毎週の説教メッセージ

off 勇気を出しなさい

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書16:25-33

私は道であり、真理であり、命である。…」14:6 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。…」15:5など、13章からの決別説教の中で語られてきました。
その最後の部分あたる25節で「たとえによらずに父について知らせる。父ご自身があなた方を愛している。それは私が父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。」という言葉をうけて、弟子たちはイエスが父のもとから来られたことを今信じましたとちぐはぐな応えをします。しかし、イエスには時間がないのです。「あなた方は散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする、心配はない、父がともにいてくださるからだ」(32)といって、「弟子たちにはこれらのことを話したのは私によって平和を得るためである。あなた方には世に苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(33)と言います。イエスに「勇気を出しなさい」と言われても、弟子たちの現実、そして私たちの現実は変わりません。弟子たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。私たちがしっかりした信仰に立っているからではないのです。イエスは「私は既に世に勝っている。」から大丈夫だというのです。新型コロナウイルスの影響で様々な困難がありますが、イエス・キリストの勝利を信じて、今週も「元気を出して、勇気を出して、安心して」遣わされた現場で主の僕として歩みましょう。

off 互いに愛し合いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書17:17-27

ヨハネ共同体が生きた世界は、迫害「前夜」とも言える現実のように思います。今日の聖書(18-27節)では、「最終」局面とも思える「様相」が語られていますが、ヨハネ共同体は、イエスの言葉をどのように受けとめ彼らの時代を生きたのでしょうか。17節の「互いに愛し合いなさい」は、一般的な標語のように聞こえなくもないのですが、(「自分の…」とかいう条件はつきようがなく)分け隔てなく「誰をも」愛するということが、明確に表現されているように思います。そしてここの脈絡では、イエスが弟子たちを「友」と呼び、イエスが不在になる「時」を託す場面です。愛は命令されて行うものではありませんが、「友のために自分の命を捨てる」愛(15:13)に応え、その愛を引き継ぐにあたって、「命令」「掟」「命」としか表現しようがなかったのでないでしょうか。そして、この「互いに愛し合いなさい」が、最初に触れた18~27節の様相の前に告げられている意味を想います。
私たちの世界は、紛争や人権抑圧、核や「原発」の使用、自然破壊や感染症蔓延で、最終「局面」を迎えているのでしょうか。それとも災い「前夜」で踏みとどまっているのでしょうか。フーテンの寅さんじゃありませんが「それを言っちゃあ(やっちゃあ)お終いよ」ということがあります。この世界が各々の「局面」で互いに滅びを迎え入れず、各々の命を尊重し「互いに愛し合いなさい」を受け容れ歩んでいきましょう。

off わたしに従いなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書21:15-25

「ペトロは、イエスから三度(目)も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しみ」こそが、ペトロを牧者へと歩み出させていくことになったのではないかと想います。この「悲しみ」は、ペトロの三度の否認と関係しています。ルカ福音書の否認の場面(22:54-62)否認の予告(22:31-34)を見ると、イエスはペテロに、「シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31‐32)と語っています。ペトロは主を否認した後、初めて「主の言葉を思い出し」「そして外に出て、激しく泣いた」(22:61-62)のです。

イエスの憐れみは「断腸の想いに駆られた」「はらわたをつき動かされる」であるとも訳されますが、イエスこそが悲しみを知る方であり、悲しみの内にある者を放置される方ではなかったと想います。

イエスはペトロを牧者として招かれます。ここには牧者としての資格審査はありません。もしあるとすれば、イエスがそうであるように、牧者が、自らの、隣人の「悲しみ」を知っているかどうかです。「何もかもご存じ」(17節)のイエスが、「わたしに従いなさい」(19節)と招かれます。

