毎週の説教メッセージ

off すべての人を憐れむために

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙11:25-36

大胆に言えば、神の計画はシンプルで「すべての人を憐れむ」(32節)「全体が救いに達する」(26節)であります。被造者である人間は、神を理解できないどころか、もっと扱いやすく「目に見える」(自分たちに確かな)神・偶像を創ろうとしてきました。「秘められた計画」を啓示した預言者に「かたくになり」、主イエスに対する「無理解」「反逆」がある! では、恵み・贖い・救いを予感させる「秘められた計画」の中身は、何なのでしょうか。パウロは、ここで明確に「[イスラエルを]かたくなにする」こと、「[すべての人を]を不従順にする」ことであると示します。(ここで一つ例を挙げます。ルカ15:11-32の「慈愛に満ちた父の譬え」は、今日のパウロの示す事態を如実に表しています。弟も兄も、父の心を知り、受けとめるより、子たちの『かたくなさ』『不従順』『不寛容』などが前面に出てきます)。

パウロの歩みとイスラエルの歴史を思うと、28-29節の言葉は心に迫ってきます。私たちも、このような計画と実行の中に、生かされています。先週、私は、イエス-パウロ-使徒によって(今に至る)教会へと続く展開を、語りました。

イエスの語った「敵を愛しなさい」(ルカ6:27-36)と「信仰の上に教会を立てる」(マタイ6:27-36)を想い起こします。教会は、「無知の知」(関連:ローマ11:25)を覚えつつ、神(の主権)とキリスト(の権威)を記念し、喜びをもって歩みましょう。

off そこには愛がある

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの信徒への手紙3:14-21

3:1「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…」の「わたし」を受ける動詞が1節にはありません。出て来るのは今日の冒頭「わたしは…祈ります」(14節)です。3:2-13には何が? イエス・キリストにおいて示された福音、それを啓示されたパウロの宣教、それは「秘められた計画」(3節)「実現される計画」であり(4節)、「キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示」されました(5節)。その福音・計画により、教会は主の恵みを「一緒に[共に]受け継ぎ、同じ体を[共に]形成し、同じ約束に[共に]あずかるとされます(6節)。「いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会により、上の支配や権威に知られるようになった」(10節)。当時の二元論では、地や人に「[悪]影響を与える」支配者や権威者も天上に位置すると考えられましたが、キリスト教では、キリストの勝利によりこれら諸力もキリストに服従したと考えます。[究極の回復時まで]地上の教会はこれら諸勢力の脅威と対峙しています。…「落胆しないでください」(15節)と語った後,著者は祈ります。「キリストを(あなたがたの心の内に)住まわせ」(16節)、(教会が)キリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかり立つ者としてくださるように」(17節)。「…愛を知るようになり…神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、…満たされるように」(19節)。20-21節の頌栄に教会も含まれています!

off 自由な人として

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説教:加藤 久幸 牧師

ペトロの手紙①2:11-25

今日の聖書を「外国人」「難民」を意識して読みますが、著者ペトロは彼らを含む教会に向けて「愛する人たち」と語りかけます。宗教的に(神の前に等しくある)自由の民として迎えられた喜びはいかばかりかと、想います。その事実を踏まえ、聖書は家庭訓という枠で勧めを展開します。最初に出て来るのは「奴隷たち」(共同訳「召し使いたち」)です。…22節の引用(イザヤ53:9b参照)は,本来「この方は、不法を働かず…」ですが、ペトロがここを「罪」としたのは、24節(イザヤ53-4,12b参照)の「罪」と結びつけるためであるのでしょう。新約の後期文書なら「受難」から「高挙」と展開してもよさそうですが、ペトロは「(キリストの)お受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(24節)と展開します。「奴隷たち」の「不当な苦しみ」「癒し」に関心を寄せています。25節との関連で、旧約の聖書日課を紹介します。「わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた」(エレミヤ50・6)。今日の聖書は牧師には厳しい。「制度」「皇帝」「主人」だから、そのままに「従いなさい」となるのか。「自由な民として生活しなさい…神の僕として行動しなさい」(16節)を受け、(キリストの)「足跡に続く」(21節)のか。キリストの受難を見あげる時、同時に「自由な民として生活した」イエスの言葉や行動がまざまざと甦ってきます(ペトロの読者は…)。主の足跡を歩みたいものです。

off 神に属する者

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説教:加藤 輝勢子 牧師

Ⅰコリント2:11-3:9

パウロによって創立されたコリントの教会は、パウロが去った後にやってきた人々の伝道がパウロの説いた福音とは違ったことでいろいろな問題を起こし、争いまで起こしました。この手紙はその争いを前提に書かれたものです。

