毎週の説教メッセージ

off 道、真理、命

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

ヨハネによる福音書14:1-14

冒頭、イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。…わたしを信じなさい」(1)と語りかけます。「心騒がせるな」というような言葉は、大抵、心騒がせている人々にとっては無力です。弟子たちの「心騒ぐ」は、「心騒ぐ」原因と向き合っていない、漠然とした、曖昧な「不安」であったと想われます。イエスの「心騒がせるな」は「心騒がせてはならない」ではなく、「心騒がせる必要はない」という意味だろうと考えられます。そして、この14章を通して、イエスがその意味を解き明かしてくださいます。…「父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)。一般的には、この言葉(イエス)を信じなくてはならないという、展開が予想されます。しかしイエスは「それを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)と展開します。この言葉は、世界の中で展開されている良心的な「業」そのものも、やがて許容する「道」を開示していくように想われます。6節は、(信じて歩む)[道は≒]途上であり、[その途上も]真理であり、命である[ことに溢れている]現実を確証させられます。12-14節は、(去っていかれた)イエスは父(神)の家で、何もしていないのではありません。この世界のために、備えてくださっています。離れていても、主も、私たちも、主の業を共に行うのです。この「道」に、私たちも出かけていきましょう。

off 共に喜んで~すべての歩みの中~

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

コリントⅠ12:21-25

今日の聖書の前の14—20節で「パウロ」が丁寧に言説しているのは、教えだけでなく、教会の実際の課題があったからでしょう。詳細は不明ですし、そして公けか否かも含め、現実は複雑であったと想います。「お前たちは要らない」(21)、「恰好が悪い」「見苦しい部分」(22)、「見劣りのする部分」(23)等が、話題になっていたのでしょう。自分は「ギリシア人」「自由な身分の者」「男」「強い者」というような、社会の古いアイデンティティの「しるし」によって、他者・異なる者を不当に区別・抑圧する動きがあったのでしょう。多様性を、分離・抑圧する根拠にしてはならない! パウロの言説は明確です。22節、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が…必要なのです」。24節後半、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)。パウロにあっては、神は、(このように)イエス・キリストをつくり、教会をつくり、被造世界をつくり、臨まれていると確信していたのだろうと想います。この神の現実に照らして、私たちは26節を「アーメン」(然り)と歩むことができます。…今年度の教会の主題として「共に喜んで~すべての歩みの中~」を、主題聖句には今日の聖書の26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ…共に喜ぶのです」を提案します…祈りましょう。

off 『しるし』って

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイ12:38-42

本日は復活節第3主日の礼拝です。イースター礼拝を守り、先週は「墓が空であった」ことと「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」というみ言葉をいただきました。それでなぜここで律法学者やファリサイ派の人々は「しるし」を求めるのだろうか?「しるし」という語はいっぱいあります。ギリシャ語では(セーメイオン)と言い単数形です。この箇所ではイエスが神の子であることの確実な保証、不動の証拠としての明瞭な唯一のしるしを見せてほしいということになります。イエスは「よこしまで神の背いた時代の者たちはしるしを求める」といい、預言者ヨナの話と南の国の女王の話をして、それに勝るものがここにあると言います。律法学者やファリサイ派の人々は、イエスが既に片手のなえた人、目が見えず、口の聞けない人を癒された現場に居合わせて、奇跡行為を目撃しています。しかし、それは彼らにとってはイエスが神の子であるというしるしにはならないのです。パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架のキリストを宣べ伝えます。」と言っています。イエスはわかりやすいしるしを求めることそのものが間違っているというのです。救いそのものを受け止め、神にすべてを委ねることが大切なのです。復活を経て、新しくされた者として、赦されて生かされている者として歩みましょう。

off 墓は空だった

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書28:11-15

「墓は空だった」という事実について、(信仰者とは)別の証言があります。それが、今日の聖書の箇所です。15節に「この話は、今日に至る(マタイが福音書を書く頃)までユダヤ人の間に広まっている」とあり、この噂は絶えることがなかったのでしょう。しかし、噂は噂であります。マタイ27:62—66も参考にしつつ、今日の物語を読むと実に怪しい。そして何が真実なのかわからなくなる…。

