毎週の説教メッセージ

off マリアの賛歌

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説教:最上 光宏 牧師
ルカによる福音書1:39-56
受胎告知を受けたマリアは、直ちに親戚のエリサベトを訪ねました。み使いに「お言葉どおりこの身になりますように」と答えたものの、恐れと不安で心が一杯だったからです。一方エリサベトも高齢の身で妊娠6ヶ月を迎え、やはり恐れと不安に満たされ家に引きこもっていました。イエスの母となる乙女と洗礼者ヨハネの母となる老女の不思議な出会いです。二人は年齢も身分も立場も全く違いますが、共に神から選ばれ、神に仕える者とされている点で共通していました。また大きな希望と共に、恐れと不安を共有していました。それだけに二人は、共に手を取り合って喜び、祝福し合ったのです。バルトは「そこに教会が存在する」と述べています。それぞれ立場の異なる者が、神の言葉による希望によって一つとされているからです。マリアはこの主にある出会いと励ましによって、大きな喜びに満たされて、高らかに神を賛美したのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます…」と。この「あがめる」という言葉はギリシャ語で「大きくする」という意味です。いと小さき「主のはしため」にも目を留め、大きなみ業をなしてくださった神は、「この世の身分の低い者を高く上げ」、「権力ある者をその座から引き下ろされる」からです。共に身を低くして、神をあがめましょう。

off 時が満ちて

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説教:最上 光宏 牧師
ガラテヤの信徒への手紙4:1-7

イエス・キリストの降誕に関する記事は、ルカとマタイによる福音書に詳しく記されていますが、パウロの手紙にはほとんど触れられていません。ガラテヤの信徒への手紙4章4節は唯一の例外と言えます。そこには「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と記されています。「時が満ち」とは、降誕は神のご計画による、神ご自身の決意による出来事であることを意味します。「その御子を女から」とは、神と等しい御子を、人の子としてこの世に遣わしたという意味です。また「律法の下に」とは、イエスは、ユダヤ人としてこの世に生を受け、この世の苦難を担われたことを意味します。神はこのように、私たちのために、御子をこの世にお遣わしになったのです。

この4節の言葉を軸にして、その前半(1節-3節)と後半(5節-7節)の内容が闇から光へと大きく転換しています。前半は律法に縛られ、「世を支配する諸霊」に奴隷のように支配されている未熟な人間の姿です。後半は律法やこの世の悪しき霊力から解放されて、神の子として自由に「アッバ父よ」と祈る成熟した人間の姿です。御子の降誕は、この世の悪しき力に支配され拘束されている私たちを解放し、私たちを自由な、神の国の「相続人」とするためであったなのです。主よ来たりませ!

off 十字架の誇り

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説教:最上 光宏 牧師
ガラテヤの信徒への手紙 6:11-18

ユダヤ人にとって「割礼」は、神に選ばれた民としての印であり、民族としての誇りでもありました。ガラテヤの教会を攪乱したユダヤ人キリスト者たちは、その誇りのあまり、あたかも割礼が、救いの必要条件であるかの如く説き、他の教会員にも強要したのです。パウロは、彼らのことを「肉において人からよく思われたがっている者たち」と呼び、「キリストの十字架の故に迫害されたくないばかりに、無理やり割礼を受けさせようとしている」と批判し、キリスト者の誇りは何か、と問うているのです。パウロも、かつてはユダヤ人としての誇りをもって生きていました。誰よりも熱心に律法を学び、その誇りの故にキリスト教徒を迫害さえしました。しかし復活のキリストとの出会いにより、一切の誇りを糞土のように投げ捨てて、ひたすらキリストの十字架の福音を宣べ伝える者になったのです。キリストの十字架による救いの恵みの「あまりの素晴らしさ」の故です(フィリピ3;8)。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。これはパウロの不退転の決意の表明です。彼はユダヤ人にもギリシャ人にも、ただ十字架の福音を語り、そのために受けた迫害の傷跡を「イエスの焼き印を身に受けている」と語るのです。あなたは何を誇りとしますか。

off 主がお入り用なのです (収穫感謝)