off 希望の源である神

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙15:7-13

今日の聖書は、ローマ書15章7~13節です。その前にある1~6節と今日の箇所は、似た構造になっていると言われています。1~6節は「隣人に対する責任の目的」を、7~13節は「キリストが人々に果たしてくださった責任の目的」を表わしていると、言われます。「忍耐と慰めの源である神」(5節)、「希望の源である神」(13節)といった似た表現や、最後が祝福で終わるという点も共通しています。
ローマ書は、私たちの在り様の根拠、「主体」を、一貫して問題にしていると思います。キリストは、神の憐れみ、赦し、平和を示し、それらが満たされるような世界の「初穂」となってくださいました。私たちも、キリストに倣って、愛によって「一つとなること」を願って歩みたいと思います。「一つになること」には、形や様を合わせるという「一致」があります。他方、形や様が異なっていても、「調和」しているという「一致」があります。「生きることはキリストである」(フィリピ1・21)。キリストこそが、私たちの根拠であり、生きる姿勢であり、主体であると覚えたいものです。私たちの形や様が変わっていくとしても、変わらない真実な方が昔も今も将来もいてくださいます。キリストを私たちのところにお送りくださった神こそ、私たちの「希望の源」です。「希望に満ちあふれさせてくださる」(13節)時が来ることを信じて、今年度の、これからの歩みを、進めていきましょう。

off あなたの手を見なければ

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書20:19-31

週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家に鍵をかけて閉じこもっていました。その真ん中にイエスが立って「あなたがたに平和があるように」と言われました(19節)。弟子たちは大変喜びましたが、その場にいなかったトマスは心を頑なにして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」とまで言います(24‐25節)。8日の後、家に閉じこもっている弟子たちのところへイエスが真ん中に立ち、「平和があるように」と言われ、トマスにも向き合いました(27節)。トマスの頑なさに自分の姿をみます。また、家に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちの姿を私たちは他人事ではないように感じます。「新型コロナウイルス感染拡大」で私たちの命は脅かされています。先の見えない状態です。礼拝を守りたくても行くことができません。子どもたちも学校にも楽しみにしている教会学校にも行くことができません。そんな不安の直中にいる私たちのところへ、イエスが真ん中に立って、「平和があるように」と言ってくださいます。今は皆で集まることができなくても思いを一つにして祈ることはできます。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20)また、ヨハネ16:33の言葉に励まされながら今週も歩みましょう。

off 方向転換

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書20:1-18

今日は、イースター(復活日)の礼拝です。ヨハネによる福音書は、復活の物語においても、他の共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にはないことが出てきます。「イエスの愛しておられた弟子」の存在と、その強調です。空っぽの墓を見たペトロとその弟子は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解しておらず、家に帰っていった(9-10節)と、ヨハネは伝えています。しかし、それとともに、「イエスの愛した弟子」は(イエスの復活を)「信じた」(8節)、そういう可能性を秘めた伝え方にもなっています。
後半は、共観福音書にも共通する、最初に(復活し生きている)主を伝えたのは女性であったという点であります。マリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、主が言われたことを伝えます(18節)。「ラボニ」(先生)ではなく、「主」(キリスト)を見たと伝えるのです。復活の主を見た、・信じる行いには、もともと主体的であり、個性的であり、多様性があります。
私たちの人生も与えられ限りあるものですが、「空っぽの墓」を覗きこむような生き方から「命」にまなざしを注ぐ生き方へ、とこしえの命を約束する方を仰ぎ見る歩みへ、方向転換することが問いかけられ促されています。一人一人の生を大胆に転換させる―それがイエスの復活の出来事に秘められた「力」であり、「不思議」です。

