毎週の説教メッセージ

off 最初のキリスト教の礼拝

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書2:1-12

今日の聖書の結び(12)を読む度に、東からの人々が道を見失ったりすることがあったとしても「確かなものを求める」歩みを続けていったのだと、私は思わずにはおれません。今日の説教題を「最初のキリスト教の礼拝」と記しましたが、羊飼いたちの行動(ルカ2:1-20)が最初のキリスト教の礼拝ではないかと、お感じになる方々もおられるでしょう。私は、次のような点で、今日の聖書の出来事がキリスト教の最古の礼拝であると感じています。聖書は、神さまの子どもとして生まれた方(確かなもの)を、人々が探し求め、賛美し、献げ物をしていると、伝えます。礼拝をすることは誰もが招かれているものだと信じ受けとめますが、今日の聖書では、(ユダヤ人という枠を超えて)東から来た人々・外国人が礼拝をしていることが象徴的です。また今日の聖書では、確かなものを求める人々を神は「別の道」(12)へと導いていかれる(参考「この道に従う者」(使徒言行録9:2))と、描いています。これらのことを想像しながら、私たちも、自分たちが最初の礼拝へと歩み出したことを思い出したい。気がついた時には礼拝の中にいたとか、ずっと昔のことなので忘れてしまったという方もおられるでしょう。しかし、私たちが自覚するしないにかかわらず、主を求める人々の群れの中で、最初の礼拝に導かれた出来事から、今の私たちに繋がっています。そして、これからの日々、私たちは、全ての人が招かれている礼拝を自覚して、歩みたいものだと思います。

off しるしが与えられる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書7:10-14

今日は降誕前第1主日です。預言者イザヤは、政治状況ではなく、イスラエルを導き治める正体(実体)に関心があるかのようです。イザヤは、アハズが立つかどうかに、関心を寄せています。あなた(アハズ)が主に信頼を寄せるならば、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(11)と、告げます。しかし、アハズは、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(12、参考 申命記6:16)と、敬虔を装い、その責任を回避します。そこで、「ダビデの家よ聞け」(13)と、責任をとらない王を抱くダビデ王権に、「審判」が告げられます。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」(14)。この「男の子」「インマヌエル」とは誰なのでしょうか。イザヤ書は直接語ってはいませんが、ある注解は、アハズの息子のヒゼキヤであろうという方向を示唆しています。今日の聖書を、信じないアハズに代わって新しい(神を信ずる)指導者・王への交替が告げられていると、解釈するのです。アハズの息子ヒゼキヤの評価は列王記下18:1-8にありますが、そこには、「彼(ヒゼキヤ)はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(5)と記されています。私たちは、その歴史や聖書の預言を踏まえつつ、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。私たちも、「インマヌエル」とはどういうことなのか、確かめ、歩み出したいものです。か、どういう様なのか、イエスが来られたことを、受けとめます。そして、私たちも、クリスマスに、主のしるしの招きを受けています。か、どういう招きなのかを受けイエス・キリストを指し示すという方向に傾いているかと、想われます。

off 先駆者

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説教:加藤 久幸 牧師

士師記13:2-14

状況は厳しく、闇は深い…。サムソンの母親になる女性は、ダンの氏族に属するマノアという人物の妻で「不妊」であったと、紹介されます(2)。彼女の名前は知らされておりません。「あなたは身ごもって男の子を産む…彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となる」(3-5)と。こういう誕生物語では子どもの名前が告げられることが多いのですが、ここにはありません。彼女が夫にした報告においても、「その子は胎内にいる時から死ぬ日までナジル人として神にささげられている」(7)ということのみが強調されます。このナジル人の誓約も、(人間の側から言い出したことではなく)神の使いが伝えたことです…。やがて誕生するサムソンはこの誓約にことごとく違反していきます…。人々は、サムソンの力強さに目を奪われるのか、彼を士師の一人として捉えようとしてきました…。しかし、聖書を素直に読むと、彼は神から祝福を受けたが、それを適切に用いることに失敗したと、見なされるのではないでしょうか…。人々はサムソンに期待をしましたが、「イスラエルを解き放つ救い」(5)という主の(使いの)言葉に期待し、その登場を待ち望んだ無名の人々こそ[例えばサムソンの母]、「先駆者」のような性格を帯びていったのでは…。さらに言うなら、動かない・動けない人々の状況を見て関わった主こそ、「先駆者」の名にふさわしいのではないかと想わされます…。

off 主の恵みの御業

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説教:加藤 輝勢子 牧師

イザヤ書58:12-20

「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、…わたしたちは自分の咎を知っている」(12)とあります。それは「主の手が短いから届かないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」(1)とあるように、自分たちが悪をもってしているのに、そのことを神の責任に転嫁していることです。また、「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護をする者もいない。むなしいことを頼みとし、偽って語り 労苦をはらみ、災いを産む」(4)ことが、「主の正義は行われていないことを見られた。それは主の目には悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(15-16)と思われたのです。それでも「主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた」(17)とあります。ここでは、神自身が武装して、神に逆らうさまざまな勢力に対して戦われると言われています。この考え方は新約聖書にも継承されていて、神の支配の下に生きて、正義と平和を追求しようとする人々に、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いは脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)と言われています。