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説教:最上 光宏 牧師
マルコによる福音書11:1-10
今年も多くの収穫を与えられました。神様に感謝しましょう。これらの果物や野菜は、農家の方たちが苦労してお世話してくれたものですが、育ててくださったのは神様です。神さまは植物だけではなく、動物も人間も育ててくれます。
イエス様はエルサレムに入城するに当たって、なぜか、まだ誰も乗ったことのない小さなロバの子を引いて来させました。「主がお入用なのです」と。イエス様はそのロバの子にまたがって、エルサレムに向かわれました。未熟な小さなロバの子にとって、初めて人を乗せてエルサレムまでの坂道を上ることは、とてもきついことであったにちがいありません。歯を食いしばってよろめきながら歩いたと思います。しかし、イエス様をお乗せした子ロバはとても幸せでした。今まで、弱く小さく、だれからも顧みられなかった子ロバは、イエス様のお役に立てた! と思うだけで、うれしく幸せでした。「ホサナ、主の名によって来られ方に、祝福があるように」と、人々の叫ぶ喜びの声に、小さなロバの子は、「イエス様のお役に立ててほんとうによかった!」と、心から思ったことでしょう。このようにしてこの子ロバは、大きな自信を与えられて、神と人とに仕える立派なロバとして成長したのではないでしょうか。柔和な「平和の王」として来られた主は、小さく弱い私たちを愛し、用い、育ててくだるのです。

off 前に向かって歩む

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説教:酒井 薫 牧師

フィリピの信徒への手紙3:12-16

使徒パウロは「前に向かって走れ」「目標目指してひたすら走れ」と私たちに訴えます。私たちはどこに向かって進んで行き、何を目標として歩んだらよいのでしょうか。結論を先に言うならば「行き先と目標は主に召されるその日その時を目指して、神のみ国に向かって」という事でしょう。生きている者たちは、いつか必ず主に召される時が来ます。 その前に解決しておきたい御言葉があります。それは「後ろのものを忘れ」という言葉です。人生の過去の時間の中には忘れてしまいたいことや、失敗や悲しみの出来事など沢山ありますが、それらの事柄は人生の積み重ねで、その経験が人を成長させるのです。さらに、その経験を生かして、次こそは、次の次は、、と上に向かって成長するのです。 主に召される日がいつか分からないならば、いつ召されてもよい目標を定めなければいけません。どれほど主を証することが出来るか、どれほど主の御心を行い成し遂げることが出来るのか、が目標になるのだと考えられます。しかし、その結論は神のみぞ知る、のです。だからこそ、人は16節にあるように「わたしたちは到達したところに基づいて進む」のです。人と比べるのではなくて、私は今この到達点です。だから上を見て、主にいただけるかもしれない賞を目指して生きて行きます、と言ってすすむのです。

off お互いの重荷を担いなさい

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説教:最上 光宏 牧師
「」 ガラテヤの信徒への手紙6:1-10

ガラテヤの信徒への手紙は、信仰による救いを強調した文書です。これは、当時の教会の中に、律法の行いや割礼の儀式を救いの条件として主張するユダヤ主義の人たちが多くいたためです。M.ルターは、本書やローマ書を基に、「信仰のみ」を強調しましたが、それは決して、私たちの行為や生きかたはどうでもよいということではありません。救いはただイエス・キリストによる神の恵みによって与えられるものであって、私たちの善行によって獲得されるようなものではありません。しかし、神の恵みによって救われ、自由にされた者は、その自由な喜びの中で、自ら進んで他者に仕え、他者の重荷を喜んで担うように促されるのです。ルターが言うように「キリスト者は、何ものにも支配されない自由な君主でありつつ、すべての者に仕え奉仕する自由な僕である」のです。パウロは、キリストから与えられた自由を、肉の働く機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧め、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(5:13-14)と述べています。私たちはどうしたら、自分を愛するほどの自由さをもって、自然に積極的に他者に仕え、奉仕することができるのでしょうか。み言葉に照らして日々「自分を吟味し」(6:4)つつ、十字架の主の恵みに応えて、「互いの重荷を担う」(6:2)者でありたいと願います。

 

off 神はわが住まい (召天者記念礼拝)