off 真理に属する人

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書18:28-40

今日は、この所沢みくに教会の牧師として最初の礼拝となります。原則として、最上光宏先生、所沢みくに教会が歩んでこられた伝統を踏襲し、引き継いでいきたいと思います。
ヨハネ福音書は(他の共感福音書と比べると)「受難」を降りかかって来た災難としてではなく、イエスの能動的な行為としてより積極的に伝えていると思います。今日の場面、総督ピラトに尋問を受ける場面においても、イエスは神によって「遣わされた」自らの使命や任務ついて証言・証しする機会として受けとめています。
私たち教会人は、「共に集まる」ことを良きこととして考えてきました。そして、「集まる」ことの工夫を続けてきました。しかし、私たちは、今、「集まる」ことを断念し、勇気をもって「各々の場にとどまらざるをえない」人の思い(信仰)・歩みを覚える必要があると思います。社会の中にある教会は、とりわけ「離れていても一つ」というイエスのメッセージを改めて受け止め直し、シャローム・平和を祈り、具体的に伝え、証しをしていくべく、チャレンジを受けているのではないでしょうか。「真理に属する人」は未来志向的な道を求め、所沢みくに教会もより深く、「イエスの声を聞く」という展開を辿りたいものです。そのような願いを抱いて、今年度の歩みを始めたいと思います。お祈りをいたししょう。

off 信仰の完成を目ざして

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙(2)13:5-13

今日は、この教会での最後の礼拝となりました。13年間、共に礼拝を守り、主にあるよき交わりを頂き、心から感謝しています。53年にわたる伝道牧会生活の最後を、この所沢みくに教会で締め括ることが出来たことを、ほんとうに幸せに思っています。昨年の3月に、隠退・辞任のことを皆さんに認めて頂き、それ以来、毎回、説教の度にそのことを意識して、み言葉を取り次いで来ましたので、今日、最後の説教と言っても、特別なことをお話しすることはできません。いつものように、いつもの通りに、聖書のみ言葉を取り次がせて頂きます。

私たちの教会では、昨年の5月から、この礼拝において、ずっと「コリントの信徒への手紙」を、通して学んで参りました。第一の手紙を学び、この2月から第二の手紙を、飛び飛びにですが学んで参りました。今日はその第二の手紙の最後の結びの言葉からご一緒に学びたいと思います。
著者のパウロは、この手紙の結びの言葉を、「終わりに」という言葉で語りかけています。これは、文字通り「最後に」という意味です。
私たちが手紙を書く場合、一番最後に、どういうことを書きますか?
今の時代、あまり手紙を書かない人が多いかもしれません。せいぜいネットやスマホのメールで、用件だけ打って、「じゃーねー」とか「またねー」という言葉で済ませてしまうことが多いかも知れません。
けれども、パウロの時代、遠く離れている人との連絡は、手紙以外にはありませんし、その手紙もそう簡単に届くわけではありません。数週間も時には数か月もかかってやっと届くという状況ですし、その間にお互いの身に何が起こるか分からないという状況です。パウロの場合には、伝道の困難な厳しい状況の中で書いているわけですから、それこそこれが「最後の手紙」になるかもしれない、という緊張した思いの中で綴っているわけです。その手紙の末尾に何を書くかということは、私たちが創造する以上に思い意味があったと思います。

さて、その手紙の最後、「終わりに」という言葉でパウロが記していることは、こういうことです。11節
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」
ここでパウロが記していることは、決して特別にま新しいことではありません。これまでも色々な機会に語って来たことです。最後に語るべき言葉は、決して斬新な、真新しい言葉ではないのです。むしろいつも語って来た大事なこと、一番心がけてほしいこと。それが「最後のことば」として一番ふさわしいのです。
パウロがこの手紙の最後に、一番語りたかったこと、その筆頭に挙げられたのが、「喜びなさい」という言葉でした。
「喜びなさい」。この言葉を最も多く語っているのは、この後でパウロがフィリピの信徒に書き送った手紙です。その手紙は、私がこの教会に赴任して最初に取り上げた講解説教の箇所です。そこには「喜べ、喜べ」と何度も勧めすられています。
先ほど読んで頂いた2章17節にはこのように記されています。「あなた方が礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と。さらにその先の4章4節でも「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されています。

