毎週の説教メッセージ

off 信仰に踏みとどまる

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説教:加藤 輝勢子 牧師

使徒言行録14:21-28

13章からの宣教旅行も今日の所で一区切りをつけます。パウロとバルナバはイエス・キリストの福音を宣べ伝えたことで、多くの信じる者を得ることができましたが、また反感を覚える人たちも多くいました。そしてリストラではパウロに反感を持っている多くのユダヤ人に石を投げつけられ、死んだかに思われ、町の外に出されました。それでもパウロは町に戻り、次の日にはデルベに行き、福音を宣べ伝えました。それからリストラ、イコニオン、アンティオキアを通って、イエス・キリストの福音を信じた教会を再び尋ね、力づけ、励ましたとあります。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(22)といい、「弟子たちのため教会ごとに長老を任命し、断食して祈り」(23)をしたのです。そして弟子たちにイエス・キリストの福音は神の国に入る約束なので、そのためにはしばしばの苦しみを経ることがあるが、信仰に踏みとどまるように励ますのです。教会を整え、「彼らをその信じる主に任せた」(23)とありますが、パウロたちは弟子たちを主に委ねたました。そのパウロたちも「二人が今成し遂げた働きのために神の恵みに委ねられて送り出された」(26)存在だったのです。「神の恵みに委ねられた」パウロたちも、新しく生まれた教会の長老たちを中心に主に委ねたのです。

パウロたちによって蒔かれた種(御言葉)は時を超え、場所を超えて私たちの教会にも委ねられています。教会として、一人として神を証しする歩みをしましょう。

off イコニオン、リストラで

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録14:1-20

「イコニオンでも…パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をした…結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、悪意を抱かせた」(1-2)。「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。…二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人は…リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避け」ました(4-6)。二人はリストラで生まれつき足の不自由な男と出会い癒します(8-10)。この出来事を目撃した町の群衆が二人を神々にしようとした時、二人ははっきり異を唱えました(14-15)。そして、「あなたがたが…偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです…」(15)と証ししました。この後、「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出し」ました(19)が、その後、「パウロは起き上がって町に入って行[き]、「翌日、バルナバと一緒にデルベへ向か」いました(20)。パウロたちの町々の滞在は、自分たちの安全より、福音宣教を優先していると想われます。「いやされるのにふさわしい信仰がある」(9)場合、異邦人であれユダヤ人であれ、人数の多少を問わず、主の福音宣教に仕えた…。その様子は「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされた」(3)と表現されています。

off わたしはあなたと共にいる

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書43:1-7

2025年度の年度聖書に提案しようといるのは、南王国ユダの人々がバビロンに連行されたバビロン捕囚期(紀元前6世紀)に語られた言葉だと、言われています。「自分たちはもう…見捨てられた」と感じた人々に、神さまは「わたしは あなたと共にいる」(5)と語られ、「わたしの目に あなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛」する(4)と言われます。私たちは自分にあると思う時間や能力に重きを置こうとしますが、神さまは違います。あなたがたは「皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」(7)と言われます。「わたしが あなたを造った。…わたしはあなたを愛している。だから、あなたと共にいる」と。それ故、私たちは神さまを愛し、神さま[の栄光]を賛美します。そのことが、私たちを招いている使命(生きなさいという促し)、生きる意味そのものなのだと、私は想います。主題の「ともに」との関連では、神さまが「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と、助け手(隣り合う者)を創ってくださったことを想います。振り返ってわかることですが、私たちは「ともに」ということをやめると、助け手となる存在も裁き合い傷つけ合う相手としてしまいます。私たちは、他者との関わりをもう一度受けとめ直さなければならない時(それは、他の存在との付き合いは「もういいよ」と感じてしまうような時も含めて…)、その出発点・起点となるのが、神さまとの「ともに」という関わりにあると、今日の聖書は語っています。

