毎週の説教メッセージ

off 聖霊による交わり

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説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録2:37-47

 聖霊降臨の出来事は、「言葉の奇跡」を生みました。弟子たちの語った言葉が、言語の違いを超えて、諸外国から来ていた人々にも通じ、皆に驚きを与えました。また、人前で語ったことなどなかった漁師出のペトロが、ここで堂々と「ナザレのイエスこそ神から遣わされた真の救い主である」ことを詩編の言葉を引用し論証し、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語ったのです。これを聞いた人々は大いに心打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うたのです。聖霊による生きた言葉は、必ず応答を呼び起すのです。このようにしてその日3千人もの人々が洗礼を受け、仲間に加わり、心を一つにして礼拝し、パン裂き(愛餐)と祈りを中心とした交わりを形作ったのです。それだけではありません。その交わりは、すべての物を共有にし、みんなが持ち寄り、みんなが必要に応じて分け合う共同の生活をし、貧しい者は誰もいなかったというのです。そこには、かつて誰が一番かということで論争し、自分だけのことしか考えなかった弟子たちの姿はみられません。これは「交わりの奇跡」です。この交わりが、多くの人から好意(魅力)をもたれ、日々仲間が加えられたのです。初代教会の宣教は、人の力を超えた聖霊の働きと導きによるものでした。

説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書6;25-34

 子どもの日・花の日を迎えるたびに私は思います。どうしてこの二つの日を同時に祝うのだろうか、と。私なりに思うことは、子どもも花も、イエスさまが特別に愛されたものだからです。イエスさまは、子どもたちが来るといつも喜んで受け入れ祝福され、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。また、野の花を愛され、「野の花を見なさい」と言われました。「働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」と。野の花が美しいのは、あれこれと思い悩むことなく、ただ神さまから生かされ、愛されていることを喜び、感謝し、今日の命を精一杯に生きているからです。野の花は、病人や傷ついた人の心を癒し、悩み悲しむ人を慰めます。また人と争ったり、人を憎む心を静め、平和を与えます。野の花を「沈黙の教師、喜びの教師、信頼と服従の教師」と称した人がいます(キェルケゴール)。私たちも、野の花に学びつつ、人々に慰めや喜びを与え、この世に平和をもたらす者になりたいと思います。そのためにも、衣・食・住など目に見えるものに心奪われて、いたずらにあれこれと思い悩むことなく、神の国を祈りつつ待ち望みたいものです。

説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録2:14-24

 ペンテコステの出来事は、生きた言葉の回復です。通じないはずの弟子たちの言葉が、言語や文化の壁を越えて、集まっていたすべての人に通じ、神のみ業を讃えたのです。それを見た人たちの中には、驚嘆するとともに、「酒に酔っているのだ」と冷笑する人々もいたのです。そこで、ペトロは12弟子を代表して、酒に酔っているのではなく、聖霊によるのだと語り、「若者は幻を見、老人は夢を見る」とのヨエルの預言が成就したと語ったのです。「幻」にしても「夢」にしても、現実を越えた世界ですが、聖霊による夢・幻は、厳しい現実を乗り越える希望となり、力となるのです。クラーク博士は閉塞感に陥っていた日本の若者に「青年よ、大志を抱け」と語り、多くの若者を鼓舞しました。また、マーチン・ルーサー・キング牧師は黒人への厳しい差別と偏見の中で「私は夢見る。私は夢見る」と語り、子どもたちが皮膚の色によってではなく、品性によって評価され、黒人と白人が手をつないで、共に歩む夢を見続けました。キング牧師は39歳で凶弾に倒れましたが、その夢は、黒人の大統領が選ばれるという形で現実のものとなりました。キング牧師の夢は、深い悲しみと失意の中で真剣に主に祈る中で、神から与えられた幻でした。神からの霊による幻こそ、今、私たちが祈り求めるべきものなのです。「幻なき民は滅びる」(箴言)からです。

off 主よ、この時ですか?

