毎週の説教メッセージ

off 最初の弟子たち

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ヨハネによる福音書1:35-51

ヨハネ福音書の最初の弟子たちがイエスに従った記事は、共観福音書のとは異なっています。ヨハネの弟子の二人が「神の小羊だ」と聞いて、イエスに従い、その一人のアンデレは兄弟シモン・ペトロをイエスのもとに連れてきました。その翌日、イエスはフィリポに「わたしに従いなさい」と言い、フィリポは同じベトサイダ出身のナタナエルを誘って連れて行きました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)。ヨハネ福音書は、実に淡々とイエスが彼らに目を注ぎ、声をかけ、そして招かれたことを強調しています。それは私たちも同様です。神が私たち一人ひとりをそれぞれの歩みの中から導き出して、イエス・キリストに出会わせたという事実こそが大切なのです。

またもう一つの使信として、アンデレがその兄弟シモン・ペトロを、そしてフィリポが友人ナタナエルを誘ってイエスのもとに連れて行っている事実です。最初の弟子たちの服従においても、「一人が一人を」という伝道の原則が働いています。私たちはイエスの招きを受けても、自分がイエスの教えを守ることに精一杯で伝える喜びに欠けているのではないでしょうか。イエスの弟子になるということは「わたしに従いなさい」の招きに応えて、自分の言葉でイエスを証しして伝道することです。「一人が一人を」という伝道の使命に共に歩みたいです。

off わたしは証しした

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説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書1:29-34

今日の聖書は、冒頭(29)、今日の箇所を要約するように、こう語っています。ヨハネはイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)。そして、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」(31)と振り返っています。

ヨハネは、荒れ野の叫ぶ声として、「主の道をまっすぐにせよ」に仕え、ヨルダン川で洗礼を授けていました(23)。ヨハネの洗礼は、それまでの生き方に死に、新しい生を開始することを意図していました。それは、自らの願いを満たすための計画・行為ではなく、古い生き様に死に新しく生まれ変わることでした。そのような活動の最中に、イエスが現れ、洗礼を受けました…。その出来事において、ヨハネが経験したことを記したのが、今日の聖書だろうと想います。ヨハネは、イエスとの接触を通して、イエスを「神の小羊」(29)「神の子」(34)であると受けとめ、証ししました。今日の聖書は、イエスの活動・洗礼を強調していることに、意義を感じます。ヨハネが、イエスによる洗礼・活動によって、人々が新たに起き上がらされ導かれていくことを、仰ぎ見ていたことは確かでしょう。ヨハネは、自分のしていることに留まるのではなく、イエスの成されること・未来を証しします。イエスの活動、聖霊による新生は、ヨハネを越え、聖霊に身を委ねるような、生きる力を与えました。ヨハネは、イエスの中に、その力を見出し、証ししました。

off 外国からの訪問者

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書2:1-12

今日の物語をめぐる興味深いたくさんの推論があることを了解した上で、今日の聖書に向かいましょう。東方の学者たちは「拝みに来た」(2)と伝えられますが、彼らが聖書に示される神を信じていたかは不明です。「東方」はかつてイスラエルの民が移住させられた土地であり宗教的にもタブー視されていましたが、ローマ帝国が台頭する世界情勢の中で「東方」の人々も流動していたことが想像させられます。今日の説教題に「外国からの訪問者」としましたが、私は、物語から、本当に大事なことを求めて異なる存在が出会うことが起こり得るという現実を、想像しています…。今までにないことは、波紋を広げ、心配をもたらします…。メシア誕生もそのような出来事でした…。誕生物語ではイエスとその家族が自ら何かを演ずることはなく、彼らは社会に翻弄されると共に、その存在が波紋を広げていきます。今日の物語の登場人物は皆不安を感じています。この姿は現代も…。民の求めは、非常に平たく言うと、マタイ福音書では「生きていくこと」と「未来に希望を持てること」だと伝えているように感じます。マタイ福音書は聖書の伝承を重んじますが、人が当然と考えがちな「慣行」からは自由であるように想います。イエスとその家族も、その後「エジプトに逃げ」(13)、「ガリラヤ地方に引きこも」(22)ったと、語られます。彼らも「流動する民」であり「生きること」に熱心でした。