聖書は、自らの理解の範囲を超えた出来事に遭遇する時、信仰者もそうでない者も、そこに起こっている事柄に向き合うことの大切さを、指し示しているのではないでしょうか。見える世界や理解できる事柄のみの注視ではなく、[そこで]何が起こっているのかを(出来事から)聞く必要がある! 信仰者の表現でいうなら、神が何をなされたのかに向き合い、聞く必要がある! 私たちの共感福音書では、「墓は空だった」ということと、もう一つ共通することがあります。それは(各福音書により微妙に表現は違いますが)、天使から「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」と聞かされることです。マタイは何を受けとめたのか。28:16-20を参照・熟読すると、復活のイエスをどう受けとめるかは大事なことですが、弟子たち(私たち)は、地上の歩みを成され、準備された道へと歩まれたイエスに導かれ、メシア(と神と聖霊)を信じるようになる「出来事」「物語」を聞くのです。

off おはよう

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書 28:1-10

8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった」。この場面は、私たちにとってはグレイ・ゾーン(はっきりしない事態)であるかもしれません。知らせを聞いた女性たちは、半信半疑、「恐れつつも…喜び」墓を後にしたのでしょう。ここまでは(表現の差異はあるにしても)福音書に共通する内容です。しかしこの後、マタイは、復活のイエスが 女性たちに出会う「復活証言」を、伝えています。その他の福音書でも(マルコは追記として、ヨハネは詳細な物語として)、マグダラのマリアの「復活証言」を伝えています。また他の弟子たちの「復活証言」も伝えられています。これらの証言は、皆 十字架と復活において、神自らが働いておられることを受けとめ、暗示しています。聖書を先に進む前に、現代の一人の証言を聞きたいと思います。奥田知志(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師)「闇の中ではじまる―コロナ禍を生きるために(マルコ16:1-8)」(日本基督教団『教師の友』4-6月号)から紹介します。…私たちは、最初の「復活証言」そして現代の「復活証言」を信じて、多くの証人と共に立ちます。そして10節の言葉を聞きます(そして9節の「おはよう」と声を聞きます)。…私(たち)にとっては、イエスの十字架と復活は「想定外」です。しかし私(たち)が気づかなくても信じなくても、神さまは成し遂げてくださいます…。

off 神の子なら

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイ27:32-56

イエスはピラトに、祭司長、律法学者、長老たち、通りかかりの民衆に「十字架につけろ」とののしられました。祭りごとの囚人の釈放の時もイエスを十字架につけたいだけで、「バラバ」を釈放しました。その場を通りかかったキレネ人シモンはイエスの代わりに十字架を背負って歩きました。十字架につけられたイエスに「ユダヤ人の王イエスである」と罪状書きがあります。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い」とののしられ、一緒に十字架にかけられた強盗二人にもののしられます。昼の12時に全地は暗くなり、それが3時まで続き、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んで、イエスは息を引き取ります。自分を苦しめ、釘打ち、ののしった人間にあたるのではなく、どんな時も神にのみ語りかけるのです。私はピラトや祭司長、律法学者、通りかかった民衆を責めることができるでしょうか。私も無責任に同調していることが多々あります。讃美歌21の306番「あなたもそこにいたのか」で、私もそこにいました。「神の子なら」してみろと言わんばかりに。苦しい時、どうしようもない時、イエスの十字架を遠くから見守ることしかできなかった婦人たちですが、その後遺体を受け取り、墓に埋葬することができました。受難週を覚えて、自分の十字架を背負ってイエスに従いましょう。

off 仕えられるためではなく仕えるために

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書20:20-28

イエスの受難(・復活)予告と従う者たちの反応を顧みると、イエスの言葉を受けとめていないこと、自らの願いが働きから地位・序列へと動いていく等の連続です。
今日の場面22節、イエスが「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と語ると―この「杯を飲む」というのは(端的に言うと)その人に定められている死を受け入れるということ―二人は即座に「できます」と応えます(22節)。それに応じるイエスの言葉には驚かされます。二人は何らかの労苦・犠牲は覚悟していたと思いますが、23節でイエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲む(殉教する)ことになる」と言われたのです。今回、このイエスの言葉を聞いて、こういうことを考えました。…憲法を具現化していくため,どれほど多くの血が流されたことか。2011年の東京電力福島第1原発事故によって、どれだけの無念の死・苦悩の歩みがあった(ある)ことか。…私たちはこれらの受難・死に向き合い歩むことができるのか。…イエスに従う者たちに、新しい歩みのための教えが説かれます。「…皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の[皆の]身代金として 自分の命を献げるために来たのと同じように」(26-28節)。イエスはここで、自分自身を、従うモデルとして指し示します。私たちがわかる(under-stand)のは、同様に、従う時なのでしょう。