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説教:最上 光宏 牧師

使徒言行録1:3-14

 復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちに現れ、彼らの心の傷を癒し、立ち上がる力を与えられました。「主よ、イスラエルために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。この問いは、主イエスと共に早くこの国を建て直したいという弟子たちの願望を表すものです。ローマの支配化にあって、重税と労役・兵役などの圧制と世の腐敗に憤り、自分たちの国を立て直さなければ、という意気込みを感じます。主イエスは、おそらくそのような弟子たちの意欲を喜びつつも、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。一時の感情や自分勝手な判断で事を急がす、神から約束された聖霊を待て、というのです。「時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、地の果てにまで、わたしの証人となる」と。この世は、ローマや権力者が支配しているのではありなせん。神が支配し導いておられるのです。神にのみ信頼し、上からの力によって、御心に従うことが求められているのです。「神を待ち望む」ことにこそ力があるのです。主イエスは、そのことを弟子たちに示しつつ、昇天されたのです。神と共にこの世を支配し世を建て直すためです。聖霊によって、主を待ちつつ励みたいものです。

off あなたは私に従いなさい

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書21;15-25

復活された主イエスは、3度主を否んだペトロに、3度「わたしを愛するか」と問い、3度「わたしの羊を飼いなさい」と命じました。ペトロの失敗を赦し、新たな任務へと召されたのです。その直後、主イエスはペトロに「あなたは、若いときは、自分で行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手をのばして、他の人に帯を締められて、行きたくないところに連れて行かれる」と言われました。これは単に老後の不自由さを語ったのではなく、彼がどのような死に方で神の栄光を現すかを示唆したものでした。「わたしは良い羊飼い」と言われた主は、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ、その言葉どおり、十字架の道を歩まれました。主の羊を飼うためには、羊のために自分の命を投げ出す覚悟が必要なのです。ペトロはそのような任に選ばれたことの「恍惚と不安」(太宰治)の中で、後ろを振り向き、イエスの愛しておられた弟子(ヨハネ)を見て、「この人はどうなるのでしょう」と尋ねたのです。その時主は「あなたに何の関係があるか」と叱責し、「あなたはわたしに従いなさい」と命じられたのです。他人のことを気にするとき、自分のことがおろそかになりがちです。主からの問いかけに対して、後ろを振り向かず、まっすぐ主に向い、その招きに応えて自分の十字架を負って従いたいものです。

off わたしを愛するか

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書21:15-19

だれにでも、人に知られたくない過去があります。挫折や失敗、過ちなど、心の傷があります。ペトロもそうでした。主イエスが捕らえられた夜、彼は女中たちの問いに答えて3度も主イエスを知らないと否認したのです。「たとえ死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは言いませんと」と主に語った直後です。主が言われた通りに、鶏が鳴く前に3度主を否んでしまったのです。伝説によると彼は、鶏が鳴く度にその夜の出来事を思い起こして、激しく泣いたと伝えられています。 復活の主イエスとの出会いがなかったら、彼は生涯、その過去に囚われ、主を十字架につけたのは私だと自分を責め続けたことでしょう。彼は誰よりも主を愛し慕っていたのです。 復活されて主は、ペトロに出会われ、3度「わたしを愛しているか」と問われたのです。「愛しているか」とは、真に愛している者のみが問い得る問いです。ペトロはその都度心を痛ませながら「主よ、あなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えたのです。そして主はその度に3度「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられたのです。復活の主は、ペトロが3度の主を否んだ一つ一つの言葉を取り消させ、新たな愛の告白を引き出し、新たな使命へと押し出されたのです。過去から解放され、いと小さき者に仕えるように、と。

off 網を打ちなさい

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書21:1-14

 復活されたキリストは、エルサレムについで、ガリラヤでも弟子たちに出会われました。ガリラヤ湖はペトロたちの出身地で、彼らが最初に主イエスと出会い、弟子になった地です。漁師であったペトロは他の弟子たちを誘って、久しぶりに漁を始めました。ところが夜になり、一晩中網を打ち続けたのに一匹の魚も獲れずに明け方を迎えたのです。挫折感と疲労に打ちのめされて、虚しく岸に戻ろうとしたとき、岸辺から声を掛けて「舟の右側に網を打ちなさい」と叫ぶ人がいたのです。この湖の漁師であったペテロにとって、人の指示に従うことには抵抗があったと思いますが、その通りにしてみると、網一杯の魚が獲れたのです。「あれは主だ」との他の弟子の声に、ペトロは慌てて脱いでいた上着を着て、水に飛び込んだというのです。この出来事は、ルカによる福音書5章に記されているペトロの召命の記事とよく似ています。あの朝も、ペトロは一晩中網を降ろし続けても一匹の魚も獲れず、虚しく網を洗っていました。そこに主イエスが来られ、「沖へ漕ぎ出し漁をしなさい」と命じ、おびただしい魚が獲れたのです。「罪深いわたしから離れてください」とひれ伏すペトロに主は、「あなたは人間を獲る漁師になるのだ」と云われ、彼はすべてを捨てて主に従ったのです。「初心に帰れ!」。復活の主は挫折しているペトロにそう働きかけたのです。

