毎週の説教メッセージ

off 神に愛されている子供ですから

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

エフェソの信徒への手紙5:1-5

1節、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりない」。今日の主題は「神に倣う者となりなさい」ということになると思います。「神に倣う者に」と呼びかけられている存在は,「あなたがたは神に愛されている子供です」と、呼ばれています。2節、「あなたがたも愛によって歩みなさい」と呼びかけられている存在は、キリストが「愛し」、キリストが「供え物・いけにえ」として贖われた(助け出された)存在として、呼ばれています。そして3節では「聖なる者」(神の者)と、呼ばれています。この後、徳目・倫理の内容に響く言葉が続きますが、まとめて語ると、こういうことになると想われます。

現代の私たちも「口は災いの元」という戒めを聞くことがありますが、同時に私たちは、「口は幸いの元」という言葉に生きるものでありたいと願います。そして、「幸いの元」は[生かされている]「感謝」にあると、想います。この幸いな「口」(3-4)と「感謝」(4)に生きる者は、「キリストと神との国を受け継ぐ」(5)。

しかし、私たちが生きている世界は、「汚れたこと」(3)などに溢れています。イエスも語った「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。二者択一ではなく、両者が混在する中でどう生きるかです。

off 隣人を自分のように愛しなさい

tokorozawa-mikuni to 未分類  

先週の説教:加藤 久幸 牧師

ヤコブの手紙2:8-13

少し前の6節に「裁判所」が出て来ます。この書き手の背景にあったと想われる聖書-イスラエル社会の裁き-について触れます。レビ記19:15-16「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷したり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」。同18「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。8節の隣人は、この世界の全ての者を指しているのでしょう。9-11節の展開は、ある律法を守るがある規定は守らなくてもよい、その免罪・赦免はないということだと想います。私たちは[律法の]全てを守ることはできません。しかし、「自由をもたらす律法」(12)を示し、全ての者を裁き、全ての者を愛する神がおられ、神自らが約束された国の実現に向かっています。ヤコブ書は先ず、この神の御心に一心に向かうことを説いています。そして、その途上にある信仰者に、「隣人を自分のように愛しなさい」(8)「分け隔て」しない(9)ことを、示します。律法の条文を汲々と守ること、無視すること、裁きを畏れることから、解放される道は、「愛する」や「憐れみ」に生きることです。愛は、「憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13)。

off 福音を告げ知らせるために

tokorozawa-mikuni to 未分類  

先週の説教:加藤 久幸 牧師

コ リントの信徒への手紙①1:10-17

今日の聖書の冒頭(10)、この手紙の基本的な主題が、いきなり出てきます。コリントでの「争い」(11)は12-13節で示され、13節のパウロの質問が現実を浮かびあがらせ始めます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。ここでパウロは、キリストが教会の唯一の土台であり、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4:5)という言葉を念頭に置いていると想います。14節でパウロは「…洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています」と、不思議な(興味深い)ことを語ります[関連して16節の補足も]。当時、コリントの教会は、会堂を持たず、家の教会として分かれていた…。そして、その家の集会ごとに、洗礼を授けた人も違い、12節の発言にも影響を与えていたのかもしれません。この課題に、パウロはどう対応したのでしょうか。17節「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため」である。さらに言えば、パウロにあっては、「典礼」を行うことや「神学」を展開することは2次的なことであり、最も重要なことは「福音を告げ知らせる」ことであった。コリントの教会は、キリストの出来事を土台として,エンパシー(共感)を求め、教会のかたちを整え歩んでいる途上にあったと想います。