「喜び」というのは、他人から言われて喜べるものではありません。ことにコロナウイルスがはやっているようなこんな不安な状況の中で、とても喜べるものではありません。しかし、パウロは「常に喜びなさい」、「いつも喜んでいなさい」というのです。どうしてこんなことが言えるのでしょう。信仰による喜びは、条件に依存しないのです。神さまの私たちに対する愛は、いつも変わらないからです。ひとり子イエス・キリストを私たちにお与えになり、私たちの身代わりとして十字架の上で苦しまれた主の愛は、永遠に変わることのない神の愛の証しです。私たちはたとえ辛い悲しみや苦しみの淵にあっても、この神の愛によって、なお喜ぶことが出来るのです。
このフィリピの信徒への手紙は、パウロが晩年、ローマの獄中から書き送った手紙とされています。先ほどの言葉に見られるように、パウロは信仰の故にそこで、殉教の血を注ぐかもしれないという危機の中にありました。たとえそうであっても、「わたしは喜びます」というのです。イエス・キリストの十字架と復活の恵みと神の愛は、はるかに自分の苦しみを越えているからです。そのような喜びに満たされつつ、パウロは「あなたがたも喜びなさい」と勧めるのです。そういうところから、このフィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」の一つでありつつ、「喜びの手紙」と呼ばれているのです。

コリントの手紙の中で、パウロは直接「喜び」について語ることは多くありませんでした。それというのも、コリントの教会の内部には、様々な分争や具体的な問題があり、パウロに対する厳しい批判があったためです。パウロはそれらの問題の解決と使徒としての弁明に終始しなければなれませんでした。しかし、それでもその手紙の最後に、やはり、どうしても言わなければならないこととして語ったのが、「兄弟たち、喜びなさい」ということであったのです。「福音」は、「喜びのおとずれ」です。絶えずみ言葉によって、変わることのない神の愛と恵みにあずかりつつ、喜ぶということが、福音に生きる私たちの基本的なあり方だからです。

次にパウロが語ったのは、「完全なものになりなさい」という言葉です。「完全」とは、普通「欠点や欠けのないこと」を意味します。欠点や破れだらけの私たちにとって、果たしてそのようなことが可能でしょうか?
完全なのは神さまだけです。ところがイエスさまも、「山上の説教」の中で「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と命じられました。それは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたすぐ後のことです。「完全な者になる」とは、敵をも愛する神の愛に倣い、主に従って敵をも愛するように努めるということです。現状に甘んじて、自分の弱さや周囲の状況に流されて生きるのではなくて、「恐れおののきつつ救いの達成に努める」(フィリピ2:13)ということです。パウロは、フィリピの信徒への手紙の3;12で、「わたしは、それを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもあれません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と述べています。キリスト者の完全は、自分の不完全さを自覚しつつ、絶えず主なる神の愛と恵みにあずかり、信仰の完成を目ざすところにあるのです。パウロは、同じフィリピ書の1章6節でこうものべています。「あなた方の中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」と。神さまが、私たちの不完全な信仰を育て導いて、それを完成させてくださるのです。
「完全なものになりなさい」とは、そのことを信じつつ、日々主に従って、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって、神から与えられる目標をざしてひたすら走ることです」。
パウロがコリントの教会に最後の言葉として語ったことは、そのように、喜びをもって、主に従い、「信仰の完成につとめよ」ということです。そしてそのために、「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と勧めているのです。

信仰の完成は、自分一人の力で達成されるものではありません。主に召されている私たちが、思いを一つにして、共に励まし合い、平和を保つことによって、培われるものなのです。聖霊による一致と平和を求めつつ共に励まし合うこと。ここに教会のあるべき姿が示されているのです。
そのような最後の勧めに続いてパウロが記しているのが、祝福の祈り「祝祷」です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。」
この言葉は、お気づきのように、いつも礼拝の最後の「祝祷」において祈られている言葉です。ここで祈られていることは、キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりという、三位一体の神の祝福です。パウロはこの祝福の祈りの中に、これまで語って来たすべての思いを込めているのです。信仰による喜びも、信仰の完成も、一致と平和も、御子イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と聖霊の導きによって、私たちに与えられる賜物だからです。

