毎週の説教メッセージ

off 光を高くかかげよ

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説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書5:13-16

主イエスは「山上の説教」において、「幸いである」との祝福の言葉に続いて、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われました。「地の塩」「世の光」は、この地、この世にとって、無くてはならない貴重な存在です。弟子たちは無力な少数者であっても、「世のための存在として」主によって選ばれ、尊い存在意義を与えられているのです。彼ら自身が塩味を持ち、光を放つわけではありませんが、主イエスご自身が弟子たちと共にいて、塩味を与え、光を照らして下さることによって、役割を果たし得るのです。それは一方的な主の恵みに他なりません。戦時下において日本の教会は、天皇を神とする国体に呑み込まれ、戦争に協力する罪を犯しました。主の恵みと力に信頼するよりも、この世の力に圧倒され、この地の流れに身を任せてしまったのです。それ故に日本基督教団は、「世の光・地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。…キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきでありました」との「戦責告白」をもって、明日に向かっての決意を新たにする必要があったのです。「山の上にある町は隠れることが出来ない」と言われた主イエスの言葉は、「世の光」である主ご自身がこのような無力な群れをも見捨てずに、なお「世の光」として私たちを用いたもうという約束でもあります。

off 平和を実現する人 (平和聖日) 

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説教:最上 光宏 牧師

マタイによる福音書5:1-12

日本の国が戦争に敗れて、74年目の八月を迎えました。この70余年間、この国が、戦争によって一人の戦死者を出すことも、一人の他国の人の命を奪うこともなかったのは「平和憲法」のお陰です。けれども今の政府は、憲法9条を変えて、いつでも戦争できる国に変えようとしています。唯一の原爆被爆国にもかかわらず、核兵器の軍縮に署名もせず、いたずらに近隣アジア諸国との緊張を高め、「経済戦争」を煽っている感じです。もはや平和な時代ではありません。そのような中で、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」との主イエスの言葉が心に迫ります。「平和」は、単に戦争のない状態ではありません。互いに相手を信頼し,尊重し,赦し愛し合う関係です。また「幸い」とは、単なる幸福(ハッピー)ではなく、神さまからの祝福を意味する言葉(Blessed)です。私たちはハッピーな生活を求めて、富みや力や名声を追及しますが、それが「幸い」をもたらすとは限りません。かつて日本の国は「富国強兵」の名のもとに経済的豊かさのみを求め、軍事力でアジアを支配し、世界に名を覇せようとしました。その結果があの悲惨な大戦です。主イエスは、自ら貧しくなり、私たちに仕え、十字架の死を通して「敵意という隔ての壁を滅ぼし」、神との和解と平和の道を備えられました。私たちは「平和を実現する神の子」として召されているのです。

off 神による管理人

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)4:1-7

パウロは、自分たち「使徒」の務めについて、「キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」と述べています。「仕える者」とは、ガレー船の船底で艪(ろ)を漕ぐ最下位の奴隷を意味する言葉です。彼はこの言葉で、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」と使徒を巡って分争するコリントの信徒に、人を絶対化したり、比較して裁いたりすることを戒め、キリストに心を傾けるべきことを諭したのです。それと同時に、使徒の使命は、神の救いの計画の「管理者」として、福音を正しく伝えることであることをを示したのです。「管理者」は、家を守る僕「家令」を意味する言葉です。パウロは、このような言葉で、神さまの前に「使徒」も「信徒」もない。共にキリストに仕え、等しく福音を伝える使命を担っていることを示唆していると思われます。H.クレーマーは、「信徒の神学」の中で、牧師中心主義の弊害を指摘し、初代教会のように全ての信徒が「使徒」としての自覚をもって、この世に遣わされてキリストを証しするのでなければ、教会は死滅すると警鐘を鳴らしています。「管理者に要求されているのは忠実であることです」とパウロが述べているように、神の真実に対して真実をもって応えることが、私たちに求められています。人の目を気にして、評価や批判に一喜一憂するのでなく、神の前に真実に生きたいと願います。

off あなたは何もかもご存じです

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説教:加藤 久幸 教師(水海道教会)

ヨハネによる福音書21:15-19

私たちの人生には、思いもかけない、予期せぬことが起こることがあります。私は2015年3月軽い脳梗塞を発症し、私たち(水海道教会・二葉こども園)はその半年後の9月に「関東・東北豪雨」の水害被害に遭いました。人は、「まさか私(たち)が?」「どうして今?」と思います。この時の被災とその後の歩みを振り返る時、造られたものの弱さと破れを自覚させられたからこそ、その時を生きのびる(過ぎ越す)ことができたのではないかと思わされます。奥田知志牧師(「『助けて』と言える国へ」集英社新書 229頁)は、「この弱さの自己認証というものは、『敗北的に』なされなければならないと思う。敗北的というのは、自分が胸を張って選ぶというのではなく、もうせざるを得ないという状態で、いわば降参状態ですることである」と、述べています。嵐が吹き荒れるような被災・復興の体験を経て、私たちは、各々の命の営みを覚え、祈り合うことの大切さを、学びました。
今日の聖書のペトロと同様、私たちの全てを承知していてくださる方が、私たちを愛してくださっています。その方が、〔「信じるか」という問いかけではなく、〕イエス(神)を愛するか、羊(隣人)を〔愛し〕世話をしなさいと、招き呼びかけてくださいます。私たちも、私たちにとってなくてはならない、イエスの愛・関わり・不思議さを受けとめ、これからも共に歩んでいきたいと思います。