off あの方は復活なさったのだ

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書28:1-10

2021年のイースター礼拝で紹介した、奥田知志牧師(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会)の文章(「闇の中ではじまる―コロナ禍を生きるために(マルコ16:1-8)」(日本基督教団『教師の友』4-6月号)を、再び紹介します。「…それは 夜明け前、闇のただ中での出来事だった。復活の深みはここにある。復活は、弟子や女たちが、そして私たちが闇の中でもがいていた、その時に起こっていた。私たちは、それに気づけないでいたが、『知らないから無い』とは言えない。あなたがたが それを知らずとも、そして信じなくとも、復活は起こるのだから」)。4節と8節に注目します。地震か、天使の言動に触れたからなのかはわかりませんが、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震えあがり、死人のようになった」(4)。女たちも同様であったと想います。しかし、女たちは、天使の言葉を聞き、信じ始めます。「あの方は…復活なさったのだ。…弟子たちにこう告げなさい。『あの方は…あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(6-7)。女たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8)。女たちは、死の虜(とりこ)から解放され、イエスの復活を信じる、生かされる世界[現場]へと、歩みを始めます。こういう生き方もあるのだと、聖書は証しします…。私[たち]は、女たちと同様、泣き悲しみ途方にくれています…。しかし、神さまは被造物のために自らの業を成し遂げ、主イエスは日々の中で声掛けをし寄りそってくださいます。

off 本当にこの人は神の子だった

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイによる福音書27:32-56

十字架にかかったイエスに対して「神殿を打ち倒し、三日で建てる者…そして十字架からおりてこい」(40)、「他人を救ったのに、自分を救えない。…『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(42-43)。これらの言葉は、通りかかった人々や左右で十字架にかかっている強盗、祭司長や律法学者、長老たちが半狂乱になってイエスにむけた言葉です。イエスは息を引き取る前に「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と言いました。詩編22編の朗誦だという研究者もいます。しかし、このイエスの叫びさえも周りにいた者たちはエリヤを呼んでいるから少し様子を見てみようと興味本位でしかないのです。イエスが息を引き取った時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け」(51)たとあります。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』」(54)と告白します。百人隊長や見張りをしていた人たちにとって、地震やそれに付随する出来事は、ちょうどイエスが湖の上を歩かれたことで、弟子たち畏れの念を生じさせたように(14:16)、この出来事は、百人隊長たちに聖なる恐れを引き起こさせ、この場に働いた神の力、神の啓示を素直に受け取ったのだと思います。

イエスの時代に生きた者たちの生き様から学び、今、受難週の時を生きる私たちも「イエスは神の子だ」としっかり証しできる歩みをしましょう。

off 仕えるために

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説教:加藤 久幸 牧師

マタイによる福音書20:20-28

イエスの三度目の受難・復活予告(20:17-19)の後、「ゼベダイの息子たちの母が…息子と一緒に…来て」(20)願い出ます。イエスは、母ではなく、弟子たちに対し、「あなたがたは…わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22)と尋ねます。「二人が、『できます』と言うと」(22)、イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは…わたしの父によって…」と(23)、言われました。すると、「ほかの十人の者は これを聞いて、この二人の兄弟のことで 腹を立て」(24)始めました。弟子たちは、イエスが「イスラエルのために国を建て直す」(使徒言行録1:6)ことを、期待していたことは疑い得ないでしょう。そして、神の国において自分が大事な役割を果たすことも…。しかし、弟子たちの願いは、[苦難の]杯を受けるというより、[栄光の]杯を受けるということに、傾斜していたのでしょう。イエスは、弟子たちの願いを非難するのではなく、その代価・使命を指摘します。それは、弟子たちがやがて民・教会を導くことに対して、たとえ無理解や裏切りの弱さがあったとしても、イエスは、ご自身の歩みに従い僕となることを願います。「イエスは、一同を呼び寄せて言われた。『…あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子は…仕えるために…自分の命を献げるために来た…』」(25-28)。イエスは、人は仕えるために生まれると、明らかにされたのです。

off 救いをもたらすために

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:44-52

「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(44-45)。私は、この場面を、パウロたちがユダヤ教の会堂の外で迎えたのではないかと、想像します。「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい。わたしたちは異邦人の方に行く』」(46)。そして、[旧約]聖書が引用されますが(47)、それは、今までと同じように聖書に既にこう語られていると明示するようなものです。参考に、引用された原文を見ておきましょう。「…わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(イザヤ書49:6)。パウロたちの(使徒言行録の)宣教姿勢が公にされました。「異邦人たちは これを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。…こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は…町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」(48-50)。意見が違う場合は、往々にして、除外・排除することが起こります。最後の段落は、イエスが72人を派遣する物語を想起させます(ルカ福音書10:1-12)。イエスも、パウロたちも、その時は他の働きを優先して転じていきます。そこには「喜びと聖霊の満たし」(51)がありました。