off 変えられる神秘

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙一15:35-55

パウロは、44節で「霊の体が復活するのです」と宣べ、45—49節でその「霊の体」を展開するために、アダムとイエスの類比(予型論)を用いています。44節は、共同訳を基本としながら、別の訳を参照したいと思います。「それは 蒔かれた時に 魂に形を与えた。それは 復活させられた時に 霊に形を与えた。もし、魂に 具体的な表れがあるなら、霊にも 具体的な表れがある」[エルサレム・バイブル訳 NTD注解を参考・引用]。私たちは、人間が造られた時、魂・息を吹き入れられて、生きる者とされたことを、信じています。別の言い方をすれば、魂・息を与えられ、大事な体を与えられ、私たちはこの世界で生かされています。そうならば、復活の時にも、霊を与えられ、霊にふさわしい体・信じがたい体が与えられることを、信じる者でありたい。関田牧師の言葉を紹介します。「永遠の命というのは、死んでからもなお魂だけが残っている…命ではありません。…死を前提としても、なお働き続ける、それが永遠の命というもの、復活の命です。…使命に生きようと決意した時に、死が相対化される…死を突き抜けてなお、歴史を担って、主なる神のご計画に参加していく。それこそが永遠の命である。限りある私たちの肉体にイエスの命が現れるというのは、そういうことではないでしょうか」(「目はかすまず気力は失せず」より)

off 忍耐のさきにある希望

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

ローマ8:18-25

マルティン・ルターは全被造物、例えば動物は「罪を自覚すること」はできないけれど、人間の罪のゆえに、動物も含めて全被造物が虚無に服さざるを得なくなっていると言います。「現在の苦しみ」、それは22節では「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みに苦しみを味わっている」とも表現されています。さらには23節で「わたしたちも、神の子とされることを、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」とも言われています。つまり、今、現在の私たちの苦しみが、悩みが、呻きがこのように言い現わされているのです。

最後に、この箇所の最後は、次の言葉で締めくくられています。「わたしたちは、目に見ないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(25節)「目に見える希望は希望ではない」(24節)とされています。つまり到底無力な私たちには実現しそうにない様々な困難があります。その困難を前にして、自らの弱さと無力さにくず折れそうになる現実があります。「望み得ないのになお望む」ことが、私たちに求められているのです。ですから「忍耐して待ち望む」ことが必要なのです。その先に「希望」あるのです。今週も私たちが遣わされている現実に悩みと困難の只中にこの聖書の言葉を携えて出ていきましょう。

off 神の家族

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:高桑 義雄 牧師

マタイによる福音書12:43-50

私たちの心が空き家であったら、堕落させようと執拗に迫る悪魔の攻撃に対して成す術はありません。私たちが心に主イエスを迎え入れたなら、主は私たちの心に住んで一緒に戦って下さり、悪魔の誘惑に勝利することができます。キリストを主人として従って歩むなら、勝利の人生が約束されるのです。

神が私たちに示す世界は、私たち人間の願いを主人公とするのではなく、神を主人公とする信仰の世界です。神の世界は人間の願望を叶えるものではなく、全く新しい信仰の世界です。神の世界では、時には肉親の絆さえも立ち切られることがあります。信仰の世界は人間的な基準ではなく、全く別の物差しで示されているからです。主は神の国の秩序の中での家族を示し、神の家族は主の御心を行うことにおいて形成されます。主は決して私たちの肉親をないがしろにしている訳ではありませんが、人間は血縁関係があるがゆえに争うこともめずらしくありません。どんなに立派に見える人でも、心の中心に主がいなければ限界があるのです。神の家族は利害関係を全く持たず、愛と信頼とによって結ばれています。主イエスは一人でも多くの人々を神の家族に迎え入れようと、この地上で福音を語られたのです。

神の家族が生活をする場こそ教会です。私たちは神の家族とされた恵みを感謝し、交わりのある教会生活を喜び、共に仕えていきたいと思います。

off 共に恵みを受け継ぐ

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録20:17-35

パウロが主イエスから受けたことは何だったのでしょうか。新しい思想、類まれなる哲学だったのでしょうか。主イエスは、与えられた命の生き方と死に方を示されました。パウロも、その生き方・死に方を受け継ぎ、伝えてきました。32節の言葉を用いれば、「すべての人々と共に恵みを受け継ぎ」、必要な恵みを分かち合い、そして、いついかなる時にも、「あなたがたを造り上げ」、「聖なる者」、神の民としてくださる、その「神とその言葉に」委ねて生きるのです。パウロは、この「神とその言葉に」自らを委ね、「神の教会」に仕えました。

現代においても、指導者(牧師・役員)の金銭感覚や所有感覚よって、「神の教会」に大きな影響をもたらす場合があります。良かれと思ってしていることが、力ある者に迎合する道を歩んだり、教会そのものを所有・私物化することがあります。