off あなたはキリストのもの

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説教:最上 光宏 牧師

コリントへの信徒への手紙①3:18-23

ボンヘッファーが獄中で書き残した詩の中に「私は何者か?」というのがあります。人々の評価と現実の自分との乖離と矛盾の中で、「私は何者か」と問いつつ、「私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知りたもう。私はあなたのものだ」とうたっているのです。 自分自身を正しく認識するということは難しいことです。
パウロは分争に明け暮れるコリントの教会の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」と語り、「だれも人間を誇ってはなりません」と戒めています。自分を誇ることも、特定の人を絶対化することも、自分を欺き、神と隣人を欺くことになります。神のみが正しく、絶対だからです。神の真実の前に、常に真実でありたい。それが、パウロの訴えであり、ボンヘッファーの願いでもあったのです。人はどうしたら、何ものにもとらわれず、自由に真実に生きられるのでしょうか。パウロは、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」(23)という言葉で、この章を結んでいます。キリストによって罪を贖われた「キリスト者」は「キリストのもの」なのです。「贖う」という言葉は、奴隷が自由の身になるための「身代金」からきていると言われます。罪の奴隷であった私たちが、キリストの血(命)によって、贖われて「キリストのもの」とされたのです。ここに私たちの存在の根拠があるのです。「キリストのもの」として、常に真実に自由に生きたいものです。

off 人生の土台

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説教:最上 光宏 牧師

コリントへの第一の手紙 3:10-17

今年も大雨によって、各地で水害等の被害がありました。地震や水害等の対策の一つとして、地盤や建物の基礎工事の点検があげられます。このことは、教会についても言い得ることです。パウロは教会を「神の建物」にたとえて、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えた」と記しています。その土台とは、十字架のイエス・キリストのことです。イエスさま自身、十字架の死を予告して、「家造りらの捨てた石が隅の親石となった」との詩編の言葉を引用し、ペトロも使徒言行録と手紙の中で、この言葉を引用して、「人々によって殺されたイエスが神によって甦らされ、救いの基となられた」と証言しました。パウロも「十字架のイエス・キリスト以外に救いはない」と力説し、「この土台を無視して、誰も他の土台を据えることは出来ない」と述べているのです。この土台の上に私たち一人一人が石を積み上げ、木材を組み立てて教会を築き上げていくのです。スペインのサクラダ・ファミリアという大聖堂は140年経った今でも未完成で建設途上と聞きます。キリストを基とした「見えざる,内なる教会」は、絶えず途上にあって、神の国の到来に向かって成長し続けるのです。時代の激しい雨風や潮流の中で、私たちはどこに立つのか、問われています。一人一人がしっかりとキリストに結ばれ、キリストを土台として成長し続ける教会でありたいと願います。

先週の説教                       最上光宏牧師「人生の土台」   コリントへの第一の手紙3:10-17

今年も大雨によって、各地で水害等の被害がありました。地震や水害等の対策の一つとして、地盤や建物の基礎工事の点検があげられます。このことは、教会についても言い得ることです。パウロは教会を「神の建物」にたとえて、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えた」と記しています。その土台とは、十字架のイエス・キリストのことです。イエスさま自身、十字架の死を予告して、「家造りらの捨てた石が隅の親石となった」との詩編の言葉を引用し、ペトロも使徒言行録と手紙の中で、この言葉を引用して、「人々によって殺されたイエスが神によって甦らされ、救いの基となられた」と証言しました。パウロも「十字架のイエス・キリスト以外に救いはない」と力説し、「この土台を無視して、誰も他の土台を据えることは出来ない」と述べているのです。この土台の上に私たち一人一人が石を積み上げ、木材を組み立てて教会を築き上げていくのです。スペインのサクラダ・ファミリアという大聖堂は140年経った今でも未完成で建設途上と聞きます。キリストを基とした「見えざる,内なる教会」は、絶えず途上にあって、神の国の到来に向かって成長し続けるのです。時代の激しい雨風や潮流の中で、私たちはどこに立つのか、問われています。一人一人がしっかりとキリストに結ばれ、キリストを土台として成長し続ける教会でありたいと願います。

