毎週の説教メッセージ

off イエスは生きておられる

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書24:13-35

週の初めの日の夕方、エマオへの道を下る二人の旅人がいました。彼らは、主イエスに従った無名の弟子たちでしたが、主イエスが十字架に架けられ殺されたことにショックを受け、深い悲しみと失意を抱えて、郷里への道をたどったのです。その朝早く、女の弟子たちがイエスの墓を訪れ、墓が空であったことを耳にしながら、彼らは何の関心も示さず、重い足取りで逃避の道を下って行ったのです。なにもかも信じられない思いだったのです。そこに一人の旅人が近づき、声をかけ、共に歩まれたのです。それが復活された主イエスでした。憂いで心が塞がれていた彼らに、それがイエスであることが分からなかったのです。しかし、主イエスが聖書を通してみ言葉を解き明かした時、彼らの心は燃えたのです。また、エマオで食事の時、パンを裂き感謝の祈りを捧げ、それを彼らに渡されたとき、彼らの心は開かれ、主イエスであること気付いたのです。 イエスの復活という出来事は、私たちにも分り難いことです。ことに様々な憂いや悲しみ、様々な思い煩いの中にあるとき、心が閉ざされて、神さまのことが分からなくなることがあります。しかし、イエスさまはそんな私たちをお見捨てにならず、近づいて来て声をかけ、み言葉とパン裂き(聖餐)を通して、「わたしは生きて、あなたと共にいる」ことを示して下さるのです。

off 父よ、彼らをお赦しください

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書 23:32-43

ゴルゴタの丘に、三本の十字架が立てられました。主イエスを真ん中に二人の犯罪人が架けられたのです。こうして、罪のない神の子イエスは「罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53:12)のです。その十字架上の主イエスを、議員(祭司長・律法学者たち)も民衆も兵士たちも、みなあざ笑って「他人を救ったのだ。救い主なら、自分を救ってみろ」と罵ったのです。犯罪人の一人までもが、同じように罵ったのです。そのような侮辱と罵りの中で、主イエスは祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。救い主であるイエスにとって、この苦難と死から逃れる道はいくらでもあったし、自分を救うことは簡単でした。しかし、主は人々の罪を担い、「罪人の一人」として苦しみを受けることによって、すべての人の罪が赦され、救われることを祈り求めたのです。この主イエスの祈りを聞いて、もう一方の犯罪人は、イエスを侮辱した仲間をたしなめ、「我々は当然の報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない」と言い、「イエスよ、あなたのみ国で、わたしを思い出してください」と祈ったのです。主イエスはこれを彼の信仰と認め「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。主イエスの苦難と死を<自分の罪のため>として受け入れる者こそ、罪赦されて神の国に入ることができるのです。

off バラバかイエスか

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書23:32-43

聖書の中で、ピラトの裁判ほど不可解で不合理なものはありません。イエスの無実を認め、「釈放しょう」と宣言しつつ、十字架刑に処してしまうのです。祭司長たちに扇動された群衆が、「十字架につけろ」と強く要望したからです。民衆の声を聞くことは、民主主義の基本ですが、民衆が間違った情報によって操作される時、暴徒化する危険もあります。国民一人一人が、正しい情報に基づいて、冷静に判断することが必要です。ピラトは、祭司長たちの妬みであることを知りつつ、祭りの際の恩赦の慣例によってイエスを釈放しようとして「バラバかイエスか」と問い、それがあだとなって暴動と殺人のかどで捕らえられた死刑囚バラバを釈放し、イエスを死刑にする結果になったのです。自己の身の保全しか考えないピラトの政治責任は厳しく問われなければなりません。しかし神はそのような、不合理な出来事を通して、この世に大きな救いの御業をなさったのです。このキリストの十字架の死を通して、すべての人間の罪が赦され、神との和解の道が開かれたからです。ラーゲルクヴィストは、『バラバ』という小説の中で、イエスの身代わりの死よって、自由の身となったバラバのその後の人生を興味深く描いています。私たち一人一人も、罪の故に滅びるべき身でありながら、キリストの身代わりによって生かされているのです。主の恵みに応えて生きたいものです。

