのです。信仰をもって主の晩餐にあずかることによって、心の深みに十字架と復活の主を共に味わい、新しい神の民としての歩みに励みたいものです。

off 一つになるために

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①11:17-22

コリントの教会には、指導者をめぐる分争のほかに、食事をめぐる「仲間割れ」がありました。各自食べ物を持ち寄って、共に分け合って会食をする大切な交わりの場で、早く来た金持ちたちは、貧しい労働者や奴隷の身分の人たちを顧みず、自分たちだけで飲み食いしていたのです。満腹し、酒に酔っている者がいる一方で、労働を終えて遅れて来た貧しい人たちは、食べる物がなく、空腹のままでいるというありさまでした。パウロは、そのような状態に、「あなたがたは神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせるのか」と憤り、主イエスのなさった「最後の晩餐」について述べているのです。主イエスはすべての弟子たちにパンとぶどう酒を与え、「これはあなた方のためのわたしの体であり、血である」と言われました。これは、主イエスの十字架の死は、すべての人の罪を贖うためであることを示しています。

今の時代、富める者が優遇され、貧しい者や弱い立場の人たちが、ますます無視され、その格差が広がりつつあるように思われます。私たち自身、自分の欲を満たすことに心を奪われ、どれだけ弱い立場や小さき者の立場に立って、共に生きようとしているか、反省させられます。「仲間割れ」を避けて、共に助け合って、一つになるために、主イエスは十字架の道を歩まれたのです。

off 召しに応えて

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説教:森 淑子 牧師

ヨハネによる福音書 21:15-19

ヨハネによる福音書は20章をもって完結しています。21章は後につけ加えられたのだと言われています。その理由はイエスが二人の指導的な弟子(ペテロと愛弟子)の将来について語られた事を告げるためです。15節~19節のペトロの場合から何を示そうとしているのか聞き取りたいと思います。
朝の食事が終わると、主イエスはぺトロに「ヨハネの子シモン。この人たち以上にわたしを愛するか」と言われた。共にした食事は赦されている者たちとの新しい交わりです。しかし、ペトロは自らの罪責感から複雑な思いでいたことでしょう。そこで主は「ヨハネの子シモン」と呼びかけられた。「ペトロ」は愛称で「ヨハネの子シモン」が本名です。この時ペトロは最初の召命の時のように、自分が一人の人として主の前にあることを覚えさせられたのではではないでしょうか。ここ後、主は三度「わたしを愛するか」と問われ、ペトロは「はい、主よ、あなた愛することはあなたがご存知です」と答えた。主は三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。これはペトロの三度の否認に対する三度の再召命です。
そして最後に「わたしに従いなさい」と主は言われます。主を愛することは主に従うこと。ペトロは共同体を導く使命を与えられ、共同体と共に従うよう命じられたのです。私たちは共同体の一員として主に従う者でありたいと思います。

off 神の栄光のために

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①10:23-11:1

コリントの教会にとって、偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうかどいう問題は、大きな問題でした。律法を大切に守って来たユダヤ人キリスト者にとっては、信仰的良心に関わる事柄だったからです。パウロは、偶像は神ではなく、キリストによって解放された私たちは自由であるという観点から、何を食べても自由であると主張しました。しかしそれと同時に、「食物のことで兄弟をつまずかせるくらいなら、わたしは今後決して肉を食べない」(8:13)とも言い切りました。

パウロにとっての「自由」は、「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求め」、他者に仕えることでした。それは自らの自由を「肉の働く機会とせず」、弱い立場の人(「いと小さき者」)の良心に寄り添い、共に歩むことを意味しました。

パウロは、この問題の結論として、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」と勧めています。「ただ神の栄光のために」。これは、宗教改革者カルヴァンがジュネーブの改革の旗印としたものですが、ここにこそ私たちキリスト者の信仰生活の土台があるのです。神の栄光のために生きることは、自分の利益や自分の飲み食いのことに心を煩わせることではなく、主から与えられた自由をもって、主が愛された「いと小さき者」に仕え、共に生きることなのです。

off 試練の中で (教会創立49年記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①10:1-13

イスラエルの民は、かつてエジプトの奴隷でしたが、神の選びと導きによって奴隷の地から解放され、40年の荒野の時代を経て、「乳と蜜の流れる」約束の地を受け継ぎました。パウロは、このイスラエルを教会の原型とみなし、今は荒野の時代ではあるが、神の国を目指す「神の民」として、イスラエルの歩みを前例として、今に生かそう、と説くのです。イスラエルの民は、荒れ野において、絶えず神の御手によって守られ、天からのマナや岩からの水によって養われて、約束の地へと導かれましたが、その途上、モーセがシナイ山に登っている間に不安にかられた民は金の子牛を拝む罪を犯し、絶えず食べ物や水が少ないと不平不満を言って神を試み、土地の娘たちと戯れるなどの過ちを犯しました。そのため多くの民が神の怒りによって滅ぼされました。パウロはこの過去の神の民の歴史を、現在のコリントの教会の現状に当てはめ、過去の歴史を「前例」として、今に生かせ! と警告するのです。ドイツの前大統領のヴァイツゼッカーは、「過去に目を閉ざす者は、未来に対して盲目である」と述べましたが、私たちは過去の先達たちの歩みから、多くのことを学びつつ今に生かし、悔い改めつつ次世代に引き継いでもらう必要があるのです。「神は真実な方です。耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていていてくださいます」

off 仕える自由

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙①9:19-23

M.ルターは、名著「キリスト者の自由」の冒頭で、二つの命題を掲げています。その一つは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない」であり、他の一つは「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」です。この二つの命題は、パウロの「わたしは、誰に対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました」(19)からとられたものです。自由と奴隷というこの相反する二つの立場を結び合わせるのが、隣人への愛です。パウロはそのことを「その人を得るためです」という言葉で言い表しています。主イエスは漁師のシモンに「人間を獲る漁師になりなさい」と言われましたが、「人を得る」とは、隣人を愛して、その人を神の救いへと導くことです。そのためにパウロは「どんなことでもする」と言い、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった」「異邦人には異邦人のようになった」「弱い人には弱い人のようになった」「すべてのひとにはすべての人のようになった」と言います。これは相手に対する媚びや同調ではありません。キリストにある主体性をもって、相手のために相手を愛する、自由な仕える生き方です。キリストによって罪赦され自由にされた私たちは、その与えられた自由を、自分の肉の欲のためにではなく、神と隣人のために、喜んで仕えるために用いたいものです。主よ、私にも「愛する自由」をお与えください!