off 神が復活させた方

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:26-43

パウロの話の後半は、「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々…あなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」(26)と、始まります。しかし、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉[聖書]を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させた」(27)。そして、「死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするように…求めました」(28)。しかし、「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(30)。このイエスと共にガリラヤから来た「人々」(31)は「イエスの[復活の]証人」(31)となり、「わたしたちも…あなたがたに[復活の]福音を告げ知らせています」(32)と、語ります。そして、聖書が引用・解釈され(33-35)、「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」(37)と、強調しています。だから、「この方による罪の赦しが告げ知らされ…信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38-39)。この後、預言者の書(聖書)が引用・警告されます(40)。引用箇所とは違い、ここでは、「とうてい信じられない事」=「福音宣教(神の言葉)がユダヤ人から外国人(異邦人)に向けられるという事」が暗示されているように想われます(参考46-48)。パウロの話への反応については(44-52)次週触れたいと思います。最後に、パウロたちが語った「神の恵みの下に生き続けるように」(43)という勧めは、私たちも大事にしたいものです。

off その方は来られる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:13-25

パウロたちは、キプロス島では、地方総督などに出会い、結果として、不思議な力を示し、主の福音を宣べ伝えました(6-12)。しかし、今回のピシディア州では、パウロたちは、ユダヤ教の礼拝に参加し、お話をします。このスタイルが、パウロたちの宣教の基本でした(参考5)。今回の話は(16-41)、ユダヤ人たちになした、パウロたちのキリスト教の「基本」を示していると思います。2回に分けて紹介しますが、パウロは、ユダヤ人に話す時に[イスラエルの]歴史と信仰を受けとめて、主(神)の福音を伝えます。つまり、出エジプトと荒れ野の旅を語り(17-18)、カナンの地へ定着していく時代を語ります(19-20)。さらに、「人々が王を求めたので」(21)、サウルに続いてダビデを王位につけたことを語ります(21-22)。そして、このダビデの子孫から、[神は]「イスラエルに救い主イエスを送ってくださった」(23)と宣べています。この想起は、神が、かつてダビデのような指導者を与えたように、[真のイスラエルの導き手であり完成者である]イエスを与え、約束の国(世界)へと導き、その生・その命を守られる…。このパウロの[前半の]話は、まさに、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16)への、招きの言葉となっています。キリスト教は、困難があり、祈る(求める)ならば、「その方は[あなたがたのところに]来てくださる」(参考25)と、宣べ伝えた…。導くのは神であるという、この福音・平和の宣教が、ローマ世界の人々にとどき、響き、展開し始めました…。

off 二人を出発させる

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説教:加藤 久幸 牧師

使徒言行録13:1-12

最初にアンティオキア教会に連なる5人の人たちが紹介されています(1)が、このような様々な人々がいる教会は一つになることが難しい教会ではなかったのかと、想像します。それ故、この教会は、神の福音に従い、イエス・キリストにおいては一つであるという基本的なことに熱心であったのではないかと、想像します。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを わたしのために選び出しなさい。わたしが 前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2)。結論的に言えば、礼拝が、教会の活動、宣教を生み出します。続けて語られる「そこで、彼らは 断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3)も、遠い昔のことではなく、今のキリスト教においても基本成されています。このことは、伝えられている儀式にあずかる以上に、そこで語られる主の言葉に誠実に聴くかどうかに、焦点が当たっています。

バルナバとサウロの最初の宣教は、[バルナバの故郷の]キプロス島で行われました(4-12)。それは、サウロ(パウロ)に示されたように(9:15-16)、➀キリストを伝える者(「器」)が立てられ、②キリストの名は異邦人や王たちに[も]伝えられ、③キリストの福音を伝えるために[世と対峙する]苦しみも厭(いとわ)わない、神の民の活動の始まりでした。そのことは、人々の社会生活の組み替え・変革を含み、福音(良き知らせ)の広がりの始まりとなりました。