off この子の名はヨハネ

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説教:加藤 輝勢子 牧師

ルカによる福音書1:57-66

天使ガブリエルがお告げをしてから、年老いた祭司ザカリアは口が利けなくなりました。「月が満ちて、エリサベトが男の子を生みました」(57)。エリサベトにとっても大変な時を過ごしたでしょうけれど、神の導きのうちに無事男の子を生みました。近所の人々や親類は主が大いに慈しまれたと聞いて喜び合いました。習慣に従い、8日目に割礼を施すために来た人たちは、この赤ん坊に父の名であるザカリアと名付けようとしたのですが、エリサベトは「いいえ、この子の名はヨハネとしなければなりません」(60)と言いました。周りの者は手振りでザカリアにこの子の名を尋ねるとザカリアは字を書く板を持ってこさせ「この子の名はヨハネ」とエリサベトと同じことを言いました。人々は皆驚きましたが、もっと驚いたことにザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美したのです。ザカリアに取ってこの10カ月の時はどのような時だったのでしょう。天使ガブリエルはザカリアに考える期間、祈る期間を与えられたのだと思います。ザカリアは天使ガブリエルからお告げを受けて、半信半疑のままの受け答えをしてから、信じない者から信じる者になるのに10カ月かかりました。神様からいただいた大きな仕事を果たすために、必要な沈黙であり、日々でした。言葉通りに御用を果たした途端、賛美の歌があふれ出たのです。私たちもクリスマスを迎えます。イエスを迎えるクリスマスの歌を賛美しましょう。

off 義の太陽が昇る

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説教:加藤 久幸 牧師

マラキ書3:19-24

マラキ書は、紀元前5世紀、エズラ・ネヘミヤに先立つ時代の預言であると言われてきました。私たちの現実においても、戦争や災害の時も大変ですが、その後の復興においても(こそ)、時間がかかり、混乱や困難が生ずることが多いのではないでしょうか。マラキは、現実の復興(神殿再建など)よりも、より根本的なというか、神への不信・嫌疑と向かい合いました。それは2つに要約できる、つまり、長く続く困難の中で、イスラエルは、➀神は私たちを愛してくださらなかった、➁神は正義を行わなかった(契約の義務をはたさなかった)と、疑いました。今日の聖書の前の3:13-16に、その様子がうかがわれます。この場面には、意見の相違があり、論争があります。現実世界は、混乱に満ちています。そして、神への告発があります。17-18節は、預言者が、神の言葉を預かるように語られています。神は、「未来」において既に決断されており、その決断から、神は現在へと語られ働かれます。「その日…わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちは…区別(裁き・正義)を見るであろう」(17-18)。19-21節の実現は、私にはよくわかりません。私たちは、その経過を明確にわからなくとも、この世界が正義に満ちた世界に変えられることを願っています。マラキは、23-24節で「主の日が来る前に」 預言者を遣わし、父(神)の心を子(民)に 子(民)の心を父(神)に向けさせると、預言しました。

off 主は生きておられる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

列王記上22:1-17

北イスラエルの第7代目の王アハブ王の話になります。20章のアラムのべン・ハダド王が攻めてきて、アハブ王は2度勝利しますが、主の命令に背いて、ベン・ハダドの命を助けます。その後、3年間両国には争いはありませんでした。ユダの王ヨシャファトがイスラエルに下って来た時、アハブ王は共にラモト・ギレアドに行って共に戦うように要請をしましたが、ヨシャファトは「主の言葉を求めてください」と。アハブ王は約400人の預言者に聞き、全員が「戦いをすることを求めました」。ヨシャファトは他には預言者がいないのかと尋ねると、一人いるが、幸運を告げるのではなく、災いを告げるので、わたしは憎んでいるとアハブ王は言います。宦官は、ミカヤに王に幸運を告げる様に進言しますが、ミカヤは「主は生きておられる。主がわたしに言われることを告げる」と言います。ミカヤは「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主が『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に帰らせよ』と言われました」(17)。ラモト・ギレアドの戦いでアハブ王は亡くなりました。権力におもねり王の意向に沿った言葉や、預言者の言葉をもって我が意を得たりするものではないのです。Ⅱペトロの手紙で言われるように「聖書の言葉は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」「預言は、決して人間の意思に基づいて語足られるものではない」。主の言葉に聞き、自らを整えつつ待ち望みましょう。

off 知るようになる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書52:1-10

「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」(1)と、呼びかけられます。同じ呼びかけが、51:9では「主の御腕」に向けられていたのが、ここではシオンに向けられています。続いて、「輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」(1)と、身支度・準備をするようにと語りかけられます。イスラエルは、真の慰めはどこから来るのか、自分たちが今後どのように歩むかを確かめるために、方向転換をした…。それが、荒れ野へ、荒れ地へ、神が来られる方向へ、目を転ずることだったのだと想います。その転換は、かつてのエジプトやアッシリアでの苦難(4)、そして、今ここで起こっている(バビロニア時代の)試練を受けとめさせ(5)、「ただ同然で売られたあなたたちは…買い戻される」(3)という語りかけを、聞くのです。「それゆえ わたしの民は わたしの名を知るであろう。その日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言うものであることを知るようになる」(6)。7節の「いかに美しいことか…良い知らせを伝える者の足」の言及には、驚かされます。神自らが、荒廃が満ち廃墟となったエルサレム/シオンに、「王となられ」(7)、「主が…帰られる」(8)と告げられ、そのことを待ち望む民が起こされたことを、想います。それは、「その日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言うものであることを知るようになる」(6)という預言の実現であろうと想います。