off み心のままに

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書22:39-46

主イエスは逮捕される夜、弟子たちと最後の晩餐を共にし、「いつものように」、「いつもの場所で」祈られました。大きな苦難と死に立ち向かう力は、「いつも」の祈りによって与えられるのです。主イエスの祈りは「父よ、御心なら、この杯を取り除けてください」というものでした。祈りは、神さまに心を開いて、自分の願いや思いを率直に訴えることです。主イエスは、苦しみもだえ、汗を血のように滴らせながら、切に祈られました。祈りは神との対話です。自分の願いと、神の御心との間に齟齬が生じるとき、祈りは神との格闘になります。しかし祈りにおける挌闘は、自分の願いや要求を貫き通すことではなく、神の御心に自分が従うことです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。これが主イエスの祈りの帰結でした。 主イエスは、そのような祈りの中で、天からの力を得て、「立ち上がり」、十字架の苦難と死の「杯」を受け入れたのです。それは、私たちのための大いなる決断でした。主イエスは、この祈りの前後に、弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」と声をかけられました。迫り来る苦難の中で、弟子たちもまた、祈りによって誘惑に打ち勝ち、神の御心に従うことを切に求められたのです。祈りこそ試練に打ち勝つ力です。目を覚まして、絶えず祈りましょう。

off 神のものは神に

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書22:39-46

「皇帝に税金を納めるべきかどうか?」。祭司長や律法学者たちは、イエスを陥れるために、回し者たちを遣わして問わせました。これは、どちらに答えても、イエスを窮地に追い込む罠でした。イエスはデナリオン銀貨を取り出させ「だれの肖像か」と問い、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と答えたのです。銀貨には皇帝ティベリウスの像が刻まれ、「神なる皇帝ティベリウス」の銘が刻まれていたからです。納税に使われたこの銀貨は、ローマの属国に皇帝礼拝を押し付け、ローマの支配を強化するためのものでした。イエスはこの言葉で、まず皇帝は神ではないことを明らかにし、この世の権威には従うべきことを明らかにすると共に、「神のものは神に返す」べきことを命じられたのです。それは、皇帝をも含めたすべての人が「神のもの」として、神に従い、神に栄光を帰すべきことを示したことばです。かつて日本の国は、天皇を神とし、天皇の権威のもとに日本を「神国」とし、その権勢をアジアと世界にまで広げようとして間違った戦争を引き起こしました。天皇代替わりの諸儀式は、神道儀式により天皇が皇祖の霊を受け継ぎ「神」になる儀式です。これが国の行事として行われ、公費が用いられることは、政教分離の原則に反し、国家神道を復活させることに通じます。神のみを神とすべきです。

off 見えるようになれ

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:31-43

主イエスは、弟子たちに3度、ご自分の受難と死と復活について予告されました。しかし、弟子たちには、すこしもそのことが理解できませんでした。弟子たちの無理解は、理解力の問題ではなく、彼らの関心の問題でした。マルコ福音書によると、1度目の受難予告の時、ペトロはイエスをいさめ、「サタン引き下がれ」との厳しい叱責を受けました。2度目の時には、「自分たちの中でだれが一番か」と論争し、3度目にはヤコブとヨハネが「栄光をお受けになった時、一人を右に一人を左に」と要求したことが記されています。彼らは自分たちの出世と栄誉を求め、イエスをその自己実現のための手段としていたのです。
ルカ福音書の記者は、弟子たちの無理解を物もらいの盲人の癒しの記事と結び付けて、彼らも主イエスから心の目を開いてもらう必要があったことを印象付けています。「何をしてほしいのか」という主イエスの問いに、盲人は、金銭ではなく「目が見えるようになりたい」と願いました。主イエスが弟子たちに求めたことは、彼らも謙虚に自らの心の闇に気づき、主によって目が開かれ、光の世界に導かれることでした。主イエスは「何を求めているのか分からない」彼らのために祈り、苦しみを負い、命を捧げられたのです。彼らの目は、主の復活と聖霊降臨を通して開かれ、生涯、十字架を負って主に従う者へと変えられたのです。

off 永遠の命を受ける

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:18-30

「何をすれば永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」。ある若い金持ちの議員がイエスにこのように尋ねました。若くしてかなりの富を蓄え、しかも議員という社会的な地位を獲ていても、彼の心は満たされていなかったのです。「永遠の命」とは、長生きをするとか、死なないということではありません。「永遠」とは時間の長さではなく、時間の重さを意味する言葉です。充実した悔いのない生き方を彼は求めたのです。人がうらやむような地上の富も社会的な地位も決して永遠なものではありません。死の前に一切が虚無になります。彼は「何をすれば…」と、行為の中に生きがいを求めましたが、忙しく働くことは、一時的に虚しさを忘れさせることは出来ても、「永遠の命」に至るものではありません。彼は十戒の後半(隣人との関係における戒め)は、形式的に守っていたかもしれませんが、前半の神のみを神としてあがめるという戒めをおろそかにしていました。主イエスは「あなたには欠けているものが一つある」と言い、「すべてを貧しい人々に分け与え、わたしに従いなさい」と言われました。彼は地上の富や名声に心を奪われ、それを「神」のように敬っていたからです。「永遠の命」はイエス・キリストを通して、永遠なる神との交わりによって与えられるものなのです。彼は、富への執着のため、悲しみながら立ち去りました。「天に宝を積む」ことが出来なかったのです。あなたは?