最後に主は、「西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み 主の霊がその上に吹く」(19)と、世界を、異邦人をまねかれています。神から遠く離れてしまう弱さが当時の人々にも、また、私たちにもあります。イエス・キリストの誕生を待つ時、神の隔てのない招きに応えて歩みましょう。

 

 

off 主の光の中を歩もう

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書2:1-5

私たちは、闇を抜けた先に、光があると、感じがちです。今日、アドヴェントの蝋燭の一本に火が灯されましたが、闇の中でわずかな光を灯す時、その光が私たちの世界をわずかに照らします。そして、私たちの姿も明るみに照らし出します。光を灯しながら、主の光・主の願いに思いを馳せます。私たちの歩み・光は消え入りそうで小さいかもしれませんが、主の光・心が人々を包むということがあります。それは、御子イエスの誕生の時に、羊飼いに臨んだ光のように、です(ルカ2章)。

「終わりの日に」(2節)、神は、「シオンの山」で、他と比べることのできない(高い)、「道を示される」(3節)。「国々はこぞって…そこに向かい」(2節)、「多くの民が来て言う。『…主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(3)。その日は、主が来られる時であり、その教えは4節に示されます。「主は 国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(4)。イスラエルが、指導する者であり、中心であるというように、私には感じられません。どの時代にあっても、イザヤの告げる招きに応えることは、難しいものです。まして、戦いに疲れ、終わりの見えない苦しみある者にとっては、なおさらだと想います。しかし、「その道を歩もう」と歩み出している人々がいることを、聖書は想像させてくれます。

この時、「主の光の中を歩もう」という招きに応え、私たちも歩みたいものです。

off 寂しい道で

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録8:26-40

今日の聖書の前の25節に「ペトロとヨハネが…エルサレムに帰って行った」とあります。ところが、フィリポはエルサレムには帰れず(参考8:1)、主の天使から「ここをたって 南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」(26)と示されます。「そこは寂しい道で…すぐ出かけて行った」(26-27)…。するとその道で、フィリポは「エチオピアの…高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」(27)と出会います。この宦官は、エルサレムでの礼拝から帰る途中で、聖書を読んでいました(27-28)。自らの境遇からか、「卑しめられ…だれが、その子孫について語れるだろう」(33)等の箇所に目が留まったからでしょうか、彼は「だれについてこう言っているのでしょうか、自分についてですか」(34)と、尋ねました。一緒に馬車に乗るようになった(30-32)フィリポは、「聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについての福音を告げ知らせ」ました(35)。この後、宦官は洗礼を受けキリスト者としての歩みを始めます(38)。私は、寂しい道で、二人が出会うべくして出会ったと想います。フィリポは、イエス・キリストの福音に出会い、キリスト者となり、エルサレムから散らされ、キリストを宣べ伝える者となりました…。エチオピアの高官は、宦官となり、自分の道を歩んでいました…。聖書の「彼は…黙している小羊のように、口を開かない」(32)という言葉を覚えつつ、二人はその後の各々の人生を「喜びにあふれて[人生の]旅を続けた」(39)のではないでしょうか。

off 福音を告げ知らされる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録8:4-25

ステファノの殉教により、フィリポたちはエルサレムを追放されました。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話を聞き入った」(4)のです。サマリアという所は、当時のユダヤからみれば、ほとんど外国で、呪われた地域と見なされていました。互いに憎み合っていました。サマリアは北王国イスラエル滅亡後、異邦人との混血が進み、独自の歴史と歩みをとげ、異邦的な雰囲気が濃厚であった場所です。イエス・キリストご自身も何度かサマリアへ足を踏み入れていますが、ほとんど福音を宣べ伝えることができませんでした。ギリシャ語を話すフィリポの言葉は受け入れられました。大勢の人が洗礼を受けました。サマリアには魔術を使うシモンという者がいて、シモンも洗礼を受けました。ペトロとヨハネがサマリアに来て、洗礼を受けた大勢の人に手を置くことで聖霊を授けました。その奇跡を見て、シモンは自分にも聖霊を授ける権威を金で買いたいと申し出ます。シモンの問題点を、ペトロは厳しく指摘しました。それでも今まではサマリアの人やシモンのようなものは伝道の対象には入っていなかったかもしれませんが、外国生まれのギリシャ語を話すフィリポだからこそ、そしてイエス・キリストの福音だからこそ受け入れられたことを、使徒言行録は記しています。福音の宣教は、人間の計画によってではなく、人々の失敗や挫折を神が用いてくださることを通してなされます。その福音の末端に私たちも加えられています。