off 帰らせ住まわせる主

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説教:加藤 久幸 牧師

エレミヤ書23:1-8

今日の箇所は、その前にあるユダの王たちに対する審判の言葉(22:6-30など)、そして、その結びにある「だれひとり…ダビデの王座にすわり ユダを治める者が出ない」(22:30)に対応しています。今日の箇所には3つの短い預言が集められています。これらの預言は、いずれも希望に溢れる内容であり、ユダの将来の繁栄と統治について述べられていますが、エレミヤに直接由来するものではないと言われています。[説教では1-8節を順に解説したが、ここでは割愛する。] 今日の3つの預言を、当時の民はどのように聞いたのでしょう。そして今私たちは、どのように聞くでしょうか。エレミヤ自身の預言は、全体からすると、それまでのダビデ王権も神殿礼拝も必要不可欠であるとは語ってはいないように想います…。それだけ深い,絶望の中にある民に向けて、語られています。追加の今日の預言も含み、人間の目先の安易な希望(単にダビデ王権やユダ王国の復興など)ではなく、散らされた民を集めるために、「主は我らの救い」と呼ばれる牧者・指導者がご自分の国に導き上る、主は生きておられる、そのような「希望」に信頼したのでしょう。嘆きの中で、当時の民は、信じ、生き延びました…。その証しが、聖書の言葉となり、私たちに伝えられています。来週、アドヴェント(ラテン語「来る」)を迎えます。私たちも、闇の中に光を見出し、「希望」を確かにしたいものです。

off 救いの約束

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説教:加藤 輝勢子 牧師

出エジプト2:1-10

ヨセフを知らない新しい王が、エジプトを支配し、イスラエル人の数の多さに脅威を覚え、強制労働、重労働をさせたが、効果がなく、助産婦に出産時に男子を殺すように命令するが、これも効果がない。しまいには全国民に、生まれた男の子はナイル川に放り込め、女の子は生かしておけと命じました。そんな時にレビの男女に男の子が生まれたのです。3か月の間、隠していましたが、ついに隠しきれないと思い、パピルスの籠に防水を施して、ナイル川の葦の茂みの間に置きました。そこへファラオの王女が水浴びをしに来て、籠を見つけました。中には赤ん坊がいて、ヘブライ人の男の子がいました。赤ん坊の姉が王女に「その子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んできましょうか」と言い、その子は王女の代わりに大きくなるまで乳母に育てられ、その後王女に育てられました。その子の名は「モーセ」と名付けられました。生存の危機に瀕している弱く小さい命は、抑圧されている母、その娘、王命に背く王権の支配下にある女性によってつながられてゆきます。人間の目には生存し続ける可能性が著しく低いように思われる時、それでもなお、命が保たれ支えられ続ける可能性があること、その希望がなお存在することを、モーセの生涯の始まりの物語は伝えています。現在のわたしたちもまた、神を畏れ、祈り、他者を思い、それぞれの生活の場で神の救いの約束を信じて、アドベント、クリスマスを迎える準備をしましょう。

off 祝福の源

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説教:加藤 久幸 牧師

創世記11:30-12:9

11:30-33を読むと、アブラムには深い闇・克服できない溝があったことが伝わってきます。「不妊」という表現(11:30)は、単に子どもが生まれないというだけでなく、希望のなさを表わしていると受けとめるべきかと思われます。神は、人間の中にある力に根拠おかず、神ご自身の語りかけの中に根拠をおき、出来事を始められます。このことは信じがたい出来事です。「主は…言われた」(1)。「あなたは 生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1)。この語りかけは、父がとどまっていたハランを離れることだけを、意味していません。むしろ、慣れ親しみ、希望がなくともついつい頼ってしまう、自分の期待や世の安全に留まることを断念し、神の語りかけに従い、神と共にある、危険を伴う旅に希望を見出すことを意味しています。この後の約束は(2)11:30-33の状況とは対照的で、この招きと約束は、それを成される方を信じること以外に、実現しない…。彼は、その転換点・狭間に立っています。4節、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。6節の主の言葉が表わすように、彼は約束の土地にいましたが、彼には与えられていません。与えられるのは彼の子孫です。与えられることは、受ける者がいて、初めて成り立ちます。彼は、このような信仰の旅を続けました。8節の「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」は、その途上において、神に向き直り、祈ることが必要であったことを物語っています。彼は、私たちの信仰の祖として立っています。