off イエスの埋葬

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説教:最上  光宏 牧師

ヨハネによる福音書 19:38-42

 主イエスが十字架の上で息を引き取られた後、アリマタヤ出身のヨセフが、その遺体を引き取りたいと願い出ました。彼はユダヤの議会の議員で、ひそかにイエスを信じ慕っていた人物です。彼は今まで、ユダヤ人を恐れて自分の信仰的立場を隠していたのです。その彼が、勇気をもって、死刑囚として処刑されたイエスの遺体を十字架から取り降ろして、自分の新しい墓に納めたのです。その際、もう一人の人物が大量の没薬と沈香を持ってきて、イエスの体に塗り、亜麻布で包み、埋葬に協力しました。かつて夜、イエスのもと訪ねたニコデモです。彼は律法の教師でユダヤの議員でもありました。彼も人目をはばかって、ある夜ひそかにイエスを訪ねたのです。イエスから「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)と言われ、「年をとった者がどうして生まれることが出来ましょう」と反論し、イエスから遠ざかった人です。救いを求めつつ、年老いた自分に、今さら生き方を変えられないと思ったからです。このような二人が、共に力を合わせて、主イエスの遺体の埋葬に関わったのです。主イエスの十字架の死の前に、彼らは自分の社会的立場や名声、年齢など一切の誇りを捨て、人からの批判や孤立を恐れずに自分の信仰的立場を明らかにしたのです。人を恐れず、主の前に真実に生きたいものです。

off 主イエスの死の意味

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書19:31-37

 ヨハネ福音書の記者は、イエス・キリストを「過越しの小羊」として描いています。バプテスマのヨハネはイエスを見るなり「みよ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と叫び、自分の弟子たちにもそのように諭しています。「過越し」とはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した際の決め手となった出来事で、神がエジプトの家々の長子を撃たれた時、イスラエルの民に命じて、小羊を屠ってその血を入り口の柱と鴨居に塗ることを命じ、災いを過ぎ越されたという出来事です。イスラエルの民はその出来事によって、エジプトの奴隷から解放されて、自由の身となったのです。イスラエル民は毎年この出来事を記念して、小羊を屠りその血を家の鴨居に塗り、その肉を食したのです。イエスが十字架に磔にされたのも、過越しの小羊が屠られる日でした。ヨハネは、このイエスこそ過越祭の神の小羊だ! というのです。イスラエルの民が小羊の血によって贖われ、エジプトの奴隷から解放されたように、私たちはキリストの血によって罪の拘束から解放され、永遠の命を約束されているのです。イエスの脇腹から血と水が流れ出たという表現は、教会の聖餐式と洗礼式を象徴しています。イエス・キリストの十字架の死によって差し出された恵みに、感謝してあずかりたいものです。

off 成し遂げられた

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説教:最上 光宏 牧師

ヨハネによる福音書19:28-30

十字架の上で、主イエスは「渇く」と言われました。これは肉体的な渇きの苦しみを意味するだけではありません。すべての人に「命の水」を与えるために来られたれた主が、十字架の死を通して、ご自身の愛と命のすべてを注ぎ尽くしたという徴でもありました。それが「成し遂げられた」という最期の言葉につながっているのです。主イエスはかつて、サマリヤの女とシカルの井戸で出会われ、「この水を飲む者は誰でもまた渇く、しかしわたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。現代人は殺伐とした砂漠のような時代の中で、みな孤立し渇き切っています。主イエスは、ご自分の愛と命のすべてを私たちに注ぎ尽くして、「渇く」と訴えつつ、息を引き取られたのです。このイエス・キリストの注がれた愛と命こそが、渇き切った私たちの心を癒し潤す唯一の「命の水」なのです。十字架のイエスに差し出された酸いぶどう酒は、渇きを訴える主にさらに渇きの苦痛を与えるものでした。それを受け入れのみ込まれたことは、人間の悪意と罪を我が身に引き受け、自らの死をもってその人を赦される測り知れない主の愛を示すものです。主イエスは、自らの死によって神の御心が「成し遂げられた」と叫んで、父の御許に凱旋されたのです。