off 聴かれる祈り

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書18:1-14

主イエスは、気落ちせずに絶えず祈るようにと、弟子たちにたとえを語られました。一人のやもめが、街の裁判官に「正しい裁きをして、私を守ってください」と、いくら訴えても聞き入れてくれないのに、熱心にしつこく訴え続けた結果、その願いが聞き入れられたというたとえです。聖書において「やもめ」は、「孤児」とともに、社会的に最も弱い立場の代表者です。このような立場の人は、手厚く保護されなければならないはずですが、世の政治家や権力者は、いつの時代も、このような弱い立場の人たちを無視し、ないがしろにしてきました。「神を畏れず人を人とも思わない」この不正な裁判官も、ついに彼女の粘り強さに根負けして、正しい裁判をした、というのです。このたとえは、どんなに小さな者の祈りでも、熱心に祈り続けるなら、神は必ず聴いてくださるということを示しています。それと共に、粘り強い祈りは、どんなに非道な悪しき政治をも変革する「力」であるということを示唆しています。フォーサイスは「祈りの精神」の中で「二枚の板を接着剤で張り合わせる時、外からの圧力が必要なように、人生の様々な苦難は、私たちの魂を神へと結びつける。そしてそのようにして接合された板は、どのような外圧にも耐えられる堅固な建材として用いられる」という意味のことを述べています。この悪しき世の様々な圧力や試練の中で、私たちは気を落とさずに祈り続け、ますます神と固く結ばれ、「世の光」「地の塩」しとての役割を果たしていきたいものです。

off 感謝する恵み

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書17:11-19

主イエスは、エルサレムに向かう途中、サマリアの地方を通られ、ある村で10人の「重い皮膚病」を患う人の集団に会われました。「レプラ」という原語のこの病は、以前「らい病」と訳されていましたが、今では「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。長い間人々の偏見から、不治の「汚れた病」とみなされてきましたが、近年、医学の進歩により完治し、感染も遺伝もしないことが明らかになりました。日本ではつい最近まで、この病の患者は「らい園」に強制隔離され、不妊手術まで強要される政策が続きました。旧約のレビ記には、この病にかかった人は、祭司が「清い」と判断するまで、人との接触を避け、患部を露出して「汚れている、汚れている」と叫び続けるように戒められています、主イエスと出会った10人の患者の中に、一人のサマリア人が加わっていました。サマリア人を嫌っていた当時のユダヤでは考えられないことでした。この病に対する人々の差別と偏見が、彼らを強く結びつけたのです。彼らは、主イエスに出会うと「汚れている」と叫ぶ代わりに、「私たちを憐れんでください」と声を張り上げたのです。それは彼らの心の叫びだったのです。主は彼らを等しく癒されたのですが、1人のサマリア人だけが、癒された喜びを感謝するために戻ってきたのです。主イエスは「ほかの9人はどこへ行ったのか」と気遣いつつ、「あなたの信仰があなたを救った」と新たな祝福を与えたのです。彼は病の癒し以上に、信仰によって生きる新たな力を与えられたのです。

off 赦し、信仰、奉仕

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説教:最上 光宏 牧師

ルカによる福音書17:1-10

主イエスは、弟子たちに対して「つまずきは避けられない」と述べつつ、「それをもたらす者は不幸であると」と言われました。主イエスは十字架への道を歩むにあたり、弟子たちが受けるであろうサタンの試みと試練のために祈りつつ、「いと小さき者の一人」をもつまずかせることがないように、と諭されたのです。それにしても、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海の中に投げ込まれてしまう方がましである」とは、過激な表現です。
そこに、「小さい者」に対する主イエスの大きな愛があるのです。「小さい者」とは、幼子や弱い立場の人、貧しい人、疎外されている人など、社会的弱者の総称です。主イエスは、そのよう人々を「わたしの兄弟」と呼び、「この最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことだ」と言われました(マタイ25:40)。私たちにとって、「隣人」は「小さなキリスト」(ルター)なのです。弱い立場にある「小さな人」をこそ、私たちは大切に、愛し受け入れ、彼らに仕えていく必要があるのです。主がそのような「小さき者の一人」を愛され、そのために尊い命を捧げてくださったからです。主イエスがここで語られた「赦し」と「信仰」と「奉仕」の勧めは、この「小さき者の一人」をつまずかせないために、私たちが常に祈り努めるべき課題なのです。