この後、今日は8月の第2週ですので、関東教区からの示しもあり、私たちは「関東教区罪責告白」を告白します。この告白は、痛みを伴いつつ、告白せざるをえません。その告白は、かつて、良かれと思ってしたことが、多くの罪責を犯したという検証から、誕生したものです。この告白は、過去の罪責のみならず、今日、この罪責を告白する私たちは、主の言葉に聴き従いつつ自らの教会の歩みを検証しつつ歩むという決意のもとに、告白することが必要になるでしょう。

off 証人となるために

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録9:26-31

26節、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。バルナバは、サウロを使徒たちのところへ連れていき、彼の回心の次第・主の臨在・彼の宣教について説明しました(27)。その結果、サウロは、エルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった(28)というのです。しかし、ユダヤ人たちは彼を殺そうとねらい、教会の人たちは彼をタルソスへ出発させました(29-30)。

パウロはキリストに召され歩み始め、彼は迫害する者から迫害される者となりました。パウロは、自ら苦難や迫害を受けることを通して、主イエスの受難・十字架の意味を深く味わい知ることになり、その福音を宣教していきました。

キリスト者であること、教会であり続けるということは、神の関心との出会いの始まりでしょうか。神が関与されなかったならば、私たちは避けたであろう問題があります。パウロは迫害をする側でいたかもしれませんが、パウロは主イエスを知り迫害を受ける者となったのです。私たち教会は、十字架に架けられた方と結びついて、この世にあって苦しみを受けている者に「自らを開き」、共に「受けよう」とするのではないでしょうか。キリストを信じることは苦しみを知るということを伴っていると、私たちは心穏やかに告白できるのではないでしょうか。

off 新しく創造された者

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

コリントの信徒への手紙二5:14-6:2

14節、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上…」。「ために」が難しく感じられ、14節全体の意味も十分に受けとめ伝えることにも困難を覚えます。…1995年阪神淡路大震災が起こり、6434人が亡くなりました。被災後に何度か現地に入り、「6434人が亡くなったのではなく、一人ひとりの死が6434回あったのだ」と示され、亡くなった方や生き残った人の「証し」を聞きました。私たちは、ややもすると、災害の大きさや被災者の数、目の前の悲惨な現実に、目を奪われ耳を塞がれます。一人ひとりの「証言」に触れる時、私は[意識していた否かに関らず]いつも「キリストの死」を想っていました。キリストの生涯・死・復活を想う時、どのような一人ひとりの生涯・死にも、私たちは向き合うことができる、新しい道が開かれたと言うことができるのではないでしょうか。「すべて」という言葉は同じでも、ここには、全体という「すべて」から、一人ひとりの「すべて」という転換があります。16節、パウロは「肉に従って」キリストを知ろうとはしませんと語ります。人間的関心ではなく、神の関心が焦点となります。十字架・死が語られる時、法律の概念から、義とされる,義認が展開されることがあります(参考:21)。しかしパウロは、日常生活を背景とする、和解を語ります。今日の聖書をじっくり味わうと、罪への言及より、それをはるかに覆う希望と愛が語られています。

off 憐れみの器として

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

ローマ9:19-28

パウロは「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(21)と言います。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった(創2.7)」を想起しますが、人はあくまでも神から造られた者であります。ここでは焼き物師と命のない土の器の関係でありますが、むしろ神による被造物はその存在だけでも神の力をあらわすものであり、一方的な神からの働きかけを与えられていることを示しています。 人間と神との関係は、人間が「息を吹き入れ」られた器であることであり、その息は単なる生物的な命だけではなく、神からの息吹、神からの使命でもあり、選びでもあると思います。

イエスは差別されている者、排除されている者のところに近づき、いや、その中に入って、共に生きています。現代に生きる私たちもまた、神から息を吹き入れられ、神からの使命を受けて、「憐れみの器」として、今、いわれのない差別を受けている人、生きづらさを覚えている人、排除されている人、自然災害で被災された方、病と闘っている方と共に歩むことができれば、そして神の栄光をあらわすものとなることができればと願う者です。