off 起きなさい。恐れることはない。

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書17:1-13

この物語は、イエスを神顕現としては伝えてはいません…。厳密にいうなら、「神の子」の顕現、メシアとしての顕現であるのかも…。イエスの顔が「太陽のように輝き」(2節)と出てきますが、これは「正しい人々はその父の国(天の国)で太陽のように輝く」(13:43)の前触れのように感じます。イエスは人間にあらざるものではなく、万物の目標となるような「変貌を遂げる人間」として示されているように想われます(ヘブライ書2:10)。ここでは、イエスは何も言わないし何もしない…。このイエスの受動性は神顕現という事態には相応しくない…。積極性を示すのはペトロです。彼が言う「三つの仮小屋」の意味ははっきりしません。モーセもエリヤも(伝承では)「天的」な存在であり、仮小屋と訳されている言葉はかつて神がイスラエルのただ中に住まわれた荒野の「幕屋」を示します。類推すると、ペトロの言動は、とんちんかんのようにも響きますが、「天的」な存在、「栄光」のイエスと長く留まりたいという思いで満ちています。それは、告白後にイエスから正された、あのペトロの姿です(16:22-23)。この時、雲の中から声が聞こえます。「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)。ペトロの人間の声は、この「神顕現」により沈黙させられます。受難(・復活)予告後ですので、イエスはこの道を行くメシアとして愛され、(受洗時にはなかった)「これに聞け」と弟子たちは示されるのです。

off しなやかに従う

tokorozawa-mikuni to 未分類  

 

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書16:13-28

18節「教会を建てる」―(十字架・復活も経ず、歴史的に教会がまだ成立していないのに)イエスが「教会」を語るのはおかしいのではないかと疑問に感ずる方もおられるでしょう。17-19節は、並行箇所のマルコ8:27-30には出てきません。この箇所がマタイの付加であることを覚えつつ、次の物語(21-28節)を見ていきましょう。いきなり受難(・復活)予告が始まります。この箇所は未来形で、しかも「必ず…なければならない(must)」「その必要がある」と表現されています。イエスは何を「打ち明け(示され)始められた」(マルコでは「教え始められた」)のでしょうか。このイエスに、ペトロはその「必要」は「あってはならない」といさめ始めました。「サタンよ、引き下がれ」(23)。これは、私と神の間にではなく、私の後に従い、私に学びなさいというニュアンスでしょうか。この後、24-26節に「弟子であること」に関する言説が続きます。失われた命(魂)を取り戻すために、誰が諸勢力・邪な力と闘っているのでしょうか。その願いを抱き、自らが払う値に重きを置かず、神に近づいていったイエスを想います。イエスの道行には「不思議」がいっぱいです。イエスは、復活・未来を示し、現在・受難を歩まれました。それは、「自己喪失」ではなく「自己確証」しつつ、神の示しに柔軟に・しなやかに従っていったように伝わってきます。その先に、イエスに従う新たな民(「教会」)の誕生が「期待」されています…。

off 赦されない侮辱

tokorozawa-mikuni to 未分類  

説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書12:22-32

22節「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て」いやされます。すると「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」(23)のです。これはエゼキエル書34:23-24を連想させます。ところが、ファリサイ派の人々は、自分の言動とは異なるので、律法違反の嫌疑をにおわし、敵対者とみなしたのです。イエスの生において何が起こっているのか見ようとしないのです。28節「イエスが神の霊で悪霊を追い出している」のであれば、それを「悪魔のわざ」とする人々は、神を中傷・冒涜していることになります―27節「彼ら(悪霊)自身があなたたち(ファリサイ派)を裁く者となる」との言葉も考えさせられます―。31節「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。確かに本当の「悔い改め」があるならば「赦される」のでしょう。しかし32節「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」あるいは(人の子・自らへの批判を甘受しても)「(聖)霊に対する冒涜は赦されない」という31節のイエスの言葉を、私たちはどう受けとめればよいでしょうか。イエスの言葉は、聖霊の働きに委ねよ、神の働きに道・世界を開けよ、と響いてきます。人間の狭い了見で、神の広い「憐れみ」を限定するな。そうならば、ファリサイ派への厳しい言葉も、最終的な決定(ピリオド)ではなく過渡的な勧め(カンマ)のように響きます…。