信仰は信じる者には主体的な真理ですが、信じない者にはどうでもよいものではありません。信仰は隠された奥義だからです。信仰は真の知恵であり、知識です。この真の知恵を示したのが「キリストの十字架」以外にないとパウロは言います。隠された奥義を知っている者は「霊の人」と呼び、まだ奥義に達していない者は「肉の人」と呼んでいます。パウロはコリントの教会の人には乳飲み子に語るように福音の真理を語ってきたと言います。そして今もまだ乳飲み子だというのです。それは人間的なことで誇ったり、党派を作って争っている現実をパウロは責めています。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」このねたみには「熱心」という意味も有しています。自らの正しさを主張する熱心さがねたみを産みます。現在に生きる私たちもまた、乳飲み子のような信仰であり、人間的なことを誇ったり、党派を作って争います。徹底的に謙遜に生きることをフィリピの信徒への手紙2:1‐13の個所に示されています。コロナ禍にあっても人を責めるのではなく、相手のことを思い、祈りながら神の同労者の歩みをしたいです。

off 起きよ、光を放て

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説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの信徒への手紙5:8-20

今日の聖書で、「光の子」と呼び名が与えられ、「光の子」がどういう存在であるかが物語られます。14節は初期の洗礼の賛歌と想いますが、「光の子として歩」(8節)もうとするなら、知恵が必要だということが15-18節で展開されています。そして、大事なこととして礼拝・賛美のことが19-20節で語られています。16節の「時をよく用いなさい」という言い方は、「市場」という商業用語から来ていていると言われます。関連して18節の「酒に酔いしれてはなりません」とか11節の「実を結ばない暗闇の業に加わらない」にも触れておきたいと思います。ここで言われていることは、酒が好きとか泥酔したとか個人的・道徳的なことではないと想います。当時の人々が飲んで騒ぐことは「社会の友好」のためであり「普通」のことだったと思います。先ほどの「市場」を「広場」「社会」とするならば、その「市場」「社会」のことがそういう場で(ある人々によって)決められていったことを暗示されているのでは…。泥酔は判断を鈍らしますが、それ以上に、ここでは、そういう社会的な動きと「距離を取る」ことが言われている…。当時のキリスト者は制約・圧迫を感じて生きています。それだからこそ、今日の結びがあるように想います。19節の「語り合い」に特に注目したいと想います。礼拝・賛美は、神との垂直関係と共に人々との水平関係への影響も覚えます。「ソーシャルデイスタンス」に苦慮しながら歩むキリスト者が、礼拝・賛美によってどんなにか慰められ楽しみ導かれたことでしょう。

off 文字に従う生き方ではなく

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマ7:1-6

キリスト教の人間観について、6,7章を踏まえつつ、確かめておきたいと思います。パウロは、律法と福音、肉と霊などのように、対照的に語り、しかも、それらを価値中立的に語っているように想います。キリスト者は、主イエスが開いてくださった、神が授けてくださる、永遠の命・新しい命に生きるのです。この神を信頼して主イエスに従う歩みを支え導くのは「(聖)霊」である、と。そして、この唯一の恵みの歩みからずれていくこと、それを誘う諸々の「力」、全ての「力」を「罪」と呼んでいるように想います。「罪」のギリシア語「ハマルティア」には、「的はずれ」という意味があることを思い出します。パウロはこの論説に全力を傾けています。

今日の聖書は、そのことを、結婚の比喩をもって説明します。しかし2-3節の譬えは妻が夫に従属する内容を含んでいますので、そのまま語ることはできません。パウロが言おうとしているのは、夫が死んだのに、生きているように夫婦の律法を適用し、妻を従属させることはできないと。転じて4節は、「あなたがたも、キリストの体に結ばれて」新しく生きようとしているのに、「死んだ者」となった「律法」を(キリストよりも)重んじるのですかと、響きます。キリストより〇〇、やがては「罪」に誘われて「隷従」に…。イエスにおいて示された神との関わりが、私たちを自由にします。私たちには「隷従」に戻る自由もあります…。6節を味読しましょう。

off 神の同労者

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説教:加藤 輝勢子 牧師

Ⅰコリント2:11-3:9

パウロによって創立されたコリントの教会は、パウロが去った後にやってきた人々の伝道がパウロの説いた福音とは違ったことでいろいろな問題を起こし、争いまで起こしました。この手紙はその争いを前提に書かれたものです。