off 散って行った

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録7:54-8:3

ステファノの説教は、[旧約]聖書を、神の約束が成就されるために…私たちはどのように受けとめるかという、振り返りを行いました。しかし、イエスをメシアと認めないユダヤ人の立場からすれば、それはユダヤ人に対する激しい攻撃であり、引かれていく途中の「人の子(イエス)が神の右に立っておられるのが見える」(56)という言葉はまさに冒涜的であったと思います。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59)はユダヤの就寝の祈りと言われていますが(詩編31:6)、呼びかけの相手がイエスに変えられていることと、最期の言葉(60)がイエスの臨終の言葉(ルカ23:34)と重なる意義を想います。ステファノに対する殺害は、それだけで終わる、単独の暴力行為ではありませんでした。「教会に大迫害が起こり」ます(1)。主イエスは、福音は「ユダヤとサマリヤの全土」(1:8)に伝えられると、語っていました。しかし、迫害によって散らされていくことになるとは、誰が思い描いていたでしょうか。種(避難者)が風に散らされ、この後、他の地域で根を張り、実を結ぶことになるのでしょうか…。聖書に登場する人たちだけでなく、今日の召天者記念礼拝で覚える方々は、散らされたり、残されたり、その後の歩みに予想しなかった経験をするなど、様々です。しかし、そういう現実にあって、自分たちを見守り導く方がいるという、信仰に生き信仰に死んだ方々です。今日の場面に居合わせたサウロ(パウロ)も、やがて主の導きを経験します。私たちも主の導きを祈りましょう。

off ステファの説教(生き方)

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録7:37-53

ステファノの説教は、主イエスを指し示し、語ります(37)。旧約の民は、「この人(モーセ)が…シナイ山で…命の言葉を(律法を)受け、わたしたちに伝えてくれた…けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け…アロンに…『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください』」(38-40)と願いました。42-43節はアモス書5:25-27の引用ですが、ステファノは、先祖たちの律法違反と偶像礼拝がバビロン捕囚を引き起こしたと、見ています。同時に、「証しの幕屋」(44)があったことを指摘します。しかし、説教は、ソロモンの神殿奉献演説の一部(列王記上8:20-27参照)を引用し、「いと高き方は人の手に造ったようなものにはお住みになりません」(48)と、語ります。そして、イザヤ書66章1-2節を引用します(49-50)。私は、「わたし〔神〕の憩う場所はどこにあるのか」(49)ということと、引用されたイザヤ書の続きを、想います。「主は言われる わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(66:2)。説教の結び(51-53)も、他者への批判というだけでなく、自分事として語り聞いているように想います。ステファノ(使徒たち)の説教は、神の約束・恵みに共に預かるには、どうすれば…という地平に立とうとしているように想います。変わることがあったとしても――割礼による(8)が、心と耳に割礼を(51)に変化――、ルカ文書(使徒言行録)、キリスト教は、信仰者の生き方を〔共に}求め、立とうとしているのではないでしょうか。

説教:加藤 久幸 牧師

ルカによる福音書15:31-32

キリスト教が、一番大事に願っていることは、何だと思いますか。牧師さんは、「楽しみ喜ぶ」(32)だと、思います。今日読んでもらった聖書は、15章11節から続く、長いイエスさまのお話(11-32)の最後です。その内容は、お父さんの愛と、呼べるでしょうか。お父さんは、神さまのことを表しているとも言われています。このお父さんには、二人の息子がいて、その弟と兄に対して、お父さんが取った行動のことが、お話されています。弟については、前半の11~24節に出てきます。弟は、お父さんの財産の三分の一を先にもらって、自分の楽しいことを求めて、家を出ていきました。ところが、その財産を使い果たし、豚の世話をしたり、食べるものがなくて豚の餌まで食べるようになりました。ユダヤでは豚とは付き合いませんので、この弟は、もう、家族でも、ユダヤ人でも、ありません。困りはてた弟は、もう息子ではない、みんなとは関係がないけれども、お父さんの家を帰ろうと、考えました。兄への対応は、その後に出てきます(25-32)。兄は、弟が帰ってきた、お祝いの席には参加しませんでした。お父さんは、弟にも兄にも、ほぼ同じ言葉を伝えています(23-24と31-32)。今日は、収穫感謝礼拝です。作物が育つ、食べ物が与えられるのは当たり前のことではありません。でも、そのことを当たり前のように導いてくださる、神さまがいる「恵み」を感謝したいと思います。感謝・「ありがとう」でつながり、みんなが共に食べ、「楽しみ喜ぶ」のが一番です。