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説教:最上 光宏 牧師
詩編90:1-12

愛する者との死別は、誰にとってもつらく悲しいものです。自分自身の死については、直視することも出来ません。ギリシャ神話の中にメデューサという恐ろしい怪物が出てきます。その目を見た者は、すべて石にされてしまうというのです。死はそのような魔力をもっています。この怪物を倒した英雄は、自分の盾に怪物を映して剣を振るって勝利したのです。H.リューティは、この盾こそ、死を克服する力であり、十字架と復活のキリストであると述べています。キリストを通してこそ、私たちは死に立ち向かい「死は勝利に飲み込まれた!」と叫ぶことが出来るのです。ルターが修道僧になったきっかは、友人の死と雷雨の中で体験した自らの死に対する恐怖でした。その彼が、死の恐怖から解放されたのは、「神の義は、罪人を裁き滅ぼす義ではなく、キリストを通して、罪ある者の罪を贖い、義人として認め受け入れてくださる義である」ことに気づいたからです。ルターは詩編を愛読し、特に90篇については何度も講義したようです。この詩には人生の短さはかなさが、草花やため息に譬えられ、神は永遠で、人の生も死も支配しておられることが詩われているのです。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」。私たちは生きるにも死ぬにも主のものとして、永遠なる神の住まいのうちにあるのです。

off 霊の導きに従って

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテヤの信徒への手紙5:16-25

  10月31日は、宗教改革記念日です。今からちょうど500年前のこの日、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に「95ヶ条の提題」を貼り付けて、改革の火蓋を切ったとされています。ルターが強調したことは「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」という3点に要約されます。聖書のみに権威があり、信仰によってのみ義とされ、すべての信徒が神に召されているということです。このルターの主張は、「キリスト者の自由」という著書の中にも描かれています。キリスト者は、神の選びとイエス・キリストの救いの恵みによって、「何者にも支配されない自由な君主」でありつつ、「すべてのひとに仕える僕(しもべ)」だと言うのです。イエス・キリストはまさしくそのような方でした。私たちも「小さなキリスト」となって、自由な愛をもって他者に仕えるように召され、この世に遣わされているのです。しかし、この与えられた自由を感謝し喜びつつ、自由に他者に仕え奉仕するということは、決して容易なことではありません。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。神の霊の導きによって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの「霊の実」を結びたいものです。

off あなたは愛されています。

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説教:キャロル.サック宣教師

ローマの信徒への手紙5:1-8

 私は大学生の頃、個人的な挫折の体験を通して、神さまは、何の価値もない自分をも無条件に愛し、受け容れてくださることを知りました。それ以来30年間、いつもどうしたら、その神さまの愛を人に伝えることが出来るかを求め続けてきました。50歳になって、アメリカで「音楽死生学」を学び、病人に寄り添い、ハープと歌と沈黙によって慰めを与え、神様の愛を伝える道があることを知りました。日本に帰って、山谷のホスピス「希望の家」などで、多くの患者さんに寄り添い、奉仕させていただきました。患者さんの呼吸に合わせて静かにハープを奏でるのです。人は息を吸うときより、吐くときリラックスするものです。聖書によると、息は霊(魂)を意味します。吐く息に合わせてハープを弾くことによって、その人の魂に触れることが出来るのです。厳しい顔をしていた患者さんの顔はほころび、涙を流して、心の重荷を打ち明けてくれます。音楽を通して、あるがままの自分が神さまから愛され、受け容れられていることを悟ることができるのです。アウグスティヌスは、「言葉がなくても祈れるように、神は音楽を下さった。歌う人の祈りは、二度の祈りである」と語っています。音楽を通して、どのような人も神さまから愛されていることを知って欲しいのです。愛についての概念が体験となるよう祈っています。

off キリスト者の自由

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説教:最上 光宏 牧師

ガラテアの信徒への手紙5:1-15

 キリスト教の救いは、「自由」という言葉で言い表されます。人はだれでも自由に生きているようで、お金や物に縛られたり、様々な欲望の虜(とりこ)になったり、周囲の目やひとの意見などに支配されています。自由に生きているようで、自由ではなく、目に見えない力に支配されていることが多いのです。中でも私たちから自由を奪い、不安にしているのは、罪と死の支配です。私たちは自分の力で、これらの支配から自由になることはできません。イエス・キリストは、自由を得させるためにこの世に来られ、私たちのすべての重荷と罪を担って十字架で死なれ、復活されたのです。このことによって、私たちは、罪と死の力から解放され、神との自由な交わり(和解)を与えられるのです。ここにキリスト者の自由があります。パウロはここで、「あなた方は自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を肉の働く機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧めます。宗教改革者ルターは、この言葉から、「キリスト者は、何者にも支配されない自由な君主」でありつつ、「すべての人に仕える奴隷」であると言いました。私たちは与えられている自由を大切にしつつ、その自由を自らの欲のためではなく、喜びを持って他者に奉仕する愛となるように祈り、努めたいものです。