off イエス・キリストの名によって

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

使徒言行録10:44-48

本日の聖書前半部では、ペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが…」と語っている時に(34節~43節)“聖霊が降り、異邦人が異言を話し神を賛美した”ことが記されています。この状況は、聖霊降臨の場面(2章1節~11節)と酷似しています。本日の箇所と聖霊降臨の間には、重要な分岐点が幾つかあります。そのいずれにも、「イエス・キリストの名によって」という句が関係しています。「悔い改め(方向転換)と罪の赦し」(2章38節)、「足の不自由な男のいやし」(3章6節)、「いやしに対する尋問」(4章10節)、そして「異邦人も聖霊を受ける」(10章48節)です。どの場面も、イエスが十字架に架かる以前の弟子たちとは違い、公衆の面前で大胆に福音を語り、癒し、困難な状況に遭っても躊躇しません。彼らがそう出来たのは、神がイエスを“復活”させられた、との確信があったからです。“復活”の語は、「よみがえり」(40節)と「横になっているものを起こす」(41節)の二種類を使っています。「イエス・キリストの名によって(名の中に)」自分を浸す時、自分の人生を諦めていた者が立ち上がる(復活)ことが可能になり、外部の圧力にも屈せず、新しい価値観(異邦人も聖霊を受ける)をも享受し、これまでにない共生の歩みに踏み出せたのです。果たして、私たちはどうなのか。自身の脆弱さを嘆くのではなく、むしろ「イエス・キリストの名によって」自分の弱さに主が寄り添われ、聖霊の力を受けて(1章8節)希望の道を歩みたい。

off 愛がなければ

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)13:1-13

この箇所は一般に「愛の賛歌」と呼ばれ、結婚式などで読まれる箇所です。しかし著者のパウロは、これを単なる賛歌として謳いあげているのではありません。「最高の道」として教え、共にこの道を歩もうと勧めているのです。愛がなければ、どんなに素晴らしい言葉もやかましい音でしかなく、どんなに深い知識も信仰も行為も、愛がなければ無に等しいからです。ここには、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない…」と15の徳目があげられていますが、これはどれも私たちの愛に欠けている事柄です。ここで言う愛は「アガペー」という語で、価値無き者をも愛する「神の愛」を意味する言葉です。イエス・キリストこそ、この愛に生きそして死んだ唯一の方なのです。パウロは、イエス・キリストが自分のために十字架に架かられたことを知って、神の愛を知り、自らもその愛に応えて生きようとしたのです。「幼子のことを捨てた」とは、自分中心の活き方を捨てて、他者のために仕える成熟した愛に生きようと決意したことを意味します。しかし、今はまだ、神の愛は鏡を通して見るように、間接的にぼんやりとしかとらえられていない。けれども、やがて、顔と顔とを合わせて見るように、直接的にはっきりと捉えられる時が来る。パウロは、おそらくそのような信仰と希望とをもって、神の愛を追い求めつつ、「さあ、あなたも」と私たちをその道に招いているのです。

off 成長させてくださる神

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説教:最上 光宏 牧師

コリントへの第一の手紙3:1-9

パウロは、コリントの教会の人々を「乳飲み子」にたとえて、「乳を飲ませて、固い食べ物は与えませんでした」とのべています。彼らの未熟さの故です。幼子は素直な反面、自分を絶対化して、他者を顧みることがありません。パウロは、コリントの教会の中に「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」と指導者を巡って分争している様子に心を痛めて、「肉の人」から「霊の人」に成長することを願っているのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」。パウロはこの言葉で、自分とアポロの役割の違いを明らかにしつつ、自分たちの働きは取るに足りない、「大切なのは成長させてくださる神です」と語るのです。子どもを育てるのも親ではありません。神さまが育ててくださるのです。親は神さまの御業にあずからせて頂くのです。育児の喜びとゆとりは、そこにあるのです。教会の成長も同じです。神さまが成長させてくださるのです。伝道は、基本的に神さまの御業です。牧師も信徒もその神さまの御業に共にあずからせて頂くのです。そこに伝道と教会形成の喜びがあるのです。パウロは、神の御業に加えられて、み言葉の種をまき続けることに深い喜びと感謝の思いを込めて、コリントの教会の霊的な成長を祈っているのです。

説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(1)2:1-16

ペンテコステの出来事は、弟子たちに聖霊が降り、彼らが一斉に立ち上がり、諸外国から来た人々にも通じる言葉で語り出したということです。それは「十字架で殺されたイエスを神は甦らせ、救い主とされた」という「偉大な神の業」についてでした。聖霊は、神の隠された知恵(奥義)を明らかに開き示す力であり、それを大胆に語らせる力です。またそのようにして語られる十字架の言葉を他の人々にも悟らせる力でもあります。人間の知恵では愚かとしか見えず、つまずきでしかない十字架の言葉が、聖霊の働きによって、尊い救いの力として理解されるようになるのです。パウロはアテネでギリシャ人の好みに合わせて、人間的な知恵によって語った結果失敗し、恐れと不安を抱いてコリントで伝道したのです。そのような挫折を通して彼は、ひたすら聖霊の導きを祈り求め、「十字架のキリスト以外何も知るまいと心に決めて」、人の知恵によってではなく、神の知恵によって語ったのです。コリントの教会は、そのようにして誕生したのです。人間の知恵は、文明や繁栄をもたらし、私たちの生活を便利にしました。しかしその知恵が、戦争を引き起こしたり、原爆や原発によりすべての被造物を危機にさらしているのです。「神を畏れることが知恵のはじめ」なのです。神の霊の力によって、キリストの十字架に秘められた神の知恵にあずかり、大胆に神の御心を信じ、宣べ伝える者になりたいと願います。