ある人の言葉に、「人間が他者に対してなし得る最後の最高の業は、他者を祝福することです」という言葉があります。私は、今でも礼拝の中で一番緊張するのは、礼拝の最後の「祝祷」です。父・子・聖霊なる神の名において、神に代わって、祝福をいのり、皆さんをこの世に派遣するのです。それは、ほんとうに畏れ多いことです。
このことでいつも思い出すのは、わたしが初めて主任牧師として金沢の教会に遣わされたときのことです。長年その教会の長老をしていた年配の方が、いつも必ず、最前列の真ん中の席に座られるのです。その方は、ある時、私にこう言われました、「私は、いつも牧師からの祝祷を一番近くで受けたいという思いで、ここに座らせてもらっているのです。神さまからの祝福を受けなければ、私は、この厳しい社会の中で信仰をもって闘うことが出来ないからです」と。当時私はまだ30代の駆け出しの牧師でしたが、神の祝福を取り次ぐ牧師の務めの重さを改めて深く思わされました。私はそのようにして、それぞれの教会の信徒によって支えられ、励まされ、育てられて、この務めを果たしてくることが出来ました。この教会においても、皆さんの祈りと支えと励ましによって、最後の務めを全う出来た、と心から感謝しています。どうか主イエス・キリストの恵みと神の愛によって、常に喜び、いつも感謝と祈りをもって主に仕え、聖霊の導きの下に一つとなって、救いの完成のために励んで頂きたいと願います。

アーメン

off 弱いときにこそ強い

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙②12:1-10

人間が人間らしく生きていくためには、「誇り」が必要です。しかし、誇りが強すぎると、高慢になり、ひとを侮るようになります。ギリシャ人は知恵を誇ったため、十字架のキリストを「愚か」とみなし躓きました。パウロは「自分自身の弱さを誇ろう」と言います。弱さは、誇りとはならず、誰にも知られたくない恥の部分です。彼にとっての弱さは、癲癇のような発作を伴う病でした。かれはそれを「身に突き刺さったとげ」と呼び、「サタンの使い」とも呼んで、離れ去らせてくださいと何度も主に祈り続けたのです。自分の苦痛だけではなく、伝道上の大きな妨げにもなっていると思われたからです。神はその祈りに応えて「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われたのです。病は治らず、祈りは聴かれなかったかのように思われました。しかしパウロは、その弱さの中にこそ、神の恵みの力が働いていたことを悟ったのです。その弱さの中でこそ、謙遜に主に祈り、主イエスの十字架の恵みを深く知ることが出来たからです。河野進という牧師の詩に「病まなければ」というのがあります。「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ聴き得ないみ言葉がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。…」という詩です。万事を益とされる神は、弱さの中に働き、強さに変えてくださるのです。弱さをバネにして生きよう!

off ほんとうの豊かさとは

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説教:最上 光宏 牧師

コリントの信徒への手紙➁8;1-15

戦後、日本の国は飛躍的な経済成長をとげ、豊かになったと言われますが、近年、景気は低迷し、新たな貧困が深刻化しつつあります。大資本優先の経済政策が貧富の格差を広げているのです。パウロは、エルサレム教会の経済的困窮に心を痛め、忙しい伝道活動のかたわら、コリント、フィリピ、ローマ等の教会に募金を呼びかけ、自らそれをエルサレム教会に届ける働きに努めました。昔、イスラエルの民が荒野で飢えた時、神は天からのマナを降らせ、多く集めた者にも、わずかしか集めなかった者にも均等に養われました。神の愛はすべての人に平等に注がれ、皆、等しく生きる権利を与えられています。パウロは、コリントの教会の人々にこの「恵みのの業」を進んで最後までやり遂げるように勧め、「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と訴えたのです。神の御子であられた主イエスは、貧しい僕となってこの世に来られて、十字架の死によって、尊い命まで私たちに献げてくださいました。その豊かな恵みにあずかっている私たちは、喜びをもって少しでもその恵みに応えて、分かち合い、共に生きる道を励みたいものです。ほんとうの豊かさとは、自分だけ満ち足りることではなく、貧しくされている人々、助けを求めている人々と「共に生きる」ことなのです。