信仰は信じる者には主体的な真理ですが、信じない者にはどうでもよいものではありません。信仰は隠された奥義だからです。信仰は真の知恵であり、知識です。この真の知恵を示したのが「キリストの十字架」以外にないとパウロは言います。隠された奥義を知っている者は「霊の人」と呼び、まだ奥義に達していない者は「肉の人」と呼んでいます。パウロはコリントの教会の人には乳飲み子に語るように福音の真理を語ってきたと言います。そして今もまだ乳飲み子だというのです。それは人間的なことで誇ったり、党派を作って争っている現実をパウロは責めています。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」このねたみには「熱心」という意味も有しています。自らの正しさを主張する熱心さがねたみを産みます。現在に生きる私たちもまた、乳飲み子のような信仰であり、人間的なことを誇ったり、党派を作って争います。徹底的に謙遜に生きることをフィリピの信徒への手紙2:1‐13の個所に示されています。コロナ禍にあっても人を責めるのではなく、相手のことを思い、祈りながら神の同労者の歩みをしたいです。

off 天からの授かりものを愛する

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネの手紙①5:1-5

「今週の祈り」に「『コロナと共なる』新しい生活のために」とあります。いつか「終息」宣言があるなら、私たちは「コロナ」前と変わらない歩みを続けるでしょうか。
ヨハネの手紙は、神を愛している証拠は、「神の子供たち」—信者—を愛する(2節)ことだと語ります。今日の聖書は、それまでに語られた内容を繰り返しています。1節などは私たちが読んでも「その通り」と思います。2節・3節では、神を愛し神の掟を守ることが出てきます。ここでは、ヨハネ福音書のイエスの言葉「あなたがたは、わたしを愛しているならば、私の掟を守る」(14:15)や「互いに愛しなさい。これがわたしの命令である」(15:17)を想起しているのでしょう[15:11-19を併読参照]。ヨハネの諸文書の言葉はやさしく「当たり前」のように感じます。しかし、これらには違和感を感じる言葉も出てきます(「掟」や「世に打ち勝つ勝利」等)。6月の説教で時代背景を述べましたが、当時のキリスト教信者は排除・迫害などの「まさか」を経験しつつありました。キリスト者にとって世に勝利するとは、世から受けたことを仕返しするような位置を占め、力を奮うことだったのでしょうか。そうではなく、聖書のように、イエスが神の子であると信じ(5)、イエスのように生きる(死ぬ)ことではないでしょうか。世にあって信者は弱い者でありますから、第一義的には神の子供たち(信者)を愛し、神から生まれた者=全被造物を愛し歩みたいと思います。

off 主の死を告げ知らせる

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説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙一11:22-34

今日は、所在を明らかにするため、22-34節を読みました(聖書日課は23-29節)。当時の聖餐を再構成することは難しいのですが、21節にあるような状況が教会にはあったようです。当時は、食事(愛餐)の中で聖餐が行われていたようで-福音書等も参照-、先ず、当時の教会の食事から、お話をしましょう。キリスト者の集会は個人の家で行われていたこともあり、愛餐や聖餐もそこで行われました(中略)。
パウロは-その用法や解釈から-、神によってイエスは「わたしたちの罪のために」「死に渡され」たと受けとめています(ローマ書4:25)。イエスは私たちのために自らを死に引き渡したのです(イザヤ書53:6を参照)。晩餐は、このイエスの死(と生)を記念するのです。そして、この大いなる愛の受け手である私たちは、同じように献げる者に変えられるのです。教会がパンと杯を分かち合うのは、キリストにある教会の(献げ合う・支え合う)一致を象徴する出来事なのです。26節は、それを踏まえたパウロの注釈です。しかし、教会は「共に集って」いたが、主にある「一つ」を象徴していないとパウロは語るのです。27・28節を取り上げましょう。今日の11章は教会の一致に力点があり、主の死(十字架)、すなわち「イエスの体と血に対して犯す」という共同訳を用いる方がふさわしいと思います(中略)。最後に、パウロの[全体の]指示を味わうため、マタイ福音書25:31-45の譬えを併読することを、お勧めします。

off キリストが開いた自由と責任

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説教:加藤 久幸 牧師

ローマの信徒への手紙14:10-23

ここでは「独善」が背景にあります。ユダヤ人キリスト者の中には、律法の食物規定を遵守すべきと考えた者もいるでしょう。かたや、異邦人キリスト者の中には、他宗教との付き合い上から異教の神や女神にささげられた肉や(ぶどう)酒を飲むことは偶像礼拝かと案じる者もいたことでしょう。また、今日の17節にあるように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのだ」と主張できる者もいたでしょう。これは全くの正論であり、強く主張できる内容でもあります。パウロはこの正論に立つ者だと想いますが、パウロはどの主張がより正しいかというような議論をしていません。心砕いていることは、教会の「義と平和と喜び」です。…自分の自由を振りかざして、隣人の自由を損なうことのないように、私たちは自らの自由をコントロールしなければならないのです。それが今日の内容であり、別の言葉で言えばキリスト者の責任(応答)ということになるかと思います。10節に「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」とあります。その裁きは、私たちが救いにあずかるに値するか否かの裁きではなく、キリストにより与えられ生と行動において自由な応答へと招かれる者になったということです。「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼され…平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(18-19節)。